21.指輪
――ジンギ……仁義……神器?
神器と言われても陽子の頭の中ですぐには漢字に変換できなかった。
日常であまり使う言葉ではないし、なによりその後の言葉の衝撃が強かったからだ。
「変えるって……何? どういうこと?」
「そのままの意味だ。蛇としての肉体を捨て、その身を道具と成す。神器となればその力は格段に跳ね上がる」
「それってこの子がいなくなるってことですか? そんなの私は……」
望んでない、と声には出さずに呟く。
せっかく仲良くなったのに、近くにいてくれるだけでいいのに、自分の為に何かが犠牲になることに誰が喜ぶのか。
「宮尾さん、あのね……その……」
伊万莉も陽子の想いはわかる。伊万莉だって誰かが自分の為に犠牲になることを望みはしない。
しかし、大切な人やものの為に自らの命を捧げるのを良しとするこのシラヤという蛇の想いもまた理解できるのだ。
矛盾しているのは伊万莉も気付いている。自分がするのは良くて他人がするのはダメだとか、それは何てエゴイスティックなのだろうかと思う。
だからこそ陽子の想いを否定も肯定もできずに言い淀むしかなかった。
『ミヤオ様』
そんな伊万莉の想いを知ってか知らずか、シラヤが伊万莉を制するように陽子と伊万莉の間に割って入り、陽子に呼びかける。
『私の運命は本来あの時に尽きていたはずなのです。それをミヤオ様に救っていただいたのですから、私のこの命を貴女の為に使うことに何の問題がありましょう』
「でも……」
『それに、私がいなくなるわけではありません。ただ形が変わるだけです。そう、蛇革の財布になるみたいな』
「それはちょっと違うと思う……」
真面目なシーンだったのにシラヤが微妙なことを言ったので伊万莉は思わずツッコミを入れてしまった。
『今のように言葉を交わすことこそできなくなりますが、神器となって貴女の傍にずっといますから』
「君自身はその姿に未練はないの?」
『ないわけではありません。ですがそのようなこと些末な問題。貴女の苦しみを放置するほうが私にとって未練となりかねませんから』
どうか理解を、とシラヤがその小さい頭をちょこっと下げた。
その頭を陽子は両手で包み込むようにしてそっと優しく撫でる。
しばらくそのまま時計の秒針が時を刻む音を皆は聞いていた。
針が一周したくらいだろうか。陽子が小さく口を開ける。
「これ以上拒んでたら君の想いが無駄になっちゃうよね……。ちょっと寂しいけど、うん、よろしくお願いします」
『任せてください。ではオロチ様』
再びシラヤはオロチの目の前に移動した。
その姿は伊万莉の目からは緊張しているように見えなくもない。
そこにオロチは自身の右手をテーブルに伏せる形で伸ばす。
「よし、やれ」
オロチの命令を受けて、顎を大きく開けたシラヤがその小指に噛みついた。
一瞬顔をしかめるオロチ。だがそれもすぐに元に戻る。
伊万莉と陽子からはそこの間で何が行われているか視認できない。シラヤが必死にオロチの指に喰いついているだけに見える。オロチが言うには神力というものを受け渡しているらしいのだが。
『オロチ様……』
「まだだ。三割は持っていけ」
シラヤが苦しそうに体をうねらせる。
神に成りたてのシラヤは当然神としての器がまだ小さくて神力をそれ程溜めておけない。それを今は無理して詰め込んでいるという状況だ。
オロチは伊万莉が作ったご飯を食べてさらに酒も呑んでいるので神力は一旦全回復している。
そこから先程普通の蛇に神格を与えたので少しだけ減少していた。それでも九割以上の神力が残っている。
『もう……』
「ふむ。まあこれくらいか」
シラヤの顎がオロチの指から離れると、そのまま細い体をころんと横に倒した。
「だ、大丈夫?」
『心配には及びません。人間で言う食べ過ぎみたいなものですから』
陽子の心配する声に気丈に振舞っている様子をみせるも、『う~』と唸っている。動くと何か出そう、と言ってシラヤはピクリともしない。
「よく頑張ったと誉めてやろう。あと百年もしたら立派な蛇神になっていたであろうに、惜しいことだ」
『私如きに勿体ない……お言葉でございます』
「ではすぐに神器の作成に移るとしよう。……くっ!」
オロチはお猪口に残っていた最後の酒をものすごく惜しそうにシラヤに振りかけた。
酒は古来から穢れを祓い清めるものとしての意味を持つ。
オロチが酒を好んで飲むのは、神である自身の穢れを払うという側面があるのだろうか。
「シラヤ。お前が成るべきもの、望む方向、来たる結末。あらゆる事象を一点に見据えて、その他一切を諦めよ」
シラヤを囲むように光の柱が立ち昇り、彼の姿を覆い隠す。
「黄昏に眠れると思うな、暁に目が覚めると思うな。地を這い、天を仰ぐことも許さん。唯、其処に在れ」
光の柱はその幅を徐々に狭めて、やがて一本の糸のようなものになった。
天井を貫き、夜の闇も通り抜け、天へと至る一筋の光。
蜘蛛の糸。
それを見て伊万莉は芥川龍之介の有名な短編小説のタイトルを思い浮かべた。
これで果たして陽子に救いが訪れるのだろうか。
「我が拾い上げし神器の名は……『白矢之宝環』」
オロチが光の糸に手を伸ばし、拳を握って何かを掴み取る仕草をした。
すると光は粒となって散り散りになりやがて消え、その跡には何一つ残っていなかった。シラヤの姿もそこにはない。
「これが神器へと形を変えたシラヤだ」
「それがあの子……?」
白く輝く指輪がオロチの大きい手のひらの上に凛として存在していた。
光っているのは蛍光灯の光を反射しているのではなく、どうやら指輪そのものが微光を発しているようだ。
「一柱の神がただ一人の為だけに姿を変えた神器。他の奴が持っても一切効果はない。まさにお前の為だけの神器だ」
シラヤは陽子から受けた恩を返すために、陽子を守ることだけを想い、その身を小さな指輪に変えた。
それはどれ程の奇跡か。
「ということで、伊万莉」
ほれ、とオロチが指輪を親指で弾いて伊万莉に渡す。
何の前触れもなく突然自分のほうに飛ばされた指輪に驚いて、伊万莉はそれを慌ててキャッチした。
「わわっ! こんな大事な物投げてこないでよ! ……で、何で僕のほうに?」
これは陽子にしか効果のない神器だ。それをオロチはなぜ伊万莉のところに投げてよこしたのか。
伊万莉がオロチを見ると顎で陽子を指し示している。
――ああ、そういうことか。
こんな変なことに気を回さずにそのまま渡せばいいのに、と伊万莉は思う。
「宮尾さん、手を伸ばして指をこっちに」
「あ、うん」
陽子もその意図がわかったのか、視線をあちこちに泳がせながらも左手の指を真っすぐ伸ばして伊万莉のほうに差し出す。
その細くて白い手を支えた時に袖口からわずかに傷の痕が覗く。赤黒いかさぶたになっていて痛々しく見えた。
だがそれもいずれ治っていくのだろう。
よく見ると鱗のような模様が細かく刻まれている指輪を、伊万莉はそっと彼女の指に近づける。
「薬指にははめないからね?」
「そうだとは思ってたけど、わざわざ言わなくていいじゃないもう……」
「ははっ、ごめん。でもいつか宮尾さんと結婚する人の為には取っておかないといけないから。それが誰であろうとも」
「それって……」
伊万莉自身のことも排除してないという含みをもたせているのか。
恋愛については興味が薄いと言いながらも、なぜかそういう気配りはしてくる。
いや、陽子の気持ちを知っていてこれなら、気配りというより最早嫌がらせに近い。
ないならないではっきりしてもらったほうが下手に未練が残らなくていい。
「はい」
陽子の中指に硬く冷たいものが触れる。陽子には少し大きいと思ったそれは指元まで入ったところで自然とサイズが調整されて、ピタリと指に固定された。
陽子が指輪を撫でてみてもあの子のようにくすぐったがる反応はもちろん返ってこない。
でも触れているとどこか落ち着くから不思議だった。
「それができるのは守るところまでだ。そこから先をどうするかはお前次第だな」
「はい、ありがとうございます。オロチさん、シラヤ、そして神代君……」
ここまでしてくれて何の不満があるだろうか。
壊された未来が足元に落ちている。それをまだ拾える、直せると陽子に示してくれたのはこの人たちだ。
ならば、どんなに困難でも苦しくても時間がかかっても、それをやり遂げてみせることがこの人たちに恩を返すことになる。
陽子の明日はこうして決まった。