大きく息を吸って、冷静に
よく考えよう。
フェリシティは自分を落ち着かせようと目を瞑り、両手を胸の前で重ねて大きく息を吸った。落ち着け、落ち着けと呪文を唱えるように心の中で呟きながら、何度か深呼吸する。
「とりあえず何か食べましょう」
落ち着いた気持で真っ先に感じたのが空腹感だ。
彼と一緒に食べようと待っていたため、食べていない。最後に食事をしたのがジェインと買い物の合間に入ったカフェだ。食事と言っても軽食で、お茶と小さなパンケーキを食べただけ。
空腹感はよくない。お腹がすくと人間碌なことを考えないものだ、とどこかのお偉い神官が言っていた気がする。フェリシティは作り上げたレースと道具を箱に片づけ、立ち上がった。睡眠不足と空腹のせいなのか、体が非常に重く、一歩足を踏み出せばふらついた。
これはいけない。とにかく食事だ。
寝不足の上に空腹な状態ではちゃんと考えられない。頭の中に渦巻く疑問を無理やり押しつぶした。
台所に移動するとスザンナが用意していったサラダと果物、そしてパンをお皿にとる。お湯を沸かし、お気に入りの茶葉でお茶を入れた。
一人分の簡単な食事を用意して、黙々と食べた。美味しいはずの食事が全く味がしない。気持ちが沈んでいるだけでこれほど影響があるのかと、自分でも驚いてしまう。
皿を空にして、少しぬるくなったお茶を飲む。お腹が満たされて、徐々に頭が働くようになっていった。ようやく昨日のことを思い返す余裕が出てきた。
夜勤の予定だったのに変更になっていた。そのため、フェリシティが夜勤でないことを知ったのは昨日の昼過ぎだ。
それから?
それからは何も知らない。
自分自身の慌て方に笑いがこみあげてきた。サイモンの仕事の状況も分かっていないし、そもそもサイモンは自分の夜勤が変更したことを伝えていないつもりなら、連絡がないのも頷けた。
案外抜けている人なのである。連絡の行き違いなど、今まで一度もなかったが、普通にあり得ることだ。ころころと予定が変わるのなら、仕事もかなり忙しいのだろう。
「ふふ、悪い方に考えすぎだわ。着替えを届けないと困っているわよね」
夜勤ではなかったから届けた着替えはそのまま持ち帰っていた。独身者ならまだしも、既婚者が、それも隊長が着替えていないなんて外聞が悪い。もし仕事が延長して夜勤になっていたのなら、着替えがないのは気持ちが悪いだろう。
すぐに届けなくては、とフェリシティは自分の身支度に急いで取り掛かった。
二人の住む屋敷から詰め所までは寄り道をしなければ、さほど時間はかからない。サイモンが隊長のため、何かあった時にすぐに連絡が取れる様にと近くに用意したからだ。身支度を終えたフェリシティは荷物を持つと、急ぎ足で詰め所へと向かった。
◇◇◇
「おはようございます。誰かいないかしら?」
詰め所の入り口で、声を掛ける。眠そうな顔をした夜勤担当の隊員が出てきた。昨日対応してくれたネイトだ。フェリシティはにこりと愛想よく笑った。
「あれ、フェリシティ様。こんなに朝早くからどうしました?」
「主人の着替えを届けに来たの」
「隊長ですか? 昨日は夜勤じゃなかったので、まだ出勤していないですよ?」
不思議そうな顔をしてフェリシティを見たが、すぐに彼は顔色を悪くする。フェリシティは余所行きの、貴族らしい完璧な笑みを浮かべていた。つまり、口元は緩く弧を描いているにもかかわらず、目はひどく冷めていて獲物を逃がさないとばかりに凝視しているのだ。
ネイトが思わず体を後ろに引いた。眠気がすっかり飛んでしまったのか、大きく目を見開いている。
「おかしいわね? 夜勤が変更になったと貴方に聞いたから、帰りを待っていたの。でも帰ってこなくて。もしかしたら夜勤に戻ったのでは、と思ったのだけど?」
「帰ってこない? まさか……え? ええ??」
ネイトはひどく狼狽えて目を泳がせた。助けを求めるように、詰め所の奥に視線を向ける。フェリシティも自然とそちらに目を向けた。
「すみません! ロイ先輩、いますか!」
「おう。なんだ? あれ、フェリシティ様。こんなに早くからどうしたんだ?」
後輩に呼ばれて出てきたのは、サイモンと一緒に仕事をすることの多い部下のロイだった。サイモンは体が大きく厳つい感じであるが、ロイは背が高い上に細身だ。サイモンが手放しで褒めるほどの剣の腕前を持っている。
癖のある濃い目の茶髪に明るい緑の瞳を持つ目はややたれ目。その目が非常に色気があって街の女性に大人気だ。
フェリシティは目を細め、彼の様子に変化がないか探す。
「おはようございます。実はサイモンに着替えを持ってきましたの。昨夜、帰ってこなかったのでてっきり夜勤になったものとばかり」
「あー……そういうわけ?」
なんだか言いにくそうに言葉を濁し、がしがしと乱暴に髪を掻きむしる。その態度に女の勘が逃がさず追及しろと告げた。
「どういうことかしら?」
「いや、知っているというのか、なんというのか」
「しゃべったところで問題ないわよ? さあ、言ってしまって?」
優しい口調になるようにと意識しながら、促した。ロイはどうしたものかと困ったような表情を浮かべる。
どうしたら話してもらえるか、とやや物騒な手段を考え始めた。一番楽なのは父親の権力を使用すること。でもこれはあまり使いたくない。ほらみたことか、と言わんばかりに離縁を勧めてくるに違いない。それはフェリシティの望みではない。怪しいことがあったとしても、離縁はするつもりはないのだ。
残りの手段となると、泣き落としがいいか、それとも兄ミランの子飼いを動かすのがいいのか……。
実に悩ましいとぐるぐるとしていると、ネイトが大きな声を出した。
「そのですね、あのですね……!」
「焦らないでいいわよ?」
「知り合いと酒を飲みに行くと言っていたので、ついうっかり朝まで飲んでいたのかと思います」
あちゃー、と言わんばかりにロイが右手で顔を覆い俯いた。その態度をみて、瞬時にサイモンが一緒にいる相手が女だと悟った。
「……そう。サイモンは今日出勤するのかしら?」
「は、い。休みにはなっていません」
「では着替えを置いていきます。よろしくね」
それだけ告げて荷物を預けた。ネイトは非常に気まずそうな顔をして受け取る。フェリシティは仮面のような笑みを浮かべた。
「連絡が行き違ってしまっただけだと思うから気にしないで」
じゃあ、と詰め所を出て行こうとすると、腕が掴まれた。驚いて振り返れば、ロイがしっかりと肘を掴んでいる。痛くはないが、その近い距離に眉を寄せた。
「何?」
「屋敷まで送ろう」
「いらないわ」
素っ気なく断ったが、それでもロイは送ると譲らない。仕方がないと小さく息を吐いて、歩き始める。だがすぐに行く手を遮られた。
「何なの?」
「たまにはこっちから帰ろうか」
意味が分からないが、ロイは意味のないことをしない。素直に頷いて、彼の誘う道を歩き始める。来る時に使った道とは違い、領都の繁華街を通る道。はるかに遠回りだ。遠回りをさせてまで歩かせたい理由をあれこれ考えていたが、すぐにわかってしまった。
食い入るようにして酒場から出てくる二人の男女を見つめた。一人はサイモン、もう一人は薄茶色の髪をした女性だ。
「……なるほどね」
「まあ、なんだ。怒ってもいいし、一発ぐらい殴ってもいいと思うんだが。できれば、ちゃんと話を聞いてやってほしいんだ」
「貴方は事情を知っているの?」
「いいや? ただ二人の様子を昨日見ていて雰囲気的に不味そうだな、程度で」
フェリシティは少し離れた場所から二人の姿をいつまでも見つめていた。