慶子と美希のはなし
「自由民権運動の中心となった人物」
「板垣退助」
「が、立ち上げた政党」
「自由党」
一年も昔に習った内容が、愛しい恋人の口からは驚くほどするすると流れ出てくる。
「じゃあ大隈重信は?」
「立憲改進党」
「初代内閣総理大臣」
「伊藤博文」
「……慶子はすごいね、相変わらず」
私は教科書から顔を上げて苦笑した。向かい合った青縁メガネの奥の瞳と、視線がかち合う。慶子も微笑んだ。
部活を引退してはや一ヶ月。クラスメイトたちはみんな帰ってしまい、午後四時五十分の教室は程よく静まり返っていた。勉強会と言う名のおしゃべりをするつもりだったのに、すっかりただの勉強会になってしまっている。頭のいい慶子が相手に私を誘う時点で、真面目に勉強する気なんてはなからないと思っていたんだけど。
「だって美希、基本中の基本しか出さないじゃん」
「これ基本なの?」
「基本だよ。小学校の頃にも習ったでしょ」
「もっと覚えてないよ」
「そうじゃなくて、二回も習えば覚えるよ、ってこと」
慶子が呆れたように言って、私から教科書を奪い取った。いつも学年一位で成績表も五だらけの慶子と違って、私はいつも底辺やや上を揺蕩っているお馬鹿さんだ。慶子と付き合い始めてからはだいぶ頑張って少しはましになったものの、小学校の頃からコツコツ勉強していた彼女に敵うはずもない。結局高校だって別々にならざるを得ない状況だった。
受験生になって、私たちは未来とか将来とかを考えるようになってしまった。今までは何も考えずに一緒にいられたのに。思えば、最初の離れ離れは意外と目の前にあったんだなとぼんやり思う。能天気だった私と違って、賢い慶子はもっともっと前からいろんなことを考えていたのかもしれなかった。高校も大学も一年生の時から決めていたらしいし、当然そこに私がいないことも予想済みなのだろう。自分が彼女の足を引っ張っているだけの存在に思えてきて、少し悔しかった。
「慶子はさ」
手を伸ばして、お下げにまとめられた髪をつまむ。三つ編みお下げの女子中学生なんて、今時珍しい。慶子は顔を上げもしないまま、髪の毛を私の手から外した。
「私でよかったの?」
慶子が教科書のページをめくった。おじさんがトゲトゲの兜をかぶって顔をしかめている。授業で名前を習った気がするけど記憶にない。窓の外でトンビが旋回している。誰かが勝手にジョージと名前をつけていたっけ。
「……しらない」
あまりにも予想外な返答に、私は思わず慶子の顔を見つめた。慶子はまだ教科書を見ている。ビスマルク。そうだビスマルクだ。思い出した。というか、教科書の文字が見えた。
「人を好きになるのって無意識でしょ。いや、他の人がどうなのかは知らないけど、多分私はそう。嫌いになるのもね。美希と付き合うのを決めたのは今ここにいる私だけど、美希を好きになるって決めたのは私じゃなくて、私の奥にいる別の私というか、生まれつきの私。だから、私はわかんない。日清戦争のきっかけになった朝鮮での内乱は?」
十文字目あたりで私は理解することを諦めた。慶子の話はいつも小難しくて、頭の悪い私にはよくわからない。ついでに言うと、日清戦争のきっかけもわからない。
「なにそれ、意味わかんない。戊辰戦争?」
「私も意味わかんない。甲午農民戦争ね。戊辰戦争は新政府軍と旧幕府軍のやつ」
「おお、惜しい」
「全然惜しくないよ。そんなんで受験大丈夫なの?」
「余裕余裕」
私が志望しているのは地元の公立高校だ。そんなに頭のいい高校じゃないから、私ぐらいの成績でも簡単に入れてしまう。
「そういうこと言ってると落ちるよ」
そう呆れたように言う慶子は、少しだけ遠いところにある私立に行くつもりらしい。電車で二時間。引っ越すわけじゃないけど、これはエンキョリレンアイに入れても差し支えないと思う。
「そしたら働く」
「何言ってんの。水素イオンは陽イオンと陰イオンのどっちでしょう」
なぜかいきなり理科にシフトした。社会の教科書見てるくせに。
「うーん、エイチプラスだから陽イオンかな」
「あたり。美希はどうなの?」
「何が?」
「私を選んで後悔してない? 二次方程式の解の公式を答えなさい」
ちょっと考え込んだ。最初の質問じゃなくて、解の公式で。
「……わかんないけど、後悔してたらあんなこと聞いてないと思うよ。公式はわからん」
「にえーぶんのまいなすびーぷらすまいなするーとびーにじょうぶんのまいなすよんえーしー」
「よく覚えてられるよね、そんなの」
「ダテに学年一位やってないから」
慶子が顔を上げた。傾いた陽射しが逆光になっていて、私は慶子の姿を直視することができない。でも多分、彼女は笑っていた。私が大好きな、ちょっと勝ち誇ったような顔で。
「帰ろっか」
「うん」