わずかな亀裂
フェリシティは上機嫌で詰め所から領都の中央よりも少し奥にある自分の家に向かっていた。ここしばらく夜勤が続き、サイモンが家に戻ってくるのは実に5日ぶりだ。
一人で過ごす夜はとても寂しい。
結婚してそのことを初めて知った。結婚してすぐの時は少しも慣れなくて涙が出たものだが、一年もすれば寂しさを紛らわすことができるようになった。だからサイモンが戻ってくる日は嬉しくて気持ちが舞い上がってしまう。
「そうだ、少し、お肉を買い足しておこう」
今夜は一人の予定だったから、肉の用意があまりない。浮かれた調子で肉屋に顔を出した。
「いらっしゃい! 今日は良い肉が入っていますよ!」
肉屋の女将がにこにこと声を掛けてくる。フェリシティは塩とハーブだけでも美味しく食べられる肉を注文した。
「少し大きめに切ってちょうだい」
「おや、今日は隊長さんの帰ってくる日ですか?」
「ええ! 夜勤の予定だったけど、通常勤務になったみたいなの」
「ふふ、よかったですねぇ。少しだけおまけしますよ」
「ありがとう!」
そんな会話を交わしながら、肉を受け取る。フェリシティの料理の腕は壊滅的だったが、素材の味を活かして肉だけは焼くことができた。結婚するまで貴族の娘として過ごしていたのだから、家事は全くできなかった。
焦げた料理を出しても、片付けられなかった部屋を見ても、サイモンは怒ることなく、フェリシティを褒めた。だから立派な主婦になれるよう、一人で失敗を重ねながら家事を頑張った。実家にばれるまでは。
ひょっこりと娘の様子を見に来た母親に新居の惨状を知られ、実家の使用人が日中、手伝いに来ることになった。自分でやりたくて抵抗したが、嫌なら同居だと言われてしまえば受け入れざるを得ない。
手伝いに来てくれる使用人は乳母のスザンナがほとんどで、フェリシティが聞きかじりの知識で行っていた家事を上手に教えてくれた。自己流がいかに駄目であったか、知った瞬間であった。
そんなこんなで一年たった今、簡単な掃除と温める程度の料理ができるようになっている。次なる目標は美味しい料理を一人で作ることだ。
屋敷に戻ると、部屋には美味しそうな匂いが立ち込めていた。実家にいた時には感じなかった料理の匂いだが、この屋敷は小さい。すぐ奥からいい匂いが漂う。
フェリシティは自室に戻ることなく、そのまま調理場へと向かった。ひょこりと顔をのぞかせると、スザンナが機嫌よく調理をしている。その後ろ姿に、声をかけた。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、お嬢さま」
スザンナはすぐに振り返り、フェリシティに笑顔を向けた。スザンナには幼い頃から面倒を見てもらっており、フェリシティにとって母のような存在だ。結婚した後もいまだにフェリシティをお嬢さまと呼ぶ。
「すごく美味しそうな匂いね」
「今日はお嬢さまのお好きなトマトを使ったスープですよ」
トマト、と聞いて、鍋の中を覗いた。よく煮込まれた野菜がとろとろだ。
「今夜はサイモンが帰ってくるの。お肉を買ってきたけど、他の料理も増やせるかしら?」
「今日は夜勤ではありませんでしたか?」
驚いたようにスザンナは目を丸くした。フェリシティは頷いた。
「そう聞いていたのだけど、午前中に予定が変更になったらしいの」
「そうでしたか。サラダとパンは多めにありますから大丈夫ですよ。スープは……そうですね、滋養強壮によい食材を入れて増やしましょうか」
「まあ! そんな食事をしたらサイモンを襲ってしまいそうだわ」
「いつもじゃありませんか。サイモン様もまんざらじゃない様子ですけどね」
くすくすと揶揄うように笑われて、フェリシティは恥ずかしく思いながらも嬉しさもある。
二人の結婚はお見合いだった。フェリシティがサイモンと結婚したくて、両親に直談判した。我儘だとは思うが、どうしても初恋であるサイモンと結婚したかった。
フェリシティには結婚する前からサイモンに対する恋心があったが、サイモンはそうじゃない。彼はとても優しいから好かれていると思っているが、言葉をもらっているわけではないから自信が持てない時もある。
「そう思う?」
「そう思います。サイモン様、お屋敷でも鉄面皮なのに、お嬢さまが抱き着くといつだって口元がだらしなく歪んでいますよ。しかも目が獣のようにギラギラしてくるし」
スザンナの言葉に、目を輝かせる。フェリシティは両手を胸の前に組み、うっとりとため息をついた。
「そうだったら嬉しい。いつか横抱きにされて愛していると言われたいわ。独占欲剥き出しにして、キスされるのも素敵」
「……お嬢さま、一体どこからそんな発想を」
「お義姉さまよ。あの冷静沈着で意地悪なお兄さまがお義姉さまには熱烈な愛を語るみたいなの」
いつだってうっとりとした顔つきで義姉のジェインは教えてくれる。兄ミランの情熱的な様子は少しも想像ができないが、ジェインにとっては素晴らしいことなのだろう。愛されている女性の顔はとても柔らかくて美しい。いつか自分ももっと愛してもらえたら、と夢想してしまう。
「それなら、もう少しガツガツ感をなくした方がよろしいですね」
「ガツガツしていないわよ。ちょっと気持ちが高ぶってしまっているだけよ」
「ああいうむっつりの男性は、押しまくると胡坐をかいて対応をおろそかにすることがあります。だから、少し控えた方が焦って手を出してくるはずです」
「そうなの?」
驚きの理屈に、フェリシティは愕然とした。今までは無口なサイモンには押していく方がいいと思っていたのだ。彼に任せていたら、夜の夫婦の時間さえも何もなく終わってしまう。
「ええ。ギャップが大切です。今までが押して押してだったので、ちょっと引いてみると放っておかなくなるようです」
「ふうん。覚えておくわ」
そのまま楽しくスザンナとおしゃべりしながら、台所にある机の上にレース編みの道具を取り出した。道具を取りそろえると、椅子を机に寄せて座る。
「そういえば、お留守の時にドレスメーカーの主人が来ました」
「メイスンが? 何かしら?」
「追加のレースをお願いしたいと言っていましたね。詳しいことはわかりませんが」
フェリシティは思い当たることが一つだけあった。先日、ようやく作り上げた新しい模様のレースを渡していたのだ。もしかしたらそれが売れたのかもしれない。
「うふふ。あのレースの柄が売れたのなら嬉しい」
「お嬢さまが作るレースは本当に繊細ですから、人気があっても不思議はありません」
フェリシティは褒められて嬉しそうに頬を染めた。今日買い足してきたレース用の糸を袋から取り出し、ニードルで形を作り始める。
フェリシティは家事は全く駄目だが、貴族の娘らしく刺繍やレース編みは非常に器用に作り上げた。特にレース編みは好きな気持ちが高じてこだわっていたので、いつの間にか本職もうならせるほどの腕になっている。文字も綺麗に書くことができるので、代筆もできる。もう少し生活に慣れてきたら、こうした仕事をやってもいいと考えていた。
「お嬢さま、食事の支度は終わりました。洗濯ものもすでに片付けてあります」
「ありがとう」
仕事を終えたスザンナを見送った後、フェリシティはレース道具を持って居間へと移動した。サイモンを待ちながらレースを編んでいった。慣れた手つきでどんどんとレースを編んでいく。
そして、レースが完成した。フェリシティは最後の始末をしてから、レースと道具をテーブルの上に置く。茫然とテーブルの上を見つめ、そして庭が見える大きな窓の方へと顔を向けた。爽やかな朝の陽ざしが窓から差し込んでいる。今日も天気が良いのか、外はキラキラと輝いていた。
「……どういうこと? 朝になってしまったわ」
すっかり夜が明けていた。
なのに、夜勤がなくなったはずのサイモンは帰ってこなかった。