31 悪女はお酌する
離れの薄暗い屋根裏。
月明かりとランプだけが照らす小さなテーブルで、私は今、赤鬼と向かい合っている。
「ん」と偉そうに差し出されるグラスに、トプトプと日本酒を注ぐのはこれで何回目だろうか。首まで真っ赤な鬼は、グラスに高い鼻を近付け、またもや綺麗な顔をしかめた。
「……嫌なら飲まなきゃいいのに。ほら、ワインもありますよ?」
「いや、コレでいい」
どこで調べたのか。米の酒は魔除けになるんだぞ! と、東国から大量に取り寄せたらしいけど。
……あーあ。二日酔いの朝に、背脂とにんにく入りのバリカタラーメンを食べるような顔ね。こんなに美味しいのに勿体ないわ!
私は日本酒の成仏を願い、ふくよかな水面を笑顔で口に含んだ。
ダンスレッスンに勝利した青鬼が要求したのは、『月を見ながら、屋根裏で一緒に酒を飲む』というご褒美だった。正直、それが筋肉お触りに匹敵するご褒美になるの? と思ったけれど。
お風呂上がりなのか、紺のガウンに緩めのトラウザーズというレアな姿で現れた青鬼は、超絶色っぽい。酒が進み赤鬼になるにつれ、いつもは隙のない目がとろんとし、湿っぽい前髪が額にくるんと落ちる。黒とも青とも違う、母性本能をくすぐる赤の色気に、さっきから心臓は暴れっぱなしだ。
せっかく『今夜はお前も好きなだけ飲んでいい』と言われているのに、ちっとも酔えなかった。
「この茄子は本当に美味しいな」
食べる度に同じことを言う彼は、まるで子供みたい。
「味噌田楽、美味しいでしょう? ご主人様のは特に甘めにこしらえましたからね」
「うん、こっちも好きだ」
「チーズの味噌漬け。ワインにも合うんですよ。……試してみますか?」
こうして何度もワインへ誘導しているが、ぷるぷると首を振られてしまう。そのくせグラスを傾けては不味そうな顔をするものだから、さすがに日本酒が可哀想になってきた。
私は甘すぎる茄子を口に放り込むと、哀れな酒で流し込み、ぷはっと不満気に息を吐く。
「ねえ、なんでワインにしないの?」
私の問いに、赤鬼はテーブルのワイン瓶を見て、ぼそっと呟いた。
「……水みたいだから」
「え?」
「不味くても、味がするだけ米の酒の方がマシだ。慣れたらコレも味がしなくなるんだろうが」
「どういうこと?」
「睡眠薬代わりに毎晩大量にワインを飲んでいたら、いつしか全く味がしなくなった。赤も白も……どんなに上等な物も、料理用の安い物も変わらない。全部全部水みたいだ」
朝5時半に起きて激しいトレーニングをしている彼が、毎晩晩酌をしていたことに驚く。クニコの話では、夜も仕事やらジョギングやらで、遅くまで起きているらしいのに。
「……眠れないの?」
「ああ。悪夢を見るから、眠るのが怖くなった。酒を飲んだら一応眠れるけど、結局悪夢で起きてしまう」
グラスを見ながらふっと苦笑する赤鬼は、どこか儚げで小さく見える。
そうだわ。彼は……
「でも、最近は前ほど悪夢を見なくなったよ。毎晩二瓶は空けていたのが、お前にワインセラーを空にされたお蔭で、今はグラス一杯で眠れるようになったし」
「空って! もうっ、大げさね。奥に二~三本は残っていたでしょう?」
一瞬目を瞠り、ハハッと笑う赤鬼。赤い肌色のせいか……紫に見えるその瞳は、何だか悲しい。
「あと、お前のオミオツケの効果かな。明日も、明後日も、明明後日も……ずっと、ずっとこしらえろ」
口調は偉そうなのに、懇願するような表情。暴れていた心臓がきゅうんとなり、筋肉を丸ごと抱き締めたい衝動に駆られる。溢れる気持ちを何とか抑えながら、私はこくんと頷いた。
……まだ、訊いちゃいけない気がする。
メイリーンが冷徹の過去を知るのは、確か建国記念祭の後だから。だけど設定を知っている元読者としては、愛する彼を一刻も早く救ってあげたいと思ってしまう。
「……戦争の悪夢を見るの?」
やはり酔っているのだろうか。まだ小説の序盤だというのに、つい彼の孤独な闇に触れてしまった。