古賀峯一長官の苦闘
昭和十八年四月十八日午後五時八分、日本軍中枢を震撼させる電信を東京海軍通信隊が受信しました。通信隊はただちに暗号解読し、その電文を海軍軍令部長および海軍大臣に通報します。
「連合艦隊司令部の搭乗せる陸攻二機、直掩戦闘機六機は、本日○七四○頃、ブイン上空付近において敵戦闘機十数機と遭遇、空戦。陸攻一番機は火を吐きつつブイン西方十一海里密林中に浅き角度にて突入、二番機はモイガの南方海上に不時着せり」
連合艦隊司令長官山本五十六大将遭難の第一報です。国運を賭けた大戦争の最中、突然に飛び込んできたこの重大情報は厳秘とされました。海軍大臣嶋田繁太郎大将は、山本長官の安否を心配しつつも、万が一の場合に備え、連合艦隊司令長官の後任人事を考えました。人事は海軍大臣の所掌です。
四月二十日午後一時過ぎ、第二報が東京に届きました。
「A機生存者なし、遺骸収容中」
A機とは、山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗していた陸攻一番機のことです。ここにおいて山本長官の戦死が確実となりました。意を決した嶋田海軍大臣は人事局長の中沢佑少将を呼び、指示を与え、直ちに横須賀鎮守府に向かわせました。中沢少将は、横須賀鎮守府司令長官の古賀峯一大将に事情を説明しました。古賀峯一大将は起立して、「謹んでお受け致します」と応答し、後任の連合艦隊司令長官に就任することを了承しました。
ことは急を要します。なにしろ戦争の真最中なのです。二十一日、各種の手続きを経て古賀峯一大将は正式に連合艦隊司令長官に親補されました。二十二日、古賀峯一大将は宮中に参内して拝謁し、その決意を言上しました。ただ、機密保持のため親補式は行われませんでした。二十三日を身辺整理についやした古賀峯一新長官は、二十四日、横浜海軍航空隊で飛行艇に搭乗し、海軍根拠地トラック島へ向かいました。翌日の午後三時、トラック島に到着した古賀新長官は旗艦「武蔵」に着任し、次の電報を東京に向けて打電しました。
「本職、本日、将旗を武蔵に掲揚す」
極めて困難な戦局のもと、突然、連合艦隊司令長官となった古賀峯一大将の苦闘がここから始まります。
―*―
トラック島はミクロネシア諸島にある天然の環礁であり、日本海軍の兵站根拠地です。ソロモン諸島のラバウル基地と日本をむすぶ中継地であり、東京まで三千キロ、ラバウル基地まで千三百キロの距離です。そして、アメリカ太平洋艦隊の根拠地ハワイからは五千五百キロ、ギルバート諸島のマキン島までは二千四百キロの距離があります。
古賀峯一大将は寡黙な提督でした。そのため人柄を感じさせるような挿話があまり残っていません。数少ない逸話のひとつは、戦艦と航空機の優位性をめぐって山本五十六と論争したことです。
昭和十年頃、海軍航空本部長だった山本五十六中将は、「戦艦を造っても無駄だ。すべて航空機によって沈められてしまう。戦艦用の資材をつかって航空機を造るべきだ」と航空主兵論を述べ、新型戦艦の建造に反対しました。これに対して軍令部第二部長だった古賀峯一少将は冷静に反論しました。
「航空機によって撃沈された戦艦はまだ一隻も存在しておりません」
結局、この議論には決着がつきませんでした。海軍は、新型戦艦二隻の建造を決めるとともに、基地航空部隊および空母艦上機部隊を充実させる予算を編成しました。このとき整備された戦力が後に大東亜戦争の主力となります。
昭和十六年十二月に大東亜戦争が勃発すると、日本海軍航空隊がめざましい活躍を遂げ、米英海軍の主力艦を撃沈するという快挙を成し遂げました。この実績によって戦艦に対する航空機の優位がはじめて証明されました。先見の明は山本五十六にあったわけです。
しかしながら、開戦から一年半が過ぎた昭和十八年四月の時点では、日本海軍航空隊の優勢は過去のものとなっていました。アメリカ軍は零戦を入手すると直ちに研究し、その弱点を把握するとともに、戦術を工夫しました。また、アメリカ軍の巨大な国力がフル稼働し、莫大な戦力を最前線に供給しはじめました。零戦の能力を上回る最新鋭の軍用機、数々の軍艦、輸送船などが戦線へ投入され、質量ともにアメリカ軍の戦力が日本軍を凌駕していきました。アメリカ軍の重厚な兵站網が豊富な兵員と無尽蔵の物資糧食を供給します。
「アメリカ相手の戦争は、短期決戦でなければ勝ち目がない」
これは開戦前から日本海軍首脳が共有していた認識です。だからこそ山本五十六連合艦隊司令長官は積極果敢な攻勢作戦を続行しました。第一段作戦は順調でした。雌雄を決しようとした第二段作戦はミッドウェイで頓挫しましたが、アメリカ軍の反攻がソロモン諸島のガダルカナル島で始まったことをうけ、戦力を南方へ投入しました。ガダルカナル島に敵主力が存在するからです。これを撃滅することで短期決戦を実現しようと考えたのです。
ガダルカナル島をめぐる戦いは、当初、日本軍が優勢でした。日本海軍は全力を傾けてガダルカナル島のアメリカ軍を攻撃しました。しかし、アメリカ軍はヘンダーソン空軍基地の一角に戦力を集中させて頑強に守り切りました。互角の戦いが半年もつづくと、日本軍は激しい消耗によって戦力を低下させてしまいます。こののち戦勢は徐々に逆転していき、ついに昭和十八年二月、日本軍はガダルカナル島からの撤退を余儀なくされます。
日本軍は攻勢作戦をとり得なくなりました。ガダルカナル島から撤退した翌月、海軍軍令部は連合艦隊司令長官に対して第三段作戦方針を伝達しましたが、その内容は戦線整理、守勢防備、随所撃破という守勢戦略です。これは日本軍にとって敗北の始まりを意味します。
日本軍が守勢に回ると、アメリカ軍の攻勢が時間の経過とともに強まりました。日本軍は、ソロモン諸島中部の戦線を維持するだけで精一杯です。山本五十六長官は、「い」号作戦を実施して戦勢の挽回を図りましたが、必ずしも充分な戦果をあげることができませんでした。そして、最前線基地視察の途上、アメリカ軍機に襲撃され、戦死したのです。
この苦しい戦況下、トラック島に着任した古賀峯一新長官は作戦会議を繰り返しました。楽観的な見通しはまったく立ちません。ソロモン諸島、ニューギニア、マーシャル諸島、ギルバート諸島、アリューシャン方面など、いずれの方面でもアメリカ軍が攻勢をとっており、日本軍の基地が空襲や艦砲射撃を受けています。日本軍は反撃どころか、各地の基地に対する輸送すらなかなか成功させることができません。日本軍の劣勢と防備の手薄さが目立ちました。連合艦隊司令部の参謀たちがどんなに知恵を絞っても、圧倒的な戦力差を埋める方策は案出できないのです。
それでも戦いはつづきます。寡黙な古賀峯一新長官が悲壮な訓示をしたのは五月八日です。
「日本海軍の兵力は米海軍のそれの半量以下で、勝算は三分の一もない。しかし、戦史には寡兵よく衆兵を打ち倒す戦例が少なくない。連合艦隊は活路を見出すためにマーシャル、ギルバート方面で、玉砕を覚悟で艦隊決戦を行う」
古賀峯一新長官が悲壮な決意を表明した四日後、日本軍中枢を緊張させる事態が発生しました。はるか北方のアッツ島にアメリカ軍が上陸したのです。これより先、アメリカ軍はアッツ島およびキスカ島に対する空襲と艦砲射撃をくり返していましたが、遂にアッツ島に上陸してきました。
攻勢に転じたアメリカ軍は、攻撃の力点を自由に選ぶことができます。守勢の日本軍は、いちいち対応に追われます。古賀峯一新長官は、万が一に備えて帝都防衛の態勢を整えます。航空部隊再建のため内地に帰還させてあった第三艦隊を関東に集中させるとともに、基地航空部隊の一部を北方部隊に編入させました。そして、みずからも主力艦隊の一部を率いて五月十七日にトラック島を出港し、東京へ向かいました。
五月十二日にアメリカ軍がアッツ島に上陸して以来、陸海軍の作戦中枢は協議を重ねていました。当初は、アッツ島とキスカ島を確保し、あわよくば艦隊決戦を生起させて敵軍を壊滅させるという方針でした。しかし、連合艦隊の航空部隊は「い」号作戦実施の直後であり、戦力が消耗していました。また、南洋方面の動静が気になり、戦力を北方に集中させることには大きな懸念が伴いました。さらに北方海面は天候の変化が激しく、濃霧と激浪が頻繁に発生するなど決戦場としては不適です。これに燃料不足という足枷が加わりました。アッツ島への空中降下作戦や上陸作戦など積極的反撃作戦が検討されたものの、結局、第二のガダルカナルになりかねないという恐怖があり、成算の薄さから、五月十八日、「アッツ島への増援作戦は見込みなし」と判定するに至りました。
翌日、キスカ島に関しては守備隊の撤退方針が決定され、以後、撤退方法の具体的な検討が進められました。
古賀峯一新長官の率いる旗艦「武蔵」以下の艦隊が木更津沖に到着したのは五月二十二日です。戦艦「武蔵」に安置されていた山本五十六前長官の遺骨が東京水交社に移され、連合艦隊司令部の参謀交代が実施されました。
すでにアッツ島放棄、キスカ島撤退の方針が大本営によって決められていました。しかし、アッツ島周辺海域に所在するアメリカ艦隊との決戦については可能性が残っています。
新陣容を整えた連合艦隊司令部は、五月二十四日、軍令部員および第三艦隊幹部を集め、「武蔵」艦上で北太平洋作戦の協議を行いました。その骨子は、アッツ島周辺海域に所在する空母四隻を基幹とするアメリカ艦隊に対して、わが第十二航空艦隊と第三艦隊が攻撃を加え、撃滅するというものです。
しかしながら、会議では作戦遂行上の注意事項が数多く指摘されました。北方海域の気象は変化が激しく不利であること、濃霧の多発する海域では電探装備を有するアメリカ軍が有利であること、敵潜水艦が脅威であることなどです。また、実施部隊である第十二航空艦隊と第三艦隊からは、演練不足と燃料不足の現状が報告されました。このため、奇襲の成功が見込める場合に限って作戦を実施することとされました。
アッツ島では日本軍守備隊がアメリカ軍によって徐々に圧迫されつつありました。その窮境は毎日の戦況報告に明らかです。しかしながら、連合艦隊は戦機をつかめぬまま、戦況を眺めるほかありません。戦力の不足している現状では動くに動けないのです。
五月二十九日午前、古賀峯一連合艦隊司令長官はついに断を下し、出撃中止の命令を発しました。
「機動部隊の北太平洋作戦参加を取り止む」
機動部隊とは航空母艦を主力とする第三艦隊のことです。そして、機動部隊の錬成を急がせるとともに、キスカ撤退作戦のため潜水艦部隊の全力を北方海域に投入することを下令しました。
同日の午後、アッツ島守備隊から悲痛な電報が届きました。
「敵に最後の鉄槌を下して殲滅、皇軍の真価を発揮せんとす」
アッツ島守備隊は全滅しました。
六月七日、連合艦隊と海軍軍令部は今後の作戦について協議しました。その際、誰もが頭を悩ませたのは、連合軍の攻勢方面の判定が困難なことでした。アメリカ艦隊が北方アリューシャン方面から南下してくるのか、ソロモン方面から北上進撃してくるのか、あるいはマーシャルやギルバートなどの東方から進攻してくるのか、はたまたイギリス海軍とともにインド洋方面から来寇するのか、予断を許しませんでした。
結局、連合艦隊司令部としては、麾下艦隊の錬成を促進させ、八月にトラック島に集結させる方針を決めることができただけでした。あとは敵軍の出方次第です。守勢戦略をとらざるを得ないため、こうするほかありません。また、現状における輸送作戦の困難が指摘されるとともに、敵を守勢に陥らせるような新型爆撃機が欲しいとの要望が出されました。
―*―
古賀峯一連合艦隊司令長官は旗艦「武蔵」に坐乗したまま瀬戸内海にとどまり、空母機動部隊および基地航空部隊の錬成を督促しつつ、全般的な戦況を注視して指揮をとり、海軍軍令部との作戦協議に日を費やしました。
「玉砕を覚悟で艦隊決戦を行う」
と決意を表明した古賀長官でしたが、海上決戦の主力となるべき空母機動艦隊の再建が途上である以上、いまは隠忍自重するほかありません。
この間、最前線の中部ソロモンとニューギニアでは戦闘がつづいています。大規模な海空戦こそないものの、日米は絶え間なく戦っています。互いの基地を空襲し合い、艦砲射撃の応酬を交わします。日本軍が輸送を実施すれば、アメリカ軍がこれを妨害します。日本軍が飛行場や基地を建設すればアメリカ軍がこれを爆撃します。小競り合いではあっても命がけの攻防です。
その小競り合いが重大事態に変わったのは昭和十八年六月三十日です。このころソロモン方面における日本軍の最前線基地は、ソロモン諸島中部のニュー・ジョージア群島にありました。その一角たるレンドバ島にアメリカ軍が上陸したのです。
ニュー・ジョージア諸島からおよそ七百キロ北のラバウルに日本軍基地があり、南東方面艦隊と第八方面軍の司令部があります。そのラバウルに報告電がとどきます。南東方面艦隊と第八艦隊は直ちに反撃を開始するとともに、中央に事態を急報しました。さらに南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、関係各部に電報を発して決意を表明しました。
「現戦線を死守せんとす」
連合艦隊司令部は、呉軍港に在泊中の旗艦「武蔵」艦上にありましたが、直ちに増援部隊に出撃を命じました。
陸軍第八方面軍司令部はニュー・ジョージア諸島の防衛作戦計画を策定し、協議のため南東方面艦隊司令部に参謀を派遣しました。レンドバ島に上陸してきたアメリカ軍を撃滅するためには一個師団の兵員物資を同島に輸送せねばなりません。そのため、どうしても海軍の協力が必要になります。陸軍は、巡洋艦および駆逐艦による艦艇輸送を希望しました。迅速な輸送が可能だからです。ところが南東方面艦隊司令部は難色を示し、海トラおよび大発による輸送を提案しました。海軍は、輸送任務による艦艇の喪失を恐れました。すでに数多くの駆逐艦と潜水艦が輸送任務のために沈んでおり、これ以上の損耗がつづくと艦隊行動に影響を及ぼすからでした。しかし、陸軍にしてみれば、小規模舟艇による鈍足輸送では一週間ほどの時間が必要となり、戦機を逃してしまいます。結局、協議では意見が一致しませんでした。
七月一日、南東方面艦隊司令長官草鹿中将は、戦力不足の実情を訴える電報を連合艦隊司令部に打電しました。
「本日、当艦隊の使用可能機数、零戦三十五機、中攻十機、艦爆六機、偵察二機、陸軍機の協力折衝中なるも重爆十数機を主力とする小兵力のほか期待しがたし」
これが日本軍の実情でした。草鹿司令長官は堅固な決意を有していましたが、その決意を実現する戦力がありません。陸軍の希望する艦艇輸送を渋ったのも艦艇の損耗が激しかったからです。猛将で知られた草鹿任一中将の切歯扼腕を想像すべきでしょう。
寡黙で知られた連合艦隊司令長官古賀峯一大将とて同じことです。決死の覚悟はあるものの、戦力が伴わないのです。その冷静な風貌の内側には満腔の無念があったに違いありません。
日本軍の反撃が微弱なため、アメリカ軍はレンドバ港に輸送船五隻、駆逐艦四隻、魚雷艇十隻を入港させ、重砲を含む資材の揚陸を開始しました。
七月二日、レンドバ島のアメリカ軍は早くも重砲隊を稼働させ、ニュー・ジョージア島ムンダにある日本軍飛行場への砲撃を開始しました。
同日、呉軍港の連合艦隊司令部は、航空母艦を主力とする第三艦隊にトラック島への進出を命じました。予定よりも一ヶ月早い出撃となり、その分だけ錬成が不充分となりますが、事態は急迫しており、やむを得ませんでした。
ラバウルでは陸海軍の作戦協議がつづいています。陸軍は従来の主張を改め、レンドバ島の奪還をあきらめ、ニュー・ジョージア島ムンダとコロンバンガラ島の防備を固めるべきだと主張しました。
七月三日、第八方面軍と南東方面艦隊は協定を結びました。レンドバ島への艦艇輸送を渋った海軍は、ニュー・ジョージア島およびコロンバンガラ島への艦艇輸送には同意し、駆逐艦八隻を出動させることに同意しました。
七月四日、駆逐艦四隻がコロンバンガラ島へ向かいましたが、敵艦隊と遭遇してしまい、交戦状態となったため輸送を断念しました。
七月五日、駆逐艦七隻からなる艦艇輸送が実施されましたが、やはり敵艦隊と遭遇したため交戦状態となりました。それでも半数以上の陸軍部隊は上陸に成功しました。
この間、ラバウルの基地航空部隊は増援を得て百数十機の戦力を整え、アメリカ軍に対する空襲を反復しました。しかし、必ずしも充分な打撃を与えることができませんでした。
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七月十日、第三艦隊第一航空戦隊の空母「瑞鶴」、「翔鶴」、「瑞鳳」が小沢治三郎中将に率いられて瀬戸内海を出発し、トラック島へ向かいました。充分に錬成できぬままの出撃です。第三艦隊は、十五日、無事にトラック島に入泊しました。
中部ソロモンの最前線では日米間の攻防が絶え間なくつづいています。陸軍の作戦中枢では中部ソロモンの防衛作戦が繰り返し検討されていましたが、徐々に中部ソロモンからの撤退論が台頭してきました。もともと陸軍には、広大すぎる戦面を縮小したいという欲求がありました。また、ガダルカナル島で苦戦した忌まわしい記憶があり、海軍に対する信頼も揺らいでいました。いっそ中部ソロモンから撤退してブーゲンビル島に強固な防衛線を築きたいと考えたのです。
七月十六日、連合艦隊参謀長福留繁中将は部下とともに上京し、海軍軍令部との協議に臨みました。古賀峯一連合艦隊司令長官の決意を伝えるためでした。
「いまや国家的な重大決意をなすべき時である。アメリカ軍の反攻に対抗するため、連合艦隊は全力を南東方面に注入する決心である。その際、海軍のみが全兵力を傾けて戦い、陸軍がついてこないようでは困る。全戦力発揮のため陸軍も国家も南東方面に全力を傾注する決意を固めて欲しい」
今が最後の戦機である、というのが古賀長官の考えでした。アメリカ海軍の半分の戦力を有する今が最後の機会です。この機を逃せば戦力差がますます広がってしまい、決戦を生起させることは不可能となり、一方的に蹂躙されてしまいます。だから、この際、陸軍と政府にも決断を促し、中部ソロモンで最後の決戦を実施するべきであるという意見具申をしたのです。
これに対して海軍軍令部がどのように応答したのか、記録が残っていません。おそらく海軍軍令部が陸軍や政府を説得するのは不可能だったでしょう。すでに海軍は数度の敗北を喫しており、信頼を低下させていたからです。
これに加え、陸軍と海軍には根本的な戦術思想の差異がありました。海の戦いには持久戦とか焦土作戦というものがありません。艦隊決戦の勝者は、自動的に制海権を得て、海上を進撃し、一挙に敵国の本拠に突進することが可能です。これに対して陸の戦いには持久戦、焦土作戦、防衛戦という発想があり得ます。幾重にも防衛線を構築しておき、敵の進撃を防ぎつつ撤退し、敵に消耗を強いておき、一挙に反撃するのです。
つまり、海軍の発想では中部ソロモンこそが最後の決戦場でしたが、陸軍の発想ではまだ前哨戦の段階でした。陸軍は本土決戦をさえ秘かに検討していましたから、むしろ中部ソロモンからの撤退を考え始めていたのです。
結局、古賀長官の決意はウヤムヤのままに据えおかれ、大本営の作戦指導に影響を与えることができませんでした。
ちなみに、七月十五日の戦況奏上の際、昭和天皇は「何れの時機が決戦か、わからぬ」との御言葉を発せられています。いつ、どこで、どのように決戦を生起させるべきか、それは全日本を悩ませた難問だったのです。
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七月二十九日、キスカ島撤退作戦が無事に終了し、キスカ島守備隊の全員が帰還しました。この報告は重苦しい日本軍首脳の焦眉をわずかに開かせました。しかしながら、中部ソロモンの戦況は依然として厳しいままです。
古賀峯一連合艦隊司令長官は、七月三十一日、主力艦隊を率いて瀬戸内海を出発し、トラック島へ向かいました。トラック島に到着したのは八月五日です。
日本軍中枢は、決戦を決断することもできず、さりとて撤退に踏み切ることもできぬまま中部ソロモンに増援戦力を投入し、アメリカ軍の進攻をなんとか食い止め、戦線を維持していました。ラバウルに本拠をおく第八方面軍、南東方面艦隊は懸命に戦い、敵艦船に対する空襲、航空撃滅戦、輸送作戦などを繰り返し、ニュー・ジョージア島とコロンバンガラ島を確保しつづけました。後方からの増援により、戦力はそれなりに充実しましたが、激しい消耗が戦力を急速に低下させていきます。
このままズルズルと消耗戦を続けるわけにはいきません。陸海軍首脳は、八月十三日、中部ソロモンに関する協定を結び、作戦方針を決定しました。その内容は、当面、現戦線を維持しつつ、九月下旬までに後方基地の防備をかため、十月上旬に中部ソロモンの部隊を後方へ転進させるというものです。
この協定は大海指第二百六十七号により連合艦隊司令長官に達せられました。この協定の主旨説明のため、トラック島の連合艦隊司令部を訪れたのは海軍軍令部参謀榎尾義男中佐と陸軍参謀本部参謀晴氣誠少佐でした。このふたりに対し、古賀峯一長官はいつになく強い口調で不満をぶつけました。
「中央は、兵力の出し方を知らぬ。出し遅れである。ラバウル、ニューギニアを失って、トラックに艦隊が居られると思うか。トラックに艦隊が居られない場合、太平洋作戦をどうするのか。やれる者があるというなら代わってやるから、やってみよ。陸軍は弱い。紙の上で妥協してはいかん。このような協定は実施部隊としては受けとれぬ。陸軍参謀総長はソロモン確保と明言したではないか。なぜ陸兵を出さぬ。陸軍の航空兵力も出すべきだ。いずれにしても自分は陛下の御信任を得ているので死ぬまでやる覚悟だ」
古賀長官は、中部ソロモンでの決戦にこだわりました。いまここでやらねば決戦の機を永久に失うという切迫感が古賀長官にはあります。たとえ勝算は三割しかないとしても、対米五割の戦力を有しているいまのうちに決戦すべきでした。いまやらないと、日米の戦力差が格段に開いてしまい、手も足も出なくなるからです。
また、トラック島は日本海軍の兵站根拠地ではあるものの、ハワイやシンガポールのような要塞島ではありません。砲台も地下施設もない無防備な環礁にすぎないのです。ちなみに日本軍は太平洋方面にただのひとつも要塞島を有していませんでした。したがって、ソロモンとニューギニアが敵手に落ちれば、必然的にトラック島を失うこととなり、海軍は太平洋の根拠地を失います。そうなれば太平洋で戦いたくても思うように戦えなくなります。ただでさえ勝算が薄いのに、ますます勝算が立たなくなるのです。寡黙な提督が珍しく鬱憤を爆発させた理由はここにありました。
とはいえ、大本営にしてみれば、中部ソロモンでの決戦には踏み切れなかったでしょう。決戦の決断とは、裏面から言えば、負けた場合には降伏するという覚悟です。日本本土から遙か彼方にある中部ソロモンで敗北したからといって即座に降伏できるものではありません。その意味で軍中央の決定は常識的でした。しかし、常識的な戦いで圧倒的なアメリカ軍に勝てるかといえば、そうではなかったでしょう。
結局のところ日本軍は決戦の機をつかめぬまま終戦を迎えることとなります。
―*―
八月十五日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、連合艦隊第三段作戦命令を発令しました。第三段作戦命令は、本来ならもっと早く発令されるべきものでしたが、山本前長官とともに連合艦隊司令部参謀が遭難したため、策定が遅れていました。また、戦況が大きく変化しており、戦い方を根本から変更する必要がありました。
第三段作戦の主題は次のとおりです。
「連合艦隊海上兵力の大部は之を内南洋方面に集中し、敵艦隊邀撃に備え、その来攻を見るときは、全力をあげて之を反撃撃滅す」
命令文こそ勇壮ですが、随所に連合艦隊の苦境を思わせる文言が含まれています。
「我が戦力の充実を待って攻勢に転じ」
裏を返せば、現状では戦力が不充分ということです。
「要域を確保す」
明らかに攻勢ではなく、守勢作戦であることがわかります。
「各部隊は作戦を実施しつつ訓練を励行し、戦力を錬成す」
訓練は作戦とはいえません。しかし、四項目ある作戦方針のうちの一項を占めています。いかに訓練不足に陥っていたかがうかがわれます。
連合艦隊が守備すべき海域は極めて広大です。北はアリューシャン方面から南は南太平洋、西はアフリカ沿岸をふくむインド洋、東は太平洋全域です。米英蘭を相手に開戦した以上、これらの広大な海域に目配りし、限りある戦力を配置せねばなりません。古賀峯一連合艦隊司令長官の戦いは、理想からほど遠い条件下での苦闘であったことがわかります。
肝腎の海上戦力は、空母機動部隊たる第三艦隊を主力とし、戦艦部隊の第一艦隊、巡洋艦を主力とする第二艦隊、潜水艦を主力とする第六艦隊です。また、基地航空部隊は、第十一航空艦隊と第十二航空艦隊が主力です。
そして、古賀峯一長官が希求した決戦は「Z作戦」に表現されています。
「太平洋正面において敵艦隊攻略部隊来攻する場合、連合艦隊は同方面集中、兵力の全力をあげて之を邀撃撃滅す」
トラック島を策源地として、いかなる方面からアメリカ艦隊が侵攻してきても対処できるように綿密な作戦方針が立てられました。机上作戦としては完璧に見えましたが、想定どおりにいかないのが戦いです。仮に、アメリカ艦隊がZ作戦の想定どおりに行動したとして、それでも日本海軍の勝算は三割です。古賀峯一長官の胸中は決死の覚悟だったに違いありません。
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中部ソロモンからの撤退を決めた大本営は、八月三十日、ニューギニアのラエおよびサラモアからの撤退を令します。戦線を縮小してブーゲンビル島とニュー・ブリテン島を守り抜き、ラバウル基地を守り抜こうと考えたのです。
九月に入るとアメリカ軍の機動部隊が動き出しました。米機動部隊は、九月一日からニ日にかけて南鳥島を空襲しました。さらに九月十九日、ギルバート諸島(マキン島およびタラワ島)に来襲しました。
連合艦隊司令部は全艦隊に警戒を発令し、Z作戦発動の機をうかがいました。古賀峯一長官は連合艦隊の主力を率いてトラック島を出撃し、北上してブラウン環礁に進出して戦機を伺いました。しかし、敵情を得られず、二十五日にトラック島に帰着しました。
このときの出撃によりトラック島の石油備蓄がほとんどなくなりました。石油の心配をしながら戦わねばならないのです。燃料の問題は、連合艦隊の足枷となりつづけます。
昭和十八年九月三十日、御前会議において「今後採るべき戦争指導の大綱」が採択されました。いわゆる絶対国防圏構想にもとづく戦略方針です。
この採択に先立ち、海軍軍令部参謀はトラックおよびラバウルへ飛び、連合艦隊、南東方面艦隊、第八艦隊などに説明を実施しました。その際、古賀峯一連合艦隊司令長官はいくつかの不満を述べています。まず、陸軍の消極姿勢を批判しました。この裏返しが古賀長官の早期決戦構想です。また、古賀長官はニューギニアおよび中部ソロモンからの撤退に不満です。その理由は、すでに述べたとおりです。ソロモンとニューギニアを失えば必然的にトラック島を失うからです。さらに古賀長官は、インド洋方面の防衛を陸軍が真剣に考えるべきだと主張しました。
「艦隊で西も東もということはできぬ」
連合艦隊参謀長の福留繁中将は、絶対国防圏にマーシャル諸島およびギルバート諸島が含まれていないことを批判しました。連合艦隊は、まさにこの海域での決戦を目指しているのです。それをなぜ国防方針に盛り込んでくれないのかという不満です。
「マーシャル、ギルバート海域は、海空戦に有利な戦場であり、とくにギルバート方面では米機動部隊との決戦が期待できる。この海域を失えば、トラック島は連合艦隊の前進根拠地たる機能を完全に喪失し、決戦兵力はフィリピン、パラオまたは内地に後退を余儀なくされる。そうなれば海上決戦は実施すら不可能になる」
この時期は、日本軍の戦争指導上の転機でした。開戦当初、太平洋方面の対米作戦は海軍が担当しており、陸軍は助攻的に支援するのみでした。よって、南方作戦終了後、陸軍は部隊を支那大陸へ転用し、支那方面の作戦に傾倒していきました。ところが、昭和十七年八月以後、ガダルカナル島でアメリカ軍の反攻が始まり、陸軍は戦略単位の兵力を太平洋方面に出すこととなりました。陸軍にとっては予定外のことです。しかも、ガダルカナル島では苦闘の末に大損害をこうむりました。加えて、海軍が輸送作戦を成功させ得ないことに気づき、海軍に対する信頼度を徐々に低下させていきました。その後、陸軍はソロモン諸島やニューギニア方面に多くの兵団を送り込むこととなり、さらには陸軍航空隊を大陸から南方へ転用するまでになりました。こうなると太平洋方面作戦の主導権が次第に陸軍主導になることは自然の趨勢だったといえるでしょう。このため、開戦当初からの短期決戦構想にあくまでもこだわる古賀峯一長官の意思が「今後採るべき戦争指導の大綱」に反映されなかったのです。
なお、第二十六航空戦隊司令官が軍令部参謀に述べた意見が記録に残っており、当時の空戦の苦しい実情を端的に後世に伝えています。
「積極的に作戦してもすぐ兵力がなくなる。消極的になってもいずれはなくなる。結局、補給を続けてくれなければ自滅のほかなし。損耗補充戦、補充の早い方が勝つ」
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連合艦隊を悩ませたのはアメリカ海軍だけではありません。インド洋にはイギリス海軍が存在しており、イタリア降伏後、盛んに活動しはじめています。英米両国を敵に回してしまった以上、日本軍は両国の艦隊と闘わねばなりません。そこで軍中央はイギリス艦隊が侵攻してきた場合に備え、新作戦を策定し、九月二十五日、Y作戦を発令しました。
「第三段作戦期間中、インド洋正面において敵攻略部隊、艦隊支援下に大挙来攻する場合、連合艦隊は集中可能の全兵力をもって之を邀撃撃滅す」
しかしながら、連合艦隊司令部のみならず、軍令部を悩ませたのは、英米両艦隊が同時に侵攻してきたらどうするか、という問題でした。連合艦隊はワンセットしかありませんから、同時両面作戦は不可能です。ただでさえ劣勢な戦力を二分すれば、各個に撃破されてしまいます。
「東西いずれに備えるべきや」
この問題に海軍軍令部も連合艦隊司令部も頭を悩ませました。
「決戦場が東か西かを中央より明示して欲しい」
これが連合艦隊司令部の要望です。その苦衷は海軍軍令部にもわかりました。
「連合艦隊に東西二正面作戦をやらせることになった」
海軍軍令部は、インド洋方面の防備を陸軍航空隊にまかせたい意向でした。しかし、海上部隊を持たない陸軍にとってこれは無理な課題です。結局、結論は出ません。
十月十五日、古賀峯一連合艦隊司令長官は、参謀副長小林謙五少将を東京に出張させ、軍令部の意向を確かめさせました。
「連合艦隊は東西いずれに備えるべきか、中央の明確なる方針を承りたい。インド洋正面には切迫する情報はない。むしろ、東の方に大規模の作戦があると考える。Y作戦よりZ作戦の方が早いと判断している。連合艦隊としては両面に備えていては成算が立たない。YとZといずれに備えるべきか、大局的見地から軍令部に決定してもらいたい。YにせよZにせよ、備えるためには時間を要する。ZよりYに、YよりZに転換するには相当の決意と時間を要す」
小林少将は問いました。軍令部は数日間の検討を経て、九月十八日、回答を出しました。
「米海軍は日本艦隊撃滅を企図しおる算、大なり。東正面では一歩一歩退くような作戦は地勢上とりえない。戦力は集中すべきであって、任務がふたつあるとき、実施部隊は非常に迷うこととなる。両正面から侵攻を受けた場合、西方よりは東方がむしろ痛い。島嶼の防備は弱い。連合艦隊が東正面より抜ければ、南東方面に対する補給さえ不可能となる。よって、Z第一、Y第二の基本体系のもとに、連合艦隊は当面、東に専念せよ」
これでようやく連合艦隊の腰が定まりました。敵と戦う以前に、味方との意見調整もじつに厄介なことでした。
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昭和十八年十月六日、ウェーク島に対してアメリカ軍の空襲と艦砲射撃が実施されました。この攻撃は翌日にも続行され、ウェーク島の日本軍守備隊は大きな損害を被りました。明らかに米機動部隊による攻撃です。
連合艦隊司令部は警戒を発令するとともに、敵艦隊の動静に注目しました。ウェーク島はトラック島の北東およそ二千キロに位置します。
その後、米機動部隊の所在は不明となりました。連合艦隊司令部は情勢を静観し、トラック島にとどまりました。すると十月十二日、ソロモン諸島北部のラバウル基地に対してアメリカ軍の大規模な空襲がありました。三百機を超える大編隊による空襲です。従来にない大空襲だったため、連合艦隊司令部の神経はソロモン方面に振られました。ところが、十月十六日、海軍軍令部より警報が届きます。
「敵機動部隊、大挙ハワイ出撃、ウェーク島方面に来襲の気配濃厚」
ここにおいて、十月十七日、古賀峯一連合艦隊司令長官は虎の子の決戦艦隊に出撃を命じました。戦艦「武蔵」、「大和」、「長門」、航空母艦「瑞鶴」、「翔鶴」をはじめとする堂々たる艦隊です。
決戦する覚悟で出撃した連合艦隊でしたが、敵機動部隊を発見することができません。やむなくブラウン環礁に停泊して動静を探りました。十月十九日、潜水艦の艦載機が危険を犯してハワイ真珠湾の偵察飛行を実施したところ、米空母六隻の所在を確認できました。この通報を受けた連合艦隊は、決戦をあきらめ、索敵と訓練を実施しつつ帰途につきます。
すると、十月二十四日、ラバウル基地が再びアメリカ軍機による大空襲に襲われ、多数の損害を被りました。翌二十五日、第八艦隊司令長官鮫島具重中将は「敵上陸の算大なり」との警報を発します。このため連合艦隊司令部はトラック島への帰還を急ぎ、十月二十六日に帰着しました。例によって、トラック島の石油タンクはカラに近い状況となっており、連合艦隊の行動が拘束されました。
翌二十七日、アメリカ軍は、ブーゲンビル島タロキナ岬の沖にあるモノ島に上陸しました。モノ島には二百名弱の日本軍守備隊が配置されていましたが、「敵上陸開始、我れ、交戦中」との電報を発した後に沈黙しました。事態を確認した第八艦隊司令部は、「敵大部隊、モノ島に上陸を開始せり」と打電しました。
アメリカ軍は、ラバウル基地に大規模な空襲を繰り返した後、ブーゲンビル島沖の小島に上陸してきました。あきらかにアメリカ軍の侵攻です。しかも上陸してきたということは、輸送船団はもちろん、輸送船を護衛する空母艦隊が周辺海域に出動しているはずです。
同日、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、「第三邀撃作戦」を発動し、第一基地航空部隊に攻撃を命じました。
古賀峯一連合艦隊司令長官は、臍を噛んだに違いありません。まさに決戦の好機です。しかし、連合艦隊はウェーキ島方面に出撃した直後であり、燃料がありませんでした。待ちに待った決戦の好機に艦隊を出撃させられないのです。
同日、ラバウル基地の第十一航空艦隊司令部は、連合艦隊司令部に対して現有航空兵力保有量を報告し、その実働機数が百三十四機に過ぎないことを伝え、増援を要請しました。
十月二十八日、古賀峯一連合艦隊司令長官は重大な決断をします。空母機動艦隊の艦上機部隊を一時的に第十一航空艦隊の指揮下に編入し、ラバウルの基地航空部隊を増強してアメリカ艦隊に攻撃を加えることとしたのです。すなわち「ろ」号作戦の発動です。
これは古賀長官の発意による独自の決断でした。命じられた空母艦上機部隊にとっても、通報を受けた海軍軍令部にとっても唐突な決断です。しかし、古賀長官は戦機到来と判断したのです。命令を受けた第三艦隊司令部は、十月三十一日、ラバウルに進出しました。
十一月一日、アメリカ軍はブーゲンビル島タロキナ岬に上陸しました。同方面の日本軍守備隊はあまりに少数で、鎧袖一触に撃退されてしまいました。
ラバウルの基地航空部隊は数次にわたりアメリカ艦隊と輸送船団に攻撃を加えましたが、アメリカ軍機の反撃に遭い、敵を撃退することができません。アメリカ軍は師団規模の物資兵員を上陸させ、橋頭堡を確保します。
同日、かねてラバウル進出を命じられていた空母「瑞鶴」、「翔鶴」、「瑞鳳」の艦上機部隊が、トラック島からラバウル基地への移動を開始しました。一日から三日にかけてラバウルの各飛行場に空母艦上機部隊百七十三機が進出しました。その主力は零式艦上戦闘機、九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機です。いずれも開戦時の機種です。アメリカ軍の軍用機が開戦時の機種から新型機に刷新されていることに比べると、日米の国力の差異に思いをめぐらせるほかありません。
そして、十一月二日以降、ラバウルに進出した空母艦上機部隊は、基地航空部隊とともにブーゲンビル島沖のアメリカ艦隊および輸送船団に対して航空攻撃を反復します。二日、三日、五日、六日、八日、十日、十一日と、昼夜の別なく攻撃をくり返しました。
古賀峯一連合艦隊司令長官は、十一月一日、もうひとつの決断を下します。重巡洋艦七隻、軽巡洋艦一隻、駆逐艦四隻からなる遊撃艦隊をラバウルへ進出させたのです。この命令も古賀長官独自の判断です。燃料不足の折にもかかわらず、また、ラバウルが数度の空襲を受けているにもかかわらず、あえて水上遊撃部隊に出撃を命じたのです。古賀長官の並々ならぬ決意が感じられます。遊撃艦隊は栗田健男中将に率いられ、トラック島を出撃しました。
栗田中将率いる遊撃艦隊は十一月五日にラバウルに到着しました。同艦隊はラバウル港に入ると直ちに給油作業を開始して作戦に備えました。陸軍部隊をタロキナ岬に逆上陸させる作戦を海上から支援する予定です。しかし、給油中、アメリカ軍の空母艦載機に襲われました。基地航空部隊が迎撃のために舞い上がります。遊撃艦隊の各艦は給油を中止して、港外に退避していきます。幸い、撃沈された艦艇はありませんでしたが、九隻が小破の被害を受けました。南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、重巡洋艦の喪失を懸念し、逆上陸作戦への遊撃艦隊の参加をとりやめ、直ちにトラック島へ帰投するよう命じました。
重巡部隊を退避させた草鹿中将は、敵空母艦隊に対する航空攻撃を企図し、索敵を命じます。幸い敵艦隊を発見することができました。そこで艦上攻撃機十四機による薄暮攻撃を実施しました。この攻撃により、空母二隻撃沈、巡洋艦二隻撃沈の戦果が報告されました。この戦果は、同日中に大本営から発表され、国内世論を沸かせました。
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そんな頃、トラック島では海軍軍令部と連合艦隊司令部との間で三日にわたる協議が行われていました。古賀長官が独自の判断で「ろ」作戦を決定したことをうけ、軍令部は意思統一の必要を感じ、軍令部次長長伊藤整一中将以下数名を派遣したのです。古賀長官は「ろ」号作戦実施に踏み切った理由を説明します。
「中央の持久方針はわかっている。そのうえで空母艦上機部隊を投入した理由は、現下の情勢を放任できなかったからである。このままでは来年までさえ持久できぬ。悪くすれば今年いっぱいも危なく、総崩れになる公算さえある。どう考えても今が戦機である。敵の反抗の出鼻を叩いて、一頓挫させねばならない。中央にもご了解を願いたい」
伊藤軍令部次長は反論しません。
「事情はよくわかっております。それにしても空母艦上機部隊を投入した以上、どこまでやるおつもりですか」
「まずは敵の出鼻を挫いて上陸作戦を頓挫させたい。そして、陸軍部隊の増援輸送を成功させ、持久態勢を整えることだ。まずは十日、十日もやればそうとうやれる。むろん人員の三分の一は損耗するだろう。しかし、残った三分の二で再建すれば、三ヶ月で空母艦上機部隊は元に戻る。このトラック島で、再建しつつ、Z作戦に応じるつもりだ」
伊藤軍令部次長は理解を示します。
「空母艦上機部隊の再建には中央は全面的に協力する。半分残れば、三ヶ月で再建できる。やった以上はしっかりやるべし。たとえ三分の二を失ってもしかたがない。後のことは過度に心配せず、思い切りやってよい」
「それを聞いて安心した」
「とはいえ、空母艦上機部隊をソロモンへ投入してしまったからには、中部太平洋方面をどうするか。当面、空母艦上機部隊の予備はない。内地とシンガポールで錬成中ではあるが、とても使えない」
「敵が中部太平洋に押してきたら、現有戦力で何とかする。マーシャルおよびギルバート諸島の守備隊将兵を失望させたくない。Z作戦はどうしてもやる。錬成中の空母艦上機部隊は、発艦さえできればいい。発艦できるなら使う」
ブーゲンビル島沖の戦果に浮かれる様子など微塵も感じられない深刻なやりとりです。
十月九日、ラバウルの海軍航空隊は索敵を実施し、午前と午後に敵艦隊を発見しました。そこで、昼間と薄暮の二度にわたり攻撃隊を出撃させました。その結果、戦果判定は難しいながらも、生還した搭乗員の報告を総合すると大きな戦果があったものと推定されました。南東方面艦隊司令部は備考を付して戦果を報告しました。
「戦果に関しては正鵠を期し難し」
この備考にこそ海軍の良心があったと言えます。しかし、大本営は、第二次ブーゲンビル島沖航空戦の戦果として数字だけを発表しました。戦艦三隻、巡洋艦二隻、駆逐艦三隻、輸送船四隻を撃沈したという内容です。この大戦果に日本国内は大いに沸きました。
十一月十一日、昭和天皇の勅語が発せられました。
「連合艦隊航空部隊は今次ソロモン海域において勇戦奮闘大に敵艦隊を撃破せり。朕深く之を嘉す」
古賀峯一長官は、国内的には大いに面目を施したと言えます。他方、アメリカ海軍長官は、去る九日、次のような談話を発表していました。
「日本軍は過去十日間にブーゲンビル島ならびにラバウル水域において多数の連合軍艦船を撃沈したと言っているそうだが、絶対に真相ではない」
同十一日早朝、二群からなるアメリカ空母艦隊が、北と南からラバウルに対して大規模な空襲を敢行してきました。米軍機はラバウル港内の艦艇を狙います。日本軍の艦艇はいち早く退避したために損害は軽微でしたが、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、これ以上の損害を避けるためトラック島への退避を巡洋艦に命じました。これによりラバウル所在の艦艇は駆逐艦十一隻のみとなりました。
一方、日本軍の偵察機はアメリカ艦隊の索敵に成功していました。草鹿中将は昼間攻撃の実施を決意し、日本軍機七十一機からなる攻撃隊が出撃しました。攻撃隊はアメリカ艦隊を発見し、突入しましたが、甚大な損害を被っただけで、めぼしい戦果はあげられませんでした。草鹿中将は追撃のために夜間攻撃を実施しました。この夜間攻撃では、敵巡洋艦一隻轟沈などの戦果をあげたと報告されましたが、これも誤認だったようです。
「ろ」号作戦が終了したのは十一月十二日です。古賀峯一長官の命令により、空母艦上機部隊はラバウルからトラック島へ帰投することとなりました。古賀長官が「ろ」号作戦を中止したのは、一定の戦果をあげ得たと信じたこと、ならびに空母艦上機部隊の損害が大きくふくらんだことにありました。「ろ」号作戦期間中の損耗は、艦上戦闘機で五割、艦上爆撃機で八割、艦上攻撃機で八割、合計七割という惨憺たるものでした。百七十三機のうち百二十一機が失われたのです。壊滅といってよいほどの損害です。
なお、「ろ」号作戦終結後もラバウルの基地航空部隊は十二月上旬までブーゲンビル島沖のアメリカ艦隊と戦い続けます。
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ブーゲンビル島沖航空戦に関する大本営発表を信じるならば、六次にわたる航空攻撃によって日本軍は敵戦艦七隻と敵空母七隻を沈めたことになります。しかし、戦後になってあきらかになったのは、すべてが虚報だったことです。アメリカ軍には軽微な損害しかなかったのです。
いわゆる大本営発表の大誤報はブーゲンビル島沖航空戦から始まりました。こののちギルバート諸島沖航空戦、マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦と虚報がつづきます。戦後、大本営発表という言葉は嘘の代名詞となりますが、その原因は海軍航空隊の過大な戦果発表にあったのです。
このような事態がなぜ生じたのかについては様々な要因が考えられます。そもそも戦果の確認という作業そのものが難しいということがあります。昼間でもむつかしいのに、薄暮攻撃や夜間攻撃となれば、ほとんど戦果確認は不可能です。熟練搭乗員が減って未熟な搭乗員が増えたことも一因だったでしょう。
さらに、戦場における異常な心理も要因と考えられます。確かに手応えがあったという感覚、戦果をあげたいという純粋な功名心、功績への欲望、戦死した戦友に対する愛惜の念、所属部隊に貢献したいという願いなどから、命がけの戦場から帰還した搭乗員たちは過大な戦果を報告してしまったようです。
報告を受ける基地司令官は現場を見ていません。命からがら生還した搭乗員の報告を無下に却下することは人情からできなかったようです。上級司令部ともなればなおさらです。こうして大本営発表の過大な戦果が生まれました。
いずれにしても、ことの真相は戦後になるまでわかりませんでしたから、古賀峯一長官は真相を知らぬままに世を去ったことになります。
ブーゲンビル島をめぐる日米の戦闘の結果、アメリカ軍はソロモン諸島の制空権をほぼ手中におさめました。日本軍のラバウル基地はなお存続したものの、風前の灯火となりました。また、ブーゲンビル島南部に本部を置いていた陸軍十七軍司令部と海軍第八艦隊司令部は完全に敵中に孤立しました。
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連合艦隊が「ろ」号作戦を終えた一週間後、十一月十九日、ギルバート諸島のマキン島とタラワ島がアメリカ軍の大空襲に遭いました。アメリカ軍の空襲は断続的に続き、艦砲射撃まで加わりました。熱帯の密林が一夜にして焼け野原と化すほどの猛烈な攻撃です。
マキン島とタラワ島には海軍陸戦隊が配置されていましたが、その総兵力はおよそ五千名に過ぎません。連合艦隊司令部は直ちに警戒を発し、その夜にZ作戦を発令しました。しかしながら、連合艦隊の空母艦上機は「ろ」号作戦で壊滅していました。このため航空攻撃の主力は第四艦隊の第二十二航空戦隊に担当させ、北方および南西方面から中部太平洋方面へ増援させることとしました。また、重巡洋艦を主力とする遊撃艦隊を出撃させるとともに、潜水艦部隊にも出撃を命じました。さらに、ギルバート諸島への逆上陸作戦を実施すべく、作戦準備に入りました。大急ぎで準備し、十一月二十七日に逆上陸作戦を決行する計画です。
第二十二航空戦隊はすでに攻撃隊を出撃させており、この日以降、数次にわたり敵艦隊への攻撃をくり返します。この一連の攻撃はギルバート諸島沖航空戦として記録に残ります。
アメリカ軍の侵攻は早く、二十一日にはマキン島とタラワ島に上陸しました。そして、同日にマキン島の日本軍守備隊は通信を途絶させ、タラワ島の日本軍守備隊も翌二十二日に通信を途絶させました。両島の日本軍守備隊は決死敢闘しましたが、マキン島守備隊は二十四日に玉砕し、タラワ島守備隊も二十五日には沈黙しました。
このため連合艦隊司令部は逆上陸作戦を断念しました。一方、第二十二航空戦隊は増援を得て、航空攻撃を続行します。二十九日までつづいた一連の航空戦により、第二十二航空戦隊の戦力は半数以下に消耗しました。しかし、大戦果をあげたと報告し、それが大本営から発表されました。敵空母七隻を撃沈したという大戦果です。航空戦では敵艦隊に大打撃を与えているはずなのに、アメリカ軍の侵攻は止まりません。この事実を古賀峯一長官がどのように解釈していたのかについては記録がないためによくわかりません。
十二月四日、古賀長官はZ作戦の終結を発令し、遊撃艦隊と潜水艦部隊に帰投を命じました。
ギルバート諸島に来攻したアメリカ軍は、空母六隻、軽空母五隻、戦艦九隻、重巡六隻、軽巡三隻、駆逐艦十三隻という大艦隊であり、輸送船まで含めると百十隻に及びました。その総兵員数は十万を超えます。また、アメリカ艦隊はレーダーを備え、敵機を確認するとすぐさま迎撃戦闘機を上空待機させます。防空砲弾には近接信管が採用されており、敵機の近くで破裂するように改良されていました。また、英海軍から最新の潜水艦戦術が導入されていました。ドイツ海軍のUボートを壊滅させた戦術です。アメリカ艦隊は、質量ともにこの時代の無敵艦隊となっていました。もはや日本海軍が逆立ちをしても敵う相手ではありません。記録を調べていると胸苦しくなるほどに日米海軍の兵力格差は開いていました。古賀峯一連合艦隊司令長官は、ソロモン諸島で強烈なアッパーカットをくらい、ギルバート諸島で痛烈なストレートをくらったようなものです。もはやサンドバッグのような状態であり、こうした状況で連合艦隊を指揮することの心痛を思うと、もはや同情を禁じ得ません。
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アメリカ軍はヒタヒタと津波のように休みなく押し寄せました。十二月に入るとニューギニア西部で活発に動き、かねてより食糧弾薬の不足に苦しんでいた日本軍守備隊を苦しめました。そして、十二月十五日、ついにアメリカ軍はニュー・ブリテン島西部のマーカス岬に上陸しました。ニュー・ブリテン島東部には日本軍基地ラバウルがあります。
こうしたアメリカ軍の進攻に対して、ラバウルの基地航空部隊が連日の攻撃を加えました。しかし、敵軍を追い払うことはできません。そして、連合艦隊司令長官にできたことはといえば、航空部隊を増援してやることだけでした。もはや戦力も燃料も尽き、連合艦隊は動くに動けませんでした。
十二月二十六日、アメリカ軍はニュー・ブリテン島ツルブ付近に上陸し、同三十日、日本軍のツルブ飛行場を占領しました。以後、日本軍のラバウル基地に対するアメリカ軍の空襲が苛烈になりました。日本軍の基地航空隊は防戦一方となり、徐々に戦力を低下させていきす。
ソロモン諸島の制空制海権はアメリカ軍によって掌握されることとなりました。ニュー・ブリテン島やブーゲンビル島やニューギニアの日本軍守備隊は、こののち、長い籠城を強いられることとなります。
アメリカ軍は、ソロモン海域の日本軍を無力化させ、いよいよ日本本土に向けて進撃を開始します。
ソロモン海域の支配権を失った日本海軍は深刻な事態に直面することとなりました。古賀長官が懸念していたとおり、日本海軍の根拠地たるトラック島は天然の環礁であり、要塞施設がなく、艦隊保全能力がありません。敵の攻撃に対して脆弱です。トラック島の防衛はソロモン諸島とニューギニアの日本軍が担っていたわけです。しかし、それらの日本軍守備隊が無力化されてしまった以上、トラック島は丸裸にされたのも同然であり、連合艦隊は安閑としてトラック島にとどまることができなくなりました。
古賀峯一連合艦隊司令長官は、かつて、次のように海軍軍令部参謀に発言していました。
「ラバウル、ニューギニアを失って、トラックに艦隊が居られると思うか。トラックに艦隊が居られない場合、太平洋作戦をどうするのか」
その憂慮が現実化してしまったのです。連合艦隊はどこに新根拠地を求めるのか、そして、太平洋における対米作戦をどうするのか、古賀長官ならびに連合艦隊司令部参謀は難問に直面することとなりました。
連合艦隊司令部は急ぎ検討し、新たな根拠地をリンガ泊地と定めました。リンガ泊地はシンガポールの南方にある海域です。連合艦隊主力を収容し、訓練をするにも充分な広さがあります。トラック島からは五千キロの後退となります。無力化したトラック島にとどまるのはあまりに危険であり、空母機動部隊を錬成するためにも、この際、思い切った後退をする必要がありました。連合艦隊司令部は、昭和十九年一月二十五日、南西方面回航部隊を編成し、後退の準備に着手しました。予定としては、一月中に第三艦隊をリンガ泊地に回航させ、二月に戦艦戦隊の一部を回航させます。また、内地で錬成中の空母機動部隊にも三月中にリンガ泊地に転進するよう指示しました。
連合艦隊司令部がリンガ泊地への後退を指示していたこの時期、日本陸軍の各部隊が南洋の島々へ配備されていきました。これは昨年九月に決定された絶対国防圏構想に基づく配備です。輸送船不足に悩まされていた陸軍は、ようやくこの時期になって各島嶼に守備隊を送り込んだのです。トラック島には第五十二師団、ニューアイルランド島カビエンには独立混成第一連隊、ウェーキ島には独立混成第五連隊と戦車第十六連隊、クサイ島には南洋第二支隊、ポナベ島には南洋第三支隊、モーットロック環礁には南洋第四支隊、マーシャル諸島には海上機動第一旅団が配備されました。やむを得ない事情があったとはいえ、陸海軍の作戦は互いにチグハグしていたとの感を否めません。
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昭和十九年一月末から二月にかけてアメリカ軍の大艦隊がマーシャル諸島へ来攻しました。同方面の各島に配備されたばかりの海上機動第一旅団の各隊は為す術もなく攻撃され、玉砕していきました。
トラック島の連合艦隊にも為す術がありませんでした。駒のない将棋です。戦うことができず、むしろ戦力温存のため連合艦隊主力を転進させるほかありません。古賀峯一長官は、残留する第四艦隊と第六艦隊および第十一航空艦隊などに邀撃と被害局限の指示をし、連合艦隊に対しては内地およびパラオなどの各方面へ転進するよう命じました。
二月一日、戦艦「長門」、「扶桑」、重巡洋艦「熊野」、「鈴谷」、「利根」、駆逐艦「秋月」、「浦風」、「磯風」、「浜風」、「谷風」、「雪風」はトラック島を出発し、二月一日、パラオに到着しました。
旗艦「武蔵」と巡洋艦の一部はトラック島にとどまりました。しかし、二月四日、アメリカ軍の偵察機がトラック島へ飛来するにおよび、古賀長官は転進を決意しました。
二月十日、古賀長官は旗艦「武蔵」に坐乗し、駆逐艦を率いてトラック島を出発し、内地に向かいました。巡洋艦からなる遊撃部隊も同日にトラック島を出発し、十三日、パラオに到着しました。
古賀長官は、内地回航の途上、参謀に命じ、これまでの反省と今後の方策について検討させ、要望連絡事項としてまとめさせました。
二月十五日、旗艦「武蔵」以下の艦隊が横須賀に入港すると、古賀長官はただちに関係機関に対して要望連絡事項を提出しました。そこには古賀長官の痛切な反省とともに、冷静な今後の戦局推移予想、そして、強烈な敢闘精神が書かれています。
「航空兵力の不足はもっとも苦痛とするところなり」
「逼迫を加え来たれる輸送艦船なかんずく給油船の減少は作戦の計画実施に多大の掣肘を累加し来たれり」
「従来、ややもすれば敵の企図ないしは戦局の推移に関し、あるいは我が戦力に対し、希望的判断を下し、失敗せること多し。この際、いっさいの希望的判断は避け、常に我としてもっとも苦痛とする最悪の情況を想定し、迅速果敢なる英断的措置をとるの要、切なるものあり」
そして、海軍根拠地をパラオに置くとして次のように書いています。
「パラオ方面を全太平洋正面の策源根拠とし、太平洋方面配備決戦兵力の大部はこれをパラオに配備し、所要に応じマリアナ方面、東カロリン方面およびニューギニア方面に進出作戦し得るの態勢に移行す」
パラオは、トラック島の西二千キロの海上にある島嶼です。フィリピンのダバオからは千キロの沖合にあたり、リンガ泊地からは三千五百キロの位置にあります。石油資源地帯に近いので燃料の心配が少ないという利点があります。パラオを策源地とすれば、中部太平洋やカロリン諸島での作戦が可能です。
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古賀峯一連合艦隊司令長官は、二月十七日と二十一日、嶋田繁太郎海軍大臣および永野修身軍令部総長と会談しました。記録がないため、そこで何が話し合われたのかはわかりませんが、古賀長官は戦いの決意と要望を語ったに違いありません。
同じ頃、トラック島は米機動部隊の大空襲を受けていました。二月十七日早朝、百機のアメリカ軍機がトラック島に向かっていました。日本海軍の電探装置はこれを捕捉しました。第四根拠地隊司令部は直ちに空襲警報を発令しました。ところが、器材不足や通信施設の不備があり、迎撃準備が遅れました。ようやく戦闘機四十機が空に舞い上がり敵機と戦闘を交えました。しかし、圧倒的多数のアメリカ軍機は空中戦で日本軍機三十機を撃墜し、地上の日本軍機四十機を破壊しました。アメリカ軍の空襲は延べ九回に及び、トラック島の陸上基地と輸送船が大打撃を受けました。東京に滞在中だった古賀峯一長官は直ちにトラック島へ航空部隊を増援すべく指令を出しました。
米機動部隊のトラック島空襲は翌日にも実施され、延べ七回にわたる空襲で日本軍の地上施設と艦船に多大な損害を与えました。この二日間の空襲による損害は甚大で、艦艇および輸送船四十三隻が沈没し、二百七十機の軍用機が失われました。そして、軍需倉庫、航空廠、燃料タンクが爆撃を受け、一万七千トンの石油と食糧二百トンが失われました。
二月十八日、アメリカ艦隊はブラウン環礁を空襲し、その後、上陸作戦を決行しました。同島の日本軍守備隊は玉砕しました。
アメリカ艦隊の進撃はとまらず、二十三日、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島、グアム島を空襲しました。日本軍は第一航空艦隊に増援を送り、反撃したのですが、アメリカ艦隊はビクともしません。逆に、進出したばかりの増援航空隊が地上で撃破されるなど惨敗でした。
古賀峯一連合艦隊司令長官は、二月二十四日、艦隊を率いて東京を発しました。決戦する決意です。二十九日、古賀長官の艦隊はパラオに到着し、先着していた遊撃艦隊と合同しました。
奇しくも同じ二十九日、アメリカ軍はアドミラルティ諸島に上陸し、三月上旬までに日本軍守備隊を沈黙させました。アドミラルティ諸島はラバウル基地の西方六百キロの海上にあります。これによりラバウル基地は四周から包囲される情勢となり、トラック島との海上輸送路も完全に絶たれました。
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昭和十九年三月十日、海軍軍令部の会議においてひとつの報告がされました。報告者は軍令部第三部第五課長竹内馨大佐です。ちなみに第三部は情報担当であり、第五課はアメリカ関係の情報を担当しています。竹内大佐は、ブーゲンビル島沖およびギルバート諸島沖航空戦の戦果について検討し、その後のアメリカ海軍の快進撃を考えると、アメリカ軍の航空母艦は健在であり、「正規空母沈没の算なし」と報告しました。そして、三月におけるアメリカ軍の稼働空母隻数を正規高速空母十三隻、軽空母または護衛空母二十一隻と推定しました。この報告が古賀峯一長官の耳に入ったのかどうか、よくわかりません。
航空戦の戦果について、ここまでの検討が軍令部第三部でなされていながら、この後、大本営海軍部は過大な戦果発表を出し続けることになります。その過大な戦果発表が陸海軍の戦略判断を誤らせたことを考えると、海軍中枢組織に致命的な欠陥があったと言わざるを得ません。
これより先、数ヶ月にわたって連合艦隊の編制変更が検討されていましたが、いよいよ正式に決定され、四月一日から実施されることとなりました。その変更の第一点は、独立旗艦の設定です。その理由を海軍軍令部総長の上奏文から引用すると次のとおりです。
「従来、連合艦隊司令長官は第一戦隊を直率いたしまして海上決戦兵力を直接指揮するごとく編成せられておりまするが、現作戦段階におきましては各方面艦隊の外海上にありまする第一、第二、第三、第六艦隊および陸上を基地と致しまする第一航空艦隊等を適当に運用いたしますることが必要でありまして、戦況に応じ、独立旗艦または陸上司令部におきまして作戦を指揮し得るごとくすることを適当といたします」
独立旗艦には重巡洋艦「大淀」が内定しており、改装が進められています。そして、編制変更の第二点は第一艦隊の解隊です。第一艦隊は戦艦を主力とする艦隊で、長年、海軍の主力でしたが、海上戦闘の主力が航空機に代わったため、伝統の第一艦隊は解隊とされました。第一艦隊所属の戦艦は第二艦隊に編入されました。
編制変更の第三点は、第一機動艦隊の新編成です。これは従来の第一艦隊に代わるべきもので、空母を主力とする第三艦隊と戦艦および巡洋艦を主力とする第二艦隊を統一指揮し、海上航空決戦に挑むための編制です。
パラオに移った連合艦隊司令長官古賀峯一大将も、三月八日、戦局の推移に応じて新たなZ作戦要領を発令しました。十ヶ月前、就任したばかりの古賀長官はトラックに着任し、ソロモンあるいはギルバート方面での決戦を企図しました。それが今ではトラック島から二千キロも後退し、パラオから指揮せざるを得なくなっています。
新Z作戦要領は、基本的には第三段作戦の構想を踏襲していますが、決戦場として中部太平洋方面を想定しています。また、攻撃目標の選定について、次のようにしている点が目立ちます。
「撃滅すべき敵兵力の主目標は敵輸送船団なることを銘記し、情況許す限り輸送船団を攻撃す」
しかし、この中部太平洋決戦を古賀峯一長官が指揮することはありませんでした。
―*―
日本軍は中部太平洋決戦に備えます。海軍は基地航空部隊を増勢して決戦準備を急ぐとともに、陸軍も第三十一軍を編制してマリアナ諸島に配備しました。
ところが、アメリカ艦隊は、日本軍を翻弄するかのように、三月十六日、ニューギニア北岸の日本軍基地ウエワクに大空襲をしかけてきました。空襲は数百機の大編隊によるもので、数日間つづきました。マリアナ決戦準備に奔走していた日本軍は、アメリカ軍の西部ニューギニア上陸を警戒せざるを得ません。
もはや巨大な無敵艦隊と化したアメリカ艦隊は傍若無人に太平洋を暴れ回り、その動きに日本軍は右往左往させられるばかりです。
この間、海軍軍令部第一部では、源田実中佐が中心となって雄作戦の研究を勧めていました。その主題は、我が航空戦力の一部を活用して、アメリカ艦隊の泊地たるケゼリン、メジュロ、ブラウンなどを奇襲攻撃するというものです。
この作戦には冒険的要素が多く、批判的な意見が少なくありませんでした。また、作戦実施の主体は連合艦隊であるため、連合艦隊司令部と協議することとなりました。
三月二十五日、海軍軍令部第一課長山本親雄大佐以下数名がパラオの連合艦隊司令部を訪れました。旗艦「武蔵」で協議がもたれ、軍令部側は強い態度で雄作戦の作戦実施を要求しました。これに対して連合艦隊司令部は慎重姿勢を守り、古賀長官も「消極的と堅実とは異なる。堅実にやりたい」との言葉を発したと記録にあります。最終的な連合艦隊側の回答は「主旨に賛成。ただし手堅くやりたい。研究のうえ連絡す」というものでした。
日本軍が中部太平洋方面に神経を尖らせていたこの時期、米機動部隊はニューギニア北岸の沖合海域を西進していました。
三月二十九日、パラオのペリリュー島を発進した日本軍索敵機がこのアメリカ艦隊を発見しました。連合艦隊司令部は、翌三十日にパラオが空襲されると判断し、次のように命令を発します。
「明朝パラオ空襲の算大なり」
「遊撃部隊はとりあえず空襲を避けるごとく機宜行動すべし」
「本職一四〇〇パラオに一時将旗を移揚し、指揮をとる」
パラオに所在していた遊撃艦隊には退避を命じ、連合艦隊司令部は旗艦「武蔵」を降り、陸上に移りました。なお、空母機動部隊はリンガ泊地で訓練中でした。
古賀長官は、パラオの基地航空部隊を増強するとともに、フィリピンのダバオにも基地航空部隊を集中させました。
三月三十日早朝、予想どおりアメリカ軍機の大編隊がパラオに来襲しました。この日、十一次におよぶ空襲がありました。空襲は翌日もつづき、六次にわたる波状攻撃がありました。日本軍の基地航空部隊は反撃を試みましたが、敵艦隊に打撃を与えることはできず、いたずらに戦力を消耗させるだけでした。
このときパラオに来襲したアメリカ艦隊は、空母十一隻、戦艦六隻、巡洋艦十三隻を基幹とする大艦隊です。空襲による被害は甚大で、航空機百四十七機喪失、艦船六隻沈没、輸送船十八隻沈没という大損害となりました。
三十一日、古賀峯一連合艦隊司令長官は生涯で最後の命令を発します。
「遊撃部隊は機宜ダバオに回航補給待機せよ」
「本職、三月三十一日パラオ発、ダバオ経由、サイパンに進出す」
「輸送飛行艇派遣せられたし」
古賀長官は中部太平洋マリアナ諸島で決戦の陣頭指揮をとる決意だったようです。
サイパンからパラオに飛来した飛行艇二機に連合艦隊司令部要員が分乗してパラオを出発したのは三月三十一日午後十時でした。両機はフィリピンのダバオに向かいますが、低気圧に遭遇して行方不明となりました。
五月五日、大本営は次のように発表しました。
「連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、本年三月、前線において飛行機に搭乗全般作戦指導中殉職せり」
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以上、ほぼ一年間にわたる古賀峯一連合艦隊司令長官の戦いを眺めてきました。結果だけを見ればまったく精彩がなく、敗北の連続です。アメリカ軍の進攻をくい止めることができず、ソロモン諸島、ギルバート諸島、トラック島から敗退せざるを得ませんでした。連合艦隊主力は、敵機の空襲を避けるために後退しつづけ、ブーゲンビル島沖航空戦とギルバート諸島沖航空戦の大戦果も虚報でした。
古賀峯一連合艦隊司令長官がトラック島に将旗をあげた昭和十八年五月、古賀長官の現状認識は悲壮なものでした。
「日本海軍の兵力は米海軍のそれの半量以下で、勝算は三分の一もない」
しかし、現実はもっと厳しかったのです。すでにアメリカ海軍の実力は質量ともに日本海軍のそれを凌駕しており、いかなる天才が連合艦隊を指揮したとしても戦勢の挽回は不可能だったように思われます。
そのように苦しい状況下にありながら、古賀峯一長官は戦況を冷静に認識し、苦渋の決断で撤退をくり返しつつも、つねに決戦の好機をつかもうとし、戦機と見れば果断に連合艦隊に出撃を命じました。その指揮統率は帝国海軍の伝統に適うものだったといえるでしょう。