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02ボトムズと古い記憶


「ロー、なぜ一度殴ることを戸惑ったぞな!」

「ごめんなさい! ごめんなさい!」



 ふたつ隣の部屋でヤンが失態を責め、鞭のしなる音が聞こえる。

 ヤンの怒りが増すと同じく煙草の煙が部屋に充満し、隙間から漏れ流れてくる。



「誰が口を開いてよいと言ったぞな!」

「――――っ!」



 バチンッと肉を弾く音が響く。

 痛みを思い出した身体が勝手に強ばる。

 あれ痛いんだよな。でも殺されなかっただけましかな。



「へへへ、ハルクお前はなにもやられないと思っているのか?」



 ヤンの息子――チンがニヤニヤと僕を見つめ答えを待っている。

 わざわざ奴隷の檻まできてなにを言うかと思ったら。

 当然だ。僕はミスをしていない。

 なんならローのミスをカバーしたくらいだ。



「…………」



 しかし、ここでの正解は沈黙。

 『無視するな』と鞭で軽く痛めつけられるだけだからだ。

 下手に会話をすれば因縁をつけられ食事を取りあげられてしまう。


 食事は大事だ。生きるために必要なエネルギーを摂取しなけらば先輩たちのように動かなくなってしまう。


 まあ僕に与えられる食べ物なんて石みたいに硬いパンなんだけどね。唾液で少しずつふやかせば食べられるようになるんだ。



「なんとか言えよ!」



 弱者への攻撃を肯定するようになんの抵抗もなく鞭が振るわれる。


 痛い、がそれだけ。

 骨が折れるわけでも、身を切られるわけでもない。



「お前、俺様を舐めているよな?」



 まずい、いつもならスッキリして帰るパターンなんだよけど怒りの色が増している。


「滅相もございません! チン様に逆らうなんてありえません!」


「口をきくな!」



 鞭を捨てて暴論とナイフを取り出すチン。

 おいおい、刃物はしゃれにならないよ。



「死なない程度にはしてやる」



 天井に届くほどに振り上げられたナイフは一直線に僕の胸へと飛び込んできた。

 殺す気じゃないか!


 死ぬわけにはいかない。


 両脚と右腕のない僕は左腕を乱雑に振る。

 すると偶然ナイフの横腹にあたり、弾きとばした。



「このっ! 抵抗するかっ!」



 壁にあたりキンッと音をならし跳ね返ったナイフはチンの頬を掠めた。



「ひっ! 反逆、反逆だ! 父上に言いつけてやる! 絶対に殺してやる、この世から追放してやる!」



 痛みから逃げるように走っていった。

 かなりまずい。

 息子を溺愛するヤンは僕に罰を与えるだろう。

 でも、僕は看板奴隷だ。左腕だけの奴隷なんて他にいない。僕を殺せば見世物小屋の稼ぎは減る。

 殺されることはない……とは言いきれないか。


 あぁ! 失敗だ! 生きなくちゃ。なんとかチンとヤンが戻るまでにいい方法を考えなくちゃ!



「なあ、おい」



 どうしたらいい? 靴でも舐めるか?



「おい、お前さんにきいとる」

「今、死の瀬戸際なんだあとにして……って、あなたは今日のお客さん?」



 このじいさん覚えているぞ。客席にいた人だ。ギョロ目のじいさん。

 て言うかなんでここにいるの、どっからきた?



「ボトムズだ。ひとつ聞いてもいいか? お前さん、なんで死なん?」



 ボトムズと名乗ったじいさんの奇妙さと同じくらい不思議な質問がとんできた。



「ぬ、伝え方が悪かったか。なぜ自害せん? お前の境遇はひかえめにいって地獄だ。舌を噛みきるほうが楽だろ」

「生きたいからだよ?」



 質問の意図はわからないが答えは決まっている。

 そう僕は生きなくちゃいけない。



「なぜそこまでして生きたいんだ? 三肢を失い。見世物小屋で罵倒され。うまくやっても虐められ。なぜまだ生きたい?」


「――――約束なんだ」



 古い記憶だ。

 世界で唯一、僕に体温をくれた優しい人。その人に『生きて』と言われた。


 男か女かもわからないし、名前も知らないし顔も思い出せない。

 でも命令や利用じゃなく、ただ暖かさを感じる『生きて』をくれた。


 誰にも見向きされない僕だけを見つめる視線はとても暖かくて優しい。


 どんなに世界から否定されたって。


 どんなにバカにされたって。


 どんな目に合おうとも死を選ばなかったのは一重に『生きて』の言葉があったから。


 命の灯に暖められ熱を得た一筋の涙が頬を湿らせる。



「生きなくちゃいけないんだ」


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