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16.恋は歪んでもここにある

 ――抱いてくれないかな?

 それを聞いて伊万莉はどんな顔をすればいいのか。

 答える前に言葉の認識に齟齬があってはいけないので一応陽子に確認をした。


「抱くというのはギュッと抱きしめること……じゃないよね?」

「……もちろん、セックスのことだよ」


 伊万莉は息を吐いて組んだ手を口元に当てた。

 二十歳になってない女の子からその言葉が出ても別に驚きはしないが、それでも違和感はある。

 オロチをチラっと横目で見るが特に反応はない。伊万莉が見た時に「何でこっちを見る?」というかんじで首を傾げただけだ。そもそも会話の内容はわかってないのだろう。


「宮尾さんもわかってると思うけど、僕はそういう……」

「うん、知ってる。神代君がそういう性欲や恋愛欲が薄いってこと」


 冗談とか気まぐれの類ではないことは彼女の顔を見ればわかる。しかし――。


「本当は神代君に私の初めてをもらってほしかった。でも神代君の事情もあるし、すばるんのこともあるから諦めてた。そのうちいつか他の人を好きになってその人に初めてをあげるのかなって。……そしたらあいつらに騙されて奪……われ……て」


 伊万莉が知らなかった本当の彼女が徐々に見えてくる。


「あの体を這いまわる気持ち悪い感触が全然消えないの……。洗っても洗っても洗っても洗っても洗っても落ちないの」


 陽子は服の上から腕をばりばりと掻きむしっている。

 あの服の下を想像して伊万莉は顔をしかめた。

 おそらくだがかなり酷い傷跡になっているのだろう。肌を隠すのは異性の目から見えないようにすることも一つの理由だが、傷跡を隠すためというのが最も大きな理由に違いない。

 極度の潔癖症の人で汚れが落ちてないのではと不安になり、皮膚がボロボロになるまで何度も手を洗うというケースがあるという。今の陽子はそれと同じような精神状態だ。


「だからお願い神代君。すばるんに嫌われてもいい、神代君に軽蔑されてもいい、あの行為をなかったことにするために、私を抱いてください……」


 伊万莉に向けて陽子は頭を下げた。

 この状態で抱いてくださいと言われて「はい」とすぐ答える男なら彼女は元からそんな頼み事しないだろう。つまり断られるとわかっていて言っているのだ。

 しかし同時に彼女の本心でもある。この時点で既に自己矛盾が発生している。

 断られるとわかっていても言わなければならないほど彼女は追い詰められていた。

 だから伊万莉もはっきりと断らなければならない。それでは問題が解決しないと言わなければならない。


「ごめん宮尾さん、それはできない。宮尾さんの症状が改善するとは思えないし、送迎車の中で少し触れただけであの拒否反応だったのにセックスなんて無理がある」

「改善するかもしれないじゃない。それに神代君が相手だったら何とか我慢できると思う」

「今より悪くなることもある。あと、我慢したらできるって言われて喜ぶ人はいない。もちろん僕も」

「う……」


 同情だけで肌を重ねてしまったら後で双方とも絶対に後悔する。

 しかし、今完全に風景と一体化しているオロチが見守ってくれていなかったら感情に流されてそのまま――ということも考えられた。

 陽子の言うやり方は劇薬と似ている。効果はあるかもしれないが、なかった場合はさらに重篤な症状を引き起こす可能性が高いというものだ。

 結局は彼女の心を癒す為には時間をかけていろんな人と交流をするしかないような気がする。

 ただ、それには問題が解決しているという前提が必要だ。


「宮尾さん、病院には行った?」


 陽子はコクンと一回頷いた。

 伊万莉がはっきり断ったせいかわからないが、また気分が沈んでいるようで動作だけで答える。

 病院には行ったという答えなら、望まない妊娠とかは避けられたと思っていいのか。


「家族には言った?」


 首を横に振る。

 言っていたら教習所には通わせないだろうから当然か。

 これまで一人で耐えてきたということだ


「じゃあ警察は?」


 今度もふるふると横に首を振った。


「……動画を撮られて」


 被害届を出したら公開するぞと脅されていると彼女は言外に言っている。

 伊万莉が予想していた一番最悪なパターンが的中してしまった。

 これでは陽子はそいつらに逆らうことができず、その動画をもとに二次、三次の被害を受けてしまうこともある。

 陽子はあいつらと言った。具体的な人数は言ってないが手口の周到さからかなり手馴れているとみた。それなら被害者は陽子だけ、ということはないだろう。

 陽子の通う大学近辺でそういったニュースを伊万莉は聞いたことはない。他の子も同様に声を上げられず泣き寝入りしているということだ。


「下衆が……!」


 自らの悦楽の為に脅して暴行して他人の人生をめちゃくちゃにして、それで平然としてられるなんて人間ではない。鬼畜の所業だ。

 伊万莉は怒りの感情を隠そうともせず罵った。

 伊万莉でも怒るときは怒る。先程の乃木教官の件や小学生の時の金魚の件でもそれは明らかだ。

 でも今回の件はそういうのとは次元を異にしていた。


「オロチ、僕は生まれて初めて本気で人を殺したいと思ったよ」


 一昨日、オロチが昴の家で詐欺師を殺そうとした時、伊万莉は止めた。その時は人を殺すのはどんな理由があってもよくないと思っていた。

 だけどそれでは治まらない感情があることを今知ってしまった。


「そうか。でもそれは誰にでもあることだと思うがな」


 オロチはあっけらかんとして伊万莉の言葉を軽く受け止める。


「人が大勢いれば衝突は起きる。良い奴もいれば悪い奴もいる。俺のいた時代では嫌いな奴を殺すなんて飯を食うのとそう大差なかったものだが、今はそういうこと勝手にできんのだろ?」

「うん」


 法律の壁がある。意趣返しすら被害者には許されていない。

 全てを捨て、自らも法の裁きによって罰を受ける覚悟がある者だけがそれを可能とするのだ。


「ならば今のやり方でやるしかあるまい。まあ、お前がどうしても誰それを殺してほしいと言うなら俺は喜んで手を貸すつもりだが」

「今のやり方……か」


 ぶん殴って問題が丸く収まるなら伊万莉も今すぐに行って殴ってやりたいという思いだが、今回はそういう軽はずみなことができない。そこから先を防がなければ何の意味もない。

 被害届を出して捜査をしてもらうにも、そこら辺の担保がなければ彼女たちはさらに酷な現実に直面することになる。

 結局のところ全てはそこに集約される。

 動画が流出しない確約があれば彼女たちは今すぐにでも動けるのだ。動くか動かないかは本人の意思によるが。


「えっと、神代君、その人ってどういう人なの? 俺のいた時代とか、あと蛇を操ったり……」

「あー、そうだね、宮尾さんも話し辛いことを打ち明けてくれたから隠すわけにはいかないか。でもここだとちょっとあれだな」


 さっきから建物の陰で聞き耳を立ててる人もいるから、これ以上の情報は与えたくない。


「母さんに連絡して迎えにきてもらうからうちで話そう。宮尾さん今日うちに泊まれる? このまま帰すと危ない気がするから目の届くところに置いておきたい」


 伊万莉はスマートフォンを取り出して母の携帯電話番号を呼び出しながら彼女にその可否を聞く。


「えっ? ま、まあ大丈夫だと思う……。家には連絡しとけば」


 陽子は髪をいじりながらそんな返事をした。


「一応母さんからも宮尾さんの家に電話はしてもらうようにする。あ、あと、泊まるからって期待されても何もしないから」


 泊めるというのもあくまで監視が目的だ。

 伊万莉は一応釘を刺しておいた。


「……はい」

「あ、もしもし母さん? 僕だけど……」


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