9.呪いの行方
「伊万莉、あの二人つかれているぞ」
昼食の準備の為に部屋の中より少し気温の高い廊下部分を歩いていると、オロチが至極当然のことを言ってきた。
「そりゃあ長旅で疲れてるでしょ。それより」
「違う」
強い口調で否定するオロチ。
「あの二人は悪いものに憑かれている」
悪いもの。良くないもの。人には認識できないもの。それがあの温厚な老夫婦に憑いていると。
「……さっきのはそれを確認していたの?」
意味のないように思えた先程のオロチの老夫婦に対する質問は疑いを確信に変える為だったのか。
オロチは頷いて思っていたことを口に出す。
「気配が僅かで見ただけでは判別しにくいが、呪いのようなものだと思う」
「呪いってそんな……」
「人の体について詳しく知っているわけではないが、加齢だけで一年足らずの間に段差を降りるのが困難になることがあるのか? しかも二人揃って同時に、だ」
怪我とか病気で急激に歩行が困難になることはある。だが加齢だけでそんなことになるか?
普通は年齢とともに徐々に進行していく。
物に躓くことが多くなり、次に階段の上り下りがきついなと思い始めて、そして一段ずつでしか足が出せなくなり、最後の最後には足だけで体を支えて移動が困難になる。
老夫婦の様子を見るに既に三段階目くらいにはなっているだろう。
そんな現象が二人同時に起きている。そこには作為的な何かが存在しているということか。
「……治るの?」
「呪いを解くことはできるだろう。しかし、そこから以前の状態まで戻るかどうかはわからん」
もし治らなくても呪いの進行が止まるならそのほうがいいに決まっている。このまま放置すれば歩くことができなくなるのも時間の問題だ。
「なら今すぐ呪いを解いて――」
「いいのか?」
「え?」
オロチは伊万莉に念を押す。
本当にそれでいいのか、と。
意味が分かって言っているのか、と。
「呪いは自然発生しない。あの二人は誰かに恨まれて呪いをかけられたのだ」
「でもそれは一方的な逆恨みとか……」
「お前はあの二人のことをどれだけ知っている? あの二人が悪人でないと言い切れる自信があるのか?」
「それは……」
伊万莉が接した感じでは好印象の二人。他人から恨まれるような人物ではないように思う。だけどそれは伊万莉から見た場合であって、角度を変えればあの二人だって悪人だと思うような人がいてもおかしくはない。
今日初めて会った人物の人となりをどうして量れようか。
善人とも言い切れないし、悪人とも言い切れない。そもそもどちらかに百パーセント偏った人間は存在しない。
「それともう一つわかってないようだから言っておく。呪いを解けば呪いはかけた者に必ず跳ね返る」
「……死ぬってこと?」
人を呪わば穴二つ。
この穴とは相手の墓と自分の墓のこと。相手を害しようとするときそれはまた自分にも返ってくるという意味だ。
「そっくりそのまま返ることもあるし、より強力になって返ることもあるとしか言えん。……あいつがいれば詳しいことがわかったかもしれんが、まだ封印されているからな」
そのまま返って呪いをかけた人物の足が老夫婦と同じように悪くなることもあれば、強力になって返って急に足が動かなくなるということも考えられる。
後者の場合、車を運転中だったり階段を下りている最中だったら最悪死ぬこともあるということ。
「じゃあどうすれば」
「呪いを解くか解かないか、お前の好きにするといい」
「そんなっ……!」
無責任といいかけて口を噤む。
確かにオロチが呪いのことを言わなければ老夫婦は明日の朝にはそのまま出発し、呪いをかけた者のことを含めて伊万莉が何も知らないうちに全てが終わっていたかもしれない。
だがそれでオロチを責められるのか。
オロチはただわかったことを口にしたに過ぎない。情報を提供したに過ぎない。
「じゃあ……呪いを解かなかったらあの二人はどうなる?」
「半年以内には歩けなくなるだろう。その後は本人たちの体力次第だが……」
その先は言われなくても伊万莉にもわかる。
例えどちらを選んでも老夫婦がこの先どうなるかは未知数だ。
伊万莉が責を負わなければならないことでもオロチが責を負わなければならないことでもない。
でも他人の人生の天秤が今、伊万莉の手の中にある。見なかったことにして放り出せれば一番だが、それはもう許されない。
「伊万莉。お前がどちらを選んでも、俺はお前の意思を支持し尊重しよう」
オロチは選択権を伊万莉に委ね、どのような結果になっても一緒に重荷を背負ってくれると言っている。
「でも……」
「まあ、今日明日どうこうなるというものではない。今は他にやることがあるのだろう?」
「そう……だね」
半年後、一年後のことよりもまず一時間後の昼食を彼らの満足いくものにしなくてはならない。
自らの頬を叩き気持ちを入れ替えて伊万莉は調理場へ向かった。
翌朝、車に乗り込む老夫婦を支援している伊万莉とオロチがいた。
厚い雲で太陽が隠れ、心なしか蝉の鳴き声も大人しい気がする。じっとりと湿り気を帯びた空気は雨が降る前触れだろうか。
「大変お世話になりました。伊万莉さんの作る料理が美味しくて、私少し太ったかもしれません」
「家内があんなに食べるところ初めて見ました。と言いつつ、わしもこの通り腹が丸くなっておりますが」
「喜んでいただけて私も嬉しく思います」
昼夜朝とみんなで囲んだ食卓は賑やかで話も箸も止まらなかった。
捕れたばかりの鮎や家の菜園で育てた夏野菜の数々。それらをふんだんに使って伊万莉は家庭的な料理を食べきれないくらい用意したつもりだったが、気が付けばどの皿も空になっていた。
それにはオロチがかなり貢献していたが、老夫婦もそれに負けないくらい食べていたのだ。競争しているのではと思った程に。
「それにあんなに賑やかな食事は久しぶりでした。改めてお礼を言わせてください」
「良い思い出になりました。本当にありがとうございました」
「いえ、騒ぎ過ぎてしまったのではないかと少し反省しています……」
「そんなことありませんわ。私たちが望む光景があそこにはありましたので」
「そうですとも」
二人は晴れ晴れとした表情をしている。
しかし伊万莉の心の中は正反対の空模様だった。
「あの!……もし、足が良くなったら是非またいらしてください。食べきれないくらいの料理を用意してお待ちしていますから」
伊万莉の言葉に何を感じ取ったのか老夫婦はにっこりと微笑み静かに頭を下げ、そして伊万莉の母の運転する車はゆっくりと民宿を離れていった。
「これで良かったのか未だにわからないよ」
「そうだな。誰にもわからんことだ」
結局伊万莉は呪いを解かないことに決めた。いや、正確には呪いを解くことを決められなかったのだ。
あの老夫婦のことは好きだし元気になってもらいたい。だけど呪いを解けば呪いをかけた人物に跳ね返る。
呪いなんかかける奴のことなんてどうでもいいが、そんな奴にも家族がいて友人がいる。何かあった場合に悲しむ人がいるのは確実だ。
老夫婦にも悲しむ人がいるだろう? というのはもっともな意見だが、伊万莉はそれも考えた上で何もしないことに決めたのだ。
「どちらを選んでも傷つく者がいた。どちらを選んでも伊万莉は心を痛めた」
「最初から正解なんてなかった。呪いのことを知っても知らなくても僕にできることはこれだけで、だけど知ったからこそあの最高の食卓があったんだ」
知らなかったら他の客と同じように扱っていたことだろう。決して他の客で手を抜いているわけではないが、あの老夫婦に対しては特別に心を込めて料理を作り、言葉を交わした。
「……そうだな。よく頑張った、伊万莉」
オロチは伊万莉の頭を包み込むように優しく撫でた。
伊万莉には言わなかったことが二つある。
一つは、オロチくらいの神になればあの程度の呪いは力技で呪いそのものを消し飛ばすこともできたこと。
かけた方、かけられた方、どちらにも影響がないようにすることができた。
では何故それをしなかったのか。
呪いをかける程憎む相手の呪いが解けたと知ったら、今度はもっと強力な呪いをかけるか、直接的な行動に出る可能性が高い。その時は、伊万莉もオロチも介入ができない場所にいる。
結果が変わらないどころかより酷くなることは明白だった。
二つ目は、今日の朝になったら老夫婦の呪いが解けていたこと。
理由は不明だった。
「うん……でも、もう、こんなのは…………よ」
最後はもう声にならない声だった。
必死に抑えて抑えて、それでもたまに裏返った声が漏れ聞こえる。
その胸にしがみついている伊万莉を支え、オロチは天に祈った。
――まだ雨は降らないのか。