8.変わらないもの変わったもの
「お早う、オロチさん」
「うむ。良い天気であるな」
今日は昨日より幾分かは暑さは和らいでいたがそれでも強い紫外線は肌をチクチクと焼いてくる。
結局伊万莉の部屋に寝泊まりすることになったオロチは昨晩、病院から帰ってきた伊万莉の母に大学の友人と紹介し、意外とすんなり受け入れてもらえた。
もっといろいろ突っ込んだ質問をされるかと身構えていた伊万莉が拍子抜けしたくらいだ。
変なところに寛容さを見せる母だった。
「古風よねー、オロチさんって」
「そ、そうかな?」
だって二千年以上前の神様だから、とは口が裂けても言えない。
ちなみにオロチは今、伊万莉があげたTシャツとスウェットを着ている。いかにも休日の家の中という服装だがこれ以外の服はサイズが合わず着ることができなかったのだ。
ただ、あのやたら派手な装飾品の数々は外したくないとごねたのでそのまま身に着けている。それと長い髪を後ろで一まとめに結っているので見ようによっては侍のように見えるのかもしれない。
「何だか昔のお父さんに似てる気がするわ」
「その発言を息子の前でするのはどうかと思う……」
ぽーっと熱に浮かされたようにオロチを見つめる自分の母に心底呆れる伊万莉。しかも今は父が腰を痛めて入院している時だ。父がちょっとかわいそうになる。
「心配しなくても大丈夫よ。これでも出会ってからお父さん一筋なんだから。そう、あれは灰色の空に雪がちらつく季節だったわ……」
思い出に浸り始めた母は置いとくとして、そういえば両親のなれ初めについての話は聞いたことなかったなと記憶を思い起こしてみる。
聞かされたところで親の出会いの話とか小恥ずかしいという感想しか出てこないが。
「あ、そろそろ時間じゃない?」
「あらそうね。じゃあ駅まで迎えにいってくるから」
思い出の世界から呼び戻して時間であることを伝えると、送迎用のミニバンをいとも簡単に操って伊万莉の母は近くの駅まで宿泊客を迎えにいった。
「母さんがお客さんを連れてきたらオロチは重い荷物を持ってあげて」
「了解した」
伊万莉の家は民宿を営んでいるが、そのままではオロチには何のことかわからないだろうから、旅人を休ませ癒すことを生業としていると説明していた。
オロチに民宿の手伝いをさせることを提案してきたのは伊万莉の母だ。オロチを泊めること自体は反対しなかったが、タダで泊めるつもりはなかったようだ。
まあ、猫の手も借りたい状況なのは確かだ。伊万莉の父が入院しているから、力仕事ができる人間が欲しかったというのが一番の理由だろう。
伊万莉もその点に関しては文句はない。筋力のない伊万莉に力仕事を全面的に任せられてもへばってしまうのが目に見えているからだ。
二十分後、一組の老夫婦を乗せて伊万莉の母が運転する車が戻ってきて民宿の前に停車した。
伊万莉が後部座席のスライドドアを開けて出迎える。
「暑い中、遠路はるばるようこそおいでくださいました」
踏み台を用意し、老夫婦の男性の体を支えて降車の際の負担を軽くする。
事前に、二人とも足が弱っていて段差は辛いと聞いていたのでサポートの体制は万全だ。
部屋もいつもだったら二階の眺めの良い部屋を優先して充てるが、今回は風呂や食堂に近い一階の部屋が用意されている。
「おお、ありがとうお嬢さん。あなたの娘さんかな?」
「いえ、伊万莉は私の息子なんです。女の子みたいでしょう?」
オロチと一緒に荷物を降ろしていた伊万莉の母と男性の会話を聞いて、伊万莉は心の中で苦笑した。
今の伊万莉の格好は動きやすいよう半袖のポロシャツにゆったりしたチノパンだ。体のラインは全く女性に見えないはずなのだが。
「なんと! これは失礼を致しました。目まで悪くなってしまったようで」
「そうですよ、あなたはもう……。本当にごめんなさいね」
「いえ、お気になさらずに」
物腰が柔らかくて所作に品のある夫婦だ。どこぞの名家の御隠居だろうか。こんな田舎の民宿ではなくリゾート地の高級旅館に泊まっているほうが余程よく似合いそうだ。
続いて女性にも手を貸して降りるのを手伝う。自然に手を差し出してくるあたりこういうことに慣れている感がある。
荷物も全部宿の中に運び入れ終わったところで伊万莉の母が民宿を代表して挨拶をした。
「改めまして藤間様、民宿神代にようこそ。存分にお寛ぎください」
伊万莉が老夫婦を部屋まで案内してオロチが荷物を運んでいる。
「こちらがお部屋になります」
何分古い民宿なので高級旅館の部屋と比べたら調度品も何もかも見劣りする。広さも八畳程なので決して広くはない。よくある田舎の祖父母の家といったところだ。
「あら素敵なお部屋。飾らなくて変に華美じゃないのが好感持てるわ」
「ふむ。有名処の旅館は飽きる程泊まったが結局はこういう部屋が一番落ち着く」
聞きようによっては皮肉を言っているととられかねない言葉だが、二人の顔を見れば心の底から喜んでいるのが伊万莉にもわかった。
また、そう言ってもらえるとここで働く伊万莉としても嬉しかった。
「昼食はお部屋と食堂のどちらでお召し上がりになりますか?」
まだ少しお昼には早い時間だが昼食の準備はもうそろそろ始めなくてはならない。
部屋で食べるか食堂で食べるかは客によって様々だ。静かに味わいたい人は部屋で食べるし、自分たちと話しながら食べたい人は食堂で食べる。地元の人間しか知らない観光情報を聞きたいという客は結構いるのだ。
「どうする?」
「どっちにしましょうかねぇ。あなたたちはお昼はどうするの?」
「私たちは藤間様が食べ終えられてから後でいただきます」
「だったら食堂でみんな一緒に食べましょうよ! それがいいわ!」
「おお! 確かにそれは良い考えだ」
「えっ?」
食事時に話し相手にはなるが基本的に客と一緒に食事を取ることはない。客が食べ終わってそれを片付けてから自分たちの分を簡単に済ませるのが普通だ。
ただ、別に禁止されているとかではなくて、それは宿側と客側は一緒に食事をしないものだという世間一般の常識からきている。
むしろ一緒に食べたほうが準備も片付けも一度で済むから本当はそちらのほうが楽ではある。
「そう……ですね、藤間様さえ良ければご一緒します」
「わあ、ありがとう。あ、これ、うちで作ってるお菓子なんですけど、皆さんでどうぞ」
「え、これって……」
女性がちりめんの包みから出して渡してきたのは有名な老舗和菓子店の紋が入った菓子折だった。
これをうちで作っていると言う彼女とその夫はやはり。
「日持ちするものを選んできたんだけど、夏ですからお早めに召し上がってください」
よく「お客様から受け取れません」と言う人がいるが、それは謙虚でもなんでもない。送る側の善意を踏みにじる行為に等しい。
職業上、贈収賄に当たる場合を除いて受け取らないことは失礼になると思ったほうがいい。
「ありがとうございます。お茶の時間にでも一緒に食べましょう」
伊万莉が快く受け取ってくれたことに二人は笑顔を向けてくれた。
それからエアコンや内線電話のことを説明して、「昼食までもう少々お待ちください」と退出しようとした時、今まで黙って伊万莉の陰にいたオロチが突然口を開いた。
「ご老体、二方とも足を患っているのか? いつからだ?」
「オ、オロチ⁉」
喋るといろいろぼろが出そうだから客の前では喋らないようにと伊万莉はくぎを刺していたのだが、何を思ったのかそんなことを聞きだした。
二人の足が悪いことは伝えてあって、必要な場合は手を貸すようにとも言ってある。それなのに何で今更わかりきったことを聞くのか伊万莉にはわからない。
だがそんなオロチの無遠慮な物言いにも老夫婦は気を悪くしなかったようだ。
「うむ。一年くらい前から徐々に思うように動かなくなりましてな。医者にも診てもらったのですが足には特に問題ないそうでして。寄る年波には勝てませんわ……」
「私も主人と同じです。ですから旅行は今回が最後になるかもしれないということで、二人の新婚旅行の思い出の地であるこちらに来させていただきました」
「そう……だったのですか」
最後の旅行先としてここを選んでもらえて嬉しい反面寂しさも大きい。できればまた元気に訪ねてきてほしいと思うのはわがままだろうか。
足が弱くなるという感覚は伊万莉にはわからない。誰かに手伝ってもらわなければ自分の行きたい場所にもいけないというのはどれほどの屈辱かもわからない。
でも彼らの最後に良い思い出を残したいという想いは理解できる気がした。
「お二人にとって当宿が良き思い出になるよう精一杯おもてなしさせていただきます」
「ありがとう。よろしくね」
「あまり気負わずにな」
老夫婦のそれは自分を見る祖父母の表情によく似ているなと伊万莉は思った。
十年以上前に亡くなってもう思い出すことしかできないその表情に涙腺が刺激される気配がした。
「それでは失礼します」
オロチを連れて伊万莉はそそくさと部屋を立ち去る。
このままここにいたらきっと自分はこの顔を保っていられない。客に崩れた表情を見せるわけにはいかなかった。
伊万莉が去った戸のほうを老夫婦は見つめる。
「こちらは良い後継ぎに恵まれたようですね」
「そうだな。新婚旅行で泊まった五十年前も今も宿は変わっておらんようで安心した。しかし、わしらの子や孫はどうしてああなってしまったのか」
「確かに店は大きくなりましたけど、昔からのお得意様は皆離れてしまいましたしね」
「教育を間違えたのかもしれんなぁ。家族がそれぞれ反発しあって好き勝手なことして。最後に全員揃ってご飯を食べたのはいつだったか……」
「そうですね、いつだったでしょうかねぇ」
老夫婦の頭には「自分が正しい。お前が間違っている」と年中喧嘩している家族の光景が浮かんでいた。