26 悪女はどこかおかしい
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あの日────
冷徹が目を覚ました時には、屋根裏部屋はすっかり暗くなっていた。
何とも言えない生温さと冷たさ。首だけ起こし、違和感のある上半身を見れば、すやすや眠る悪女が、彼の胸に頭を乗せていた。
生温いのはこれか……
では冷たいのは? と、亀みたいに首を伸ばせば、ぽかんと開いた悪女の口から涎が溢れ、腹筋を伝い臍の辺りに溜まっていた。
丸窓から差し込む月明かりが、ねっとりした湖をキラキラと照らす。……一刻も早く風呂に入らねばと、立派な大胸筋を張り、悪女を起こしたのだ。
それから二週間が経った、穏やかな朝の食卓。
冷徹は、サンドウィッチでも豆のサラダでもフルーツでも牛乳でもなく、湯気の立つスープカップを真っ先に手に取る。美しい所作で喉に流し込むと、うんと頷いた。
味噌にも慣れ、牛乳や蜂蜜を入れなくても、美味しいと感じるようになった今日この頃。いつもの朝食に加え、必ずこの白味噌とカボチャのおみおつけを飲むようになっていた。
向かいでは、赤味噌のおみおつけをズズッと啜り、ほうと息を吐く悪女。
あんなしょっぱいものよく飲めるなと、冷徹は日焼けした騎士のような色の汁に眉を寄せた。
────冷徹は思う。
あの鬼祓いの儀式から、悪女はどこかおかしいと。
週一本のワインでも全く……いや、全くではないが前ほど文句を言わなくなったし、記録を見る限り、食事の量も格段に減った。以前は満たされない飲酒欲を食欲で補う為か、何度もお代わりし、腹が膨れるまで食べていたのに。
あんなに怖がっていた厨房にも自ら入り、シェフと一緒に大豆ペーストを使った料理を色々試しているらしい。
何より一番おかしいのは、自分を見てポッと顔を赤らめたり、すこし話し掛けただけで身体をくねらせたりすることだ。ほら、今もこうして目が合う度に、赤らんだ顔でニタニタと笑われる。
早朝の筋トレ中も、柱の陰からこっそり自分を覗いては、ダラリと涎を垂らしている。
……やはり腹が減っているのかと、汗を拭いながら首を傾げる毎日だった。
今、冷徹が飲んでいるおみおつけは、悪女が作った物だ。シェフが作ったものとはどこか違う味を彼が気に入ったところ、命じてもいないのに、こうして毎朝作ってくれるようになった。
以前は7時ジャストに朝食を摂らなければ不機嫌になっていた冷徹だが、今では悪女のペースに合わせて、ゆったりと食卓で待てるようになった。
予定は数分~数十分狂うが仕方ない。これを飲まなければ朝が始まらないし、第一この屋敷の主人として、悪女の食事を監視する責務があるのだから。
「ごちそうさまでした」とフォークを置く悪女。
厚切りのハムを二枚と卵三個分のスクランブルエッグとポテトサラダの山が載った皿、それに顔程の大きさのパンを三つと、おみおつけを二杯と、フルーツの盛り合わせと焼き菓子しか口にしていないのに。
相変わらず華奢な悪女の身体。この控えめな食事量では、いずれ骨になってしまうのではないかと、冷徹はゾッとする。
あんなに飲むな食べるなと言っていたのに、最近ではつい、「もういいのか?」と訊いてしまう。
また外で肉でも焼いてやるか、肉を食べるなら酒も……などと考えてしまう自分が、冷徹は恐ろしくて堪らない。
あの日うっかり一緒に眠ってしまったせいだろうか。悪女から離れたオニが、今度は自分に取り憑いたのかもしれない。おかしいのは悪女ではなく、自分ではないかと頭を抱えていた。
朝食後、いつも通り執務室で新聞を読む冷徹の元へ、侍女長がやって来た。
「失礼致します。建国記念祭のことでご相談に参りました」
「ケンコクキネンサイ……ああ、そうだな、そろそろそんな時期だな」
オニ退治に必死ですっかり忘れていたと言う冷徹に、侍女長はほんの一瞬肩をすくめる。
『前も仕立て屋のことで相談したじゃん!』と、喉まで出掛かった言葉を呑み込み、淡々と用件を伝えた。
「はい。つきましては、奥様のドレスと、ダンス講師の手配についてご意見を伺いたいのですが」
「奥様……? ちょっ、ちょっと待て。まさか、アイツも出席するのか?」