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深呼吸は大事


 信じたくはない光景を見たせいだろうか。


 あの場からどうやって屋敷まで帰ってきたか、あやふやだ。ロイにお礼を言ったことだけは辛うじて覚えている。なんだか心配そうだったが、自分の気持ちに捕らわれていたフェリシティは取り繕う事すらできなかった。


 ふらふらとした足取りで居間に入り、長椅子に座る。腰を下ろしてしまえば、体がずっしりと重くなった。寝ていないのもあるだろうが、頭の中は寄り添う二人のことでいっぱいだ。


 愛する夫が別の女と朝まで二人きりでいた。二人の出てきた店は男女の行為のためにある店ではない。


 どこにでもある、ただの酒場。


 フェリシティもあの店を利用したことがあり、よく知っている。逢引きする部屋はなく、広めに席は取られているが誰の目にも止まる。


 二人は男女の仲ではない。

 理性はそう判断する。


 でも感情は違う。

 女と朝まで一緒にいたのだ。しかも連絡なしで。


 想像するだけで、胸を圧迫するような苦しさを感じた。ぐっと拳を握りしめ、歯を食いしばる。肉体的には何もないことがわかっていても、隠れて会っていたのは事実。不愉快であることは間違いないし、確実にフェリシティは傷ついていた。


「落ち着きなさい、落ち着くのよ、フェリシティ」


 声に出して自分自身を宥めながら、フェリシティは深呼吸を繰り返した。 

 

 フェリシティはすでに二回、詰め所に行っており、着替えも届けている。いくらサイモンが女の気持ちに鈍感であっても、フェリシティが朝まで誰といたか知っていると気がつくはずだ。


 帰らなかった理由を聞いたら教えてくれるだろうか。いくらサイモンが寡黙な人間であっても、これは説明が必要な案件だ。


 警備隊の隊員たちが気を遣う。

 これも気になる。ロイは知らない女、だと言っていたがその割には不自然なほど気を遣い過ぎた。


 サイモンとフェリシティが結婚したのは一年前。

 サイモンがこの領都にやってきたのは三年前。男爵家の次男だったサイモンは嫡男ではないため爵位を継ぐことはない。そのため、15歳の年に王都の騎士団に入団していた。


 五年ほど騎士団に勤め、紹介状を持ってこの領都にやってきた。他国との交易が盛んなこの国の主要都市として実力のある警備隊員はいつだって必要とされ、サイモンの入隊は歓迎された。そしてそれなりの人脈を作り、今では隊長だ。


「ふう……」


 フェリシティは気持ちを落ち着かせるように、もう一度意識して大きく呼吸した。


 どうしたって悲しい気持ちが湧き出てくる。サイモンはフェリシティにとって初恋の人だ。王都であまりの辛い現実に隠れて泣いていたフェリシティを見つけて、慰めてくれた優しい人。


 フェリシティは今の父である子爵の妹の子供で、両親が不慮の事故で亡くなったため養女として引き取ってくれたのだ。新しい両親は兄のミランと分け隔てなく実の娘のように育ててくれた。


 フェリシティの物心がつく前のことで、彼女にしたら実の両親の肖像画を見てもあまりピンとこない。ただ父親は貴族を縁戚に持つ平民だったらしく、純血を尊ぶ貴族に取って好ましくない生まれだった。


 初めて王都に行った記憶が蘇る。まだ15歳だったフェリシティはきらびやかな世界に憧れていた。領地だけで育ち、普通の貴族を知らないからこその憧れだった。


 初めてのお茶会でフェリシティは自分の立ち位置を知った。間違いなく貴族の血を引き、由緒ある子爵家の養女であっても異物だった。実の両親、特に父親が貴族の縁戚とはいえ平民であることが蔑みの要因になっていることにひどく衝撃を受けていた。そして、王都に行きたいとはしゃいでいたフェリシティに家族が困った顔をした理由を知った。


 それでもと思って招待状が来るたびに参加したお茶会。回数を重ねても、受け入れてもらいたくて頑張って会話をしても最後には血筋を嗤われる。


 その対応に心が折れてしまったのは何度目のお茶会だったろうか。もう笑っていられなくて、お茶会の会場から逃げ出した。逃げ出した先で蹲っているのを見つけてくれたのがサイモンだった。


 泣いているフェリシティをどうやって慰めたらいいのかわからないと狼狽えていた。だけどそのまま放置することなく、恐る恐る彼女の頭を撫でいた。その手つきも慣れていなくて、フェリシティの涙が少しだけ止まる。


「笑っている方が可愛い」


 誰にでも言っているような言葉であったが、王都で初めて優しくされてさらに泣いてしまったものだ。


 その出会いから一年後にサイモンは子爵家の治める領地にやってきた。彼の姿を見た時に運命だと思ったぐらいだ。サイモンも貴族の子息であったけれども、爵位を継げない次男のためフェリシティとの釣り合いは取れていた。


 サイモンはフェリシティとの出会いを覚えていないようだったが、それでもよかった。すぐにでも彼と婚約したくて両親にお願いしたけど、家族を説得するのに一年かかった。そこから婚約して一年、結婚して一年。


 お互いにまだまだ知らないところもある。あるけれども、今回のような事態は考えていなかった。


 妻にも黙って二人きりで夜を過ごす。

 この意味が分かっていないはずがない。


 答えの出ない問いに、徐々に鬱々としてきた。フェリシティは落ち込む感情を振り払うようにして首を振る。テーブルの隅に置いてあった道具箱を手元に引き寄せ、レースの道具を取り出した。


 気持ちが落ち着かない時は何か作業をするに限る。


 フェリシティはあえて複雑な柄を編み始めた。考えることを締め出すために一心不乱に編む。心が乱れている時に限って非常に進みがいいのは皮肉だ。いつもは早く帰ってこないかなとソワソワしていて、予定通りに終わることがないのに。


 レース糸とニードルを器用に動かした。


 どのくらいそうしていただろうか。

 かちりと小さな音がすると、居間の扉が開いた。フェリシティは目だけをそちらに向ける。居間にやってきたのは、スザンナだった。スザンナはぎょっとした顔で持っていた荷物を放り出し、フェリシティに駆け寄った。


「お嬢さま! どうしたんですか!?」

「スザンナ。早いのね」

「早くなんてありませんよ。もうお昼を過ぎています!」


 フェリシティはぼうっとした頭でスザンナに応じた。彼女はフェリシティの顔を見て心配そうに曇らせた。


「ひどい顔色です。どこか具合が悪いのでは?」

「そう? 具合が悪いというか、感情が暴れてどうしようもないというのか」

「感情? 何があったのですか?」


 冷静に指摘されて、ため息をついた。手に持っていた道具をテーブルに置く。フェリシティは背筋を伸ばして座り直して、スザンナを真っすぐに見た。スザンナはやや不安そうな表情を見せている。フェリシティは大きく息を吸い、静かに告げた。


「帰ってこなかったの」

「はい?」

「サイモンが帰ってこなかったのよ」

「……嘘ですよね?」

「嘘じゃないわ。夜勤にまた変わってしまったと思って、詰め所に着替えを届けに行ったの。その帰り、女と二人で寄り添って歩いていたのを見たわ。昨夜はその女性と二人でいたみたい」


 重苦しい沈黙が広がった。彼女は驚きに目を大きく見開いて、何かを言おうとしているが言葉にならずに口をパクパクさせている。戸惑いが理解に変わった頃、スザンナは顔を真っ赤にして大声を出した。


「その不埒な女はどこの誰です!?」

「さあ? ああ、もしかしたら昨日サイモンと一緒にいた女性かしら?」


 不意にジェインと一緒にサイモンを見かけた時に一緒にいた女性を思い出した。この領都では見ない顔だったからすっかり忘れていたが、今朝見た女性の髪の色が一緒だ。特に何の特徴のない髪の色ではあったが、同一人物だと思えてくる。


 スザンナは物思いに耽り始めたフェリシティの意識を現実に向けようと、両手を痛いぐらい強く掴んだ。顔を覗き込むスザンナにフェリシティはうつろな目を向ける。


「いいですか、早まらないでください。きっと事情があるはずです。話を聞いてからでも遅くはありません」

「そうかしら? あの堅物の人よ? もしかしたらわたしに飽きてしまったのかも」

「飽きた? こんなにも美しいお嬢さまを? でもそれが理由なら、わたしが張り倒します」


 冷静に返されて、ふふふと笑った。


「早まっているのは貴女の方じゃない」

「そうですね、落ち着きましょう。事情を知っていそうな人たちに聞いてきますから、くれぐれも、くれぐれもお嬢さまは余計なことをしないように」

「ありがとう。そうするわ」


 本当に心配してくれる彼女にフェリシティは少し微笑んだ。母親のような彼女にちょっとだけ気持ちが温かくなる。その温かさを感じたら、気持ちが緩んだ。じわりと涙があふれてくる。幾つもの雫が彼女の頬を濡らした。


「辛かったですね。たとえ勘違いであったとしても、お嬢さまを泣かせるなんて許せません」

「まだ何もはっきりしていないのに。どうしてこんなに辛いのかしら?」


 フェリシティのあふれる涙をスザンナが優しく拭う。フェリシティは子供の様に大人しく座っていた。


「泣けるのなら泣いた方がいいのです。すっきりします」

「すっきり……そうね。気持ちが落ち着いてきたわ」


 胸のつかえていた圧迫が少しずつ小さくなっていく。感情を外に出したことで少しだけ冷静になったようだった。


「余計なことかもしれませんが、子爵さまにもまだ連絡しない方がいいと思います」

「そうね。お父さま……だけじゃなくお兄さまも知ったら、明日には離縁になってしまうわね」


 まずはちゃんと彼の言い分を聞こう。それが一番だと自分を納得させた。



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