9 悪女は恐怖を相殺する
侍女長の首に向けられているのは、鋭い剣先。目線だけ動かし長い刃を辿れば、血管の浮き出た手で柄を握る悪魔が居た。
落ち着け……落ち着け、サツキ。
中華包丁に比べたら何も怖くないはずよ。
悪魔と距離を取る為、座ったままさりげなくソファーの端っこへと移動する。いつでも逃げられるように、スカートの中で尻を浮かせた。
「……生憎、俺は他人を信用したことなどない。この世で嘘を吐かないのは、首を刎ねられた屍だけだ」
残酷な表情でクッと口元を歪ませる悪魔に、ゾワリと悪寒が走る。
そう……確か、冷徹騎士の一人称が『私』から『俺』に変わる時は、超冷徹モードに入った時だわ。
でも、侍女長に剣を突き付けるシーンなんてあったかなと、頭の中でパラパラと小説のページを捲る。
そうだわ! 小説のメイリーンは、冷徹騎士が王都から帰って来る一週間の間に、使用人達と仲良くなった。侍女長も罪悪感に苛まれ、自ら処分を願った為に、大事に至らなかったんだわ。
だけど私はぼっちで好き放題やってたから、使用人達の印象は悪女のままで。……いや、むしろ嫁いできた初日より悪くなっているかもしれない。
…………終わった。
いつこちらに向かうかもしれない狂気に、尻のほっぺをピコピコと動かす。
そうだ! もっと怖いことを考えよう!
『いらっしゃいませ!』
『餃子ラーメンチャーハン上がったよ!』
『はい!』
『ニラ玉とニラレバ追加!』
『はいよ!』
『焼売タンメンチャーシュー上がりぃ!』
『はい!』
『ありがとうございましたあ!』
…………怖い。
悪魔の超冷徹モードよりもずっと怖い。
冷静になった私は尻を落ち着け、二人の様子をそっと窺うことにした。
今にも肌に食い込みそうな剣先に、侍女長はガタガタ震えながらも言葉を発する。
「私より……私より、悪女を信じると仰るのですか? 誰も信用出来ないと仰るのなら、私だけでなくあの悪女も切ってください!」
ひいっ! 余計なことを!
泣きながら私を指差す侍女長に、悪魔は冷たい声で言い放つ。
「たとえ悪女だろうが、少なくともお前よりはずっと信用出来る。好き好んで、あそこまで臭くなる女などいないだろうからな」
好き好んで臭くなった訳じゃないけど、好き勝手やった結果臭くなった。結局は同じことねとプッと笑えば、悪魔にギロリと睨まれた。
剣先に、侍女長の涙がポタリと落ちる。悪魔は汚い物でも見るように顔をしかめると、チッと舌打ちをしながら剣を腰の鞘に収めた。
よかった……お怒りが収まったのかしらとホッとしていると、鋭い視線がこちらへ向けられた。
「こいつの処分は主のお前に任せる。拷問するも殺すも好きにしろ」
ゴウモン? コロス?
物騒すぎる言葉に、勝手に愛想笑いが溢れてしまう。いつの間にかこちらへやって来ていた悪魔は、完全に逃げるタイミングを失った私の膝に、鞘ごと剣を置いた。ずしりとした血生臭い重みが、冗談なんかではないことを物語っている。
どっ、どうしよう。
そっ、そういえば、小説にも同じ展開があったわ。
台詞はもっと穏やかだった気がするけど、冷徹騎士は、自白した侍女長の処分をメイリーンに任せた。確か……
『こいつの処分は主のお前に任せる。食事を抜くも、汚部屋に監禁するも好きにしろ』
って。
それでメイリーンは、
『では、私の先生になっていただけませんか? 王国騎士団長の妻として恥ずかしくないように、侍女長様から色々なことを学びたいのです』
って答えるのよね。
それで侍女長が、『こんな私をお赦しくださるなんて』って、泣きながらメイリーンに忠誠を誓って……
けっ! サツキはそんなに甘くない。
『あの悪女も切れ』って言われたことは忘れませんよ? それ相応の罰は受けてもらわないとね。
うーん…………あっ、そうだ!
切れ味の良さそうな剣を握りながら、私はペロリと舌なめずりをした。