華蓮とひなのはなし2 中編
すっごく纏めづらいですこの話。
「え、誰もいなかった?」
翌日の授業終了後、私は美術部の顧問だという教員に会いに来ていた。クラスを持っている教員はみな生徒たちと一緒にいるのか、職員室にはほとんど人影がない。見学に行ったが誰もいなかった旨を伝えると、彼は驚いたように目をぱちくりとさせ、困ったように笑った。
「うわー、そりゃ参ったな。ごめんな、まともに活動してるやつ一人もいなくてさ。えーとどうしようか」
見たところ、二十代半ばを過ぎていないようだ。頰のぷっくりした童顔寄りの顔つきは、ともすれば大学生ぐらいに見えてしまうなと思った。テニス部の顧問を兼任していて、もっぱらそっちの指導に追われているとのことだった。若いからって仕事押し付けられて、大人の世界とは大変だ。
「時間ある時に見に行くから、なんか適当に絵描いたりとか勉強したりとかしてて。なるべく早く行くようにするね。ほんっとごめん」
「わかりました」
「他に誰かいるの?」
「昨日はもう一人いました」
「そっか。じゃあ、他の見学希望の子にも伝えといてくれると助かる」
「はい。ありがとうございました」
「いえいえ」
最後ににっこりと微笑んで、深い一礼とともに職員室を後にする。真面目で模範的で理知的。パーフェクトな優等生の態度は、大人に好かれるためのマストアイテムだ。
幼い頃から、年配のひとには可愛がられた。それは多分、切れ長ですっきりとした印象の目もとだとか、長い漆黒の髪だとか、そんな容姿のおかげなのだろう。そしてありがたいことに、持って生まれた脳みそはお勉強が得意だった。丁寧な言葉遣いではきはきと明るく喋って、時々微笑んで、ありがとうとごめんなさいを欠かさず言う。それだけやっていれば、周りの大人はみんな私の味方だった。
教室に帰ると、クラスメイトたちは帰る支度を整えホームルームの始まりを待っていた。私も席につく。一応担任への伝言は頼んでおいたが、遅れなくて済んだらしい。
程なくして、担任――寺脇先生が入ってきた。彼はやや驚いたように教室を見渡し、静かに微笑んでこう言った。
「おお、みなさん優秀ですね。なかなかいませんよ、こうやってちゃんと静かに待ってられるクラス」
寺脇先生を一言で表現すると、ふしぎ、という単語が一番ふさわしいだろう。「不思議」ではなく「ふしぎ」だ。穏やかだがなんとなく掴み所のない人物で、なんとなく人間味がないような気がした。見た目だけでは年齢もよくわからない。三十二歳ということだが、二十代半ばにも見えるし五十過ぎにも見える。生徒相手にずっと敬語な男性教師というのも珍しい。
「日直さん、お願いします」
「あ、はい」
返事と共に日直の男子が出てきて、真新しい学級日誌のページをぴらりと開いた。ちょっと緊張気味の挨拶からホームルームが進んでいく。
十分間を要約すれば、連絡事項は二つ。部活動の仮入部申し込みは一週間後までであることと、四時三十分という下校時刻を守ること。
チャイムをやや過ぎてしまった終わりの号令を合図に、生徒たちは校舎内のほうぼうに散らばっていった。私は緩慢な動作でリュックサックを背負い、教室を後にする。向かう先はもちろん美術室だ。心なしか軽い足取りで、三階まで駆け上がる。開けっ放しのドアから中を覗き込むと、案の定そこにはひながいた。
「あ、青葉さんだ。一日ぶりー」
「うん」
彼女は相変わらず無表情だった。今来たばかりなのか、ちょうど筆箱をリュックから取り出している最中だ。
「今日は先生が来てくれるってさ。ちょっと待っててだって」
「ふーん」
大して興味もないようにそう言って、ひなはリュックからスケッチブックを引っ張り出した。私はそのはす向かいに腰掛けて文庫本を開く。それからは、昨日と同じ無言の時間だ。同じようなばつの悪さはあるけれど、おそらく相手は会話を求めていないだろう。
五ページ分ほど物語が進んだ頃、私の耳は廊下から聞こえてくる足音を捉えた。ちらと顔を上げると、ちょうど顧問がぴょこっと顔を覗かせたところだった。
「お、来てるね。こんにちはー」
「こんにちは!」
私は本を閉じ、スカートのプリーツを整えながら座り直してそう応じる。彼はにこっと笑って、そそくさと黒板の前に立ち、こう言った。
「美術部顧問の森田悠です。ええっと、昨日は無駄に待たせちゃってほんとごめん。とりあえず名前教えてもらっていい?」
さっきは座っていたため気づかなかったが、成人男性にしてはかなり小柄である。そしてこんなにも屈託のない顔で笑う大人を、私は初めて見たかもしれなかった。
「古屋華蓮です」
「ごめん、漢字教えてもらってもいいかな」
「古い屋敷、華やかな蓮です」
「おっけおっけ……はい君」
「青葉ひなです。ひなは平仮名」
「はーい、よっと」
森田先生はその辺から拾い上げたボールペンと紙でそれを書きつけた。手がごついな、と私は思った。なんだこれインクつかねえじゃん、としばし苦戦した後顔を上げる。
「じゃあこれ、あれかな。部活の雰囲気とか喋った方がいいやつかな。ごめん俺、実はまだ教師二年目でさ。何したらいいかわからんから、これ知りたい的なのあったら遠慮なく言ってね」
彼はそう言うと、ちらりと時計を見上げた。私はいかにも真剣に、ひなはぼーっとしている風にそんな挙動を見つめている。
「この部はまあ、知っての通りそんなにガツガツは活動してません。一応コンクール的なのに出してはいるけど、ここ最近入賞したことはないんじゃないかな。その辺に賞状とか飾ってあるから、気になったら見てみてね」
視線で示された先には、確かに黄ばんだ賞状のようなものが数枚貼り付けてあった。光ってしまってよく見えない。目を凝らしていると、おもむろにひなが声を上げた。
「質問、いいですか」
「うん」
「休みの日とかって、部活ありますか」
「あ、それ私も気になります」
「うーん。一応無しにしてるかな。まああったって誰も来ないと思うよ」
そう答えながら、森田先生は眉尻を下げて笑った。その後二、三の質問を終え話も弾んできた頃、彼ははっと時計を見上げる。
「やっべ、時間忘れてた。もう一年生下校でしょ、帰った帰った。そうだ、仮入部する感じでいい?」
「します!」
「はい」
立ち上がりつつそう言うと、ひなと声がかぶった。
「じゃあ明日の朝紙渡すから、お家の人のハンコとかもらって持ってきてね。ほら後五分! 急げ急げ」
三人で慌ただしく教室を後にすると、森田先生はじゃあねと言ったきりすぐにどこかへ行ってしまった。あとは私とひなだけが取り残されている。雑巾の拭き跡の残った窓ガラス越しに、傾いた日差しが眩しい。私はひなに目を向けた。彼女は文房具類を無造作に掴んだまま出てきてしまったらしく、今になってそれをしまおうとしていた。
「青葉さん、自転車?」
「ううん、歩き」
彼女がふるふると首を振ると、なんだか犬が水を飛ばすあの動作みたいに見える。
「そっか。じゃあ別々だ」
チャイムが鳴る。ヘルメットを忘れてしまったから、教室に取りに戻らなければいけない。
「じゃあね」
「うん、ばいばい」
ひらひらと手を振ったのに、見向きもしてもらえなかった。
§
「なんか聞いたことあるぞ、森田先生」
「うん。多分話したことあると思う」
「あれでしょ? カエルとヘビとヤモリ飼ってた理科の先生でしょ?」
「ご名答」
彼女はころころと笑った。森田先生といえば、彼女の思い出話には欠かせない存在だ。類を見ない変な生物好き、という共通点を持っていた二人は、この後それはそれは仲良くなったらしい。
「まあ、あんたの変態レベルの両生類爬虫類昆虫類好きに付き合ってくれる人がいてよかったよね」
「そうね。私の親戚に、海の近くに住んでる人がいるんだけど、お休みの日にそこに行って、貝や何やの化石拾っちゃ森田先生のとこに持ってってたのよ。懐かしいなあ」
そこで彼女はウェイターを呼び、ハムチーズのサンドイッチと紅茶を注文した。ウェイターは感じのいい微笑みとともにそれを受け、キッチンへと下がっていった。
「お腹空いちゃって。レタス入ってるしいいわよね、別に」
自分に言い聞かせるように呟く彼女に、私は思わず笑ってしまう。
「何? ダイエット中?」
「そうじゃないけど。中途半端な時間だから」
腕時計を見やると、ちょうど四時半を回ったところだった。確かに、間食をとるには遅い時間だ。
「いいじゃん、今日ぐらい」
「まあね」
彼女のマグカップはすでに空になっていた。
「それより、ここまで聞いても過ちとやらが全然わかんないんだけど」
私は彼女の爪を見つめながらそう言った。透明感のあるピンク色に塗られた、綺麗な爪だ。彼女はニヤリと笑ってこちらを見た。
「そりゃ、わかんないように話してるもの」
「その言い草はないでしょ」
「まあまあ。ずっと話してたら喉乾いちゃった」
その時、サンドイッチと紅茶が運ばれてきた。あらら、と彼女は残念でもなさそうに呟く。
「条件は揃ったね。ストーリーが進行してもいいんじゃない?」
「ちょっとゲーマーっぽいわよ。わあ、レタスたっぷり。嬉しい」
彼女はそう言ってサンドイッチを一口かじり、飲み込んでから続きを話し始めた。
余談なのですが、「背面黒板のラブレター」の世界は全て繋がっています。現実世界なので。
どの子とどの子が近くにいるのか、よかったら探してみてくださいね。




