千恵子とまりあのはなし2
「まりあさん!」
息を切らした私の叫びは、どうやら届いたらしかった。潮風に金髪を揺らすその少女はゆっくりと振り返る。まろやかな錆浅葱が、まん丸に見開かれた。
「千恵子……さん……?」
呟く彼女を、私は飛びつくようにして抱きしめる。ただ呆然としていたまりあは、やがて涙に顔を歪ませ、無言のまま私を抱きしめ返した。
「よかった……もう、間に合わないかとっ」
堪え切れなくなった感傷が目からじわりと溢れ出した。
「ご存知? あの黄色い頭の方、今年のうちに欧州へ行くんですって」
「あらまあ、そうなの? でもそちらの方がお似合いね」
そんな噂話を耳にしたのは、そろそろ東京に初雪が降ろうかというある日のことだった。
愛するまりあが黄色い頭などと呼ばれていることも不快だったが、それよりも気になることがある。
欧州へ行く、とは。
すぐにその同輩たちを問いただしてみると、二人とも詳しい経緯は知らず、ただ人づてに聞いただけだと言った。
何やらこそこそ言いながら逃げていく彼女らを、私は呆然と見送る。
留学や旅行ならば問題ない。でも移住や、もしかして嫁入りだったらどうするのだ。もう一生会えないということすら、ありえる。
それにちょっと欧州へ行くだけなら、まりあが話してくれないのもおかしい。つまり、隠すだけの理由があるのだ。
暦を見れば、今年はあと十日と残っていなかった。
調べなければ。私は決断したのである。
それからというものの、千恵子は毎日のようにまりあと会う約束を取り付けた。一度疑いを持ってみれば、まりあが時々見せる寂しげな表情も気にかかる。そして、運命の日はやってきたのだ。
「ごめんなさいね、千恵子さん。明日は少し予定があって、会えませんの」
まりあは申し訳なさそうに眉尻を下げ、そう言った。大晦日の前日のことだった。
来た。私は身構える。
「あら、それは残念ですわ。では、明後日はいかが?」
平静を装って微笑みながらも、内心は大荒れだ。
ぎくり。まりあは一瞬身を固くした。そんな様子を、私は鉄壁の微笑とともに見守る。
「え? ああ、まあ、そうですわね。明後日。ええ、明後日には」
見るからに不自然に言葉を濁すまりあ。彼女は隠し事が下手なのだ。大方、使用人かなにかに手紙でも預けて、明日旅立ったあと私に知らせようとしているのだろう。
その日まりあを見送ったあと、私は即座に女中に言いつけ、翌日欧羅巴に渡る船を調べさせたのだった。
真冬の港。風は冷たい。蒸気船に乗り込む客たちが、何ごとかと私たちを一瞥してゆく。
なにも言わず抱き合う数秒間を終えて、二人は改めて向き合った。
「千恵子さん、私、嬉しいわ。なんて言ったらいいのか、わからないくらい」
とろけるような微笑みを浮かべて、まりあは言う。こんな時に意地悪がしたくなって、私はわざと傷ついたふうを装った。
「ひどいわ、まりあさん。私になにも言わずにいなくなる、そういう段取りだったのでしょう? なぜ話してくださらなかったの」
途端、悲しげな顔をするまりあ。
「ああ、ごめんなさい千恵子さん。貴女に伝える勇気を、私は持っていなかったのです」
私はたまらなくなって、まりあのなめらかな頰に指を滑らせた。彼女は少し目を伏せて、どこか思慮に耽っているように見えた。
「ええ、ええ、何か理由があるのでしょう。私に教えてくださいな」
彼女の白い頰を挟んだままその瞳を見つめると、青碧はまたわずかに揺らぐ。
「私、エゲレスに嫁ぐことが決まりましたの。いいえ、この言い方ではおかしいわ……ずっと、決まっていたのよ」
絞り出すようにそう話すまりあの声は、今にもまた泣き出さんばかりに震えていた。
やはり。やはりそうだったのだ。
考えていたうちでは最悪の事態に、私の頭は真っ白になる。
結婚。私たちおんなにとって、それは逃れようもない怪物であり、少女としての死。
それなのに、由緒正しいおうちですってと微笑む姿のなんと健気なことか。
「では……ではもう、会えないの? 貴女とは、これでお別れなの?」
無意識のうちに、私はまりあの髪に触れていた。太陽の色をした髪。私の大好きな、狂おしいほどに愛おしい色。
「いやですわ、まりあさん。そんなこと、そんなこと……私は死んでしまいます。今だって、こんなにも苦しいのに」
「千恵子さん、私もつらいわ。でも行かなければならないのです」
そう告げるまりあの声は、もはやいたいけな少女のそれではなく、覚悟を決めたおんなの声だった。
ああ、もう終わってしまったのだ。
私の中で、なにかが崩れていった。それは例えば、今まで使っていた大事なものを小さな箱にしまいこんで、無理矢理目をそむけるように鍵をかけてしまう心地に似ていた。
「まりあさん。貴女は、この前のお話を覚えていますか? 二人で生まれ変わるお話を」
これは私が彼女と交わす、おそらく最後の約束だ。
「ええ、覚えていますわ。ねえ待って、続きは私に言わせてくださいな」
にっこりと薔薇の花の微笑みを浮かべて、まりあはひと言ひと言を確かめるように言った。
「千恵子さん。生まれ変わったら、必ず会いにゆきます」
私も涙まじりのまま笑う。
「ええ。私も、貴女を探しにゆきます」
まりあは最後に私をじっと見つめて、決心をつけたように踵を返した。
「またね、千恵子さん。また会えるその時まで」
眩しく輝く金色の髪が、客船の中に消えてゆく。
お互いに、最後までさようならは言わなかった。
船影が地平線の向こうに吸われて見えなくなるまで、私はその姿を見送っていた。
お久しぶりの大正女学生コンビです。
この二人はセリフをちょっと詩的というか、芝居掛かった感じにするように心がけています。多分シリーズ中一番感嘆符を連発している。
ちなみに、彼女たちは来世でめでたく結ばれました。




