§2 戦姫 白い薔薇
新ヒロインはお姫様です。
二◯六十四年 四月八日 火曜日
「おにいちゃん......あついよ......んん......」
確かに暑い。重いまぶたを上げる。眼前には黒く、しなやかな髪。その生え際、つむじから香る何とも名状し難い落ち着く香り。
左手が暑い。じんわりと伝う熱。その手触りは柔らかで、しなやかだ。
何であろうととにかく暑い。俺は暑い左手をスッとずらす。
ふにっ。
「ひゃっ!?」
ゴツン!
蘭がびくっと動き、俺と頭を思いっきりぶつける。
「ふえ......いたい。っておにいちゃん!?」
「いたた......蘭?えっと......これは......。」
バシン。
朝五時半。不慮の事故が、俺の睡眠時間を更に短いものとした。
ーーーーーーーー
「だから何回も謝っただろ?これは事故で......。」
「自分から抱きついておいて事故で済ませるの?やっぱり明日からは別々で寝るから。フンッ!」
説明すると、寝つけなかった俺が蘭に抱きついて眠って数時間、少しずつ両者の体勢は変わり、俺の左手は蘭のパジャマの中、胸元に辿り着いたらしい。「ラッキースケベ」という死語を聞いたことがあるが、その相手が妹となると、申し訳なさだけが募る。
......こんな朝ですら、俺の分までトーストとスクランブルエッグにウインナー、そしてスープを用意してくれるのだから、我ながらよくできた妹である。
「朝から元気だな。フフッ。」
ブラックコーヒーを飲みながら、俺達兄妹の一悶着の行方を見守る本日の来客者。昨日はさぞかしよく眠れたのだろう。彼はいつもよりも落ち着いた、穏やかな表情を見せている。
それに今日のニュースは珍しく、彼に関するものが一切無い。
「アンタのニュース無いな。珍しい。」
「もう人界に来て一週間も過ぎたんだ。貴様らもそろそろ飽きてくるだろ。」
そういうものなのか。例えば日本国内で大地震が起これば、関連したニュースは一週間では済まない。実際彼は人を殺していないとはいえ、ホワイトハウスーー俺が思うに世界の本丸ーーのSPを何人も病院送りにし、そんな本丸を落としたのだから、関連した噂や、例えば我が校に関する話題など、ワイドショーが好きそうな話題を挙げようと思えばきりがない。
これには政府が彼への対応方法を変えたのかと疑ってしまうほどだが、当の本人が興味を持たないのでこれ以上この話題は続けないことにした。
カン。カン。
「ニュース見たりコーヒー飲んでたら学校遅刻しちゃうよ?はーやーくー。」
少し赤らめた頰を膨らませ、おたまでフライパンを鳴らす小柄な姿に、母の面影を見たような気がした。日に日に大人びていく彼女には、逞しさすら感じる。
知らぬ間に大人びた体のことが脳裏をよぎり、それを必死に押し殺した。
ーーーーーーーー
今年度登校二日目。俺は来客者とともに家から放り出され、二人で並んで学園へと向かった。家の前から構内に至るまで周囲の視線は常に痛く、隣で大きな両翼が風を切るこの十数分が早く終わることを祈り続けた。
二年生のフロアである二階につくと、隣のB組前に多くの人が立ち並び、騒ぎ立てていた。自分に視線が向かないこのただならぬ光景に驚いたのか、同伴者が俺を引っ張るようにB組前へと向かった。
「すっげえ美人だ。」
「モデルさんかな?」
「いや、あれはお姫様だ。間違いねえ。」
「きっと女神様だよ!」
男女問わず騒ぎ立てる野次馬どもの視線の先を見た。窓際の一番後ろの席に、その女神はいた。
一本残らず逆らわずまっすぐ伸びた一つ括りの金髪、光り輝くエメラルドグリーンの瞳、そして、透き通るような白い肌ーー。まさに芸術品の一言だった。アリスや蘭、周囲に美少女と呼ばれる人をそれなりに知っている俺ですら、彼女のことは人外の代物だと思った。同じ制服に身を包んでいるとは思えない。
「どうしてそこにいる。」
二筋の紅き光は、まっすぐ彼女の方を刺していた。女神のように美しい彼女に対し、焦り、苛立ちのようなそんな感情が漏れ出ていた。
スタッ。
女神が席を立つ。美人は立ち姿も美しい。一層騒ぐ野次馬。
刹那、彼女はエメラルドの宝石を絞った。
キリッ。
野次馬が静まり返る。動けない。棘が刺さるような感覚に襲われる。
白く美しい女神は俺のことなど御構いなしに、そのすぐ隣、苛立つ男の方へと近づく。
「貴方が裂け目を閉じ忘れていたからですよ。それに、私にも相応のリスペクトを持って接するようにと何度もお話ししたはずです、悪魔くん。」
「その呼び方はやめろと何度言ったら分かるんだ戦姫。」
「それはこちらのセリフですね。」
世界を混乱の渦に巻き込んだ張本人を悪魔くん呼ばわりする女神。彼女は軍の総司令官を名乗る彼より偉いということか?『せんき』という名前なのか?この転校生第二号についても、情報量があまりにも膨大で、処理落ちした俺は何も発する余裕がなかった。
「申し遅れました。私の名はシア・セレネー。セレネー王国第二王女にして、連合国軍の副司令を務めております。」
右手で艶やかな金色のもみあげをかき上げ、両手でスカートの裾を持ち上げて彼女は名乗った。
「それで、裂け目が開いていたからとはいえ、貴様が学校にいていい理由にはならぬ。」
「貴方に決める権利はありません!私はせっかくこの人界に来て......その......進んだ文化を学びたくて編入を許可してもらったのです!」
不機嫌な黒翼の男を見上げ、堂々と話すシア。彼女もまた、人界の文明に魅せられたということだ。
「いいんじゃないの、悪魔くん?シアさんが来てくれてみんな嬉しそうだし。」
隙を見つけた俺は、ニヤッとした顔で隣を向いた。一切歓迎の雰囲気がなかった彼との差を強調するような強気の冗談を言いながら。
「貴様......!」
鋭く刺さる紅い光も、このときばかりは心地よかった。
「皆さん、朝礼始めるので自分の教室に帰ってください!」
A組の教室の前から担任の舞ちゃんがちょっと怒った顔で俺たちを呼んでいた。俺とA組の方の転校生、それに野次馬たちは、急いで自分のクラスの教室へと戻る。
A組の入り口前まで戻ったところで振り返る。窓から覗く女神と目が合うと、笑みを返してくれたような気がした。
「私が来て嬉しい......ですか。」
B組の方の転校生ーーシアは悪魔くんの連れの男子の発言が引っかかり、笑みを溢した。
ーーーーーーーー
「シアさん誘えないの?ねえ?悪魔くん!」
午前の授業を終え、さっそく新しいあだ名にハマった凛が、本日も俺の隣の机にひょこっと顔を出す。話題はまさに時の人となった隣の転校生、シアである。
「だからその名で呼ぶな。呼ぶわけないだろ。」
「えー。ケチ。」
ただでさえ昨日知り合った転校生である人界の侵略者を、容赦なくケチ呼ばわりするこのお団子頭の度胸には敵わない。
「どうしてもと言うなら......そうだな、迅!貴様が呼ぶといい。顔見知りになったのだからちょうどよいだろう。」
「は?」
流れ弾に唖然とした。凛、俺の向かいの席でサンドイッチを頬張るアリス、そして、その流れ弾を放った彼の視線が、俺のもとに集まる。またも嘲笑うような目には逆らえず、
「はいはい、誘う......だけな?」
苦笑いを返し、教室を出る。
ーーーーーーーー
B組の教室の前を覗くと、始業前ほどとはいかないが、中までびっしりと、多くの野次馬と思しき男女が立っていた。またも彼ら彼女らの間をくぐり抜け、ドアの前へとたどり着く。
「シアちゃん、俺っちと遊ぼうよ〜。」
「いや、シアちゃん。僕と一緒に来ないか。」
「シアたん!けっ、結婚してくれ!」
うおー。ひゅーひゅー。
群がる群衆の中心、シアの机の前には数人の男が立っていた。どれも別グループに属していそうな男どもが、転校したての彼女を誘ったり、何故か求婚したりしている。
......昼ごはんの誘いにだけ来た俺の入る隙はないだろう。
スタッ。
白い花はまたも美しく立つ。踵を返すと、その可憐な立ち振る舞いが場を制した。
「悪いのですが、先約がございますので。」
スタッスタッ。
歩を進め、その花は教室を去った。
「行きましょう。」
「えっ?」
そう言った彼女は、俺の左腕をまるで棘で刺したかのようにがっしりとその華奢な右腕で掴み、引っ張った。細身の女の子のそれではない力で引っ張られた俺に、抵抗する余地はなかった。
男どもの殺意に似たおぞましい視線を背に浴び、B組の教室をあとにする。
「誘いをいただいたものの中で唯一、貴方にはやましさを感じなかったので。ふふっ。」
「そいつはどうも。」
固まる野次馬を横目に、俺たちはA組の教室に入る。揺れるまっすぐな隣の花弁から広がる、格の違いを感じるような、華やかで濁りのない芳醇な香りに包まれた。
おそらく妹とアリス以外の年頃の女性とここまで距離が近いのは初めてだと思う。思いがけず幸せな瞬間を味わえた。
「お待たせしました。」
シアが教室に入るや否や、言い放った。
「本当に連れてこなくてもいいだろう、迅。」
俺の方に不機嫌な眼差しが向けられたが、その紅い光を躱し、自分の席に戻る。たまたま空いていた後ろの席にシアを誘導し、俺はようやく弁当を開く。
いつからか先ほどの出来事も知らぬ劉が馴染んでおり、気づけば六人という少し大きめの集団での食事会となっていた。俺はようやく弁当を開く。
「それで、シアさんはどうしてこの学園に?」
俺が誘ってる間にサンドイッチを食べ終わったアリスが、切れ長の目をぱっちり見開き尋ねる。相手が女性だからだろうか、随分と好意的な視線である。こうして見ると、アリスも目鼻立ちが整っていて、アイドルのような可愛さがある。
「シアで構いませんよ。魔界と人界の外交を任されたものとして、人界のことをより知る必要がありました。それに、人界の文明はとても進んでいて、とても興味深いです。ふふっ。」
シアも好意的な笑みを浮かべる。彼女は既に昼食を食べ終わっているみたいで、ただただ質問に襲われている。
「外交なら我が既にやっている。邪魔だ。」
「貴方の勝手な落書きのどこが友好条約ですか。この度外交は王国から私に一任すると決定されました。邪魔なのは貴方の方ですよ。」
「あのクソジジイ、我がおらぬ間に勝手なことをしてくれたな......!」
「口を慎みなさい。すべて姉上にお伝えしますよ?」
「貴様、それはずるいぞ。」
お姉さんがいるのか。どうやら人界を軽く一捻りした彼にも、逆らえない相手がいるらしい。それに、シアやシアの言う姉上のように、魔界にも話の通じそうな人がいて安心した。
「はいはい!二人とも、ご飯は楽しく食べようね?せっかくお弁当作ってくれた蘭ちゃんが泣いちゃうよ?」
「チッ......。」
珍しくアリスの言うことをおとなしく聞いた魔界の話の通じない方が、玉子焼きを頬張る。昨日から彼の好物となったらしく、俺の弁当用のはずだったものまで一部が詰められたその弁当箱から、一つ、また一つ。
「貴方が姉上以外のお話を聞くとは。やはり人界は面白いですね、悪魔くん?」
「勝手に言ってろ。」
二人目の転校生が敵対勢力でなくてよかった。気がつけば今学期初の和やかな昼食の時間となった昼休みが惜しまれつつも終わり、午後の授業が始まる。
穏やかな教室に対し、天気は下り坂。下がる気圧に左手の関節がぴりっと痛みだした。
女の子は強い!