その1 荒野
鳥が飛んでいる。
川辺に青々と繁ったススキの細い葉に、登ったばかりの朝日が黄金色の影を落としている。その上を、一羽の白い鳥が、大きな翼をゆったりと動かして飛んでいく。
ススキの葉の間から、遠くの県道をバスが行くのが見える。目の覚めるような、真っ青に塗られたバスだ。窓ガラスの中に、頬杖をついた一人の女が透けている。少女と呼ぶには大きな、しかし少女の表情を浮かべた女だ。
高羽朝葉は、遠くの川の上を飛ぶ、一羽の鳥を見ていた。
鳥は長い首を蛇のようにくねらせ、白い翼を広げて川面の近くを悠々と飛んでいる。六月も半ばに差しかかるが、まだいかにも冷たそうな水面を、真っ黒な鳥の影が滑っていく。
朝葉は大きなあくびをする。
県道に沿うように流れるこの川は、古くから山手やそれよりも上の地域に住む人々は白無瀬と呼ぶが、正式な名は白無川と言い、木良山から黄水市街地を通り、和岐原湾に注ぐ一級河川である。
県道が山手に入る前に、川は一度西向きに湾曲するため、山手に入ったバスからでは、もう川は見えない。
朝葉は古びた住宅地に差し代わった風景を、半分眠った顔でぼんやりと眺めている。
「三尻神社前です。お降りの方は……」
バスが停まり、金髪を揺らして聖が乗ってきた。
「おはよ」
「おう。眠そうだな」
「まあね」
また大口を開けてあくびをする。
「昨日も遅くまでゲームやってたのか?」
「うん」
「今度は何のゲームだ?」
「うーん、猫を育てて、闘わせる、みたいなやつ」
「ひでえゲームだな」
「大丈夫。実際闘うのは猫の仮想ボディだから」
「全然わからん」
「それより、聞いてよ」
朝葉はふいに身を乗り出して、後ろから聖の座る背もたれに顎を乗せた。
「昨日さー、晩ご飯に納豆出したんだよ」
聖は暑そうにシャツの胸元をぱたぱたとやっている。
「そしたら、味がない納豆なんて食えねーって、みんな文句言ってさ」
「はあ」
「豆の味がするよね? 納豆って」
「いや、何の話か全然わかんねえ」
バスが再び停まった。
乗ってきた女学生は、いつも通り、朝葉と聖の通路向かいに座る。
「ねえねえ、姫、納豆は豆の味するよね?」
つゆは黙ったまま、鞄からハードカバーの本を取り出しページを開いた。
「おーい、つゆ姫、豆の味だよね、どう思う?」
「……知らないわよ。納豆食べないから」
「そりゃ知ってるけど、でも、豆は豆だから、豆の味だよね、ってこと」
つゆは眉間に皺を寄せて本を置くと、目を細めて朝葉を振り返った。
「豆豆うるさいわね。豆が原材料なんだから、豆の味なんでしょ。知らないけど」
朝葉が得意げに鼻を鳴らして聖を見る。
「ほらね?」
「いや、ほらじゃねえし、今のやり取りなんか意味あんのか?」
「だからさ、納豆をもらったんだよ。隣のおばあちゃんに」
「で?」
「手作り納豆だよ? タレなんて付いてるわけないじゃん。それなのに、味がないとかどうとか……。醤油でも塩でもかけたらいいのに」
聖は相変わらずシャツをぱたぱたさせながら、つゆの読んでいる本に視線をやった。
「面白い? その本」
「面白いかはわからないけど、知らないことはたくさん書いてあるわ」
真っ白の表紙に、簡素な装飾で『粘菌』とだけ書かれた本だ。
「ねえ、納豆の話は?」
「なんでまた、それ読もうと思ったんだ?」
「たまたま図書館で見つけただけよ」
「ねえねえ、おばあちゃんの手作り納豆」
聖は座席の天井に手を伸ばし、空調の吹き出し口の角度を調節している。つゆは無言でページに目を落とし続ける。
しばらく沈黙が続いたあと、聖が口を開いた。
「納豆なんて、家で作れるんだな」
「こたつで作るらしいよ」
「六月だぞ? 今」
「納豆作るために、真夏まではこたつ出しっぱにしてるんだって」
「へえ」
「豆を煮て、納豆をちょっと混ぜて、藁で巻いて、こたつに入れとくんだってさ」
「納豆の材料に納豆を使うのか」
「納豆菌を使うんでしょ」
本を読みながら、つゆが口を挟む。
「豆の味がするんだよ、スーパーの納豆より。なんか、納豆って言うより、豆そのものって感じ」
「未完成の豆なんじゃねえの」
「でも、おいしいんだよ?」
聖は背もたれに片肘を掛け、遠い目つきで天井を見遣っている。
「まあ、一回は食べてみたい気もするな」
「でしょ!」
朝葉が立ち上がる。
「ひじりん、今度食べに来なよ! 絶対おいしいから」
「やだよ、おまえんち、遠いもん」
「えーっ、たまには遊びに来てよう」
「納豆関係ねえじゃん」
朝葉は後ろから聖に絡みつき、金色の頭に頬を擦り寄せている。
「ところで」
つゆが細い指で黒髪を耳にかける。
「もう体は平気なの?」
「指と目は完全に治ったよ。二人に騙された心の傷だけ、治らないけど」
「結局何もわかんねえままだったな」
「昨日のバスは何もなかったわね。今日も何もないといいけど」
とつぜん、何かを踏んだようにバスが揺れた。続けて、もう一度。タイヤが路面を踏む音が、砂利を踏むような音に変わった。
「なんだ、工事中か?」
窓の外を見ていたつゆが、驚いて声を上げる。
「ねえ、何か変じゃない?」
山手の住宅地から、既に市街地に差し掛かっていてもおかしくない時間である。
しかし、バスの周囲には、建物の影も見えない。
「変どころか……、どこだよ、これ」
三人が見つめる窓外には、見渡す限りの、赤褐色の荒野がある。草一本見えない、枯れ果てた土地が地平線まで続いている。
「いつのまに、変わったのかしら……」
「まただ……」
聖がつぶやく。
「なんだって言うんだよ、くそっ」
事態を飲み込めず困惑する三人の上に、車内のアナウンスが告げる。
「きれつまえ、きれつまえです。足元にお気をつけて、お降りください」
バスが、ゆっくりと停車する。
「なんて言った? きれつまえ?」
「聞いたこともない地名だわ」
「このまま、乗っとこうよ……」
いつだって能天気なはずの朝葉が、珍しく不安げに言う。前回と同じような、自らの身に降りかかる異常事態を恐れているのかもしれない。
「そうだな。やり過ごそう」
「でも、この前は、同じ方向のバスに乗っても戻れなかったわよ」
聖が舌打ちをし、跳び出すように座席を立つと、運転席に詰め寄る。
「おい、おっさん。どこだよ、これ」
運転手は言葉を返さない。
「聞いてんのか? さっさと引き返せよ!」
朝葉とつゆは固唾を飲んで見守るが、聖が一方的にまくし立てるだけで、運転手が答える素振りはない。
聖が運転手の肩をつかんで、反射的に手を引く。そのまま、ゆっくりと後ずさり、二人の元へ引き返してきた。
「どうしたの……?」
「だめだ。……人間じゃない」
朝葉とつゆの表情が固まる。
「なんか、花瓶か何かをつかんでるみたいだった……。人間の手触りじゃねえ」
三人の視線が、ちらりと見える運転手の後頭部に集まる。
「バスも出ないみたいだわ……。一度降りて、反対側のバス停を探した方がいいかもしれない」
「えっ、やだよ……。また前みたいにおかしくなるの……」
「朝葉、行こう。このまま乗ってても、たぶんどうにもならない」
一人だけ、運転手の異常を身をもって体感した聖が、先に立ってバスを降りる。つゆがその後に続き、朝葉が遅れて追いかける。
三人が降りると、バスはすぐに発車した。小刻みに揺れながら、道なき荒野を遠ざかっていく。
「地名じゃなかったんだな」
バス停の標識を見て、聖が言う。
標識には『亀裂前』と書かれている。
「で、亀裂ってなんだ?」
「あれじゃない?」
聖の陰に隠れていた朝葉が、遠くを指差す。
その先には、大きな川ほどの幅の崖が、黒々とした裂け目を地平線と平行に伸ばしている。
崖のそばまで近寄ると、聖が恐る恐るその下をのぞき込んだ。
「これは、相当な深さだぞ」
朝葉も続けて首を伸ばして、すぐに引っ込める。
「小石落とすとかいいからな。あんまり近寄るなよ」
まだ鮮やかに残るプールの記憶が、二人を自然と断崖から遠ざける。
高所恐怖症のつゆは、近づきもせず遠巻きに見守っている。
崖は、光も届かない真っ黒の深淵をのぞかせ、地平の彼方まで果てのない黒い線を伸ばしていた。橋らしき物も見当たらない。向かいの淵まで二、三十メートルはあるだろう。
「ねえ、あれ見て」
つゆが指差す方を見ると、対岸の少し離れたところに、何かが立っている。
「うそっ……、あれって……」
「最悪だな……」
聖が金髪を掻き乱して、吐き捨てるようにつぶやく。
対岸にぽつりと立つそれは、遠くから見ても明らかに、バス停の標識だった。
「どうする……? あれが帰りのバス停だよね」
「……どうにもならねえよ、ゲームオーバーだ」
少し離れたところから二人の様子をうかがっていたつゆは、崖の続く先に目を凝らし、続いて反対側の先にも目をやる。
「あっちの方が少し狭い気がする」
「ん?」
「バスの進行方向と、逆方向、遠くまで見比べたら、逆の方がほんの少し崖の幅が狭くなってるように見えない?」
聖と朝葉も、つゆの真似をして崖の両方向に目を凝らす。
「たしかに、そんな気もするな」
「崖の形成される原因は、地割れとか、川の侵食とか、いくつかあると思うけど、どちらにせよ、端から端まで一定の幅ってことはないはずだわ」
「けど、狭くなってるにしても、かなり遠いぞ」
「ここに留まってても、何も解決しないわ。歩くとしたらどちらか、それを決めるべきよ」
目を細めながら、聖は崖の先を何度も見比べる。
「ここで待っててさ、バスに乗って行く方が楽じゃない?」
朝葉が新たな提案を挟む。
「バスが都合よく来れば、その方が楽なのは確かね。けど、わたしが思ってる方向とは逆になる。もし間違ってたら、戻ってくる手段がないわ」
「楽だけどイチかバチかに賭けるか、きついけど目で見たものを信じるか……つーか、つゆを信じるか」
「おし、歩いて行こ」
「だな」
三人は崖に沿って、来た道を引き返すように歩き出した。
彼女らを乗せてきたバスは、既に豆粒のように小さくなっている。次の到着時刻も、三人は確認することなく歩いて行く。
しかし、つい今し方まで三人の顔を覆っていた暗い表情は、不思議とどこかへ消えていた。
日常から少し外れた三人の朝は、こうして、また始まったのだった。