華蓮とひなのはなし3 後編
「じゃあ、また部活の時ね」
「うん。ばいばい」
階段の終わりで軽く手を振ってから、私は右、ひなは左に歩き出した。気の早い春はもう走り去ろうとしていて、晴れた日はもう暑いくらいだ。今日もお日様が元気に照っていて、気温はそこそこ高い。
目下一番の悩みだった二年生最初のテストも終わり、今は六月半ばの宿泊学習に向けて準備を進めているところだ。班割りも決まったことだし、あとは回る場所と時間配分を決めて計画書を書くだけ。全てがうまくいくなんて、傲慢にも思っていた。
けれど平和な日常というのは、いとも簡単に崩れるものだ。そんなことを痛感するのは、今回で二度目、いや三度目かもしれない。
「まじか、お前もうガチャ引いたのかよ」
「えー、今日数学あったっけ。だっる」
「やっべ、エプロン忘れたかも」
「給食のマーボー豆腐ってなんか、美味しくないよね」
朝の教室ではありがちな、他愛もない会話の数々。
その七割がたは、私が教室に足を踏み入れた瞬間に消えた。
「……え」
思わず、声にならないほどのつぶやきが漏れた。
何人かはわかりやすく目をそらし、何人かは一瞥のあとにその視線を伏せる。数秒もしないうちに彼らは元のコミュニケーションに戻っていった。ただ、さっきとは違う「空気」が絶対的権力を持ってそこを支配している。
この流れには覚えがある。あまりよくない記憶だ。同じじゃないか、五年前と。あの時ほどあからさまではないけれど、あからさまではない分余計にうすら寒いものがある。
最初にじわじわと滲むのは恐怖でも悲しみでもなく、崖っぷちからいきなり突き落とされたような驚きと混乱、それになんともいえない苦々しさだった。勘違い、という選択肢が現れて、すぐに消滅。現実逃避にも走れない。
また何か、してしまったのか。普通じゃないと思われたのか。顔だけ平静を装ってぐるぐる思案してみても、思い至ることは何もなかった。
極力目立たないように、かといって沈みすぎないように、ほどよく息を潜めて生きてきたつもりだ。授業中は当てられたら答えるだけ。人の悪口は言わない。替わったばかりのクラスに友達は少ないけれど、そんなに嫌われることもないはずだった。
それなのに。
なんでいつも、こうなる。
涙がこみ上げそうになるのを抑えて、気づかれないように唇を噛んだまま自席に向かった。
§
「ああ、来た来た」
いくぶんやつれた顔で現れた私を、真夜はいつも通りの軽薄な調子で迎えた。その横には、ひなもいる。二人は同じクラスだから、いつも同じタイミングで来ているのだ。
自分を拒否している集団の中に身を置くというのは、当たり前だが途方もなく疲れる。誰が味方かわからない以上、下手に声をかけたりするのもよくない。
クラスの女子の中心にいる面子、ソフトボール部やテニス部のあたりが中心なのはなんとなく掴めたが、主犯格は未だ不明。加担していない人間も多少いるとはいえ、やっている側の影響力が強すぎる。
「今ね、今週末遊びに行く相談してたんだけどお。古屋さんも行く?」
「どこ?」
「カラオケ」
「ああ、ごめん無理。親にダメって言われてるから」
「まじ?」
真夜は顔を上げる。机に隠れて見えなかった手もとには、ちゃっかりスマートフォンなんか握っていた。
「今どき珍しいね、カラオケ禁止とか」
どことなく鼻で笑うような調子でそう言われ、私は思わず眉をひそめそうになる。
「……まあ、ね」
たしかに、私の両親は厳しい。過保護と言われることもある。カラオケは禁止だし、門限も他の子たちより早い。十三年の間、特にそれを不自由に思ったことはなかった。
「さーて、部活、部活」
仕切り直しのように声をあげて、私はキャンバスの前に座った。今日は嫌なことが多すぎる。
いつもより乱暴に筆を叩きつける私を見て、真夜はまた笑ったようだった。
§
チャイム。
私は視線を黒板から外し、ノートを閉じて立ち上がった。
数学は面白いけれど、数学の授業はつまらない。一回やれば覚えられることを、何回も繰り返し説明するのは無駄でしかないのに。
二年生にありがちな、力の抜けた号令がかかる。次の授業はたしか英語だったっけ、と教科書を引っ張り出していると、足音がひとつ近づいてきて止まった。
「華蓮ちゃん」
「あ、奈緒ちゃん。なに?」
できる限り明るく答えたつもりだったけれど、少し警戒がにじみ出てしまっただろうか。クラスだけで言えば一番心を許していた奈緒だけに、拒絶されたら立ち直れない確信があった。
彼女は軽く唇を噛んでいちど視線を伏せ、それから口を開いた。
「ちょっと、話さない? あっちのほうで」
言葉とともに示されたのは、教室を出た先の廊下の隅。
「……うん」
私は腰を上げる。奈緒はそれを確認してから踵を返した。
学校らしい窓だらけの廊下は明るくて、むしろ少し眩しいかもしれない。少し目を細めたまま、奈緒に向き合う。
「あのさ、聞いた話だよ。聞いた話なんだけど」
ずっと我慢していたような声音で、まくし立てるように彼女は言った。
「華蓮ちゃんが、二組の人はみんなバカ、みたいなこと言ってたって噂が流れてて。みんな本気にしてるけど、絶対華蓮ちゃんはそんなこと言わないはずだから、おかしいって思って……本当、なの?」
ありそうな話だと思った。
ちょっと成績のいいあの子が、みんなのことバカにしてた。なにそれウザ、シカトしよ?
発信者は一番大事な部分を見誤った。私と一緒にいるような子は、そんな悪口を本気にしない。私は自ら嫌われに行くほど愚かじゃないことを、みんなわかっているはずだ。
「うーん、デタラメかな。誰が言い出したんだろうね、そんなの」
屈託のなさを装って、私はあっけらかんと笑った。奈緒は安心したように表情を緩めた。
「よかった。……なんとなく心当たりはあるんだけど、ねえ。戻ろ」
「うん」
奈緒の言葉に頷きながら、私もおそらく彼女と同じ可能性を考えていた。
授業に遅れないために、小走りで教室に行かなければいけない。
真夜と乃亜のはなし3へつづく




