22.眠り際の告白
伊万莉が風呂に入っている間、陽子とオロチは温めてもらったご飯の残りを食べた。作り立てではないが変わらず美味しかった。
美味しかったけど、でもさっきとどこか違うような気がした。
あの心の奥まで勝手に通り抜けていく感じはなくて、陽子に寄り添って美味しくなってくれるような。
これは陽子の心情によるのだろうか。
オロチはご飯を食べ終わったあとそのままテーブルで寝てしまった。
陽子はオロチにタオルケットをかけてあげて、自分の分の食器と一緒に彼の分も洗い場に持っていった。
窓の外では様々な虫が鳴いている。ジー、ジーとかリィ、リィ、リィとか、どの虫がどの鳴き声とか陽子にはわからない。
だけどそれは幼少の頃から変わらない景色。
「洗ってくれてるの? 置いといたら後で僕がやったのに」
「これくらいはね」
そう言いながら風呂から上がってきた伊万莉は、隣で陽子が洗った食器を布巾で拭いていく。
もうこの後は寝るしかないからだろうか、伊万莉の格好は無地のワインレッドのTシャツに高校の体育の時に使っていたハーフパンツと、家族にしか見せないようなラフな姿だった。
「オロチ寝ちゃった?」
「うん。一応タオルケットはかけといた」
「そっか。たぶん朝まで起きないからあのままにしとこう」
食器を洗い終わって伊万莉がそれらを食器棚にしまっていく。
何やら収納のルールみたいなものがあるようで、左にあったものを右に動かして空いたスペースにしまったりしている。陽子は伊万莉に食器を渡すだけだ。
「宮尾さんこの後どうする? もう寝る?」
「さっき起きたばかりだから寝れるかなぁ……」
「じゃあ布団に入って話でもしようか。眠たくなったら寝るってことで」
「そうだね。……ん?」
陽子は伊万莉の後ろについて歩きながら何気なくした会話を脳内で反復する。
――ということは……?
所々軋んで音が鳴る廊下部分を進むと突き当りの左右に色がくすんだふすまが見えた。
「こっちの僕の部屋使って。あとは……使い捨ての歯ブラシ出してあるから」
その左側のふすまを開けながら伊万莉は言った。
部屋の中には二組の布団が並べて敷いてあって、ころんと横に転がれば隣の布団に入れてしまう間隔しかない。
「……」
「母さんか……」
離しておいたのに伊万莉が風呂に入っている間にこっそりこのような配置にしたようだ。
暑くなっていた部屋の空気を必死に追い出す扇風機の首を振る音が静かに響く。
その音を踏み潰すように伊万莉は部屋にどかどかと入っていき、布団の間隔を部屋の端と端まで広げた。
「布団は宮尾さんが好きなほうを選んで。僕はちょっと抗議にいってくるから」
陽子の前を通り過ぎて伊万莉はふすまが開いていた反対側の部屋に入っていく。
そして奥から二人が言い争うような声が聞こえるが陽子の関心はそちらには向かなかった。
「あ……う……」
伊万莉の部屋で伊万莉と一緒に伊万莉と並んで寝る。
冷静に考えたら、いや冷静じゃなくても、とんでもないことではないか?
もちろん陽子は今でも男性と一緒の部屋で寝るなんて絶対無理だ。まずそういう状況にもっていくことはないし、万が一そうなりそうならトイレで寝るほうを選ぶだろう。
でも伊万莉は別だ。特別だ。伊万莉の横が誰よりも安心できて、誰よりも陽子の心をかき乱す。
あの時、陽子が「抱いてください」と言ったのは冗談とか軽口などではく、心の底からの本心だった。精神の状態が酷く不安定になっていて、自分がすがれる唯一のものにすがりたかったのだ。
しかし、逆に正常な状態だったらあんなこと言える機会はこの先あっただろうか。良いにせよ悪いにせよ、秘めた想いを伝えるきっかけにはなった。
だからといっていいのか、いざそれを自覚して目の前のこれを見てしまったら恥ずかしさが込み上げてきた。冷静になったからその意味が今更ながら脳に浸透してきた。
ここまでお膳立てがされていても伊万莉はきっと陽子に何もしない。それは陽子にも想像がつく。
伊万莉本来の性質もあるけど、それに加えてあの状況下で陽子が順番も何もかもすっ飛ばして、自分が傷ついたことを理由に行為を迫ったことも大きな要因だ。
その証拠に、伊万莉はそこにつけ込むようなことは避けようとしている。
でももしそうなら、今の気持ちをしっかり伝えて順を追って接すれば、二人の距離をもっと縮められるのではないか。
諦めていたはずなのにこの人を誰にも渡したくないと陽子は思ってしまった。
とりあえず布団はもうちょっと近くに寄せて、歯をしっかり磨いておくことにした。
伊万莉が母への抗議を終えて部屋に戻ると陽子の姿はそこになく洗面所から水の音が聞こえてきていた。おそらく歯を磨いているのだろう。
――それはいいんだけど。
自分の部屋の中だけ時間が巻き戻ってしまったかと伊万莉は本気で思ってしまった。
伊万莉が布団を再び離そうとしていたら背中から声がかかった。
「あっ!」
「離すのはダメ?」
「ダメっていうか……話をするなら近いほうがいいかなって」
「まあ宮尾さんが大丈夫ならいいけど」
コクコクと陽子は頷く。
そのまま彼女は歩いてきてぺたんと布団に腰をおろした。
「電気消してもいい?」
「あ、小さい灯りは点けといてほしい」
「了解」
カチッカチッと紐を引っ張って蛍光灯を消すとオレンジの淡い光が部屋を染めた。
扇風機の風以外に、南側の窓から西側の窓へとたまに緩やかな風が通り抜けていく。
部屋の灯りに向かって飛んで網戸にぼんぼんとぶつかっていた昆虫もいつの間にかどこかへいってしまったらしい。
伊万莉と陽子は布団に横にはなってもしばらく会話をせずに夏の夜を味わって、今日の出来事をそれぞれ思い出していた。
「私、神代君とこうして並んで寝る日が来るなんて思わなかった」
外の虫の音が一瞬静まった時、陽子が声を小さめにして言った。
それに対して伊万莉も同じような音量で返事をする。
「それは僕も同じ」
秘密を教えるように二人の間で言葉が交わされる
「ねえ、もう少しそっちに行ってもいい?」
「……何か企んでる?」
「企んでないよ」
伊万莉が顔を横に向けると陽子がこちらを見ていた。いたずらを思いついた子供のような瞳をして。
「うそ。企んでる」
「ふふっ、ばれた」
陽子に昏い影はなく、事件以前の明るい陽子に戻っているように伊万莉は感じた。
虫の鳴き声がまた騒がしくなる。
「こっち来てもいいよ」
「ありがと」
上半身を起こして陽子は体を伊万莉の布団まで移動させた。
そんなに静かではないのに衣擦れの音がやけによく聞こえる。
「僕の近くはもう全然平気なんだね」
「うん。神代君なら」
少しでも寝返りを打てばお互いが触れるほどの距離。
すぅすぅという呼吸の音、触れてなくても感じるほど以外と熱い人間の体温。
心臓の鼓動も聞こえてきそうだった。
「私以外にもこんな風にして一緒に寝たことある?」
「……ない、かな。家族以外は」
少し黙考してから伊万莉は答えた。
「すばるんとも?」
「うん」
陽子が姿勢を横向きから仰向けに直して、ふぅと息を吐く。
それから十秒くらいだろうか、黙ったままだった陽子は意を決したように口を開いた。
「あのさ、神代君はすばるんのこと……好き?」
陽子が伊万莉に聞いておかなければならないこと。
勝手に思い込んでそのままにしておいてはいけないこと。
仲が良さそうとは思っていても誰も二人の仲のことをストレートに聞いたことがなかったから。
「好きだよ」
こう答えるかもと覚悟していたとはいえ、やはり直接本人から聞くと心臓がキュッと縮まった。
「でも」
伊万莉は言葉を続ける。
「宮尾さんや皆が思う恋愛対象としての好きというのとは違う」
「友達止まりってこと?」
「友達止まりというか、特別止まり」
「んん?」
聞いたことない熟語に陽子は眉をひそめる。
「あまりこういう話はしないんだけど、なんだろう、僕も今日の夜の雰囲気にあてられたのかな」
天井の模様に視線をさまよわせてから伊万莉は軽く目を閉じる。
それはどこか祈りのようで陽子はその横顔から目が離せなくなった。
「宮尾さんも僕が自分の心の性について決めかねてるってのは……知ってるんだよね?」
「あっ、うん……。だからどっちも好きになれなくて、そういうことに関心が薄いのかなって」
これについては陽子も以前に伊万莉に尋ねたことがあった。
女子の告白をことごとく断るものだから、冗談めかして「男の子のほうが好きなの?」と内心はらはらしながら聞いてみたのだ。
しかしそれに対して伊万莉は、「どっちなんだろう」と自問するだけだった。
その時の陽子はそれ以上深くは触れずにいて、後でネットで調べたらそういう人がいるというのがわかった。
「僕みたいな性的欲求も恋愛欲求もない人をアセクシュアルっていうみたい。心の性が原因なのか、それとも元からアセクシュアルだったから心の性がわからなくなったのか、卵が先かニワトリが先かみたいになってて自分が本当は何なのかわからないんだ。まだ本気でそう思える相手に出会ってないだけなのか、それとも形だけでも経験してみたら変わるのか変わらないのか」
二つの要因が相互に作用して、相まって、乗算されて、今の伊万莉となっている。
現在進行形で好きな人がいる陽子からしたら、伊万莉の言うことは腑に落ちなかった。
そういうことに興味が薄いのではなく、全くないと伊万莉は言う。
恋愛に臆病とか消極的とかそういうレベルではなく、恋愛という感覚がわからないというのが陽子にはわからない。
「ごめん。よくわからない」
「だよね。僕からしたら逆に宮尾さんとかみたいに人を好きになるって感覚がわからないんだから」
彼女に対して腹が立ったり失望したりというのはない。伊万莉はそう感じるのはお互い様だと思っている。
「ということは、神代君は誰かから好きって言われるのは迷惑?」
「迷惑ではないよ。ただ、その想いに応えられないのは申し訳ないと感じるけど」
「すばるんはそのこと知ってるの?」
それを知っているのだとしたらどういうスタンスで伊万莉と接しているのか。
伊万莉の幼馴染である昴が彼に好意を抱いているのは傍から見てもわかり過ぎるくらいだったので陽子も遠慮していたわけだが。
「知っているよ。全部知っていて、それでも伊万莉だから好きって言ってくれる。だから昴ちゃんは友達以上で特別な存在」
恋愛関係にはならないけど、と伊万莉は接ぎ足す。
これでようやく先程の「特別止まり」の意味が陽子にはわかった。
伊万莉からしたら昴は友達以上の関係である。しかしその延長線上に恋愛関係がないから友達以上恋人未満にはならずに、特別という枠を設けたということだ。
まだ伊万莉の特別の先になった人はいない。だから特別止まり。
――でもすばるんは、ちゃんと好きって伝えてるんだ……。
「そういう意味では宮尾さんも特別になるかな」
「わ、私も?」
「今日から、だけどね」
伊万莉が体の向きを九十度陽子のほうに向けて静かな笑顔を見せる。
陽子は伊万莉の横顔をずっと見ていたから不意に二人の顔が近づいて頬が紅潮するのを感じた。
暗い中で色の見分けはつくはずない。とはわかっていても、それを誤魔化すように質問を投げかけた。
「じゃ、じゃあ私とすばるんはどっちが上?」
だから口から出たのはこんな意味のない質問だった。
そして言ってみて後悔した。絶対に陽子が満足する答えなんて返ってこない。
だって昴はすでに陽子の前を歩いているのだから。
陽子は伊万莉のことを男性だと思って好きになっている。伊万莉の根幹に関わる部分を聞いてもそれは変わりない。
だけど、例えば女性になって男性を好きになった伊万莉を陽子が愛せるかと問われてもわからないとしか言えない。
でも昴はそれを知って、受け止めて、その上で好きと言ったのだ。
陽子からしたらそれだけでもう負けた気になってしまう。
ところが、伊万莉は陽子のそんな悩みを一刀両断した。
「どっちが上とか下とかないよ。特別ってのは他と比較できないから特別なんだ」
伊万莉の特別には明確な基準はない。陽子のように今まで気にしてなかったけど突然特別になることもあれば、昴のように徐々に特別な関係になることもある。また、オロチのように会った瞬間にそうなることも稀ではあるがないことはない。
「もっと繋がりを強くしたいと思える人が僕の特別になる。それでもし、その中から特別という殻を破る人が現れたら、僕は初めて恋ができるかもしれない」
中空にある何かを掴もうと伊万莉は右手を伸ばす。
「神代君は恋愛に憧れてるんだね……」
「うん、そうかも」
恋に恋すると言えばチープに聞こえてしまうが、伊万莉のそれは恋というものに祈りを捧げているようだった。
恋愛等に興味が薄いと装って、その実は恋愛という感覚がわからないことに悩んで、恋愛を渇望して、そして密かに真摯に請願する。
――誰か僕に恋愛を教えてください、と。
「……そっか。すばるんもまだそこには至ってないんだ」
「そうだね。一緒にいると安心はするけど」
陽子は緊張していた体のちからをふっと抜いた。
「神代君のこといろいろ聞けて良かった」
「何か僕の事ばかり喋っちゃったけど、宮尾さんはこれからどうするの?」
眠いのか、伊万莉の瞼が閉じたり開いたりを繰り返している。
「明日家に帰ったら家族に事件のこと話してみる」
「一人で大丈夫? 母さんに付いていってもらおうか?」
「うん、お願いしようかな。一人だと正直上手く話せない気がする……」
思い出すとまだ怖い、と陽子は言う。
「わかった。明日、母さんに話してみる……」
「ありがとう」
だんだん目を閉じている時間のほうが長くなってきた。
もう意識は半分夢の中なのかもしれない。
どこまでも気遣ってくれる優しい彼。
「神代君」
「……ん」
「好きだよ」
すぅすぅという寝息が規則的に聞こえるだけで伊万莉からの反応はなかった。
結局面と向かって想いを伝えられなかった。陽子の声は眠りに落ちる彼に届いたのだろうか。
陽子はあんなに大胆なことを言えた自分がまるで遠い過去の物語の登場人物のように思えた。まだあれから五時間くらいしか経っていないのに。
「……完全に寝ちゃった?」
そっと小声で話しかけてみる。
二人の会話がなくなったことで外の虫の音が急に部屋に流れて入ってきたように感じた。
その虫の鳴き声を隠れ蓑にするように、陽子は体を起こしてそれから伊万莉の顔に影を落とす。
中性的というか女の子のような可愛い寝顔。
――これくらいは許してくれるよね。
髪が伊万莉の顔に触れないよう耳に掛けて、牡丹雪が舞い落ちるくらいの速さでゆっくりと顔を近づけていった。
陽子も使った同じシャンプーの香りがふわっと鼻を掠める。
耳を叩く陽子の心臓の鼓動の音。
そして、お互いの唇が――。
「痛っ」
触れる直前で陽子の左手の中指に刺すような痛みが走った。
そこに目をやると白く微光を発する指輪が薄暗闇の中でも存在感を示していた。
陽子の行為を咎めるようにまだちくちくとした痛みは続いている。
――あの子が私を止めたの?
伊万莉の同意を得ずに彼の唇を奪おうとしたことをダメだとシラヤは叱ってくれたということか。
それでは陽子が憎むあいつらと同じになってしまうぞ、と。
「そうか……ごめんね、ありがとう」
指輪を一撫ですると痛みはさっと消えた。陽子が反省したことを察してくれたらしい。
最先端AIなんか目じゃない優秀さだ。それに結構手厳しい。
それはそれとして、さっきの陽子の声で伊万莉が起きてないか様子を確認してみる。
まだ眠りは浅いはずだからもしかしたらと。
すると眠たげな伊万莉の瞳と目が合った。
「あー、起こしちゃっ……た?」
「……まあ、まだ寝入り端だったから」
「ご、ごめん。私もすぐ寝るから」
夏用の掛け布団を胸のあたりまで掛け直して陽子はギュッと目を閉じる。そして考える。
伊万莉はいつから起きていた?
痛みで思わず声が出た時?
それとも陽子が伊万莉の顔を覗き込んでいる時?
まさか本当はずっと起きていて?
そんなことがぐるぐる頭の中を回って少しも眠れる気がしなかった。
そんな折、またすぐ眠ったと思っていた伊万莉が声をかけてきた。
「陽子ちゃん」
「え?」
『宮尾さん』ではなく『陽子ちゃん』。
伊万莉が言う『特別』に陽子もなったからだろうか。
でも今になって急に呼び方を変えてきたのはどういう――。
陽子が伊万莉に振り返ると彼の顔は思ったよりずっと近くにあった。
「僕も好きだよ」
陽子は息を呑む。
やはり伊万莉は最初から眠ってなどいなかった。
キスしようとしていたことも、それをシラヤに止められたことも、全部わかっている上でこんなことを言ってくる。
陽子のそれと違って伊万莉の好きには恋愛感情は含まれてない。
これはエールだ。
陽子が明日から頑張っていけるように、辛いことがあっても心がくじけないように、伊万莉という支柱を陽子の中に立てるそのための一言。
「ありがとう……。伊万莉……君」
本当にありがとう、と陽子は胸の内で何度も繰り返す。
涙がすっと落ちて顔に線を描く。
「苦しくなったらまたいつでもうちにおいで。美味しいもの作ってあげるから」
「うん……」
望めば本当に伊万莉は隣県にある大学からわざわざ帰ってきて、陽子の為に手料理を御馳走してくれるのだろう。
伊万莉は瞼をゆっくり閉じて、今度こそ本当に眠りについた。
そして陽子は自分が眠くなるまで好きな人の顔をいつまでもいつまでも見続けた。
――この人を好きになって良かった。




