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6.触らぬ神に祟りなし

 再びキッチンにお邪魔した伊万莉は昴の了承を得て林原家の冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中の物はどれを使ってもいいと言われているので、それで何が作れるか考えている。

 とはいっても皆お腹を空かせているのであまり時間をかけるわけにはいかない。彼女たちは飢えているのだ。


「チャーハンとみそ汁くらいかな」


 冷凍ご飯、卵、ベーコン、玉ねぎ、豆腐、ナスそして味噌を取り出す。


「一応聞くけど、オロチも食べる?」

「俺の腹はまだ一割も埋まっていない。伊万莉の作るものは美味いからいくらでも食うぞ」

「了解。そんなには作れないけどね」


 冷凍ごはんを電子レンジで解凍する間に食材の下準備をしていく。

 鍋で出汁を入れたお湯を沸かしつつ、トントンと小気味よい音をさせながら玉ねぎをみじん切りにしてナスを短冊切りに。ベーコンも小さくさいの目切りにしていると電子レンジが終了の音を鳴らせ、そのうちに湯が沸いた鍋にナスを投入して――と伊万莉は淀みなく調理を進める。

 そんな伊万莉の調理風景を、やることがなく暇を持て余しているオロチは興味深げに見ていた。特に包丁が気になるようだ。


「よく研がれているいい刃物だな。だが俺の剣には…………ん?」


 途中まで言ったところで止めて、オロチは腰紐のあたりを探っている。


「……ない! 俺の剣がない‼」

「剣?」


 騒いでいるオロチを横目に、フライパンに油をひいて強火で熱する。


「そうだ! 凄くて格好良くて半端ないあの剣だ! 伊万莉知らないか⁉」

「ちょっと⁉ 危ないから揺らさないで!」


 伊万莉の肩を掴んで体を前後に揺さぶるオロチ。

 肝心のその剣の説明が主観ばかりでよくわからなかったが、オロチ・剣といえばあれしかない。

 ヤマタノオロチの尾の一本から発見されたという、草薙の剣。


「ヤマタノオロチを退治した時に見つかったていう剣ならスサノオが」

「またあの腐れスサノオかっ! こうして俺から何もかも奪っていくのか!」

「落ち着いて! 昴ちゃんや司ちゃんが驚いてるから!」


 特に司はまだ中学生。大人が本気で激高した場面に遭遇したことなどないだろう。怯えているに違いない。


「強気攻め……いやこの場合はヘタレ攻め?」

「まったくこの妹は……。いいからごはんできるまで勉強しとけ」


 そんなことはなかった。


「すまん、つい……。して、今剣はどこにある?」

「今は確か……三種の神器の一つ、天叢雲剣として熱田神宮に祀られてるとか」

「よし、取りにいこう」

「無理無理! 大騒ぎどころじゃ済まなくなるから!」

「なぜだ? 俺の剣だぞ」

「そうだけどダメなの。もう日本とってなくてはならないものになっちゃってるから」


 よく熱せられたフライパンにみじん切りした玉ねぎを入れて炒める。ジューという音と食欲をそそる香ばしい匂いが部屋に広がった。

 国譲りから天孫降臨とか皇室の話とかしてもおそらくわからないだろうから、「ダメなものはダメ」で納得してもらうしかない。


「悪いけどこればっかりはどうしようもないんだ」

「くっ、気に入っていたのだが……」


 気落ちした様子のオロチ。犬だったら耳がぺたんと倒れていたことだろう。

 その剣のことが相当気に入っていたらしい。


「まったく……ほらっ」


 しゅんとした犬ことオロチの鼻先に程よく焦げ目のついたベーコンが差し出された。

 伊万莉がつまみ食いしようと思ってちょっと大きめに切った塊だ。それを玉ねぎを炒める傍らで焼いて、爪楊枝に刺してオロチに渡したのだ。

 オロチはそれにぱくりと食いつく。


「熱っ!」


 ベーコンの熱さに口をはふはふしながらも美味しいと言うオロチを見て伊万莉は笑っている。


「姉上よ」

「何? その呼び方」

「これはヤバいのではありませんか? 私的にもですが、姉上的にも……」

「ぐぅ……」


 司にとってのヤバいは「いいぞもっとやれ!」という意味だが、昴にとってのヤバいは「もうやめて」である。

 同じ言葉なのに立ち位置で全く異なる意味になるとは日本語とは不思議なものだ。

 オロチといる時の伊万莉は、昴といる時よりも砕けた感じがする。気を許しているとでも言うのだろうか。二人は出会ってからまだ半日も経ってないのに。


「私もこのままじゃダメだと思ってるんだけど、でも今は……」


 家のこと司のこと、そして伊万莉のこと。考えれば考えるほど昴自身の感情を優先させるわけにいけないという結論に達する。


「お姉ちゃん……」


 司も司で自分の存在が姉の足かせになっているのは理解しているが、だからといって自分の為に進学を断念した姉の想いを無下にするわけにもいかずジレンマに陥っているのだ。

 それに……。


「ま、司は家のことは心配しないで自由にやりなさい」


 昴だって別に何もかも犠牲にしてるわけではない。やりたいことのために今の仕事を選んでいろいろ勉強もしている。

 伊万莉についても今回のことで少し危機感を覚えたので一歩は無理でも半歩くらい踏み出してみようとは思っていた。



 伊万莉が味噌を溶き入れると途端に芳醇な香りがキッチンに充満する。後は豆腐をいれてみそ汁は完成だ。

 その時玄関のチャイムが鳴って、「はーい」と返事をして昴が対応に向かった。

 近所の人だろうかと想像しつつ、チャーハン用のご飯を炒め始めた。玉ねぎとベーコンに絡めながら上手くほぐしていく。

 溶き卵を入れて炒めて完成だというところで、玄関から何やら争う声が聞こえてきた。


「昴ちゃんどうしたんだろ?」

「俺が見てこよう。伊万莉は続けていろ」


 様子を見に行こうとした伊万莉と司を制してオロチが玄関に向かった。





「いりませんから帰ってください」

「ご家族のことが心配ではないのですか? わずか十五万円で買えるこの退魔の数珠があれば悪霊から身を守れるのです。今なら特別に家族三人分で三十万円にしておきますから」

「だからいりません!」


 玄関の鍵を開けたままにしていたのは失敗だったと昴は後悔した。昴が着いた時にはこの怪しい訪問販売のスーツ姿の男は既に玄関の中に足を踏み入れていたのだ。

 それからこの家の家相が悪いだの、家族が次々に亡くなるのはそのせいだなど、不安を煽ることを言って高額な物を売りつけようとしていた。家族構成まで把握しているから尚更気持ち悪かった。


「昴、どうかしたか?」

「あ、オロチ」


 その姿が目に入ってほっとした。伊万莉が隣にいたくなる気持ちがちょっとだけ昴は理解できた。





(ちっ、女だけの家じゃなかったのかよ。祭りでもあるのか? へんな格好しやがって)


 突然のオロチの出現に男は内心苛ついていた。

 家主の留守中、子供相手に言葉巧みに「お試しに」とか言って商品を強引に置いて帰って、後日請求書を送るという詐欺を男のグループは全国各地で行っていた。

 事前の調べでは、この家は母親とその娘二人しか住んでいなくて、土曜日のこの時間は母親が仕事でいないという情報だったのに奇妙な格好の男がいたのは想定外だった。


「何かうちに悪いものが憑いてるとかこの人が言ってて……」

「悪いもの? この家は祖霊に守られていて変なものは入り込む余地はないぞ?」


 オロチが首をぐるっと巡らせて家の中を透かすように見た。蛇神であるオロチがそう言うと大変説得力がある。

 正直、昴は若干不安ではあったのだ。祖父母に続いて父親も早くに亡くなっていたので何か悪いものが憑いてるのではと。

 それがオロチの言葉で安心に変わった。彼らが守ってくれているとわかったから。


「今この家にいる悪いものと言えばお前くらいだがな」

「は、はは……何のことでしょう? とにかく! この退魔の数珠があれば災いから逃れられるので一か月くらい使ってみてください」

「これか? 何の力も感じんな」


 梵字が印字された数珠をつまみ上げて興味無さげに顔に近づけ匂いも嗅いでみる。


「そんなことありませんよ。徳の高い僧侶に念を込めていただいてますので」

「ふーん。それよりも貴様、今までどれだけの人を不幸にして来た? 十人や二十人ではあるまい。背中で怨嗟の声が渦巻いているぞ」


 ぎろりと睨んだオロチが男の背後をゆっくり指差す。

 それを見て男は何度も何度も背中を見ようと振り返るがそこには何もいない。

 昴の目からも何も見えなかった。


「や、やだなぁ脅かさないでくださいよー」

「わからんのか? 救いようがないな。まあ救うつもりもないが」


 オロチの声音が低くなって蔑んだような目で男を見る。


「スサノオの奴と比べたら児戯にも等しい……が、それでも気分は悪いな」

「な、何を……」


 顔の高さまで上げてまっすぐ伸ばした右腕を男に向け、開いた手のひらを何かを握りつぶすように閉じていく。

 オロチが手のひらを完全に閉じた直後、男の様子が急におかしくなった。

 喉を押さえて突然苦しみだしたのだ。


「ぐがっぁあっ! ……かはっ!」


 そして見えないものが巻き付いているかのようにそれを取ろうと必死にもがいている。

 爪が何度も首の皮を引っ掻いて血が滲みだした。


「な、何⁉ どうしたの⁉」


 昴からしたら男が突然の呼吸困難になったようにしか見えなかった。

 オロチが何かをしたのは確かだが、昴の疑問にも答えず男を睨みつけている。その目は異様に冷たかった。

 このまま放っておいたら男は死んでしまうのではないか。例え詐欺師と言えど殺すのはやりすぎだ。

 ここに至ってようやく昴は、目の前の人物は人の姿をしているが古代の神だということを理解した。

 悪人だから殺す。気に入らないから殺す。その行為に微塵も躊躇いがない。


「オロチ、遅いけど大丈……夫……」


 二人があまりにも戻ってくるのが遅いから、調理を終えた伊万莉が様子を見にきた。

 オロチに任せたものの、余計なトラブルを起こしてはいないかと心配になって、盛り付けは司に任せて顔を出すことにしたのだ。

 しかしそこで見たのは想像を遥かに上回る光景。苦しむ男とそれに侮蔑の視線を向けるオロチ。

 伊万莉の目には男の首に体が透けた蛇が巻き付いている様子が微かに映った。

 これだけでオロチが何かをしているのがわかった伊万莉は止めに入る。


「オロチ‼」


 掲げられた腕を掴み、オロチに大声で呼び掛けた。


「どうした? 伊万莉」


 それにオロチは普段と変わりない調子で返事した。

 まるで今何も起こってないように。


「どうしたって……。そのままじゃその人死んじゃうよ! やめてくれ!」

「やめる? こいつは悪人だぞ? 何人も死に追いやっている生きる価値のない人間だ」

「そうかもしれないけど殺すのはダメだ! お願いだから、止めて……」

「ふむ……」


 懇願する伊万莉ともがき苦しむ男を見比べる。


「伊万莉がそう言うなら」


 渋々といった感じでオロチが手のひらを開くと、それと同時に男が崩れ落ちた。苦しそうに咳はしているが呼吸はできているようだ。

 その様子を見て伊万莉と昴はひとまず安心した。





「がっ! ごほっ! ……な、何が起きて」


 男は自分に起こったことを正確に把握することはできないだろう。理解できたのはせいぜい「急に喉が締め付けられるような感覚に襲われて呼吸ができなくなった」、といったところか。

 よくわからないがこの場にいるのは大変良くないと本能が危機を訴えているような気がして、商品を急いで鞄に詰めて挨拶もせずこの気味の悪い家を飛び出した。


「ちっ!」


 車を運転して一目散に走り去る中、ここは完全に失敗してしまったと男は盛大に舌打ちをする。

 だが、たかが一件失敗しただけだ。またすぐ次の標的は見つかる。

 男は今日はもうホテルに戻って休むことにした。

 背中がぞくぞくとして寒気が止まらないのは夏風邪でも引いたのだろう、と。



 後日、新聞の片隅に小さく「詐欺グループ摘発」という記事が載った。全国各地で霊感商法を行っていた詐欺グループの拠点に一斉に家宅捜索が入り、実に二十三人もの容疑者が逮捕されたというのだ。

 そのうちの一人が逃亡する際、階段から落ちて頭を打って死亡したということも書かれていた。

 それがこの男だったのかどうかはわからない。





「本当に良かったのか伊万莉。放っておけばあの男はこれからも悪事の限りを尽くすぞ」

「警察には連絡するよ。近所にも注意するように言うつもり」

「ケーサツ? って何だ?」

「悪人を捕まえる人たちだよ。だから今回みたいなのは自分だけでどうにかするんじゃなくて、警察にお願いして捕まえてもらうんだ」


 古代では法律がなかったからその意味をすぐ理解するのは難しいかもしれない。

 だけどそれは子供に社会のことを教えるようなものかと気長に考えることにした。一日も経たずに現代社会のシステムを全て理解するのはまず不可能なのだから。


「回りくどいな。悪いことをしていたら即殴るで良くないか?」

「良くない。ほら、ご飯できてるから行くよ」


 オロチの背中を押してリビングに向かう。

 その途中で昴が玄関で立ったまま寒さから身を守るように自身の体を抱きしめているのに気が付いた。


「昴ちゃん?」


 伊万莉が近づいて呼びかけると、消え入りそうな声で昴が言葉を漏らす。


「…………怖かった。もし一人だったらどうなってたか……。でもそれ以上に、オロチがあんなに簡単に人を殺そうとすることが……私はもっと怖い」


 人が目の前で殺されそうになるという体験はもちろん昴にとって初めてだった。

 もしかしたら機嫌一つ損ねるだけでいともあっけなく自分の命も奪われるのではないか。恩人である伊万莉すらほんの些細なことで殺されてしまうのではないか。

 触らぬ神に祟りなし。

 神が触れられる程身近にいるのは間違いではないかとの思いが昴を恐怖の鎖で縛りつける。

 そんな昴の不安や恐怖を取り除ける便利な言葉など伊万莉は持ち合わせていなかった。

 昴はオロチが怖いと言ったが、人間だって気分次第で他人を殺そうとすることがあるのだ。だからオロチがいなくなっても昴が抱いている根本的な恐怖は払拭されないだろう。

 伊万莉ができることなんてこんなことしかない。


「大丈夫だよ、昴ちゃん」


 震える肩をふわりと優しく包む。


「……大丈夫」


 この行動に根拠があってやるわけではない。そんなものあるわけがない。

 ただ、伊万莉が小さい頃に怖い夢を見て夜泣いていた時に母親がしてくれたことをそのまま昴にしているだけだ。

 不安というのは負のベクトルで可能性を考えることに他ならない。しかもそれは果て無く続き連鎖する。

 ああなったらやだ、こうなったら怖い、そんなものがいくらでも湧いてくる。そしてそれが一定量を超えた時、人はパニックになってしまうのだ。

 伊万莉がやったのは不安を共有して昴は一人じゃないというのを伝える、ただそれだけ。

 幼子をあやすように背中をトントンと柔らかく叩いてやっていると、そのうち昴の体の震えも自然と収まっていった。


「……ありがとう。たぶんもう平気」


 まだ完全には不安が消えたわけではないだろうが顔色も良くなっている。


「じゃあごはん食べよっか」


 司もなかなか戻らない三人を、首を長くして待っていることだろう。

 さあさあと伊万莉は二人をリビングに行くよう促す。


「……俺のやったことが昴を怖がらせてしまったのか?」

「気にしないで。オロチは私を助けようとしてくれたんだから」

「いや、あれは……」


 確かに最初は昴を助けるためにあの男と相対したが、途中からはただ感情に任せての行動だった。

 神は人とは異なる倫理観で存在しているし、本来であれば人が作った決まり事など守る必要はない。

 だが、オロチの時代から二千年以上経過し、神のほとんどを見かけなくなった。世は既に人の時代へと移り変わっていた。

 であるならオロチはどうするべきか。

 他の神々と同じようにその姿を隠すか、あるいは人の世で人に倣って人と共に生きるか。


「伊万莉、昴」

「ん?」

「人の世に慣れる為に俺も努力をしよう」


 神様もそんな表情するんだ、と顔を見合わせる二人。

 もうそれは人と何一つ変わらない。

 神が歩み寄るなら人も歩み寄らないわけにはいかなかった。

 二人同時にオロチの手を取る。

 まだまだ隔たりは大きいかもしれないが、今はご飯をいっしょに食べるところから始めよう。


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