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20.慟哭の後におはよう

 水滴が落ちた。


「宮尾さん?」

「陽子ちゃん?」


 最初はぽたっぽたっという断続的な雫でしかなかった。

 落ちた雫は盆に溜まって、次第にその直径を増していく。

 両の拳を白くなるくらい固く握りしめ、それでテーブルを押さえ込む。

 唸りのようなものが伏せた顔から発せられ、小さな背中が小刻みに震えて、気付けば陽子の目からは大粒の涙が溢れていた。



「うぅ……ううぁあぁぁっ‼」



 堪えきれなくなった陽子は誰に憚ることなく泣き声をあげた。

 零れる涙を拭おうともせず、テーブルをバンバンと叩き床を踏み鳴らして泣きじゃくる。

 それは幼子がおもちゃを取り上げられた時のような激しい泣き方だった。



「うぐっ、え゛っ……ああぁあ゛ぁぁぁああっ‼」



 五分経過しても泣き止むどころかますます激しくなっていく。

 伊万莉と彼の母は危なくないよう食器は下げたが無理に泣き止ませようとはしなかった。

 これはおそらく、あの事件の後で彼女が流す初めての悔し涙なのだとわかったから。





 痛かったり怖かったり不安だったりで泣いたことはもちろんあった。

 でも悔しくて泣いたことはまだなかった。

 固く押し込めて心を凍らせてその上に何枚も仮面を被って決してそれだけは表に出ないようにしていた。

 陽子が認めたくなかったから、かもしれない。自分の未来がなくなったことを。



 でも今日、大切にしてきた小学生からの夢も何もかもを奪い取られて悔しくてたまらないというその感情を伊万莉の料理が暴き出した。

 陽の光が冬の水溜りに張った氷を溶かすように、彼女の心を溶かした。

 教習所でしたオロチと伊万莉の会話もその一端になっていたように思う。

 最後の一押しがあの給食だったのだ。



 陽子の心の底からの慟哭は彼女が泣き疲れて眠るまで続いた。









 背中に暖かさを感じる。

 それから本のページをめくる規則的な音。

 寄せて返す静かな潮騒にも似ている。

 まどろみのなかで聴いたその心地よい音に陽子はしばらく身をゆだねた。



 眠りから覚めた時にこんなに気分が良かったのはいつ以来か。

 いつもは何度寝ても悪夢で無理やり起こされるから、常に眠りが浅くて倦怠感が付きまとっていた。

 でも今日は悪夢を見なかった。

 内容はよく覚えてないが幸せな夢だったような気がする。また眠って続きを見たいと陽子が思ったくらいだからおそらくそうなのだろう。



 けれど、いつまでもその夢に浸っているわけにはいかない。

 いくら辛くても現実を見て歩かなければならない。

 夢は夢なのだから。





「……んっ」


 腕を枕代わりにしてテーブルに突っ伏して寝ていた陽子が起きると、背中にタオルケットがかけられていた。暖かいと思ったのはこれか。

 喉がやたらと乾いて目が少し腫れているような感覚があった。


「おはよう、宮尾さん」


 陽子の左隣から柔らかい声が聞こえた。

 そちらには今し方読んでいたであろう本を閉じてテーブルに置く伊万莉の姿があった。

 陽子が起きるまでずっと隣にいてくれたのだろうか。


 ――それともまだ夢を見ている?


 起きたら横で好きな人がおはようと言ってくれるなんて。


「えっと……」

「といってもまだ夜の十時なんだけどね」


 確かに外はまだ暗い。陽子が寝ていたのは二時間弱くらいらしい。

 ずいぶん長く寝ていたと思ったがそうでもなかったようだ。


「どう? 落ち着いた?」


 伊万莉にそう言われて陽子は自分がやらかした失態を思い出した。

 人前であんな駄々をこねるように泣き喚いたことに今更ながら恥ずかしくなった。


「そ、その……ごめん」

「気にしないで。今お風呂は母さんが入ってるから、後で顔洗うといいよ」

「えー? 今そんな酷い顔してる?」


 陽子は自分の顔をむにむにともみほぐす。

 鏡で見ないとわからないが、あれだけ泣いたら涙の跡も残っているだろうし、顔にも衣服のしわの跡がついているかもしれない。


「いや、すごくスッキリした顔してる」

「そう……なのかな。自分じゃよくわからないけど」


 でも心が軽くなったのは確かだった。

 問題は何一つ片付いてないけど、先刻までの死に向かって歩いていた陽子はもういない。

 だとしたらそれはきっとこの人のお陰だ。



 伊万莉からしたら陽子は小中高の同級生の一人でしかないのだろうが、それでも親身になって話を聞いてくれて、自分のできる範囲で陽子を救おうとしてくれた。

 これで下心とか一切ないのだから「本当にこの男は……」、と陽子は心の中で嘆息せずにいられない。



 伊万莉がそういう方面に興味がほとんどないことはいろいろなところで陽子も聞いていた。

 しかしこの様子では彼を攻略したいと思う人は、自身の性的な魅力を武器として使えないから人間性のみで勝負するしかない。

 攻略の難易度が最上級の彼からしたら自分はどのくらいの位置にいるんだろうと陽子は気にはなった。


「そうだ、オロチ。あの話を宮尾さんに」

「ああ」

「あの話?」


 伊万莉が水差しからコップに水を入れて陽子のほうに差し出す。

 あまりにさりげない動作だったので陽子はお礼を言うタイミングを逸してしまった。


「こいつがな、お前のことを守ってやりたいと訴えてきてな」

「この子が、ですか?」


 オロチが手のひらの上に白蛇を乗せてそんなことを言ってきた。

 むしろその白蛇は守られる側では? どういうこと? と陽子は伊万莉の顔を確認する。

 しかし陽子の疑問を受けても伊万莉は頷くだけだった。


「いつもだったらこんなことは頼まれても絶対やらんのだが今回だけは特別だ」


 それを聞いても陽子には何のことだかさっぱりわからない。

 そこに伊万莉から補足の説明があった。


「現状、宮尾さんの一番の懸念は動画が流出してしまうこと、だよね? それをこの子に特別な力を与えて防いでもらうって話なんだけど……突然言われてもわからないよね」

「うーん、動画の流出が止められるなら私としては何でも歓迎だけど、特別な力とかってよくわからないかも」


 そもそもオロチがどういう人なのかが陽子にはわからない。蛇を操れて蛇と仲がいい人、くらいの認識だ。


「なんにせよ悪いようにはならん。見ていろ」


 オロチが白蛇をテーブルの上に置くと、白蛇はその場でとぐろを巻いて姿勢を正した。

 それを確認してオロチは白蛇をすっと指差す

 するとどこからか微風が吹いてきて陽子の髪を揺らし始めた。


「蛇の大神オロチの名において、お前に神格と『シラヤ』の名を与える」


 その宣言が終わると白蛇の体全体がぼうっと薄い黄色の光で包まれた。

 神格と名。それは神という存在を定義するもの

 珍しいとはいえただの蛇であるそれをオロチの責任の下で神の位にまで持ち上げた。

 これは与えるものがオロチで、受けるものがその眷属であるからこそできる。


『感謝致します、我らが大神』

「えっ? 何?」


 この場にいるはずのない少年の声。

 それがどこからともなく陽子の耳に届いてきた。


「シラヤ、これは特例中の特例の措置だ。本来ならば自らの才と努力のみでその場所まで辿り着かねばならん。この意味わかるな?」

『重々承知しております。オロチ様の名を汚さぬようこのシラヤ、身命を賭して彼の者を守る所存でございます』


 恭しく返答する白蛇に、オロチは鷹揚に頷く。


「あ、オロチ神様っぽい」

「いや、神なのだが……」


 陽子の目には白蛇が喋っているようにしか見えなくて、しかも伊万莉とオロチはそれを普通に受け入れている。


「今のはこの子が喋った……んだよね? それにオロチさんって一体……」


 いろんなことがありすぎて陽子の頭の中は情報の大渋滞が起きていた。


「宮尾さん、これから僕が言うことを信じてもいいし、信じなくてもいい。だけどとにかく聞いてほしい」

「う、うん」


 伊万莉の瞳が陽子をしっかりと見据える。

 昴と司は割とすんなり信じてくれたが陽子はどうだろうか。


「この人は日本神話に出てくるヤマタノオロチ。蛇神たちの頂点、蛇の大神、出雲の元土地神」

「えっと……。ヤマタノオロチって『あの』ヤマタノオロチ?」


 陽子が思い浮かべているのは当然古事記や日本書紀で描かれている怪物としてのヤマタノオロチであって、ざっくりと悪いことをした奴くらいの認識だ。


「そう、『その』ヤマタノオロチ。でもね、その神話のヤマタノオロチは意図的に歪められて悪者にされてたけど、実際はお酒が好きで、義理人情に厚くて、心配性で、そしてたまに頼りになる、こんな奴」


 こうして言葉にしてみるとオロチは本当に人間味に溢れていた。

 昔と今の環境や文化の違いに思いもしない行動をすることがあっても、決して面白がって人間を傷つけるようなことはしない。


「いろいろあって封印されていたのを僕が解いて、今はうちの守り神としてうちに住んでるんだ」


 伊万莉の語ることの真偽を陽子が確かめる術はない。というよりも陽子にとってそれらの真偽はさほど重要ではなかった。

 伊万莉が「信じてもいいし、信じなくてもいい」と言っていたのはそのことについても暗に言及していたのだろう。

 要するに、結果さえついてくればその過程であるオロチの正体とか力のことは無視できる程度の問題でしかないと。

 それより陽子が気になったのは伊万莉がオロチを紹介した時の表情や口調だった。

 それはまるで――。


「それで、その蛇の神様のオロチが、宮尾さんが助けた普通の蛇だったこの子を神様認定して、宮尾さんを守ろうって話なんだけど……ついてこれてる?」

「あー、うん、なんとなく?」


 少しばかり別の事に逸れてしまった意識を元に戻す。

 今は自分のことを皆が考えてくれているのだからと陽子は雑念を追い払った。


「だけど、この話はここからが本題なんだ……」


 そう言って伊万莉は話のバトンをオロチに引き継ぐ。

 ことの全容を事前に聞いているらしく、伊万莉は浮かない顔をしている。


「神になったばかりのこいつの力はまだ微々たるもの。あらゆる厄災から対象を守るなど高度なことはできん。俺にもそんなことはできんのだからな。そこで」


 オロチはシラヤに「いいんだな?」と念押しともとれる確認をして、それにシラヤも『はい』とだけ答えた。


「俺の力を分け与えた上でシラヤという存在一柱を神器へと変える」


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