2.迷って逃げて出会って
まだエアコンが十分に効いてなくて車内は暑い。
着けなれない下着の下にじわりと汗が浮く。
「昴ちゃんは仕事は順調?」
「どうだろ。働くこと自体初めてだし、まだ三か月しか経ってないし、こんなもんかなって。ただ、学校と違って自分の行動の一つ一つに責任を伴うから緊張感はあるよ」
「これみたいな衣装を作ったりすることを仕事にはしないの?」
伊万莉はワンピースの裾をちょこっと持ち上げてみる。
「将来的にはそう思ってるよ。コスプレ衣装製作の専門みたいな。だから縫製の仕事して経験を積んでいるわけだし。でも今は無理。司が大学出るまでは家を支えないと」
その眼には確固たる意志が浮かんでいた。
昴の父親は早くに亡くなっていて、母親だけで幼い二人の面倒を見ていた。その苦労を知っていたから昴は高校卒業後、地元で就職する道を選んだのだ。
昴のおかげで林原家の経済的負担はかなり軽くなっているのだろう。
「だから、『大学入ったから好きなだけ遊べるぜ、うぇーい』とか言ってるような馬鹿はぶん殴ってやりたい」
「お、過激な発言。でも安全運転でお願いします……」
昴の感情も乗り込んだ車は少し加速をして、目的地の船通山を目指して進んだ。
道を折れる度に細くなっていき、最後は車同士がすれ違うことが困難な山道を経て登山道入り口の駐車場にたどり着いた。
「このあたりでもまだ暑いか」
「山頂まで行けば多少は涼しいかもね」
「船通山か。本当に久しぶり」
スサノオノミコトが降り立ったとされる地。
ヤマタノオロチ退治伝承の始まりの地。
「伊万莉ー、どこでお弁当食べる?」
「そこの東屋がいいんじゃない?」
陰になってて風通しも良く、休憩場所に適していそうだ。
後部座席からお弁当の入ったリュックを持ち出すと、伊万莉はふと気になっていたこと思い出してを口に出した。
「そういえば最近変な夢……」
その瞬間、伊万莉は何とも言い表せない感覚に襲われた。
「夢が何?」
――何これ?
胸がざわつくとでも言うのだろうか。
不安で落ち着かなくて今すぐどこかに走っていきたい、何かにすがりたい、そんな奇妙な感覚。
胸を押さえて静めようとしても一向に治まらない。
「伊万莉どうしたの? 具合が悪いの?」
そのおかしい様子を見た昴が心配そうに近寄ってきて声をかけるが、今の伊万莉にはそれすら聞こえなかった。
もうこの心臓を鼓動を狂わせるような正体不明なものをどうにかしたいという考えしかなかった。
「……森の中?」
そのまま少しすると、漠然とした感覚ではあるが森の中に行かなければならないような気がした。
そこにあるものこそがこの現象の原因ではないか、と。
「ちょ、ちょっと! 伊万莉!」
登山道でもなんでもない整備も当然されてない森の中へ入っていく伊万莉。
今着ている服が何なのかさえ気になっていないようだ。
昴が慌てて追いかけ森へ分け入るが、目の前で伊万莉が突然いなくなった。見失うはずのない距離だったにもかかわらず、である。
縦穴があってそこに落ちてしまったかと周辺を探してみるがそんな穴はどこにもなかった。
神隠しにあったように伊万莉は忽然と昴の前から消えてしまった。
森の中を歩いていたらいつの間にか深い霧に包まれていた。
真夏で正午、霧が出ているのが既におかしい。一メートル先が霞む程の濃さはこの季節にあり得ない。
地面と白の世界しか見えないから今森の中にいるのかも怪しい。
さすがにおかしいと伊万莉も気付く。
「これは……変な所に入り込んじゃった?」
ファンタジー小説でよくある異界とか異次元とかではないかと推測する。
そんなもの今日までこれっぽっちも信じてなかった伊万莉だが、ここに至っては信じないわけにもいかなくなった。
こっちに来てからはまだ少し落ち着かない感じはあるが、あの焼けつくような焦燥感はすっかり無くなっている。
ただ、ここにその原因があるのはほぼ間違いないと伊万莉は確信していた。
三十分くらいは歩き回っただろうか。
「昴ちゃん心配してるよねこれは」
もしかしたら警察とか消防に連絡して捜索隊が出されているかもしれない。
できるだけ早く戻らねばと思うも、さっきから同じ場所を歩いているようにしか感じない。
何か目印的な物を基準に歩いたほうがいいと思い、周りに目を凝らした。
するとうっすらとだが霧の中に浮かぶ人影のようなものが伊万莉の目に留まった。
同じように迷い込んでしまった人なら協力して出口を探したいし、それに出口を知っている可能性もあるので声をかけてみることにした。
「すいませーん」
声に気が付いた人影がもぞっと動いて伊万莉のほうに寄ってくる。
男性だろうか女性だろうかと考えながら待っていると、近くに来た人影は……人影だった。
「ひっ……!」
それは人の形をした影。
輪郭が定まっておらず、手と足そして頭があるということがかろうじてわかるだけのもの。
これが生きた人間であるはずがない。
凄まじい恐怖で伊万莉は総毛立った。
捕まったらどうなるかわからないけど捕まってはいけないのは本能的に理解できた。
とにかくその人影とは逆へ全力で走って逃げるも、そこら中に同じような人影が溢れているではないか。
一体に見つかったのがいけなかったかもしれない。逃げている間に人影は乗算的に増えていく。
「はあっ、はあっ……!」
もともとそこまで運動が得意ではない伊万莉は恐怖と焦りからスタミナも無くなり、走っているのか歩いているのか区別がつかないようになって、ついには足がもつれて盛大に転んだ。
いや、足元に合った石塔に気が付かずに引っかかってしまったのだ。
そして、その拍子に高さ三十センチくらいの小さな石塔は崩れてしまった。
しかし伊万莉にはそんなことを気にしている余裕はない。
人影の集団の一体がすぐそこまでじりじりと迫ってきていた。
人影の手が伊万莉に向かって伸びてくる。
「くっ、このっ!」
考えがあってそうしたわけではない。転んだ時に足を痛めて立てなくて、逃げることができないけどでも諦めたくなくて、藁をもつかむ思いで手近にある崩れた石塔の一部の丸い石を投げつけようとしただけだ。
そしてそれは伊万莉がその石塔の一部を持ち上げた時に起こった。
――待ちわびた……、待ちわびたぞこの瞬間を! スサノオォォォッ!
叫び声に続いて、光とも闇とも言えない強烈な何か波のようなものが暴風を伴って伊万莉の周囲を駆け巡る。
跳ねて飛び回って散々暴れて好き勝手して、蜘蛛の子を散らすようにそれらは瞬く間にどこかへ消えてしまった。
伊万莉を追ってきていたあの人影も近くでは確認できなくなっていた。
その後に残ったのは――。
「……封印を解いたのはお前か?」
荒々しい低音の声で男は伊万莉に問う。
現代日本ではまず見ない格好。
日本史の教科書や古代の絵巻などでよく見る衣褌、とでも言うのだろうか。上衣と下衣を腰のあたりで紐で縛った古事記とか弥生時代のような服装。
ただ、教科書等見るものと違ってかなり着崩していて、腕の部分は肩口までまくっているし、下衣に至ってはジーンズのようにダメージ加工が施されていた。
さらにはごてごてと勾玉やら玉やらで必要以上に飾られていて原型がほとんど残っていない。
しかしそれらが一切霞んでしまうくらいの特徴がこの男にはあった。
血のようにどこまでもどこまでも赤い二つの眼。
「ふ、封印? ……これ?」
伊万莉の手には先程投げようとした丸い石の玉があったが、次に見た時には砂となって指の隙間からこぼれて落ちてしまった。
「そうだ、あのくそ忌々しいスサノオの仕業だ!」
吠えるその男はぐっと牙をむいた。
霧深い世界、謎の人影、謎の男とその格好、封印、スサノオ。
わからないことだらけだ。
だけど伊万莉はその男から目が離せなくなっていた。
人を惹きつける魅力を持つ人物とはこういう人なのかもしれないと。さっきまでの胸のざわつきはこの人のせいではないかと。
「礼を言うぞ、娘。ん? 男か? いや、女?」
そう言われて今の自分の格好がワンピースを着た姿だったことを伊万莉は思い出す。
尻餅をついて足を大きく広げたあられもない状態だったのでなんだか無性に恥ずかしくなった。
スカート部分を押さえて急いで座りなおした。
「まあどちらでもよい。この恩にはいつか必ず報いよう。だが……」
男の視線が伊万莉から外れて周囲を見渡すように動く。そこには消えたはずのあの人影がまたうごめいていた。
完全に囲まれていて今度こそ逃げ場がない。
「今はこいつらをどうにかするのが先決か。スサノオめ、よりにもよって黄泉比良坂に封印するとはな」
伊万莉もその単語は知っている。観光案内でもその話をすることがある。
黄泉比良坂は地上世界と地下にあるという黄泉の国の境界だと言われていて、イザナキとイザナミと別離の場所として有名だ。
それが本当なら脱出することは叶うのだろうか。
「あ、あの……」
「心配するな。俺に任せろ」
伊万莉を守るように男は人影の前に立ちはだかる。その後ろ姿は巨木を彷彿させる。
それはなぜか言いようのない懐かしさと心苦しさと安心を伊万莉の心にもたらした。
「黄泉の国にも逝きそこなった愚かな亡者どもが。俺は今、長年にわたる封印と空腹でかなり苛ついている。故に」
苛ついていると言う割には不敵な笑みを浮かべる男。
「貴様らは俺の糧となれ」