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1.彼と彼女の関係

 ――スサノオ。

 この恨み、この無念、どれ程月日が流れようとも決して忘れはせぬ。

 ただ殺すだけでは飽き足らぬ。考えうる全ての苦痛を、ありとあらゆる絶望を、地の果てにいても必ずや追いかけて与えてやろうぞ。

 謝っても許さない。

 死んでも許さない。

 死んで生まれ変わっても許さない。

 許さない。許さない。許さない。

 お前を取り巻く全てを……許さない。





「……というわけでヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトはクシナダヒメと結ばれました。ちなみに、ヤマタノオロチから流れ出た血で肥の河、現在でいう斐伊川は真っ赤に染まったと言われています。極稀ですけど夕焼けに照らされた斐伊川は本当に血が流れているように見えて綺麗なので一見の価値はありますよ」

「へーえ」


 大学生である伊万莉は夏休みを利用して実家に帰省している。

 伊万莉の実家は両親が民宿を営んでいて、今はその手伝いをしていた。

 観光案内の一環として宿泊客に地域にまつわる日本神話やらそれに絡めての観光スポットの話を夜の食事の時にしているのだが、今日のカップルはあまり関心がないようだった。


「でも明日の午前中には広島のほうに行くからなあ。島根は一日だけの予定だったし。もっと見るところがあれば何日か滞在しても良かったんだけどね」

「そうそう。出雲大社と松江城だっけ? 行ったの。その二つ以外でこれだって場所ある? テーマパークみたいに騒いで楽しめるみたいな」

「えーっと、水族館と鳥を扱った動物園はありますけど騒げるかどうかはちょっと……」


 どちらも基本的には騒ぐ場所ではないし、島根に某大規模テーマパークと同様の施設を求められても、と伊万莉は思う。


「それだったら大阪とかでよくない?」

「だな」


 こういう結論に落ち着くだろうことは伊万莉も予想はしていたが、予想はしていてもあまりいい気分はしない。

 市街地のホテルとかじゃなくてわざわざこんな田舎の民宿に泊まったのは地方独特の雰囲気を味わうためではないのだろうか。


「ま、まあ島根はゆっくりとした時間を過ごす場所ですから。ある程度余裕をもって予定を立ててお越しになるとより楽しめると思います。お二人が周られたのは東部だけのようですので、今度島根にいらっしゃる時は西部や隠岐もまた違った見どころがあっておススメです」


 と伊万莉はおススメしたものの、そこには若干の問題があった。

 交通の便の悪さである。

 地元民ですら東部・西部・隠岐はそれぞれ別の県であるかのような扱いなのだ。

 もちろん伊万莉も十九年生きてきて隠岐に行ったことは一度もない。


「隠岐も行ってみたいんだけどねー。そのうちかな」


 男性はそう言ったが、興味がある素振を見せながらそれが社交辞令だというのは伊万莉でもわかった。

 それよりも次の女性の行動のほうが問題だった。


「ねえねえ、それより君の写真撮ってもいい?」


 伊万莉が返事をする前に女性の方がスマートフォンのカメラを向けてきた。


「えっ、ちょっと僕は」


 反射的に顔を手で隠してしまう。

 正直なところ、伊万莉は写真を撮られるのが苦手だった。

 突然何も言わずに撮られたことは数知れず。この女性のように一応許可は求めてくるが、許可を待たずにもう撮ることを前提でカメラを構えられることもよくある。

 その原因の多くは伊万莉の容姿にあった。


「女の子みたいで可愛い! SNS映え間違いないし、この民宿も有名になるよ」

「僕は夏休みで帰省していて、いつもいるわけではないのでそういうのはその……」

「冬美、困ってるんだからやめてあげたら?」

「一枚だけだから、ね?」


 カップルの男性のほうの制止も聞かず、女性は回り込んできてどうにか伊万莉を写真に収めようとしていた。


「お客様」


 そこに割り込んできたのは柔らかく、そしてよく響く男の声。


「食事がお済でしたらお皿を下げてもよろしいですか?」

「は、はい。すいません」


 伊万莉の父が顔に笑みを浮かべてそう問いかけると男性はなぜか謝った。それほどに圧のある声と笑顔だった。

 女性のほうもそれで自分がやっていたことがいかに失礼だったか理解したのだろう。大人しく席に座りなおした。


「いかがだったでしょうか? 全部地元産の食材で作った料理ですが、特にここ奥出雲の棚田で収穫された米は何度も金賞を受賞していて地域の自慢なんですよ」

「お米美味しかったです! いつも食べてるお米と全然違いました!」

「なんかほんのり甘くて、いくらでも食べられそうでした」

「そうですか。それは良かった」


 父親が客の話し相手をしている間に伊万莉は食器とともに炊事場に下がる。

 助けの手が入ってほっとしていた。

 そこに母親が声をかけてきた。


「観光の仕方なんて人それぞれなんだから押し付けるのはダメよ? 来てくれただけでも感謝しなきゃ。それにそんな膨れた顔してるとせっかくの可愛い顔が台無しよ」

「わかってるつもりだったんだけどね。でもやっぱり島根は魅力ないみたいに言われるとさ……」


 伊万莉は顔に出していたつもりはなかったが親だから気付いたのだろう。二人の客もわかっていないようだった。


「片付けはやるから今日はもう上がっていいわよ」

「うん」


 食器を水に浸けてから炊事場の奥にある生活スペースに伊万莉は戻った。

 エアコンが効いて快適な民宿のほうと違い、昼間熱せられた空気が自室のドアを開けた瞬間壁のようになって伊万莉を襲う。

 陽が落ちてきたと言えど当然このままでは熱中症になりかねないので、エアコンをつけて扇風機で室内の空気を急いで循環させた。部屋の温度が下がるのを待つ間にも体中から汗がじわりとしみ出してくるのがわかる。


 Tシャツの裾をパタパタとさせながら机の上に広げられたままの参考書を見る。

 だが見るだけだ。今の伊万莉の頭には全然入ってこない。知らない文字で書かれた本のようにただの画像にしか見えない。

 参考書から目を逸らすとスマートフォンに丁度メッセージが届いた。


『伊万莉明日はヒマ? うちに来ない?』


 近所に住んでいるこのメッセージの送り主は往々にしてこういうことがある。伊万莉が落ち込んでいる時とか不安な時とかにタイミングよく連絡をくれたりするのだ。

 超常的な能力があるというわけではないだろうが、その目的はさておき伊万莉にとっては大変ありがたいことだった。伊万莉から連絡するのは泣きついているようでどうにも気恥ずかしいからだ。

 申し出を受ける旨を返信するとすぐにまたメッセージが届いた。


『準備して待ってるね!』


 何の準備かは聞いたりしない。





 翌日は新しい宿泊客の予約も入ってないので、昨日の客を見送れば一日フリーだった。

 両親に出かけてくることを告げると、伊万莉は真夏の陽射しの下に一歩を踏み出した。


「あっつい……」


 ご近所と言っても距離にして約五百メートル。炎天下を歩くのは決して楽ではない。

 自転車に乗ろうと思っていたが、自転車はタイミング悪くタイヤがパンクしていて乗れなかった。

 修理している時間もなかったので、結局歩くことになってしまったのだ。

 こういう時に車があったらなーと伊万莉は思う。

 今免許を取得するために教習所に通っている真っ最中なので、自ら運転できるのは早くても一か月は先だ。



 焦熱地獄を踏破したような気分でようやく目的の家にたどり着いた。


「ごめんくださーい」


 チャイムは押すがそれとは別に直接声をかける。来客が自分だということを知らせるためだ。

 すると程なくして「はーい」と返事があって、それからばたばたという賑やかな足音が近づいてきた。


「いらっしゃい、伊万莉」


 玄関戸を引いて現れたのはまだどこか幼さを感じさせる女性。


「昴ちゃん、今度から気温三十度以上の暑い日は車で送り迎えお願いします……」

「うわっ! もしかして歩いてきたの? 自転車は?」

「タイヤがパンクしてまして」


 そう言う伊万莉の顔を汗が伝って落ちて、地面に水滴の跡を作る。これもこの暑さならすぐに乾くだろう。


「言ってくれたら迎えにいったのにー。とりあえず上がって上がって。そのままだとできないから、シャワー浴びてね」

「おばさんと司ちゃんは?」

「お母さんは遅くまで仕事。司は図書館で勉強してくるって」

「そう」





 伊万莉がぬるめに調節したお湯でまとわりつく汗を流していると、脱衣場から昴の声がした。


「伊万莉ー。タオルと着替え置いとくねー」

「ありがとう」


 脱衣場と浴室を隔てているのは曇りガラスの戸だけである。鮮明には見えなくとも相手の姿は確認できる。

 どちら側の立場でも一般的には恥ずかしいと思うのだが、二人にとってはそんなことは全然ないようだ。

 昴は当たり前のように入ってきて当たり前のように出ていく。

 もしかしたら浴室の中にも平気で入ってこれるのかもしれない。



 シャワーを終えた伊万莉が体と髪を拭いて、いざ置いてある服を着ようとしたところで、あるはずのものがないのに気が付いた。

 横では昴が気を遣ってくれたのか伊万莉の服が洗濯機の中でぐるぐると回っている。

 そしていつもはないものがそこにある。

 推理によって導き出される結論は一つしかない。


「……今日はこれも?」


 選択肢が用意されてないということはそういうことだろう。

 わずかな躊躇の後で伊万莉はその小さな布に手を伸ばした。



 昴の部屋は二階の奥。小さな頃からそれこそ数えきれないくらい訪れているので伊万莉にとっては第二の実家も同然であり、目を閉じていても辿り着ける。

 階段を上がり、『すばる』と銘打ったプレートがかけられたドアをノックすると、「いいよー」と軽い感じの返事が聞こえた。

 ノブを回してドアを押すと、エアコンでよく冷やされた空気が隙間から漏れ出て伊万莉の脚を撫でて通り過ぎた。


「昴ちゃん? あのー」

「良く似合ってるよ伊万莉。正に主人公が旅先で出会う謎の深窓の令嬢、だね」


 伊万莉の為に昴が用意した服は夏の青空に映える白の膝丈ワンピース。裾の部分にはレースがあしらわれていて、上品ながらも着用者の魅力を存分に引き出すようになっている。

 その容姿と相まって、伊万莉はもう完全に女の子にしか見えなかった。


「うん。いや、それはいいんだけど、下着まで女性用にする必要ある?」

「あるある。他は完璧なのにいつもそこだけ男だったからどーしても気になってたの。ハーフトップタイプのブラと、それとセットの股上が深めのショーツだから男の人でもそれほど違和感ないと思うんだけど」

「上も下も少しきつい感じがするかな」

「そっかー、まあ市販品だからね。今度は下着も作ろうかな」


 二人の会話から伊万莉が頻繁に女装している、させられていることがわかる。

 そう、昴が伊万莉を呼んだのはこの為である。彼女の趣味はコスプレ衣装を作ることと、それを幼馴染に着せることだった。


「それより伊万莉、髪をちゃんと乾かしてないじゃない。こっち来て座って」


 伊万莉は言われた通りに椅子に座る。


「よーく乾かさないと髪が痛むんだよ? こんなさらさらで綺麗な髪してるんだからもったいないぞ」

「申し訳ございません」


 ドライヤーの風を受けながら伊万莉は素直に謝った。

 昴は丁寧に手で梳りながらドライヤーの風を髪に当てていく。

 しばらくの間、ドライヤーのブォーという音だけが部屋に響いていた。


「ねえ」


 唐突に昴が聞いてきた。


「何か嫌なことあった?」


 伊万莉がまだ何も言ってないのにこれである。

 尋ねるというより確認と言ったほうが近いかもしれない。


「わかる?」

「何年幼馴染やってると思ってるの」


 小学校に入る前からだから、もう十五・六年になる。

 二人の親の代というより祖父母の代からの家同士の交流があって、伊万莉と昴は小さい頃からよく一緒に遊んでいた。

 当時、伊万莉は今のように女の子の格好をしていて、逆に昴は男の子の格好をしていた。

 これは幼児期に異性の格好をさせていると丈夫に育つという迷信から祖父母がやらせていたもので、冗談半分に「伊万莉ちゃんをうちの嫁に」とか「いやいや昴ちゃんこそうちの婿養子に」なんて話があったとか無かったとか。

 双方の祖父母が亡くなってから家同士の交流自体は減ってしまったが、伊万莉と昴の関係は変わらなかった。


「嫌なことってわけじゃないけど、手伝いでやってる民宿の観光案内がなかなか上手くいかなくて」


 ――父さんみたいにできない、と頭の中で伊万莉は続けた。


「最初から全部上手くできる人なんていないよ」


 おじさんもそうだったんじゃないの? と伊万莉の頭の中を覗いたかのように昴は指摘した。


「大学を卒業してから家を継ぐんでしょ? まだ四年もあるじゃない。それに今は車の免許と簿記三級の勉強に、アルバイトもしてるんだからいくら何でも欲張り過ぎ。ビュッフェで皿にこれでもかと料理を乗せて後になって食べきれない~とか言ってる奴と一緒」


 はい終わり、と軽く頭を叩く。

 その手は温かかった。



 伊万莉が女装をするのは、どことなく落ち着くような、本当の自分になれるような、そんな気がするからだ。

 世間で言うトランスジェンダーとは違う何か。

 男性を恋愛対象と思ったこともないし、女装をすることで性的興奮を覚えることもない。

 そして、女性を恋愛対象と思ったこともなかった。

 昴を含めて。



 昴のほうは自分に対して恋愛感情みたいなものがあるかもしれないと伊万莉は思っている。

 でも伊万莉は昴のことはそういうのとはまた違う存在だと思っていた。

 将来昴と結婚するかもしれないと予感めいたものはあるが、付き合って恋人らしいことをするというビジョンは全く見えない。

 それらが幼少期からの体験のせいなのかはわからないが、昴がいない人生は考えられなかった。

 こういう感情を何と言うのか、伊万莉は未だにわからないままだった。


「ありがとう昴ちゃん。なんか楽になった」

「でしょー? セラピスト昴と呼んでも良くってよ」


 わずかに隆起するその胸を反らして昴は嘯く。


「あ、そうだ! 気晴らしに今からお弁当持って久しぶりに船通山に行ってみない?」

「この格好で登山するの?」


 登山向きの格好でないことは明らかだ。


「まさか。登山道の入り口の駐車場までだって。その綺麗なお肌に傷など付けたくありません」

「それなら、いいかな」

「よし! そうと決まればちゃっちゃとお弁当を作ろう! 伊万莉の作る料理美味しいんだよね」

「昴ちゃんも作るんだからね?」


 実際、伊万莉の作る料理やお菓子は美味しい上に食べるとなぜか元気が出ると評判だった。

 高校生の時、大会に出るという運動部所属の知人の為に差し入れを作って持っていったら大変喜ばれて、それを食べた選手の成績がいつもの成績からは考えられないくらい良かったということで噂が広まった。

 薬物ドーピングを疑われたこともあるがそれは余談である。



 お弁当を作ると言っても、今から凝ったものを作ると時間がかかり過ぎてしまうので、おにぎりと卵焼きという簡単なもの。

 出来上がったそれを傷まないように保冷剤と一緒に包む。

 それから二人は日焼け止めをしっかり塗って、昴が運転する茶色の軽自動車に乗り込んだ。


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