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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

冷たい眼差しの皇帝陛下は愛を知らなかった

 シェリーナが初めて彼の方を拝見したのは、薄暗い廃屋だった。

 友人の令嬢たちと、少しだけ遠出をした日。

 付き添い人のなかに紛れ込んだ無法者により、連れさらわれてしまったのだ。

 連れ込まれた廃屋のなか、すすり泣く友人たちと手を握り合い恐怖に耐えていた。

 廃屋の外では酒を飲んでいるのか、下卑た笑い声がした。

 シェリーナは、伯爵家に生まれた貴族だ。

 友人たちもそうである。

 男たちは、高く売れると浮かれきっていた。

 粗末な窓から見える景色は、夜になり暗く、心細くなるばかりだ。

 それでも幸いなことに、男たちが邪な目を自分たちに向けなかったのは幼い風情だったからだろう。

 皆、十を少し過ぎたばかりの年齢だった。

 十二歳のシェリーナは、絶望だけはするまいと気丈に振る舞い、友人たちを励まし続けることしかできない。

 お父様、お母様、ごめんなさい。

 死すら覚悟したシェリーナの耳に、つんざくような悲鳴が飛び込む。

 そして、たくさんの馬の嘶きと男性の鋭い声。

 怯える友人たちを宥め、何が起きたのかと扉を見れば乱暴に開かれ、数人の身なりが良く剣を構えた男性が飛び込んできた。

 先頭の男性が鋭く室内を見渡し、震える少女たちを見つけるとほっと表情を和らげた。


「陛下! 拐かされたご令嬢方はご無事です!」


 男性が外に声を張り上げる。

 そして、後ろにいた二人の男性……おそらくは騎士だろう。騎士たちは膝をつき、目線を合わせ微笑んだ。

 もう大丈夫だと理解できた友人たちは喜びの涙を流す。

 ただ、シェリーナは。

 シェリーナだけは。

 開け放たれた扉の先に立つ、横顔を晒し鋭い眼差しを持つ少年に目が吸い込まれた。

 頬には血がつき、乱暴に拭う姿には気品がある。

 白銀の髪は月光に淡く輝き、剣に滴る血を振り払う仕草はまるで彼こそが研ぎ澄まされた剣のよう。

 ふっと、寄越された視線に熱はなく、さえざえとしたアイスブルーの目は何の感情もない。

 まるで、雪原のような方。

 彼の足元には賊の死体。騎士たちが羽織ったマントで視界を遮るまで、シェリーナは彼を見つめ続けた。


 自分たちの身に何が起こり、名誉を守るためにどのような処置がなされたのかは、救出された二日後に父から聞いた。

 シェリーナたちを攫ったのは、最近活発に動きのあった犯罪集団であったのだ。

 平民貴族問わず、子供を攫い売り飛ばす。

 父の話では言葉を濁している部分もあったが、相当罪深いことを繰り返していたそうだ。

 それを叩いたのが、シェリーナたちが忠誠を誓う若き皇帝陛下だった。

 苛烈さ冷酷さで即位直後から名を馳せた皇帝陛下は、組織を根絶やしすべく動き、それにより帝国内の貴族令嬢たちが捕らわれたことを知り、精鋭を連れ自ら乗り込んだのだ。

 彼は自らの国で勝手をする者を許さない。

 牙向けば、末端の末端まで滅ぼし尽くす。

 だが、攫われた貴族令嬢の名前が徹底されて伏されたことから、苛烈なだけではないのだとシェリーナは思った。


「では、あの方が我が帝国の至高なる……」

「ああ、ゼイルファー皇帝陛下だ」


 頷く父に、口のなかで何度も彼の方の名を呼ぶ。

 たった十五歳で、病弱な父親に代わり玉座に就いた皇帝。

 それから二年で、好き勝手してきた奸臣や散財を尽くす前皇后を黙らせたという。

 一切の慈悲はなく、血は流さずとも対象となった者を凍えるほどに恐怖させた、「氷の皇帝」。

 皇室に忠誠を誓う家に生まれたからか、シェリーナはそんな噂は信じていなかった。

 そして、実際に目にした、彼の方は。

 シェリーナは胸に湧き上がる思いに、口を引き結ぶ。

 自分は陛下にとって、臣下のひとり。

 どんな感情も抱いてはいけない。

 十二歳のシェリーナは、目を伏せた。



 それから、五年。

 シェリーナは帝国民に喝采を受けていた。

 純白の美しいドレスに身を包み、選びぬかれた宝石に彩られ。

 綺麗に纏められた金色の髪、その上には煌めくティアラ。

 居るのは、帝城のバルコニー。

 特別な日であるため、公開されたバルコニーから見える広場には数多の民が集った。

 熱狂、喝采、祝福の声。

 隣には、今日をもって夫となる至高なる皇帝陛下。

 皇位の証たる煌めく錫杖を手に、無表情に下を見る。

 十七歳のシェリーナは、六歳年上のゼイルファーの唯一である皇后となった。

 与えられる口づけすら簡略された婚姻式、そして用意された書面に名を記し、二人は夫婦となり、これからを共にする。

 シェリーナは、微笑み手を振り続けた。



「俺との婚姻の意味はわかるか?」


 それは初夜を迎えた夫婦には似つかわしくないほど、淡々とした声だ。

 皇室に相応しい広い部屋に、広い寝台。

 しかし、寝台に上がって向き合う二人には、甘やかな雰囲気はなかった。

 美貌の前皇后に似た容姿は、男だからか柔らかな印象はなく、どこまでも冷たい。

 対してシェリーナは、対になるかのように柔和な容姿をしている。

 ふわりと緩くカーブする金色の髪に、新緑を思わせる優しい眼差し。

 シェリーナはその姿に良く似合う、春の日差しのように温かな声で応える。


「わかっています。わたくしは、前皇后さまとの相性が悪い家の出。陛下が望む、母君である前皇后さまの力を削ぎ、そして出しゃばらない存在です」


 すらすらと出る言葉に、ゼイルファーは軽く頷く。

 シェリーナの家は、先々代の皇帝の妹が嫁いでいる。

 前皇后の家は侯爵家で、当時の妹姫とは仲違いしているのだ。

 気位の高い娘が、自分よりも高位の存在を妬み、位が下の家に嫁いだことにより嫌がらせをしていた。

 シェリーナの家は当然、妹姫を守り、真っ向から対立。当時の皇帝が社交の場で名指しで侯爵家の娘に嫌味を言ったことで事態は収まった。

 だが、皇帝に反感を持たれたことは侯爵家とはいえ痛手だ。

 この出来事により、両家は関わりを断っていた。

 ゼイルファーが自身の皇后にシェリーナを求めたのは、今なお贅沢を続けたがる前皇后を抑える為だ。

 因縁があり、今も皇室からの信頼が厚い家。

 前皇后は、シェリーナには強く出られない。

 実家の侯爵家が皇帝に睨まれても降爵せずに済んだのは、シェリーナの家が執り成したからだ。

 シェリーナに何かしようものなら、ゼイルファーは過去を持ち出し、今度こそ没落させてしまう。

 立ち回りを間違えれば全て失う、前皇后は薄い氷上にいるのだから。

 そして、シェリーナの家は伯爵家。

 ゼイルファーの治世に口を出すには権力が足りないが、古くから忠義を尽してきたことから他の貴族からの信頼を得ている。

 理想的な家なのだ。

 シェリーナも理解している。

 だから、微笑みを向けた。


「わたくしは、皇后の栄誉こそありますが。陛下を支える臣下でございます」

「そうか」


 ゼイルファーはそれだけ言うと、寝台に横になる。

 シェリーナに背を向けている。


「陛下、それでは冷えますわ」


 シェリーナはそっと掛け布をゼイルファーに被せた。


「……すまない」


 ゼイルファーからの素っ気ない言葉に、シェリーナは微笑んだ。


「おやすみなさいませ」


 そして、ゼイルファーから離れて寝台に横になり、別の掛け布に包みシェリーナは目を閉じた。

 初夜は何も起こらずに、朝が来る。



 白い結婚。

 乱れひとつない、寝台。

 ゼイルファーに信頼された皇后専属の侍女は、現皇帝の在り方を知っているのか、憐憫などは浮かべず礼儀正しくシェリーナに接した。

 既に寝台にゼイルファーの姿はない。政務に行ったのだろう。

 体を起こしたシェリーナを、侍女たちは恭しく世話をする。

 温かいお湯で顔を洗い、寝間着から普段使いのドレスに着替える。


「まあ、凄いわ! わたくしの髪はふわふわし過ぎて、櫛に絡まってしまうのに。全然痛くないわ」

「貴い皇后さまに、苦なく過ごしていただきたいですから」

「ありがとう」


 穏やかに笑うシェリーナに、侍女たちも柔らかく笑う。


「皇后さま。婚姻式から一週間は公務などありません。ゆっくりとお過ごしください」

「そうね。婚約期間でわたくしの公務については理解しているけど。陛下のお心遣いに添います」


 皇后に与えられる公務は、主に社交だ。

 様々な家の夫人や、令嬢を招いて交流を重ねる。

 時代により皇后のすべきことは変わるのだ。

 ゼイルファーの妻となったシェリーナが成すのは、敵の多い彼の治世を盤石なものとすること。

 即位に奸臣たちを粛清し、賊を自ら狩り、厳しい態度を貫いたことにより、多くの忠臣を得たが、彼に対する恐怖も根付いてしまった。

 シェリーナより下の世代ではあまり浸透してはいない。粛清時は幼かった。

 だが、親世代は覚えている。

 正しきことを成した彼を支持すると同時に、粛清対象になる恐ろしさがある。

 シェリーナの役目は、それを正しく和らげることだ。

 まだ十七歳と年若い。だからこそ、周りは気を抜く。

 シェリーナは警戒を解き、夫人たちの心に優しい皇后として入り込めばいい。

 気を許した彼女らから、情報を得る。

 それこそが、ゼイルファーの助けとなるのだ。

 シェリーナは臣下として、彼を支えたい。

 それでいい。


「皇后さま、朝食をお持ちします」

「ええ、お願い」


 礼儀正しい侍女たちに、シェリーナは微笑んだ。



 白い結婚のまま、ひと月が過ぎた。

 その間、寝台は共にするけれど温かな交流がゼイルファーとあったことはない。

 ただ、皇后としてのお茶会を三回開いた。

 個別に交流した夫人もいる。

 シェリーナは、上手に夫人たちの相談相手を努めた。

 最初は壁を感じさせた彼女たちだが、シェリーナはけして彼女らを否定せず、穏やかにうたれる相槌、不快にならない話運びに次第に打ち解けてくれた。

 そして、彼女たちからの相談で気になった点は、必ずゼイルファーに報告をした。

 たったひと月で、夫人たちの心を解したシェリーナに、ゼイルファーは驚いている様子だ。

 距離のある寝台で、シェリーナからとある男爵が怪しい謳い文句の商売を持ちかけられている話をすると、ゼイルファーは息をはく。


「最近、隣国から詐欺紛いの商売をしている組織が流れているようだ」

「まあ」

「ふむ、男爵と繋ぎを持つとしよう」

「そうですか」


 そこで会話が途切れる。

 初夜では背を向けていたゼイルファーだが、距離があるとはいえ、今ではシェリーナに向かい合って眠るようになっていた。

 ゼイルファーのアイスブルーの目を見つめ、シェリーナはゆっくりと口を開く。


「陛下、毎日遅くまで執務をしていますね」

「……それが、どうかしたか」

「いいえ、お体が心配なだけです」

「脆弱な体はしていない」


 おそらく、ゼイルファーは白い結婚を責められたのだと思ったのだろう。

 現に彼らには、夫婦らしい触れ合いはないのだから。

 眉間に皺を寄せた夫に、シェリーナは優しく笑いかけた。


「陛下。許されるならば、手に触れてもよろしいですか?」

「は、何を」

「ご不快にさせたのならば、申し訳ありません」


 シェリーナはゼイルファーが嫌ならば触れないと伝えた。

 ゼイルファーはしばし無言になると、おもむろに左手を出した。

 シェリーナの願いに応えたというよりも、あまりにもささやかな行為まで無下にするのは自分に驕り過ぎていると感じたからだ。


「右手は、許さない」

「わかっています。利き手を大切にするのは素晴らしいことですわ」

「そうか」


 空いていた距離を詰めると、シェリーナは小さな手で左手に触れる。

 それだけで、彼女は幸せに笑う。


「まあ、陛下の手は大きいですわね」

「お前に比べれば、大きいだろうな」

「ふふ、ごつごつしています。男の人の手ですね」


 とても楽しげな様子に、ゼイルファーの目が僅かに泳ぐ。


「……ただの、無骨な手だ」

「ええ、たくましい手ですわ」


 シェリーナの触れ方は、優しく丁寧だ。

 冷たいゼイルファーの手に、シェリーナの体温が伝わる。

 ざわざわと心が騒ぎ、ゼイルファーはシェリーナから離れた。

 必然的に手も温もりを失う。

 それに対する感情の動きがわからず、ゼイルファーは掛け布にもぐりこんだ。


「申し訳ありません。触りすぎました」


 シェリーナの謝罪に間は空いたが、「いい、気にしなくて、いい」とゼイルファーは答える。

 心のざわめきがわからなかったが、掛け布のなかで左手を握りしめ、シェリーナに背を向けることなくゼイルファーは目を閉じた。

 それを見つめ、シェリーナも眠りにつく。



 翌朝。

 体に違和感がある、とシェリーナは思った。

 そうっと目を開けると、目を瞬かせる。

 至近距離に綺麗な銀髪のつむじが見えた。

 違和感により、どうやらいつもより早く起きてしまったようだ。

 普段なら起きると既にいないゼイルファーが、こんなにも近くで寝ているのだから。

 密着と、言えるだろう。

 ゼイルファーは、シェリーナの胸元に顔を埋めていた。

 いや、少し顔を背けているから埋めてはいない。

 シェリーナの胸に顔をつけているだけだ。

 ついでに体も今までになく密着している。

 シェリーナは逡巡し、また目を閉じた。寝た振りをしたのだ。

 これは何かの間違いかもしれない。

 たまたまゼイルファーの寝相が活発になり、近くで眠るシェリーナの、胸、に辿り着いたのだ。

 そう、人に弱みを見せたくないであろうゼイルファーが、このような姿を見られたと知ったら大変である。

 だから、シェリーナは目を閉じた。

 わたくしは何も見ていない。そう念じて。


「んん……」


 初めて聞く、ゼイルファーの掠れた寝起きの声。

 ああ、お願い。わたくし、耐えて。

 必死にシェリーナは祈る。


「あ」


 初めて聞く、ゼイルファーの間の抜けた声。

 慌てて離れたのか、胸が揺れた。

 ギシ、寝台が鳴る。振動もくる。

 これで起きないのは、逆に変だ。

 意を決して、目を開けた。

 できるだけ、さも今目が覚めたのだと装って。


「んん、陛下。いかが、しました?」


 うまく演技出来ているだろうか。心臓はばくばくと鳴っている。

 そして視線を向けた先には、離れた場所で腰を抜かしたような姿勢で呆然とするゼイルファーが。

 固まるシェリーナ。

 完璧な皇帝陛下が、瞬きもせずにシェリーナを凝視している。視線が胸に向かっているような気がしたが。おそらく、気のせいだろう。


「陛下……?」

「しつむしつにいく」


 感情が抜け落ちた声で早口に言うと、ゼイルファーは寝室から寝間着のまま飛び出した。

 あまりにも珍しい夫の姿に、シェリーナは目を瞬かせて、そして無言で掛け布に入り、目を閉じる。

 遠くで侍従の驚愕した声がしたが、シェリーナは考えることをやめた。


 その日は、宰相の妻との面会があり、シェリーナはそつなくこなした。

 ゼイルファーの様子がおかしいとの話は聞こえてこないので、あれはやはり夢だったのだ。

 宰相の妻が帰り、寝室とは別の部屋に向かう途中。

 シェリーナの側にいることを許されていない侍女たちが、すれ違い様にくすくすと笑う。

 先導している侍女には聞こえないように、器用な嘲笑を。

 シェリーナが白い結婚であるのは、知られていた。

 シェリーナの侍女ではなく、シーツを洗濯する下女が漏らしたようだ。

 貴族の令嬢であろう侍女たちが、下女と関わることはない。

 つまり、自ら粗を探しに出向いたということ。


「下品なこと」


 と、普段ならにこやかに囁き返すものだが、今のシェリーナにはそんな気力はない。

 今朝の出来事が夢だと思い込むことに必死だからだ。

 そして、夜になり寝室に移動。

 妻の役目としてゼイルファーを待つが、なかなか訪れない。

 このひと月、彼は夫婦の寝室で必ず過ごしていた。

 ただ、シェリーナも動揺していた為、早めに就寝することにした。

 ゼイルファーからも、度々待たなくてよいと言われていたこともある。

 今夜は、先に寝てしまおう。それがいい。


 翌日。

 覚えのある違和感が胸にあり、シェリーナは震えて目を覚した。

 胸元に見える銀髪のつむじ。

 今日は昨日以上に密着していた。

 ゼイルファーの腕が、シェリーナの腰辺りに回されている。

 落ち着こうと、小さく息をはく。

 そして、胸元を見下ろす。

 二度目であるからか、銀髪の下にあるゼイルファーの寝顔を見る余裕があった。

 きゅん、と胸が締め付けられた。

 シェリーナの胸に顔を寄せたゼイルファーの寝顔は、とても、あどけない。

 眉間に皺はなく、安心しているのか、ぐっすり眠っている。

 まるで、幼子のよう。

 なんてお可愛らしいのだろう。

 不敬にも、そんな感想を抱く。

 ゼイルファーに目覚める気配は、まだない。

 シェリーナは彼のさらさらとした髪に触れたいと強く思う。

 頭を撫で、抱きしめ、そして……。


「駄目だわ」


 即座に浮かんだ言葉をかき消す。

 ゼイルファーに無断で触れるのは、いけない。

 自分はあくまでも、臣下のひとりなのだから。

 シェリーナの声に反応したのか、ゼイルファーの眉間に皺が出来る。

 そして、「んー……」と唸り、それから、シェリーナに体を更に密着させ。

 すり、すり、と頬をすり寄せた。


「んぐっ」


 高まる衝動に耐えるシェリーナ。

 変な声は出てしまったが、耐えた。

 それに邪な考えに侵されるのは良くない。

 一度目ならまだしも、ゼイルファーがこれほどシェリーナに密着したのは二度目。

 偶然などでは片付けられない。

 何が原因なのか。

 形だけの皇后で満足すべきだったのに、少しだけでも触れたいと不相応な願いを口にしたのがいけなかったのかもしれない。

 あの触れ合いの翌日から、ゼイルファーが変わったのは確かなのだから。

 そろりとゼイルファーの寝顔を再度確かめる。

 彼はやはり、幼子のように無防備な顔をしていた。


「か、可愛い」


 駄目だ。本音しか口に出来ない。

 今は何も口に出してはいけない。

 抑え込んできた気持ちが止められなくなってしまう。

 必死に耐えるシェリーナは、長いまつげに縁取られたアイスブルーの目が開かれるのに気づかなかった。

 そして、ぱちりと目が合う。

 一瞬だけ、時間が止まった。

 お互いに姿を認め、体勢に意識が向き、そしてゼイルファーは目を見開いた。


「な、あ……っ」


 驚愕の声。

 抱きついているのはゼイルファー。

 シェリーナは耐えきったので、触れてはいない。

 混乱した彼は、離れようとした振動でシェリーナの胸に深く触れてしまった。

 ふよんと、揺れる胸。


「……っ!」


 ゼイルファーは、悲鳴が形にならないほどの衝撃を受けたようだ。

 無言になった後に慎重に動き、シェリーナを開放した彼はふらふらと寝台から降りる。


「へ、陛下……?」


 心配するシェリーナに、振り向いたゼイルファーは無表情であった。

 だが、何故だろう。

 実家を継ぐ予定の弟が幼い頃に、彼がしたいたずらを叱った時に見せた顔と重なるものがあった。


「すまなかった……」


 常に力強く前を向く彼のものとは思えないほどの弱々しい声に、シェリーナは言葉を失う。

 静かに寝室を出た彼は、その日の夜から寝室に訪れなくなった。



「ああらあ、おかわいそうな皇后さま。我が息子ながら、酷いことをするわねぇ」


 たっぷりの侮蔑を込めて言ったのは、ゼイルファーの母親たる前皇后陛下だ。

 公務という名のお茶会を終えて、部屋に戻る途中の廊下で彼女はたくさんの侍女を引き連れ立っていた。

 待ち伏せしていたのだろう。

 帝城の広い廊下とはいえ、大人数で固まっていては通行の邪魔でしかない。

 シェリーナを心配する専属の侍女たちに微笑みかけてから、恭しくドレスをつまみお辞儀をする。


「これはこれは、麗しのマニュエール公夫人。ご機嫌はいかがでしょう」


 シェリーナは敢えて、前皇后陛下とは呼ばなかった。

 マニュエール公とは、今は療養中である前皇帝が退位した際に賜った呼び名だ。

 領地はなく、毎月決まった額の生活費が出される。

 ゼイルファーの父親は病弱なだけで、贅沢を好まない穏やかな人物だ。

 決まった額でも、じゅうぶん過ぎると笑っていたと聞いている。

 体の弱さと争いを好まない性格ゆえに、奸臣が好き勝手していたが。それはもう、息子であるゼイルファーが粛清した。

 今後は、何も憂うことなく過ごしてほしい。

 問題なのは、目の前の女性だ。

 退位した後、離宮に移っても毎日のように本宮に来ては騒いでいるという。

 ゼイルファーの目が光っているからか、ねちねちと使用人に当たり散らすだけに留めてはいたようだが。

 どうやら、気に食わない現皇后であるシェリーナの現状を聞きつけ、嫌味を言うためにわざわざ待っていたようだ。


「まあ! なんて、生意気な! そのようだから、皇帝陛下に愛想を尽かされるのでしょう。ああ、最初から、尽かされるものもなかったのでしたわねぇ」


 マニュエール公夫人の嘲笑に、後ろに控える侍女たちが倣うように笑い出す。

 だが、特にシェリーナには響かなかった。

 穏やかに笑うだけだ。


「偉大なる皇帝陛下のお心をはかる権利は誰にもありません。わたくしは、これからも陛下をお支えするだけです」

「はっ、七日も放置されているのに、豪胆なこと」


 見下すマニュエール公夫人ににこやかにしたまま、シェリーナはゆったりと話しかける。


「マニュエール公夫人、とても大粒の宝石を着けていますわね」

「ふんっ、栄光ある貴婦人のあたくしならば、このくらい当然のことよ」

「そうですか。でも、不思議。わたくし、その宝石の購入履歴を見た覚えがないのです。金額はどうなのでしょう?」


 支給されている金額では、とうてい買えそうにない数の宝石だ。

 そう指摘すると、目に見えてマニュエール公夫人は狼狽えた。

 間髪を容れずに続ける。


「離宮の管理も、わたくしの仕事ですわ。不備がないよう、全てじっくりと確認いたしますね」


 蔑みも怒りもなく、あくまでも穏やかな態度を崩さないシェリーナにマニュエール公夫人は悔しそうに顔を歪めた。

 後ろの侍女の顔色も悪い。

 彼女たちは自分の主人に追従したに過ぎないが、シェリーナは帝国女性では最上位の存在だ。

 皇帝陛下からの愛がないだけでは、地位は貶められない。

 そして、シェリーナは離宮の全てを確認すると伝えた。

 それは彼女らの生家を含め全てを把握すると言ったも同然なのである。


「こ、これらはあたくしの娘時代に購入したものよ! もう、いいわ。行きましょう!」

「は、はい!」


 団体が慌ただしく去って行くのを、シェリーナは笑顔のまま見つめた。


「身に着けていた装飾品の意匠は、今年から流行したものでございます」

「ありがとう」


 シェリーナの知りたいことをすぐに伝えてくれるのは実に自然で、さすがゼイルファーの信を得た侍女だと感心する。


「そう、今年の、ね」


 シェリーナは薄く微笑んだ。



 夫が寝室に来なくなろうとも、シェリーナの日常は続く。

 もとより、愛を欲してはいない。

 ただ、臣下のひとりとして支えたいのだ。

 その気持ちがあるからこそ、自室にてシェリーナは侍女から渡された報告書を見て顔を曇らせた。


「お食事どころか、睡眠もまともにとれていないだなんて……」

「はい。陛下のお側にいる者曰く、執務に集中しておられるとか。臣下に任せるべきものまで、ご自身でなさっていると」

「なんてこと」


 婚姻後に夫婦が食事を共にしたことはなかった。

 時間が合わないからだ。

 唯一同じ時間を過ごすことができた寝室も、今は訪れていない。

 そうなってから、もう七日。

 その間、ゼイルファーは休みなく働いているという。


「このままでは、お体に障るわ。陛下に先触れを……」


 ゼイルファーに会いたいと侍女に伝えようとしたところで、部屋の扉が叩かれた。

 侍女のひとりが扉を開け、強張った表情の騎士が何事かを伝えている。

 そして、応対した侍女が足早にシェリーナに寄る。


「皇后さま、陛下がお倒れになったと」


 シェリーナは目を見開いた。



 伝令役を勤めた騎士に先導を受け、シェリーナはゼイルファーの部屋へと向かう。

 彼は、部屋で体を休めているとのこと。

 部屋の前で立ち止まると、騎士は真摯にシェリーナを見る。


「皇后さま、陛下は貴女の名を呼びました」


 静かな声に、シェリーナは息を呑む。


「侍医は、風邪だと。陛下は大事にはするなとおっしゃいました。ですが、貴女の名を呼ばれた。どうか、陛下のお側に」


 真剣に騎士は言う。

 彼は本気でゼイルファーを案じているのだ。

 シェリーナは重く頷いた。

 ついてきてくれた侍女を下がらせ、ひとりで入室する。

 ゼイルファーは時々熱を出すが、いつも薬で誤魔化し、無理に政務をするか、誰も近寄らせずにひとりで耐えてきたという。

 だから、部屋には寝台で眠るゼイルファー以外、誰の姿もなかった。

 夫婦の寝室にあるものより、小さく質素な寝台。

 物が少ないせいか、寒々しく感じた。


「……お前、か」


 熱が高いのか、赤い頬のゼイルファーがシェリーナを見る。

 シェリーナは微笑んだ。


「陛下がお倒れになられたと聞き、馳せ参じました」

「大事に、するなと」

「騎士を責めないでください。わたくしが無理を言いましたの」

「そう、か」


 シェリーナは椅子を動かし、寝台の横に置くと座った。

 近くの台にある水の入った器に、ゼイルファーの額から熱くなった布を取り浸した。

 絞り、再びゼイルファーの額に置く。


「何をしている?」

「陛下のお側で、お世話をしたく思います」


 熱で潤むアイスブルーの目が見開かれる。

 シェリーナは穏やかに笑う。


「陛下。貴方が嫌がることはしません。だから、お許しいただけるのならば、どうかお側に」


 それに対しての返答はなかった。

 ただ、ゼイルファーの目はじっとシェリーナを見つめている。

 きっと、彼はどう答えるのかわからないのだ。

 ずっとひとりで耐えてきたのだから。

 無言を是とみなし、シェリーナは優しくゼイルファーを見つめ返した。


「陛下、お側におります。今は、ゆっくりとお眠りください」


 シェリーナの言葉を受けて、ゼイルファーは目を閉じた。

 それからシェリーナは、ゼイルファーの額の布を取り替え、こまめに水差しで水分を摂らせるように気を配った。

 食欲がないというゼイルファーに、果実水を用意し、目が覚めるたびに声を掛ける。


「陛下、少し汗が引きましたね」


「大丈夫ですよ。さあ、水分を摂りましょう」


「わたくしは、ここにいます」


 そう静かに話すシェリーナを、ゼイルファーはじっと見つめる。

 ちゃんといるのか、幻ではないのか、確認するように。


 一日目は、ずっと寝ていた。

 二日目の昼になると、体を起こし麦粥を口にできるようになり、シェリーナは安堵した。


「俺は、こんな風に過ごしたことはなかった」


 麦粥を平らげたゼイルファーは、ぽつりと呟く。

 空の器を片付けるシェリーナは、静かに聞いていた。

 大事なことを、ゼイルファーは話そうとしているのだと感じたからだ。


「弱さを見せてはいけないと、ずっとそうしてきた。隙を見せれば、足場は即座に崩れる」


 即位した若き皇帝は、苛烈を極めるしかなかった。

 腐敗した政治。

 賄賂が蔓延る宮廷。

 それを粛清するには、情も、慈悲もいらない。

 ついてきてくれた臣下の為にも歩みを止めず、振り返るのも自身に禁じた。

 その道程に、寄りかかる存在は不要であった。

 ただ、ただ、突き進んだ。

 そして、即位から八年。

 がむしゃらになる時期は終わり、安定に重きを置く時代になった。

 そして、現れたのがシェリーナだった。


「お前は、俺の知らない存在だった。名や姿は知っている。だが、俺に対する全てが未知だ」


 ゼイルファーは、苦く口を歪める。


「何故だ。何故、俺を恐れない。何故、あんな目で俺を見る。何故、俺に、触れたのだ」


 最後のは、ゼイルファーの左手に触れた時のことだろうか。

 シェリーナは、彼の言葉を聞き逃すまいと思う。


「父上は、体が弱く、俺に構う時間はなかった。母は、俺よりも宝石を愛した」


 ゼイルファーの吐露に、シェリーナの胸が痛む。

 彼には、子供でいられる時間がなかったのだろう。

 ゼイルファーは拳を握りしめる。


「だから、わからない。この気持ちは、なんだ? お前を前にすると、胸が騒ぐ。なんなんだ、これは」

「陛下……」

「名を、呼んでほしい」


 シェリーナは目を見開く。


「君に呼んで、ほしい」


 懇願だ。

 ゼイルファーは、本心から求めている。

 緊張に強張る口に力を入れて、口のなか、心のなかで、何度も繰り返したそれを形にする。


「ゼイルファーさま」


 名を呼ばれたゼイルファーは、口を引き結ぶ。

 そして、俯いた。


「これは、知っている。だが、こんな温かいものは初めてだ。こんな震えるような嬉しいが、あるのか」


 今度は、シェリーナの心が騒ぐ。

 そして、理解をした。

 彼は、今までの道行きで、愛を知らずに来たのだと。

 シェリーナは、「お手に触れても、よろしいですか?」と、尋ねた。

 ゼイルファーは左側をシェリーナに向けていた。

 だが、差し出したのは右手であった。

 熱いものが胸を満たす。

 シェリーナは、そっと大切に右手を両手で包み込んだ。


「ゼイルファーさま。わたくしは、貴方を支えたい。わたくしにとって、ゼイルファーさまは至宝でございます」

「そう、か」


 ゼイルファーの声が震えた。


「ですから、共に感情を理解していきましょう。わたくしと一緒に学びましょう」

「シェリーナ」


 初めて、ゼイルファーが彼女の名を口にした。

 シェリーナは涙が零れないように、目に力を入れる。


「君は、ひと月で夫人たちの心に入り込んだ。だが、それは俺も同じだったようだ」

「ゼイルファー、さま」

「婚姻前は、ひとりで眠るのが当たり前だったというのに」


 ゼイルファーはわかっているのだろうか。

 それは、七日の不眠はシェリーナがいなかったからと、言っているようなものだ。


「俺は、君と向き合いたい」


 真摯な声、真っ直ぐな眼差しに、シェリーナは深く頷いた。


「わたくしの全て、貴方のものです」


 ようやく、二人の心は通わせることができたのだ。



 それから三日、過労による風邪はすっかり良くなり、ゼイルファーは政務を行えるようになった。

 皇帝が信を置く臣下は優秀で、皇帝不在の間に混乱はなく、円滑に復帰できたそうだ。

 俺の臣下は凄いのだ自慢を、シェリーナは夫婦の寝室で聞いていた。


「まあ、それをご本人たちに伝えたら、喜ばれますね」

「いや、また熱を疑われる」

「あらあら」


 そのような会話は、至近距離で行われていた。

 寝台の真ん中で、同じ掛け布のなか、ゼイルファーがシェリーナを抱きしめる形で、だ。

 シェリーナに動揺はない。

 そもそも、二回も密着したのだ。

 覚悟ができていれば、どうということはない。

 ゼイルファーの方は、どうせ目覚めればシェリーナに甘えているのだから、最初からくっついたほうがいいという姿勢だ。

 無意識の行動に振り回されるのは、もう嫌らしい。


「そういえば、報告書はもう読みました?」

「ああ、あの女の使途不明金か」


 心底嫌そうに言うゼイルファーの背中に腕を回す。

 ぽんぽんと撫でると、抱きしめる力が強くなる。


「母のことは、既に探りを入れてある。すぐにわかるだろう」

「そうですか」


 すりすりと頬を寄せるゼイルファーに、愛しさがこみ上げる。

 もう、慕わしい心を隠さなくていいのが、幸せだ。

 十二歳から、ずっと慕っていた。

 だが、ゼイルファーが求めるはずがないと、ずっと秘めてきた。

 皇后に選ばれた背景を理解したからこそ、邪魔にならないように過ごした。

 だが、もういいのだ。隠さずとも、慕わしい、愛しい気持ちを出していけるのだ。

 シェリーナはゼイルファーの体温に、心まで温められた。


「シェリーナ」

「はい、ゼイルファーさま」

「俺の目を見てくれないか」


 言われるがままに、顔を上げる。

 ゼイルファーの目にシェリーナが映る。

 ゼイルファーが、口角を上げた。

 どくんと、シェリーナの心臓が高鳴る。

 ゼイルファーが、微笑んだのだ。


「ああ、その眼差しだ。優しく、温かい目。このような目を向けられて、よくひと月も耐えられたものだ」

「あ、その」

「時間が合わないからな。その眼差しを焼き付けて、明日も頑張るよ」


 シェリーナの頬が熱くなる。

 密着した体に、意識が集中してしまう。

 気にならないなど、嘘だ。

 この体勢で、眠れるだろうか。

 戸惑いと悩みから解き放たれたゼイルファーは、どこまでも甘やかであった。



 元々、ゼイルファーが冷たいとは思ってはいなかった。

 専属となった侍女たちからしても、あまりに優秀で、蔑ろにはされてはいないとわかっていた。

 ゼイルファーへの気持ちは、臣下としても強いものであると自負をしていた。

 だから、白い結婚だとしても文句はない。

 何かしら理由があると、信じていたからだ。

 まさか、それが愛がわからないゆえの戸惑いと、少しずつ心を占めていくシェリーナへの接し方に悩んでのことだとは予想外であったが。

 それでも、シェリーナはゆっくりでいいから寄り添いたいと思う。

 ゼイルファーは、まだ心に向き合ったばかり。

 焦らずに、歩んで行きたい。

 そう穏やかに思って、十日が過ぎた。

 下女がひとり残らず、入れ替えられた。

 宮廷の侍女で異動及び解雇が行われた。

 全て、シェリーナの評判を傷つけた者たちだ。


「皇后さま、愛されていますわねぇ」


 しみじみと呟くのは、宰相夫人。

 彼女は、内情は漏らしていない。

 ただ、宮廷の使用人の顔触れが変わったと言い、そして皇帝夫妻の仲が良好であると口にしただけである。

 しかし、それだけで今日のお茶会に集まった夫人たちには意味が通じる。

 彼女らは、皇帝の恐ろしさを再確認したことだろう。


「本当に素晴らしいですわね」

「わたくしたち、愛の尊さを学びましたわ」


 淑やかに笑う貴婦人の頭では、これからの振る舞いを考えている。

 婚家を支えるとは、そういうものだ。

 だから、シェリーナはうっとりと頬を染める。


「ゼイルファーさまは、愛情深い方ですから」


 シェリーナが夫を名前で呼んだことは、瞬く間に社交界に広まるだろう。

 未だに白い結婚のままであることは、もう広める者はいない。



 ゼイルファーがシェリーナを大事にしたからといって、在り方が変わるわけではないのだ。

 彼は彼のまま、皇帝として采配する。

 そこにシェリーナを貶めた者への私怨が混じろうが、結果は変わらない。

 結果は同じであるのだから、周りの貴族は己の行動を省みなくてはいけない。

 国を動かすことは綺麗事だけではないが、それが国の威信を落とすのでは意味がない。

 だからこそ、シェリーナもゼイルファーに寄りかかるのではなく、皇后として振る舞う。

 地位に見合う責務を理解しない者は、氷上にすら乗れないのだから。


 ぱきん。

 氷が割れる音のようだ、とシェリーナは思った。


「聞いていますの!」


 甲高い声に、シェリーナは困ったように笑う。

 叫んでいるのは、マニュエール公夫人だ。

 身に着けている装飾品は、以前見かけた時と同じ。

 新たに購入はできていないようだ。


「聞いていますわ。ポエルニ男爵を釈放してほしい、と」


 ポエルニ男爵は、前に怪しい商売を持ち掛けられた男爵の友人であり、持ち掛けた人物だ。

 あれからゼイルファーが調査し、隣国から流れた詐欺師たちを匿っていることが判明した。

 なので、禁止された品を所持している疑いで拘束されていた。

 今は裏取りされた証拠を重ねている最中である。


「マニュエール公夫人、不敬ですよ!」


 シェリーナを庇うように立つ侍女は、鋭く言い放つ。

 しかし、返ってきたのは嘲笑だ。


「ふんっ、たかが侍女風情が。あたくしは、前皇后よ! 全ての者がひれ伏すべき存在!」


 そう胸を張るが、後ろに控える侍女の数からして、権威に翳りが見えた。

 そもそも、ここは皇帝にとって私的な庭園である。

 奥に行けば、皇帝と妻子だけの宮があるのだ。

 シェリーナの近くに侍女しかいないのは、騎士の出入りすら禁じられた庭だからだ。

 もちろん、庭園に繋がる道には騎士が多数配置されている。

 なのに、ここにマニュエール公夫人と僅かな侍女がいるのは、押し入ったのだろう。

 前皇后であるから、騎士も扱いに困ったか、それとも……。

 既に、禁を侵したという報せは届いているはず。

 ならば、時間稼ぎをしようではないか。


「ひれ伏す、ですか。そうですね、マニュエール公夫人はご実家も立派ですから」

「ええ、ええ! わかっているじゃない。あたくしの家は」

「確か、新しく事業に投資されていると聞きましたわ。素晴らしいことですわね」


 にこにこと褒め称えるシェリーナに気をよくしたのか、言葉を遮られたことにも気づかずに早口になる。


「そうよ! お兄さまは先見の明があるの! ポエルニ男爵の商会に投資して、それに感謝したポエルニ男爵は利益の一部と商品を融通してくれたわ」

「まあ、商品ですか。それはそれは」

「お兄さま自身、商品を売って更に利益を上げていてよ」

「それは、凄いですわね」


 手を叩いて微笑むシェリーナに、マニュエール公夫人の気分が高まる。

 そして、余計なことを言ってしまう。


「貴女、思っていたよりも素直ねぇ。あたくしの姪こそが皇后に相応しいけれど。そうね、貴女なら姪の侍女にしてあげてもよくってよ」

「ほう。あの頭が空っぽな女が相応しいとは、皇后の地位も侮られたものだ」


 返した声は、低い男性のものだ。

 どうやらシェリーナは、きちんと役目を果たすことができたようで安心した。


「なっ、ゼイルファー!」


 驚愕の声を上げたマニュエール公夫人は、すぐさま顔を青ざめさせた。

 それはそうだろう。

 息子である皇帝の後ろには、物々しい雰囲気の騎士が大勢いたのだから。

 マニュエール公夫人の話した内容から、ゼイルファーは敢えて庭園に通したのだろう。

 到着があまりにも早い。

 シェリーナが何も知らされていないのは、作戦に入ってはいなかったのだろう。

 つまり、庭園でマニュエール公夫人と対面したのは、ただの偶然であったようだ。

 ゼイルファーがシェリーナを見る。


「……今日は、伯爵夫人との茶会ではなかったか?」

「ご令嬢が熱を出したと連絡がありました。薔薇が好きだと聞きましたので、お見舞いの品として用意しようと」

「そうか」


 庭園には立派な薔薇園があるのだ。

 状況を理解したゼイルファーは、シェリーナと彼女に付き添う侍女たちを下がらせた。

 そして、母親に向けるものとは思えないほど鋭い視線をマニュエール公夫人に突き刺した。

 ひっと、悲鳴が上がる。


「マニュエール公夫人。良い報せだ。貴殿が懇意にしていた商会の品は流通しなくなる」

「そ、それのどこが良い報せなの」


 怯える母親に、息子は冷たく笑う。


「貴女は何もかもを独り占めしたがるだろう? 家族よりも大切な物が他者の手に渡らない。最高じゃないか」

「何を」

「商会の品には、違法薬物もあった。好きでしょう? 即位前の父上に盛るぐらいだからな」 

「し、知って……?」


 ゼイルファーの笑みは凄みを増した。


「下品な薬だ。それを使われ貴女にのし掛かられた父上はどれほど恐怖したか。でなければ、先々代の皇帝に睨まれた家の者が皇后になれるはずはないからな」

「だっ、だって。お兄さま、が」

「ハッ! 貴女の兄ならば、地下牢へ移送中だろう」

「そん、え、な……?」


 混乱する彼女に、ゼイルファーは冷たく言い放つ。

 彼女の兄が受け取り売っていたのは、薬物であったのだ。


「愚かな家のせいで、父上の体は更に弱まった。お前たち、罪人を連れて行け」

「はっ!」


 騎士たちはすぐさま罪人となった者たちを拘束する。

 マニュエール公夫人に付き従ったわずかな侍女も一緒に。

 薬物に関与はしていなくとも、許可なく皇帝の私的空間に侵入したのだ。

 重罪である。

 彼女たちの意思は考慮せずに罰は下る。

 しかも裁量は、冷酷さ苛烈さで有名な皇帝陛下だ。

 彼女たちは若い。実感のなかった、親から聞いた皇帝の成した事を思い出したのか、絶叫を上げる。


「お許しください!」

「陛下っ、陛下あああああ!」


 氷は割れた。

 後は、全部冷たい水の底へ。

 引きずられて行く彼女らを見ることなく、ゼイルファーはシェリーナを抱きしめた。


「怖かっただろう。我が愛しのシェリーナ」


 周りには、まだ騎士たちがいる。

 シェリーナは、ゼイルファーの期待通りに動く。


「はい、とても。ですが、ゼイルファーさまがいらしてくれました。わたくしはゼイルファーさまの愛に守られました」

「ああ。お前を侮る者は、俺が全て排除しよう」

「嬉しいです」


 抱きしめ合う二人の姿に、今後シェリーナを害する者は出ないだろう。

 シェリーナはうっとりと、ゼイルファーを見つめた。




「もう、見ないでくれ」


 震える声でゼイルファーが言う。

 時間は深夜。騒ぎは収まり、罪人は皆地下牢へ。

 そして、夫婦は寝台の上で見つめ合っていたのだが。

 真っ先にゼイルファーが音を上げた。


「まあ」

「無理だ。これ以上は、心臓が持たない」

「わたくしと向き合うと言いましたのに」

「言った。言ったが」


 顔を両手で覆い、くぐもった声で呻く。


「愛しいは、俺には早かった!」

「かっこよかったですわよ?」

「言葉にしたら自覚したのだ!」


 ゼイルファーの叫びに、シェリーナは口を閉じた。

 少し考えたあとに、声をひそめた。


「それは、つまり。わたくしが、愛おしいと?」

「……うん」


 素直過ぎるゼイルファーに、胸がぎゅううんとなる。

 愛に疎いゼイルファーが、認めた。

 シェリーナが愛おしいと。

 シェリーナは自分の頬を両手で包む。顔が熱い。


「俺は君を知っていて、知らなかった」


 両手を下げたゼイルファーが、不思議な言い回しをした。


「それは、わたくしの姿を知ってはいたという話のことですか?」


 看病をした時に聞いていた。そのことを蒸し返すのは何故だろう。

 ゼイルファーは、シェリーナを見つめる。


「違う。言葉としては同じだが、違うのだ」

「それは、どういう?」

「今から、五年前。数名の令嬢を、救ったことがある」


 年数と内容に、シェリーナはハッとした。


「シェリーナ。五年前に君を見た。十二歳の君は、俺を微動だにせず見ていた」

「そっ、そうですね」


 シェリーナが慌てて答える姿を不思議そうに見てから、ゼイルファーは続けた。


「あの時、俺は君が俺を恐れていたのだと思っていた。血に塗れた忌わしさから、目が離せないのだと。だが、違うと今ならわかる」


 そして、シェリーナに微笑む。

 昼間に見せた冷たい笑みではなく、心のこもった温かなものを。


「優しい君は、俺の身を案じてくれていたのだ。だから、あんなにも真摯に見てくれたのだな」


 確信に満ち溢れた眼差しに、シェリーナは声が裏返る。羞恥ゆえに。


「ち、違います。純粋に見惚れていました……」


 シェリーナの言葉に、ゼイルファーは目を丸くし、そして顔を真っ赤にした。


「そ、そ、そうだったのか」

「は、はい」


 しばらく無言が続いたが、沈黙を破ったのはゼイルファーであった。


「シェリーナ」


 シェリーナの両肩に手を置き、しっかりと見つめる。

 あまりにも熱い眼差しに、シェリーナの胸が高鳴った。


「君に、口づけをしたい」

「ゼイルファーさま……」


 婚姻式は、口づけは省かれていた。

 その時のゼイルファーは必要性を感じていなかった。

 だが、今は。

 シェリーナは恥じらうように、こくりと頷いた。

 ゼイルファーの右手が、シェリーナの頬に添えられる。

 頬に震えが伝わり、ゼイルファーの緊張が愛おしいと思う。

 シェリーナは目を閉じた。

 そして、少しだけ冷たさのある感触が、唇へと落とされた。




 ゼイルファーの治世は、安定している。

 六年前に大きな処罰を下した以降、苛烈な裁きに慄いたのか重大な罪を犯す者はいなかった。

 本日の政務も終わり、ゼイルファーは執務室を後にした。

 少しばかり急ぎ足で廊下を進むと、小さな影を見つけ足を止める。


「ヴィンス、どうした?」


 声をかけた相手は、今年五歳になる息子である。

 彼は白銀の髪をさらりとかきあげ、新緑の目を細めた。


「父上、母上の愛を奪ってすまないな!」


 と、ふっと挑発的に笑う。

 ゼイルファーは息子の目線に合わせてしゃがみ、柔らかい頬をぷすっと人差し指で突っついた。


「ふみゃっ」

「お前に、そういうのは似合わない」

「えー!」


 ヴィンスは顔立ちこそゼイルファーに似ているが、シェリーナ譲りの目が優し過ぎる。

 そもそも、まだ子供。

 迫力も、気迫も、全然足りない。


「僕、父上みたいになりたいのに」

「無理だろうな」

「むう」


 むくれる息子に笑いかけ、ゼイルファーは立ち上がる。


「母上に会いに行こうか」

「僕、迎えに来たの!」

「そうか」


 二人は自然に手を繋いだ。

 辿り着いたのは、皇帝の家族が住まう宮だ。

 咲き誇る薔薇園を通り、宮に入れば、遠くからでもわかる泣き声が聞こえた。


「レティは、元気だねー!」

「そうだな」


 ヴィンスが赤子の頃は、もっと凄かったのだが。

 ゼイルファーは口にしなかった。

 父親に憧れるヴィンスは、そこから外れる姿を知ると落ち込むのだ。

 ゼイルファーとしては優しい父親を心がけて接してきたのだが、何故かヴィンスは厳しい皇帝のゼイルファーを目指していた。

 乳母曰く、子供は親が見てほしくない場面こそ見てくるそうだ。

 子育てとは、難しい。


「帰ったよ!」


 子供には重い扉を開ければ、ヴィンスは真っ先に走り出す。


「あっ、おい!」

「きゃっ」


 ゼイルファーと手を繋いだままなのを忘れた息子は、見事に体勢を崩した。

 慌てて抱きかかえると、それが面白いのか、きゃっきゃとはしゃぐ息子。

 はあ、と安堵の息をはきゼイルファーは息子を抱き上げて、室内を見る。

 揺りかごの隣には生まれたばかりの娘につけた乳母がいる。

 そして、ソファーには娘をあやす愛しい妻の姿があった。

 シェリーナは娘から、ゼイルファーたちへと視線を移し、微笑んだ。


「おかえりなさい」

「ああ、ただいま」

「母上ー!」


 賑やかな室内に、笑いが満ちる。

 産後のシェリーナは、一年ほど公務を休む。

 だから、娘を見守っている。

 息子は両親に良く懐き、いつも笑顔だ。

 揺りかごに戻された娘を、息子がにこにこと見つめている。

 ゼイルファーはシェリーナの隣に座った。

 当たり前のように空けられた場所は、ゼイルファーを思ってのもの。


「ああ、愛とはこんなにも幸せなのだな」


 自然と出た言葉に、ゼイルファー自身の心が満たさる。

 シェリーナがそっと体を寄せた。


「わたくしも、幸せです」

「愛しているよ」

「はい」


 二人は、穏やかに微笑み合った。

 もう愛を知らない皇帝はいない。


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