分かつ羽根
陽も傾きかけた、人肌の恋しくなる夕暮れの時間。
休日の公園は、何処でもありふれていて何時でも遊べるからか、私以外の人は誰もいなかった。時折吹く風が木々を揺らす音と、私のすすり泣く声だけが、公園で聞こえる音の全てだ。
どうして休日にも関わらず、私は一人公園のベンチに座っているのか。
それは――、同棲間近で結婚も視野に入れていた彼氏に唐突に振られたからである。
事の発端は、今朝にまで遡る。
私はデートの服を気合いを込めて選び、ランチが評判のお洒落な店で彼と待ち合わをした。実際、そこのランチは評判通り美味しく、彼との会話も笑いが絶えず、私は幸せの絶頂だった。
それなのに、私が会計をし終えると、外で待っていた彼からいきなり他に好きな奴がいると言われてしまった。本気で意味が分からなくて、最初は彼の冗談なのかと笑い飛ばした。けれど、彼の表情には一切の笑みはなく、彼氏の好きな奴が満面の笑みで現れると、私はそのままデートの途中にも関わらず、店の前で置いていかれてしまったのだ。そして、幸せの絶頂から不幸のどん底へと急転直下で落とされた私は、彷徨うゾンビのように重たい体と死んだ顔で町を徘徊しながら、この人気の少ない公園へと足を運んだのだ。
以上が、今日のデートの全て。
いや、彼にとってはデートのつもりなどなく、私と別れるための心を整えるための時間だったのだろう。
そう思うと、今日の私の行動、否、この日を待ちわびた私の行動すべてが恥ずかしく感じ、余計に私は失意の底へと叩きつけられてしまうのだ。
同棲も始めようと話し合っていて、せっかく自宅の荷物もまとめていたのに、なんと滑稽な話だろうか。
公園のベンチに背を預けながら、一人寂しく夕陽が地平線に落ちていく様を見つめてる。
「……」
乾いた笑いさえ浮かべることが出来ず、ただ涙を流すことしか出来なかった。ベンチに座ったら、溜め込んでいたもの全てが瓦解して、私はもう駄目になった。ペンキ塗り立てのベンチに気付かずに座ってしまって、私の服とくっついてしまったのかと錯覚してしまうほどに動くことが出来ない。けれど当然のことながら、私が座ったベンチは、この人気のない公園に相応しいボロボロのベンチ。ベンチから離れることが出来ないのは、単純に私の気持ちの問題だ。
これから私はどうやって生きていけば良いのだろう。
私の人生設計は、彼ありきで考えていた。彼と同棲し、そのまま結婚。最初は二人きりで愛を育んでから、いつしか子供を産んで、大変ながらも一緒に支え合いながら過ごし、年老いても手を歩きながら町を歩く。どちらかが死んでしまう時も、「ありがとう」と笑って見送れるくらい、後悔なく人生を生きる。平凡でありふれた、だけど、とても幸せな未来図を描いていた。
しかし、そんな未来図は一気に破り捨てられてしまった。
私は真剣に彼のことを思っていたのに、彼にとっての私という存在は、都合のいい遊び道具でしかなかったのだ。そして、私のことに飽き、かつ良い人を見つけたから、呆気なく私を捨てた。
その事実に気が付いてしまうと、もう色々と考えることも面倒になって来た。
付き合っていた彼にさえ見捨てられてしまったら、私はこれから誰にも関心を向けられることはないだろう。ぶっちゃけ、三十も過ぎてしまった私には、男の知り合いどころか、悩みを共有出来る親友さえいない。
私は弱い人間だから、一人で生きていくことなんて不可能だ。こんな重い悲しみを抱えながら一生生きてくなんていう苦行、私には到底耐えることは出来ない。
どんどん考えが暗くなって沈んでいく。
もう自分の力でベンチから腰を上げようと思う気力さえ残っていない。
陽が沈んで、周りが色を失くしていくのも、私の気力を削ぐことを助長している。
このまま、ここに座り続けたら、どうなるのかな。
春が近づいているとはいえ、夜になれば寒くなる。デートのためにお洒落を意識した服装のため、実は今でも少し震えてしまうほど肌寒かった。
凍えて死んでしまうのかな、それとも誰かに襲われてしまうのかな。
いや、何でもいいや。
もうこの世に未練なんてないんだし。
全てを諦め、私が目を瞑った時だった。
「お姉さーん、大丈夫?」
心底私を案じていることが伝わる優しい声が、私の耳に響いた。
誰もいなかったはずの公園だったから、急に声が聞こえたことがあまりにも驚愕で、反射的に目を開けた。
「あ、良かった。生きてた」
私の目の前には、爽やかな笑みを浮かべた青少年がいた。首元まで流れるように伸びた綺麗な金色の長髪に、カラコンを入れているのか瞳は青。年は私よりも下――二十代前半くらいだろうか。外人のような雰囲気を感じるが、流暢に紡がれる日本語と細身の体型から、日本人だと分かる。
「え、あ、え……?」
「あぁ、ごめんね。たまたまこの公園を通ったんだけど、お姉さんが死んだようにベンチに座ってたから、心配で声を掛けたんだ。あ、良かったらこれ使ってよ」
戸惑う私に対して、青少年は見た目に似つかわしくなく、紳士的な態度で私に接して来る。差し出されたハンカチを手にすると、柔らかい感触が手の平全体に伝わって来た。この世のものとは思えない柔らかさに、私は彼に目を向けた。こんな高級そうなハンカチを、本当に使ってもいいのだろうか。
しかし、彼は「どうぞ」と言うように小さく頷いたので、彼の厚意に甘えて高級そうなハンカチで涙に濡れた目元を拭った。目元を拭う時、ハンカチからふんわりといい香りが漂い、私の心を和らげてくれた。
「何かあったか知らないけど、そんな沈んだ顔してたら、せっかくの綺麗な顔も台無しだよ」
彼は断りもなく、空いていた隣に座る。肌は触れなかったはずなのに、隣に誰かがいるという事実が、人様の温もりを感じさせた。
「……綺麗って、今振られたばかりなんだけど」
そんな温かさに触れたからだろう、つい私は愚痴を漏らしていた。
「振られた?」
「ええ、それもこっぴどくね。結婚も考えていた相手だったのに、今日デートしていたら、いきなり別の女と合流して、この子と付き合うからって言い出したのよ。……しかも、相手は私よりも若くて可愛かったし」
「それはついてない話だね」
「でしょ! 私、こんなについてない女だって思ってなかったぁ。こんな話、フィクションの中だけだと思ったのにぃ」
絶妙な相槌を打ってくれるから、初対面の相手だというのに、私は本心を包み隠さずに打ち明けていく。
「あ、いやいや、ついてないって話は、お姉さんの元カレのこと」
「へ?」
何事もなく言葉を紡ぐ男に、私はつい間抜けな声を漏らしていた。隣に座っている男が何を言いたいのか、まったく理解出来なかったのだ。
「お姉さんみたいな優しい人を見捨てるなんて、その人ついてないと思うよ。しかも、その新しい彼女、清純そうな若い見た目でめっちゃ遊んでいるからね。別れるのも時間の問題だよ。まぁ、お互いお似合いっちゃお似合いだけど」
まるで未来をその目で見たかのような言いぶりだ。
「なん……」
「だから、元カレと別れたおかげで、お姉さんも良い未来を歩めるようになるよ。大丈夫、これから絶対に幸せになるから。だから、今は辛いかもしれないけど、もう少しだけ頑張ってみよう、ね?」
「……うん」
彼の優しい微笑みと、甘い言葉に、私は自然と頷いてしまった。
って、素直に頷いている場合じゃない。色々な情報が波のように怒涛に押し寄せて来て、訳が分からなかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ! なんで、そんなこと分かるの?」
頭がこんがらがった私は、勢いに任せて立ち上がった。
突然立ち上がったのにも関わらず、彼は余裕のある笑みを浮かべると、
「……勘、かな」
悪戯っぽい口調でそう言った。
「いや、勘って……」
純粋で騙されやすい馬鹿な私でも、彼の言葉が嘘だと言うことは分かる。彼の本意を、どう問いただそうかと考えていると、
「さて、もう大丈夫そうだね」
ベンチに座っていた彼は、何事もなく立ち上がった。
「僕はそろそろ帰るよ」
そして、元気づけるかのように私の肩にポンと手を触れると、青年は公園の出口に向かって歩き出した。
一瞬、彼に触れられた肩に優しい温もりがこもって、動けずにいた。しかし、惚けていた私は、ハッと我に返ると、
「ちょっと待ってよ! まだ色々と聞きたいことがあるんだけど!」
遠ざかる金髪の青年に向かって、私は声を掛ける。
しかし、青年は私の言葉が聞こえていないかのように頑なに振り返らなかった。私は諦めず、「ねぇねぇ」と何度も呼びかける。それでも、彼の足は一向に止まらない。もう、このまま別れるのは避けられないだろうと、私は直感で分かった。
だから、私は唇を噛み締め、拳を握り締めると、
「ねぇ、また私達、会えるかなぁ!」
力強く言った。
私の声に、彼は足を止めると、振り返りざまに含みのある笑みを浮かべた。
そして――、
「――ッ」
そのまま返事もなく、闇の中へと消えてしまった。
彼が公園の外の方へと向かって歩き出したのは、ちょうど夕陽が完全に沈み込み、夜になった時だった。その後ろ姿が、夜になって溶け込んだのか、それとも突然に消えてしまったのか、私には判別がつかなかった。
暫くの間、私は彼がいなくなった場所を見つめていた。遠い虚空を見つめる私の頭の中では、もう振られたショックなど遥か彼方に追いやられていて、ただ突然現れて突然去った彼のことだけしか浮かんでいなかった。
「……あれ」
そして、夜風に当てられて、冷静になった私は、ふと気が付いた。
先ほどまで、自分のことなどどうでも良くなり、立ち上がることさえ心底嫌になっていたのに、今やどうだ。普通に立てているではないか。
あんなにも失意の底まで沈んでいた私の気持ちは、不思議な金髪碧眼の青年との出会いによって、あっという間に百八十度変えられてしまった。
どれだけ私は単純なんだろうか。あまりの単純さに、自分で自分のことを、思わず笑ってしまった。
元カレのことが頭から離れなくて、依存のように彼に縋り切っていたのに、今やもう元カレのことなどどうでも良かった。むしろ、なんで今まで元カレと付き合っていたのだろうとさえ思う。
それは、彼が笑いながら、当然のように未来を話してくれたからだろう。
私には想像も出来ない未来を、世間話をするように話してくれた彼は、一体何者なのか――。唯一手元に残った彼の痕跡に、目を向ける。
彼が渡してくれたハンカチは、あまりにもこの世のものとは思えないほど柔らかく、少なくとも私には一度も触れたことのない感触だった。あえて喩えるならば、雲のような、羽根のような。
そして、ある一つの言葉が脳裏に鮮明に刻まれた。
――金髪碧眼の、天使。
「……あ、あはは。まさか、ね……」
けれど、失意のどん底にいた私を救ってくれ、先の分からない未来を笑って話してくれた彼は、天使と言われても不思議ではない。
「……う、うん。そんなことあり得ないあり得ない……」
自分の突拍子もない推測を否定するように首を横に振ると、彼が渡してくれたハンカチを丁寧に畳んで鞄に入れた。
いきなり現れた彼の正体は気になるが、ひとまず私のやるべきことは、段ボールを解いて、もぬけの殻のようになった私の部屋を元の状態に戻すことだ。そうしたら、彼の言う未来に、少しだけ近づくことが出来る気がする。
私は彼の後を追うように公園から出ると、段ボールが山積みなっている私の部屋に向かって歩き出した。
過去に囚われて動けなくなっていた私は、もうどこにもいなかった。