彼女のいない家
久しぶりにヘザーの毒にあてられて、尋常でない疲れが体を重くする。日常的に接していた時には感じなかったその毒気がどれほどのものか改めて知った。
「はあ」
早くこの領地から出ていってほしい。そして以前の平和で幸せな日常が戻ってくること、それが一番の願いだ。
重い体を引きずるようにして歩けば、小さな屋敷が見えてくる。家の窓からは柔らかな光が零れていた。穏やかで、温かな我が家に体から力が抜けてくる。歩みも徐々に早くなっていった。
早くフェリシティに会いたい。彼女を強く抱きしめてすべてを話してしまいたい。ただの言い訳かもしれないが、フェリシティを傷つけたかったわけではない。ヘザーの毒から彼女を守りたくて、遠ざけておきたかった。
だが、その行動が彼女を傷つけた。何も知らせないことが彼女を守るためだと勘違いしたことに気が付かなかった。
「想像力の欠落だな」
自嘲気味に呟く。ヘザーの匂いが移っていたことに気が付かずに家に帰ったのも気にしなかったからだ。フェリシティの怒っていながらも泣きそうな顔がいつまでもサイモンを苦しくさせた。一番大切にしたいと思っている相手なのに、自分の至らなさがフェリシティを泣かせている。
いつもなら出迎えてくれるが、今日はどうだろうか。昼間あれほど怒っていたのだから、もしかしたら出迎えはないかもしれない。
ざわつく気持ちを落ち着かせ、玄関扉を開けた。
「おかえりなさいませ、サイモン様」
出迎えたのはフェリシティではなく、貫禄のあるスザンナだった。スザンナの感情を表さない冷徹な眼差しに、顔が引きつる。サイモンはそろりと辺りを見回して、恐る恐る聞いた。
「……フェリシティは?」
詰め所での出来事を考えれば、やはり拗ねているのだろう。早めに話し合って、とにかくここ最近の重苦しい空気を払しょくしたい。
フェリシティの強気でいながらも今にも泣きそうな目をまたもや思い出して胸が痛んだ。こんなはずではなかったのに、上手くいかないことに焦燥感が募る。
「お嬢さまはいらっしゃいません」
「は?」
「お嬢さまは子爵邸にお戻りになっております」
信じられない言葉を聞いて、目を見開いた。淡々と事実を告げるスザンナを食い入るように見つめる。のどがカラカラになってきたが、どうにか声を出した。
「何故?」
「何故というのは理解できないという事でしょうか?」
どこか棘のある言葉に息を呑む。スザンナが怒っていることに気が付いてしまった。普段と変わりないため、呆れてはいても怒ってはいないと思っていたのだがそうではなかったらしい。
「いや、その……」
「わたしに言い訳は結構です。奥様からの伝言があります」
奥様と聞いて、サイモンは天井を仰いだ。どうやら自分がまごまごしているうちに、子爵夫人がしびれを切らしてしまったようだ。わからなくもない。フェリシティは自分が養女であることを気にしていたが、子爵家一家はフェリシティを娘として溺愛している。婚約した時も、結婚した時にも泣かせるようなことをしないようにと再三忠告されていた。
「動きが早すぎるだろう……」
「早すぎませんよ、遅いぐらいです。しばらくの間、お嬢さまは子爵邸に滞在します。もし婚姻継続の意思があるのなら、誠意を示せと」
「誠意」
「当然でございます。常識的に考えて、あの女性はありえません」
あの女性と言われて、サイモンは肩を落とした。
「昔はもう少しマシな性格をしていたんだが……」
言い訳のように呟いた言葉に、スザンナが呆れたような目を向けてきた。
「失礼ですけどサイモン様は女性を見る目がないのですか? あの手の女性は自分を中心に世界が回っているのです。助長させたのは周囲が面倒くさがって言いなりになっていたせいだと思いますよ」
「反論できない。確かにヘザーの癇癪に付き合うのは面倒だ」
「面倒だと思っている時点で女の勝ちです」
ぴしゃりと言われて、サイモンは言葉に詰まった。何も言い返せずその場に立ち尽くす。
「それよりも気になるのがあの女性がフェリシティ様が貴族の令嬢だと知らないことです。確かにお嬢さまはサイモン様と結婚していて、厳密には貴族ではありませんが……。子爵様がお嬢さまを溺愛しているのは有名な話です」
「さっき話していて知ったのだが、ヘザーはフェリシティが貴族の娘でも俺が貴族の息子だから何を言っても許されると思っているようだった」
強気になる理由にもならない理由に、さすがのスザンナも絶句した。信じられないと言った表情を浮かべている。サイモンは苦笑しかない。
「まあ、普通はそう考えないよな」
「……では、お嬢さまが何者であるか知らないわけではないのですね。奥様にお伝えしておきます。それからお嬢さまに戻ってほしかったら言葉も行動も惜しまないことです」
「わかっている」
遠慮のない言葉に、苦い気持ちが広がった。スザンナはわざとらしいため息をついて、家のことをあれこれ説明して帰っていった。
用意された温かな食事を義務的に食べ終わると、葡萄酒とグラスを持って居間にある長椅子に腰を下ろす。
「フェリシティ」
少し前なら一緒に座って、色々なことを話した。フェリシティが話していることが多く、サイモンは相槌を打つだけなのだが、その穏やかな空気はサイモンに幸せを感じさせた。あの二人の空間がサイモンの疲れを癒し、翌日への活力になった。
フェリシティがいないだけでこれほど堪えるとは思っていなかった。フェリシティがいる生活が当たり前すぎて、喪失感が凄まじい。
こうして一人、広い居間で座っていると形にならない不安が込み上げてくる。
そして思い知る。連絡もなく帰ってくると思っていた夫を一人で朝まで待っていたフェリシティの気持ちを。
どれほど不安だっただろう。
理解していると思っていたが、いざ自分がその立場に立てばその辛さは計り知れない。
「フェリシティ」
結婚してからフェリシティはいつだって笑っていた。サイモンは自他ともに認めるほど口下手で、思っていることの半分も言葉にできない。そのことで成人してから何度か付き合った恋人とはすぐに破局した。
サイモンが無口であっても、フェリシティは持ち前の明るさと察しの良さで気持ちを酌んでくれるので甘えていたのだ。
明日の朝、花束を持って謝罪に行こう。許してもらえるまで何度でも通うつもりだ。ロイや他の団員にも頭を下げて、時間の都合をつけてもらう。
色々と考えながら、グラスを空にした。