華蓮とひなのはなし2 前編
だいぶ間が空いてしまってすみません! この二人は過去が結構みっちりできているので、どこから書こうかなーと筆を迷わせているうちに三日が過ぎ去ってしまいました……。同じ世界線に住んでいる他の子たちが登場したりします。ぜひお楽しみください!
「人間っていうのはね、やっぱり同じ間違いを何度か繰り返さないとやってらんないのよ」
彼女はそう言って微笑した。
しとしとと春雨の降る、三月も終わりのある日。私はとある喫茶店でコーヒーを飲んでいた。向かいでココアをすすっている彼女は高校時代のクラスメイトだ。近いうちに東京行くから、と連絡があったのは数日前。年明けぶりに会った彼女は、切ったようで髪が少し短くなった以外はほとんど変わらない様子だった。
「あんた、会うたびそういう意味のわからないこと言うよね」
「まあね。私の周り、こんな人たちばっかりだから」
親しみを込めて揶揄うと、彼女はそう答えた。母校の選抜クラスでも群を抜いて成績が良かった彼女は、今や某有名国立大学の学生である。ずば抜けて頭のいい人は、同時に変人であることが多いというのは本当なのだろう。卒業してからも友人関係が続いているのは、彼女のこういう風変わりなところが好ましいからかもしれなかった。私は砂糖もミルクもなしのブラックコーヒーを一口飲む。
「それで? あんたはどんな間違いを繰り返したっていうの」
頬杖をついてそう問うと、彼女はおどけたように片眉を上げる。それは彼女の昔からの癖だった。
「それ聞いちゃう?」
「聞いちゃう」
彼女はうふふと意味ありげに笑って、テーブルにココアのカップを置いた。カランカラン、とベルが鳴って、客が一人店を出て行く。
「じゃあ、話してあげましょうか。これはね、私が中学生だったころの話なんだけど……」
§
雨の日の美術室。その、絵の具のしみや彫刻刀の傷跡にまみれた空間に足を踏み入れることを、私は少し躊躇っていた。そこに、一人の少女が座っていたからだ。
ぱっつんに切りそろえられた重めの前髪に、目もとが覆われている。きゅ、と固くつぐまれた唇は噛み締められているようにも見えた。
躊躇うという行為自体、普段の私には見られない類のものだった。なのになんだか、声をかけてはいけないように思えて仕方なかったのだ。
やがて彼女は私の気配に気づく。何やら一心不乱に描いていた紙から上がった視線が、私の姿を捉えた。前髪がぱらと寝返りを打つ。彼女は数秒ほど呆気にとられたように私を見つめ、そして口を開いた。
「えっ……これはえっと、私……あの……えーっと……」
静かながら見るからに慌てた様子を見るに、どうやら上級生ではないらしい。口をパクパクさせる様子が面白くて、私は少し笑ってしまった。彼女は自分からなにかを話すことを諦め、今はこちらの様子を伺うに徹していた。
「んと、一年生、だよね。私も美術部見学なんだけど、あなたも?」
「あ……うん」
とりあえず会話の糸口を放ると掴んでくれたようで、彼女はこくりと頷いた。
部屋の中に足を踏み入れると、水彩絵の具とニスと油の匂いに包まれる。一般的にイメージされる美術室というものに違わず、三階の一角にあるこの教室はひどく散らかっていた。ペンキのついたダンボールや汚れた新聞紙が散乱している。外に面した窓からはプールが見下ろせて、その向こうには町並み、さらに遠くには海が見えた。まだ二回目の登校で、初めて足を踏み入れる部屋にしては存外居心地が良く感じた。
中学校に部活というものが存在していることは知識として知っていたが、よもや強制だとは思わなかった。文句を垂れながら楽そうなものを選んで、今日が見学初日というわけだ。
「ずっと待ってるけど誰も来ないから、あんまり真面目にやってないのかもしれない」
きょろきょろと室内を物色していると、彼女がそう教えてくれた。
「まじか。まあ先輩いるとどうも緊張するから、心の準備できていいかも」
私は荷物を足もとに置きながら答えた。廊下に人がいないことを確認して、付け加える。
「あんま好きじゃないんだよね、年上だからエライ! みたいなの」
「ふーん」
興味ないのかなんなのか、彼女がどこか無感動にそう相槌を打った。既に私への好奇の意識は失くしたようで、彼女の関心は机上の紙に戻っていた。その横顔をちらと見やる。目じりがちょっと垂れていて大きな目と、小ぶりな鼻と、小ぶりで薄い唇。どことなく小動物を連想させるような顔立ちだ。
やがて私は観察に飽きて、なんとなく眠気を感じ始めた。退屈さを持て余して爪をいじり始めた私に、隣の少女はふとこう問いかけた。と言っても、顔は上げないままだが。
「絵描くの、好きなの?」
「うーん。図工の時間は好きだったけど、絵を描くことが特別好きってわけじゃないかな。それこそ授業じゃなきゃ描かないし。興味はあるけど、ね」
彼女は相変わらず無表情のままだ。鉛筆が紙の上を滑る音。
「へえ」
私は彼女の鉛筆が変な削られ方をしていることに気がついた。ナイフで削ったように表面が凸凹していて、芯の部分が異様に長い。
「あなたは?」
「好きだよ。あと、名前は青葉ひな」
「あ、青葉さんね。わかった」
「うん、よろしく」
そこで会話は途切れた。私は妙なばつの悪さを感じて、リュックから本を取り出した。読み始めるが、いやに集中できないのですぐにやめてしまう。本のページは膝の上に開いたまま、ぼんやりと机の上の落書きを眺める。宮野真吾サンと寺谷みきサンの相合傘が彫られていた。
結局一年生の完全下校時刻まで、他の誰かが来ることはなかった。
「これ、古屋さんにあげる。ばいばい」
ひなは帰り際に、私に一枚の絵を渡してさっさと消えてしまった。
一輪の薔薇がガラス製の花瓶に挿されている絵だった。
§
「ふーん、面白い子じゃん」
彼女が一呼吸置くのを見計らって、私はそう感想を述べた。人見知りで大人しい子はいっぱいいるけれど、帰り際に、しかも初対面の人間に対して薔薇のスケッチを残していく子はそうそういないだろう。
「せや……おっと失礼、そうでしょ? びっくりしたわよ、なんかいきなりスケッチ渡されて。でもその時確信したの、その子がこっち側の人間だってね。まあもしかしたらあっち側の人間だったかもしれないけれど、少なくともそっち側の人間だとは思わなかったわ。しかもめちゃくちゃ上手いの」
「出た、あっちこっちそっち側理論」
私は声を上げて笑った。昔の彼女の常套句であり代名詞であったこれが、未だ健在であることが嬉しかった。彼女に言わせれば、私はそっち寄りのこっちらしい。
甘そうなココアを飲み、懐かしむように微笑む彼女。ピンクのルージュがよく似合っている。
「私、その時ちょうど花言葉に凝っててね。愛の告白かと思ったのよ、一瞬」
「やだ、なにそれ」
「冗談よ、冗談。なんでモテない女筆頭な私がそんなこと考えると思うの」
「あんたなら考えかねないじゃない。ところで彼氏はできたの?」
「いないわよ、三次元には」
「じゃあ二次元にはいるんだ、相変わらず不思議だよね、あんた美人だし高校ではそこそこモテてたのに」
私のその言葉に、彼女は目を丸くし椅子から腰を浮かせた。
「ちょっと待って、今なんて言った?」
いきなり詰め寄って来る彼女に、私はやや怪訝に思いながらもさっきの言葉を反復する。
「あんた美人」
「そっちじゃなくて」
「高校ではそこそこモテてた」
「なによそれ。聞いたことない」
「えっ知らなかったの?」
「全然」
「嘘でしょー!」
私はため息とともに苦笑し、彼女は大きく落胆した様子だった。
それにしても、知らなかったとは意外だった。高校時代の彼女の人気といったら、それはもうすごかったのだ。毎日のようにラブレターの仲介を頼まれ、その度に追い返していた身にもなってほしいものである。
「じゃああの男ども、結局諦めちゃったんだ。人に頼らないで告白ぐらい自分でしろって言ってたんだけど」
「えー……」
もったいないことをした、と頭を抱える彼女。私はその肩をぽんぽんと叩いて慰める。
「大丈夫大丈夫。これから彼氏できるよ。ほれ、話の続き聞かせてよ」
「ああ、うん。えーと、その次の日にね……」