子爵家にて
詰め所からの帰り道、フェリシティは後悔の嵐の中にいた。
サイモンの何か言いたそうな顔が思い浮かぶ。サイモンが何故ヘザーに譲歩した態度を取るのかわからないが、かなりフェリシティを意識していた。
その様子から、ヘザーに心を残していてフェリシティと離縁したいなど考えていないことはわかる。
フェリシティも自分が意固地になっているのは理解していた。自分でもどうしようもないほどの感情が込み上げてくるので、歩み寄ろうと思っていても本人を前にすると手に負えなくなる。
こんなつもりじゃないんだけど、という気持ちもあるけど、どうしたら感情が抑えられるか正直分からない。
ため息をついて家に向かってとぼとぼ歩いていれば、馬車が側で止まった。自分ではないだろうと思いながらも、ちらりと馬車を見る。馬車は華美ではないがそれなりに上質なもので、見覚えのある馬車であった。
誰が乗っているかなんて想像がつく。フェリシティは全力疾走して逃げることも考えたが、そもそも行き場所は自分の家しかない。ここで逃げても捕まるのなら、全力で走るだけ無駄だ。
「フェリシティ」
「こんにちは、お兄さま。偶然ね」
馬車から降りてきたのは案の定、兄のミランだった。ミランとフェリシティは兄妹とされているが、正確には従兄妹同士である。
ミランは整った顔立ちをしているがどこか冷ややかな雰囲気を持ち、フェリシティは人当りの良い温かさがある。顔立ちは全く似ておらず、それでも血縁関係だろうと思わせるのは鮮やかな緑の瞳の色ぐらいだ。
「偶然なわけがなかろう。乗りなさい」
「え、それはちょっと」
「ちょっとじゃない。みんなお前を心配しているんだ」
どうやら先ほどの騒動もすでに耳に入っているらしい。苦い笑みを浮かべれば、ミランは目を細めた。一歩前に進んで近づくと、乱暴な手つきでフェリシティの頭を撫でた。
年の離れたミランは幼いころからフェリシティが泣くとこうして頭を撫でてくる。子供の様な扱いも、髪型も崩れてしまうことも嫌いなのだが、何故か今日は胸を詰まらせる何かが込み上げてきた。心が思っている以上に弱っているのかもしれない。
「……夕方には帰してもらえる? 今夜こそ、サイモンとちゃんと話し合おうと思っているの」
「約束しよう」
「絶対よ?」
「わかっている」
短い言葉に念を押してから、フェリシティはミランと共に馬車に乗り込んだ。
◇◇◇
「フェリシティ!」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられて、フェリシティは窒息する一歩手前だ。内臓が潰れそうなほど強く抱きしめられて、気が遠くなる。
細い体にどうしてこんな力があるのかわからないが、昔から抱きしめられるのは命懸けだ。腕を外そうとさりげなく体を揺するが、かえってきつく抱きしめられた。
「母上、フェリシティが気を失いそうです」
「まあ! それはいけないわ。気落ちしているから気分がすぐれないのね」
少しだけ腕の力が抜けた。フェリシティは助かったと思いつつ、色々と使用人たちに指示している母をぼんやりと見ていた。
久しぶりの子爵邸はあまり変わっていなかった。使用人たちはフェリシティの様子を見て心配そうな色を浮かべているし、母親の目の縁にはうっすらと涙が見える。
どれだけ心配させてしまったのだろう。少しだけ気まずさを感じた。
「……お母さま、ただいま帰りました」
「おかえりなさい。さあ、一緒にお茶でも飲みましょう」
「はい」
短時間で解放されるように、フェリシティは気持ちを引き締めた。子爵やミランのようにサイモンに対してきつく当たらないが、今回のことで厳しい目を向けてほしくない。
案内された応接室にはすでにお茶の準備がされていた。勧められるまま、フェリシティは子爵夫人の目の前の席に座る。子爵夫人は侍女がお茶を淹れて下がるのを見てから、切り出した。
「それで、きちんと話し合いはできているのかしら?」
「……いいえ」
「どうしてかしら?」
逃げられない小動物のように心臓をバクバク言わせながら、母親を縋るように見る。
「だって」
「だってじゃありません。貴女が勝手に悪い方向に想像して話を聞きたくないと言った状態ではないでしょうね?」
「うっ……」
半分は当たっている。一度はきちんと話そうとしたのだから、拒絶というわけではない。
「話し合いは一度はしたのね?」
「はい。彼が朝帰りしたので、頑張って冷静に理由を聞きました」
「そう。それで?」
「それで……」
フェリシティは子爵夫人にありのままを時系列に沿って話した。朝帰りした時からつい先ほどの出来事まで。
静かに聞いていた子爵夫人であったが徐々に笑みが消えていき、最後には仮面のような顔になっていた。貼り付けたような表情が非常に怖くて、フェリシティは震えが止まらなかった。
「お、お、お母さま。落ち着いてください。今夜、ちゃんと話し合うつもりでいますから」
「まあ、何を話し合うというの? 詳しい事情は話せないのでしょう?」
ふふふふ、と不気味な笑いと共に聞かれた。
「確かにそう言われていますけど! すでに彼女は色々と問題を起こしていますし、話さないという選択肢は流石に選ばないかと」
「まあ! 貴女はこんな状況でもサイモン殿を庇うのね」
母親の恐ろしい笑顔にフェリシティの顔から血の気が引いていった。味方だと思っていた母親が今にも敵に回ろうとしている。何か言わなくては、と焦るがいい言葉が出てこない。
「わたしは……わたしはサイモンを愛しています。ずっと一緒にいたいの」
結局は自分の思いだけを言葉にすることが精一杯だった。
サイモンの行動はフェリシティには受け入れがたいことであったのは確かだ。ぱらりぱらりと涙がこぼれる。泣きたくないのに、何に泣きたいのかわからないのに勝手に涙があふれてしまう。
「ずっと不思議だったのだけど、貴女はサイモン殿をどうしてそこまで好きなの?」
「結婚前に助けてもらったことがあって。その時に好きになったの」
結婚前、と聞いて、子爵夫人は眉を寄せた。
「そんなことが……この領地で?」
「王都に行った時に」
王都、と言えば子爵夫人はああ、と頷いた。顔がわずかにしかめられたのは当時の状況を思い出したからだろう。
「もしかして貴女が平民として市井で暮らしたいと言ったことと関係があるのかしら?」
「あの時、初めての王都でとても浮かれていて。貴族の価値観なんてほとんど知らなくて、現実を知って辛くて逃げ出した時に出会ったの」
「そうだったのね。それでは今回のことで離縁するつもりはないのね?」
「はい」
迷うことなく頷けば、子爵夫人は満足そうに微笑んだ。
「貴女の気持ちは分かったわ。でも、わたしの可愛い娘をこんなに泣かせたのですもの。あの朴念仁でもちゃんと理解できるようにお仕置きが必要ね」
「お、お母さま?」
どきりと心臓が跳ねた。子爵夫人は娘の動揺を気にすることなく、優雅な仕草でお茶を飲む。
「今日はここに泊まっていきなさい」
「え、でも! 今日はサイモンと話し合う予定なのよ」
「心配いらないわ。わたしの方から連絡を入れておきます」
不安しかない答えだった。