第三話 嘘と本当
「ここは?」
ぼんやりとした頭を働かせてみるが、どうにも上手くいかない。
ただ頭とは対照的に体は非常に軽く感じられた。
「御機嫌はいかがですか?」
ベッドサイドには見知らぬ男女が居た。
男の方は少し汚い身なりをしている。
とは言っても俺のようにお金がないとった感じではなく、
単にそういうことに無頓着だという印象を受ける。
年齢は俺よりも少し高いくらいだろうか。
真っ黒な髪に対し、赤い目が良く映える。
女の方は白い、清潔感に溢れた服装をしている。
ただ首に巻いているグレーのマフラーは、
綺麗にしてはあるものの、所々に修復した箇所が見られボロ臭かった。
余程大切なもので捨てたくないのかもしれない。
こちらも黒髪、黒目で顔立ちは整って見えた。
「どうした?ぼっとして。倒れる前の記憶はあるかい?」
倒れる前?
『お前、もう要らないってさ。
だから今日は本気でやるぜ。悪く思うなよ。
俺だっていつ切られるか分からない身なんだから。』
聞いたことはあった。
何回かショーに参加した子供は客に飽きられる、だから最後は盛大に壊して終わらすのだと。
こうなると俺もただの殴られ役という訳にはいかない。
全力で歯向かってはみたが、全く太刀打ちできない。
相手も子供ではあるのだが、いかんせん体格に差がありすぎた。
激痛、嘲笑、恥辱、様々なモノが身体を突き抜けていく。
ショーの間の記憶はあってないようなものだ。
最後に顎にきつい一撃を喰らったのだけははっきりと覚えていた。
「はい、思い出しました。それで今の状況の説明をお願いできますか?」
こう分からないことだらけだと却って気持ちは落ち着いた。
あるいは昨晩の激情に比べれば、然したるものでもないからかもしれない。
「あなたが倒れているのを路地裏で見つけたので、
勝手ながら私達の家まで運んで治療させていただいたのです。」
俺はこの時になってようやく異変に気付いた。
「あの、俺の体ってもっと怪我してたような……」
折れていたはずの部分は全て治っており、
服をめくってみても腕には痣一つない。
それどころか痛みすらどこかに行ってしまった。
「彼女はこう見えて、凄腕の医者でね、
良く効く秘薬で君の治癒力を高めて治したんだよ。」
治るものなのか?
しかし怪我を抱えている者を今までたくさん見てきた。
彼らは時間をかけてその怪我を治していたはずだ。
どう考えても理に適わない。
「不思議そうな顔をする気持ちも分かるのです。
なんたって私は希代の医師ですから、そんじょそこらの医師とは違うのです。」
目の前の女性はとてもそう見えない。
しかし事実俺は治っている。
今気にするべきはそこではない。
「お代はいくらになりますか?」
自分でも少し声が震えたのが分かった。
ショーの出演料より高い金をふっかけられることだろう。
「お金は要らないのです。
私にはあなたのような困っている子を見捨てることはできませんから。」
そう言って女は優しそうに微笑んだ。
しかしそんな言葉、信じられるわけもない。
「不満そうな顔だな。」
男の態度は女と違って尖っていた。
こういう態度の方が却って安心できるのはひねくれているだろうか。
「いえ、不審がるのも無理ないことです。
仕方ありません。私達の身の上を話すことにしましょう。
それで納得していただけるかもしれません。
私達、どう見ても若すぎると思いませんか?」
確かに女は勿論、男も若く見える。俺は頷いた。
「実は私達駆け落ちしているのです。
私は医者の名家の生まれ、
しかし彼は奉公人の息子。
2人の愛は立場上許されないものでした。」
女が熱意を籠めて話し始めると、男は背を向けた。
「私の医術で生活に困ることはあまりありませんでしたが、
社会の信頼が得られなくて随分と苦労したものです。
ですから私達と同世代の苦労する人を見るとほっとけないのです。」
女の言葉に嘘はないように思えたが、男は背を向けたままだった。
「そうだったんですか。」
もう何だか面倒になってきた。
女の熱意は俺にはどうでも良いことだ。
俺は家で心配する弟の元に一刻も早く帰りたくなっていた。
「少年、まだ納得してないみたいだな。」
俺の投げやりな態度が男には気に食わなかったのかもしれない。
「なら代金の代わりに
一つやってもらいたいことがあるのだが、いいかい?」
もしかしたら素直に感激した振りでもした方が
無難にやり過ごせたのではと後悔がよぎる。
「俺にできることならばしますよ。
といってもあまりないですけど。」
既に助けてもらっている以上、こう言わざるを得ない。
全く持って強引な契約である。
何をやらされるか内心びくびくしながら俺は男の言葉を待った。
「なに、簡単なことだ。君の身の上も聞かせてくれないか?
もしかしたら力になれるかもしれない。」
男はニッと笑った。
この時、俺には彼の赤い目が暖炉の火のように思えた。
その火の先には―
「分かりました。」
俺はゆっくりと語りだした。
両親が共に流行り病で病死したこと、
弟はその病のために治らない体の異常を負ってしまったこと、
俺が働くしかないが、弟の薬代まではとても工面できないこと。
「その弟さんも一度私に診させていただけないでしょうか?」
この時も女は優しく微笑んだ。
「お願いします。」
俺は藁にも縋る思いで頭を下げた。
後になって思うに、彼女の笑顔は男のそれより余程信頼できるものだった。
しかし不思議なことに俺の心を溶かしたのは男が一度だけ見せた笑顔だった。