華蓮とひなのはなし3 前編
「……ごめん。今日は一人で帰らせて」
息が止まるかと思った。
お互い限界なのはわかっていた。でも何があったって、二人で一緒に帰るこの時間だけは私のものだと思っていたのに。
なんで。なんでそんなこと言うの。また前の繰り返しなの。もう見捨てないんじゃなかったの。なんであいつなんかと一緒にいるの。ねえ。
そんな言いたいことを全ておさえこんで、私は「物わかりのいい友人」の顔で精一杯微笑む。ひなを困らせないように。これ以上、彼女が自分を追い込まないように。
「うん。わかった。じゃあ私、しばらくここで止まってるから。じゃあね……ひな」
私がそう言ったのを聞いたのか聞かなかったのか、ひなはこちらを見もせずに脇道をかけて行った。その背中を出来るだけ見なくてすむように、私は俯く。真っ暗なアスファルトを無理やり塗りこめるみたいに、あたりがどんどん暗くなっていく。絞り出すように吐く息が白い。ひながいなくなった十二月の世界は、さっきより何倍も何十倍も寒く感じられた。
わかっている。別にひなが私のことを嫌いになったわけじゃない。多分これは私に対する彼女の甘えであり、信頼だ。私なら安心して突き放せるから、ひなは私を突き放したのだ。
だから私は傷ついてはいけない。傷ついたそぶりを、あの子の前で見せてはいけない。
こらえきれなくなった感情が、寒さでひりつく眼球にじわりと滲んだ。押し殺しても押し殺しても、食いしばった歯の隙間から嗚咽が漏れる。馬鹿みたいだ。これじゃ帰るに帰れないじゃないか。
私はきびすを返した。今日は遠回りして帰ろう。
§
四月。
桜はだいぶ散ってしまったけれど、淡い若葉色がそこかしこで眩しい。
二年生に上がったばかりの私たちは、始業式のその日からさっそく美術室に集まっていた。といっても今日はちゃんとした部活ではなく、ただ暇だから来たみたいなものだ。
「ああ、もう! 信じらんない。ひなちゃんと同じクラスがよかった」
私がそうぼやくと、ひなはふふっと笑って、それからちょっと残念そうな顔をした。
「今年こそは同じクラスって思ったのにね」
今朝行われた新しいクラス割の発表。私は二組、ひなは五組だった。もともと一年生では別のクラスだったし、何が変わるわけでもないけれど。三年生はクラス替えがないから、結局中学生の三年間を別のクラスで過ごすことになってしまうのだ。私は深いため息をついた。
「神頼みまでしたのに」
「ねー」
ひなはそう言いながら、少しだけ首をかしげる仕草をする。重めのミディアムがふわりと揺れた。
気を取り直して、自分の頰を両手で勢いよく挟む。
「まあ新年度だし、気合い入れて行こう。新入部員引きずりこむぞ!」
「はいはい、おー」
そんな雑談に興じていたところ、徐に教室のドアが開いた。私とひなが同時にそちらを見やる。
「あ、いたんだー。失礼しまーす」
にこっと目を細めてから入って来たのは、一人の女子生徒だった。
すらりと高い身長に、これまた長くて細い手脚。マスクをしているから、顔のほとんどは隠れて見えない。しかしそのすっと切れ長な目元のせいか、妙な威圧感を漂わせていた。私の知らない人だ。
「牛込さん?」
ひなが声を上げた。その声の硬さから見て、そんなに仲のいい相手ではないのだろう。その瞳にも、わずかながら警戒の色を見せている。この視線がちょうど一年前は私に向いていたんだなと、一人感慨に浸る。
「青葉さん。そうだよね、美術部だもんね……あ、これ」
牛込さんと呼ばれた彼女は、はいと私に何かを差し出した。受け取ると、B5紙の下三分の一を切り取ったような大きさの紙だ。ひなもそれを覗き込む。
「転入部届……?」
私は見た文字をそのまま読み上げた。生徒氏名、保護者氏名、ハンコがしっかり所定の位置に収まっているのを意味もなく確認して、視線を上げて相手の顔を見る。
「ええっと牛込さん、これは……」
「真夜でいいよ」
真夜はとってつけたような仕草で気をつけをし、スカートの裾をつまんでお辞儀をした。その姿が思ったより様になっていて、私は息を呑む。
「元演劇部、牛込真夜です。お世話になります」
そんなこんなで、I中美術部に新しい部員が加わったのであった。
話を聞くこと二、三分。真夜が説明した経緯を大まかに説明すると、こうだ。
演劇部。吹奏楽部やダンス部と並んで文化部の花形的存在だが、その実態は決して華やかなものではないらしい。去年から変わったという新顧問が放任主義なのをいいことに、上級生によるパワハラが横行しているんだとか。
「今の高一がいた頃はまだ良かったんだけどね。部長変わったらやりたい放題だよ、もう」
私もその噂は耳にしたことがあったが、そこまでひどいものだとは思っていなかった。
そして、今になって発覚した新事実がもう一つ。現美術部部長は私ということになっているらしかった。もともと美術部に所属していた先輩方は、みんな成績素行その他諸々の都合で雑用部送りになったという。美術部ってそんな不良の溜まり場みたいなことになっていたのか、と今更ながら身震いする。この一年、よく無事でいられたものだ。
「ていうかこの部、ほんとに先輩なんていたんだね」
私は呆れ気味に呟いた。向かいに座った真夜も苦笑する。
「いたらしいよ」
ひなが真顔のまま一言も喋らないものだから、今のところは私と真夜だけで会話が成立していた。
「まあ、そんな先輩方だったら関わって来ないのが幸いだったのかも。因縁つけられたらたまったもんじゃないし」
なんとなく窓の外を眺めながら、私は言った。今日は天気がいいから、海がよく見える。向こうを通っていく船は、どこの国の貨物を積んでいるのだろう。
「まあ、いいや」
私はそんな一言で自分の思考に、真夜との会話にけりをつけた。椅子を引いて立ち上がる。真夜は感情の読めない瞳で私を見ていた。
「今日はまあ、好きにしてって。絵描いててもいいし。あ、あとで備品の説明とかするね」
私の言葉に、真夜はこくりと頷いた。
§
「ちょっと、面倒なことになったね」
帰り道。周りに知人の姿がないのを確認してから、ひながぽそりと呟いた。何を指しているのか、私もすぐにわかった。
「やっぱりそういう子なんだ」
牛込真夜。気にかかったのは彼女の目つきだ。マスクの下がどうだったかはしらないが、少なくとも彼女の双眸は一回も「笑って」いなかった。深く関わりすぎない方がいい、そう直感が告げている。
「うん。演劇部、先輩もそうだけどあの人もなかなかだったらしい。気に入らない子いじめて、転部させちゃったって」
「うわあ」
まあやりそうな顔はしているな、と私は思った。おそらく演劇部の面々は今頃ほっと胸を撫で下ろしていることだろう。彼らに罪はないとはいえ、厄介なものを押し付けられてしまった。
「なんにせよ、大事にならないことを祈ろう」
私がため息をつくと、ひなもうんうんと頷いた。




