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トレビスのエレナ

作者: 逢坂 透

「オーナー、お疲れ様でした。いつものを入れてもらいますね」

フロアマネージャーのミサキは、気遣いのタイミングを決して間違えない。


「こう取材が続くとね」


「ミシュランの星というのは、日本ではすごいですね。

この店は、むしろ遅過ぎたと思いますけど。

・・・良かった」


「そうかな。

いつも来ていただいているお客様のために、

早くこの騒ぎが収まるとよいのだが」


運んでくれたアールグレイの香りを味わいながら眼を閉じた。

瞼の奥の追憶の中で、幾つもの店と厨房の光景が流れ去っていった。

そっと長く息を吐く。


「オーナー、ずっと訊きたかったことがあります」


「何だろう」


「オーナーが、これまで出逢ってきた店の中で、一つだけ選ぶとしたら。

どの店が一番好きですか?」


迷うことはない。


「トレビスのエレナ」


「聞いたことがありません。

新しい店ですか?

トレビスって、野菜のラディッキオ・ロッソのことでしょうか?」


「そう、エレナはその店のシェフの名前。

彼女は、イタリア人でトレヴィーゾの出身だった。


野菜のエリナ、オーナーのマリエさんらしいネーミングだった。

店にシェフの名を入れることに、こだわったのだと思う」


「もう、ないんですね」


「二十年ほど前、兵庫県の芦屋にあった」


「何が特別だったんですか?」


「伝えられるだろうか」


「教えてください」


ミサキの瞳が真剣なのは分かった。


「僕が聞いたこと、見たこと、感じたことだけを話すよ。

それで、君の求めていることに答えられるかは分からない。


それでも、いいかな?」


「もちろんです」


カウンターに腰掛けるようにミサキを促した。


※ ※ ※


中学高校と何に対しても消極的だった自分は、当然のように滑り止めに受けた大学に行くことになった。

その大学の講義にも、五月の連休を機に顔を出さなくなった。

つまり、十九歳を前にして、すっかり自分の居場所をなくしていた。


親はまずいと思ったのだろう。

友人が店を始めるから、手伝うようにと。

嫌なら家を出ろと言われて、マリエさんに会いにいった。


歳上の女性の年齢なんて分かりはしない。

それでも十歳くらい上の人かなと思ったから、

後からその三倍も歳が違うと知って驚いた。


艶やかで明るい笑顔の女性だった。

いつも大きなリングのイヤリングをしていた。

可笑しそうに顔を揺らす度、それは光を放って囁くような音を立てた。


さっさとクビになれば、親もどうにもできないだろうと思っていた自分が、

すっかりマリエさんのペースにはまってしまった。


一緒にいると、どうにも居心地よくなってしまう。

マリエさんはそういう人だった。


つまり“トレビスのエレナ”は、客として入った店ではない。

何もできない十代の男の子が、下働きをさせてもらいながら中から見た、

初めてのリストランテだったわけだ。


マリエさんの話から始めよう。


マリエさんは、

穀物問屋に始まり、貸倉庫業、不動産業さらには生活雑貨の輸入といった事業にいたるまで

時流を読み違えることなく、代々続いてきた旧家の一人娘だった。


住み込みのお手伝いさんがいて、

下校時には、学校の門の前に静かに車が止まる。

それを日常として受け入れて育つしかない、そういう家だった。


心に垣根がなく、誰からも好かれる人だったから、

想いを寄せた人は少なくなかったと思う。


それなのに、

四十を過ぎるまで、本当の恋をしたことがなかった。

もちろん、少なからず家のことが影響していただろう。


そんなマリエさんに、

運命は、特別な出逢いを用意していた。


笑いながら、ケンジさんとの馴れ初めを話してくれたマリエさん。


「生徒に手を出してしまったの。しかも十七歳も歳下のね!」


当時、今のカルチャースクールに近いサロンがあった。

講師は専門家ではなく、特定の分野に詳しい知り合いを呼んでくる。


修士課程で色彩論を専攻し、

年に数ヶ月は、プロバンスを拠点にヨーロッパ中の作品を見て回る。

マリエさんの絵画愛に溢れた講義には人気があった。


ケンジさんは、

そこで生徒になり、

最初の講義の間に恋に落ち、最終回の後の交歓会の席で告白した。


「驚いたわよ。

晩年のマチスのフォルムの伸びやかさ、

美しい色彩なんかの話をしていたら。


生徒の男の子が来て、ずっと一緒に居たいから、付き合ってください。

って、突然言い出すのだから」


もちろん、マリエさんは冷静だったし、

ケンジさんの気持ちに応えられないことを何度も伝えようとした。

家のことも、年齢のことも全てを伝えた。


けれど、

結局は、

ケンジさんの強い確信を、覆せなかった。


どんな形であれ、いずれは出逢い、一緒になる運命だったということ。

二人を見ていれば、それは程なく分かることだった。


ケンジさんのエスコート振りは完璧で、

どんなシーンでも、マリエさんの意図を正しく先読みした。

目線を交わし合うだけで、総てが流れるように進んでいく。


まるで、美しい社交ダンスを観ているように感じたものだった。


そんな風に、二人が人生を共に歩き始める前、

七年間の大恋愛の間に、マリエさんは三度、本気で別れようとしたという。


愛しているから、

先に老いを迎える自分、

子どもを残すことのできない自分に、ケンジさんの未来を奪うことはできない。


三度目に、とうとう行き先を告げず、

マリエさんはパリへと移住してしまった。


ケンジさんは、すぐに仕事を辞めた。

何の手掛かりもない中、フランスだと信じて向かいマリエさんを探した。

プロバンスからパリへ、五ヶ月が過ぎた。


チュイルリーのベンチで、パリの初夏の夕暮れに浸っていたマリエさん。

気がつくと、手を差し伸べてケンジさんが立っていた。

忘れたことのないその手を握り、立ち上がる。


抱き寄せられ、胸の中で、泣けるだけ泣いて。

二度と離れるようなことをしない、と約束させられた。


一緒に日本に帰ってきて、誓いを立てると、

たくさんの友人に披露パーティの案内を送った。


淡路島のリゾートホテルのプールサイドを貸し切って、

夕陽が海に沈む時間から始まったパーティ。


友達のアーティストが用意した何百というキャンドルが、夜風に揺れる。

とてもとても美しくて、会場をみて泣き出してしまう女性もいたのだという。


そんな風に、

二人の幸せな暮らしが始まって、

そして、マリエさんは店を始めることを決めた。


「幸せすぎて、誰かとシェアしないと溶けちゃいそうだったのよ」


そうマリエさんは言っていたけれど、

二人で生きていく上での証しとして、何かを生み出したかったのだと思う。


これが、オーナーのマリエさんが、“トレビスのエレナ”を始めるまでの物語。


※ ※ ※


次は、シェフ。

エレナさんの話だね。


トレヴィーゾは、ベネチアの近郊にある小さな街だ。

一度訪れたことがあるが、半日もあれば街を一通り巡ることができる。

運河があり、古く美しい街並みはそのままベネチアのミニチュアのようだった。


必要なものは、こじんまりとした生活範囲の中で手に入る。

すぐに顔見知りができてしまう街だから、

住めば、きっと居心地のよい場所なのだろうと思った。


エレナさんは、そんなトレヴィーゾの賑やかな家庭で育った。

五人兄弟の四番目、そして一人娘。


彼女の情報はマリエさんや、他の人から間接的に聞いたものに過ぎない。

イタリア語とフランス語が少々。

それがエレナさんの話す言語だったから。


彼女が料理の世界に向かったのは、

二番目のお兄さんの影響だったらしい。

いつか二人で店を出すこと、それが夢だった。


料理学校を卒業し、

お兄さんの料理に合わせて、ドルチェを用意する。

そのために、製菓を専門に深めていった。


何故トレヴィーゾを出て、マリエさんの店に来たのか。


マリエさんは、実家のつてを頼って、シェフを探した。

条件は、イタリア人で、どこの店にも立ったことがなく、瞳の澄んだ人物であること。


雲をつかむような条件だから、様々な料理学校を回って、卒業生に声をかけてもらうしかなかった。

いきなり遠い日本で、しかも未経験なまま店を任されるというのだから

簡単に見つかるとは思えなかった。


お兄さんと店を出すという夢が、断たれた理由は誰も知らない。

エレナさんはその時、卒業した料理学校で、製菓の授業を手伝っていた。


喪失感が後押ししたのかも知れない。

話を聞いた瞬間、

彼女は、誰も知る人のいない国に行こうと決めた。


電話を受けたマリエさんは、

次の日のフライトで彼女に会いに行った。


マリエさんは一眼見て、感激して抱きついてしまったらしい。

エレナさんは、マリエさんが直観で思い描いたイメージそのもののシェフだったのだ。


マリエさんはエレナさんのご両親に挨拶をし、

一切の手はずを整えて、半月後には日本にエレナさんを連れて帰った。


日本に降り立って、最初に迎えた朝、

芦屋の駅近く、借りたばかりのスケルトンのスペースに入って、

マリエさんはエレナさんの手を引き、厨房を予定している場所まで連れて行った。


「エレナ、ここがあなたの情熱を表現する場所よ。

あなたの思う通りにすればいい。

私はすべてのサポートをするから、遠慮だけはなし」


そう約束させた。


こうしてシェフと、店の名前が決まったというわけだ。


※ ※ ※


タトウーに鼻ピアス。

ジュリアンと初めて会った時、

マリエさんが、てっきり用心棒にでも雇ったのかと思った。


セカンドシェフと聞いて、最初、正直大丈夫だろうかと心配になった。

手先も、とても器用には見えなかった。


その上、

「アキマヘンナ、ドナイシマショー」

英語でなければ、片言の関西弁を話す。


出身はカーディフ。

「アラヘン」

何もない街だということらしい。


そのヒドい関西弁と、

自分のつたない英語力で聞き取った情報を、

なんとかつなぎ合わせた。


両親が小さい頃からケンカばかりで、クソな家だった。

いろんな店でバイトをして料理覚えた。

十七歳で家をでてロンドンへ向かった、ニューヨークでも暮らした。


そこで知り合ったショーコと日本来た。

大阪の八尾にいたが、ある日、彼女は帰ってこなかった。


難波、梅田、三宮とアチコチの店で仕事した。

腕がいいから、MUM に雇われた。


三十二歳といったが、精神年齢はその半分がいいところだった。


誰にでも、

後ろから手で目隠しをして、

「ダーレイダ」をやる。


そんな言い方、地球上でジュリアン以外の誰がするというのだ?


それでも、ジュリアン!と当ててもらうと嬉しそうな顔をしてる。

力が抜ける。

ジュリアンは、いつもみんなをリラックスさせてくれた。


おそらく、

家をでて、あてのない放浪を続けるために、

後天的に身につけたキャラクターだったのだろう。


グレーの瞳は、

根がとても淋しがり屋なことを隠せなかった。


おかしな関西弁を話す、ウェールズ出身のパンクロッカーのようなセカンドシェフ。


ジュリアンは、

日本のMUM、マリエさんのことを、とても深く慕っていた。


※ ※ ※


もう一人、


「今日から、私のフェアリーが手伝ってくれることになったの。

無理かも知れないけど、恋しちゃダメよ」


いつものように茶目っ気たっぷりに、マリエさんが妖精の登場を告げた。


サオリさんが姿を見せた時には驚いた。


四つ年上のサオリさんのことは、中学の頃から見かけていた。

個人的にではない。

一人の観客として、ステージのサオリさんに眼を奪われたことがあったのだ。


フランス帰りの帰国子女で、

パリ・メゾンのコレクションでモデルをしたこともあるとか、

先輩達の間の噂だったから、どこまで本当かはわからなかった。


けれど、何頭身だろうと思うスラリとした肢体に、

白い肌、栗色がかって腰まで伸びた髪。

背筋を立たせた動きの一つひとつが、どんな噂であれ、信じていいような気にさせた。


ボーカルとして

囁くような、それでいて包み込むような声で魅了した。


特定のバンドに所属していたわけではない。

一度、友人の頼みでステージに立ってから、

いくつものバンドが、サオリさんに声をかけたらしい。


高校生のフリをして、覗きに行った学祭のステージの一つで、

先輩たちが夢中な理由を理解したのだった。


高校を出た後は短大に進み、

関西のモデル事務所と契約をしたとか、

仕事が増えて、東京に移ったのだとか。


やがて大手のファッション雑誌や、

テレビ画面で見かけることになるだろうとか。

そんな噂だけが交わされるようになっていたのだけれど。


結局は、誰も、本当の彼女を追いかけていたわけでなかった。


サオリさんのお祖父様が、著名な日本画家で

マリエさんのお父様と懇意であったらしい。


マリエさんは、小さい時から可愛がっていたサオリさんのことを

当初から、彼女の計画に巻き込むつもりだった。


そういう訳で

伝説の妖精が、突然眼の前に現れたのだ。


マリエさんの忠告に従うまでもなく、

当時の自分には、とても恋などできる相手ではなかった。


少しでもその素顔に触れることが出来ればいい。

そんな風に思うのが精一杯だった。


こうして、

太陽のようなマリエさんの重力に、四人のメンバーが吸い寄せられた。


お兄さんとの店という、壊れた夢のカンバスに、代わりの絵が必要だったシェフのエレナさん。


放浪の中で、重くなった淋しさの錨を下ろす港を探していた、セカンドシェフのジュリアン。


語られることのない空白の時間を経て、表情に大人の優しさを加えたフェアリーのサオリさん。


そして、どこにも吐き出せなかった若さのエネルギーを注ぎ込む器が必要だった自分。


それぞれに探していた運命の欠片を、“トレビスのエレナ”が与えてくれたのだった。


※ ※ ※


ある日、マリエさんが皆を集めて

オープンまでの分担を話し合うことになった。


そこで、まず必要になったのは、

お互いのゼスチャーによる、意思の確認方法だった。


イタリア語にフランス語のエレナと

英語と関西弁のジュリアン

シェフとセカンドシェフの間に共通言語がなかった。


橋渡しをするのはフランス語と英語が使えるマリエさんとサオリさん(帰国子女という噂は正しかったようだ)

二人がいなければ、

絵を描くか、ボディランゲージしか意思疎通の方法はない。


混乱の中、自分には時々ジュリアンが話す「アカン」くらいしか聞き取れないのだ。

とりあえずOKと、分からないの2つのサインの出し方を決めた。

用意したホワイトボードには、様々な絵が描かれたが、ジュリアンのチキンは、東京銘菓のスケッチにしか見えなかった。


そんな状況なので、当然、お互いが想像もしない勘違いというのが起こる。

メニューの試作のために揃えた材料の中に、想定外の部位の肉や、全然違う野菜を発見すると、

エレナさんの口からMamma mia!マンマミーア!が出た。


それから、小さく頷くように

Non ti preoccupare.ノン ティ プレオックパーレ

が続く。


「心配しないでいい、大丈夫」

という意味だとジュリアンと自分は程なく理解した。


エレナさんは届いた材料を味見し、腕を組んで眼を閉じる。

それから、袖口をまくり上げて新しい料理の創造に没頭する。

実際、エレナさんのスペシャルなメニューが二品、そんな風にして生み出された。


二十九歳の、若いシェフの才能と貫禄に、

さすが、イタリアから身一つで飛んできただけのことはある、と感心したものだ。


数々のエピソードを生んだ言葉の問題は、やがて消えていくことになる。

言葉そのものがわからなくても、意図は伝わるようになったからだ。

人間の意識の不思議さ、コミニュケーションの本質について学ぶ機会だった。


※ ※ ※


内装工事がピッチを上げていくのに、追われるようにして、

それぞれに開店に向けての詰めを急いだ。


エレナとジュリアンは、マリエさんのマンションの理想的なキッチンで、妥協することなくメニュー作りの格闘を続けた。

見た目も性格も対極にある二人だが、料理に対するこだわりどころにはズレがなかった。

一緒に店をやっていくには、それが一番重要だと二人とも考えていたから、どちらも嬉しそうだった。


マリエさんとサオリさんは、

コースターやナプキン、レシートのデザインに至るまで、店のイメージの表現にこだわった。

もちろん、二人のセンスに間違いなどあるはずがなかった。


自分はといえば、

工事現場で、職人さんたちの缶コーヒーを買いに出たり、漆喰を塗る手伝いをしたりしながら、

一つの店が出来上がる過程を、生まれて初めて、大きな興奮を感じながら見届けていた。


そして、遂に

“トレビスのエレナ”の樫の木の看板が、APERTO(開店中)を表にする日がやってきた。


※ ※ ※


最初の一ヶ月ほどの間だけだった。

店で、自分たちの時間を愉しむ余裕があったのは。

すぐに嵐のようなランチタイムが訪れるようになり、夜の仕込みにも追われて忙しくなっていった。


当然だったと思う。

“トレビスのエレナ”には“本物”が揃っていたのだから。


まず壁に掛かっていたアートは、どれも本物だった。

マリエさんは「みんなに観てもらった方が歓ぶから」と、個人のコレクションを持ち込んだ。


絵の価値は分からなかったが、

ジュリアンは、あれがポルシェで、あれはフェラーリだ!と指差した。

高額なもの表す単位を、車以外には知らないようだった。


ただ、そう聞いてしまってから

床の掃除をしていても、壁に背を向けられなくなった。

コートに袖を通そうとしたゲストが、危なく絵を揺らした時には息を詰めた。


絵だけではない。

TVで見たことのある、チェリストのバッハが店で演奏されたこともある。

他にもマリエさんの友人の、様々なアーティストが、絶え間なく本物の芸術を捧げてくれた。


エレナさんの才能も、間違いなく本物だった。

その後、様々な有名店の料理を巡ってきたが、あの様なコースは何処にもなかった。

一度訪れた客が、ふと、どうしてもまた来たくなってしまうという、胸を焦がす特別な個性があった。


例えるならば

ペインティングナイフで描かれたような鋭いタッチの、原色が美しく絡み合うアート。

一品一品が、美味しさの先に確かな印象を残す。drammatico


心を揺らされ続けて、最後にたどり着くのが、

エレナさんの唯一無二のドルチェ。

例外なく、みんなが笑顔になって帰っていった。


ジュリアンも、ただの流れ料理人ではなかった。

性格はどこまでもいい加減な奴だったが、

仕事は機械以上に正確だった。


自慢の包丁で、寸分も大きさを変えずに、材料を刻む。

それも、延々と続けていられる。


店が忙しくなってからは、あまり家に帰らなくなった。

寝袋、ヒゲ剃りと銭湯グッズ、替えの下着。

それだけあればどこでも暮らせるらしい。


ほとんどの時間を厨房の中で過ごし、

膨大な量の下ごしらえを、誰にも譲ろうとせずに続けた。


ジュリアンの孤独も本物だったのだろう。

彼は、この店で自分の居場所を見つけ、それを最後まで守ろうとした。


そして、本物の妖精。

サオリさんはテーブルの間を舞うように行き来し、

あの囁く声でオーダーを通した。


どんなに忙しい時も、妖精は、まるで別の時空にいるように動き、

柔らかな表情を変えることはなかった。


店に来たカップルは、少なくともどちらかが妖精の虜になって帰っていった。

女性が見とれていることの方が、多かったかもしれない。

同性が理想として求めるイメージ、そのままの姿だったからだろう。


口コミや噂が、メディアにまで届くようになると、様々な取材の連絡が入るようになる。

一周年を迎える頃には、雑誌やムックで、神戸・阪神間の特集があれば、まず声がかかるようになった。


掲載される度に、突発的に、さらに忙しい毎日を過ごしたが、

そういう時は、マリエさんが生まれ持った社交能力を存分に発揮した。


ワイン一本で、常連のお客様に手伝いを依頼したり、

向かいのビルの空きテナントを、日借りして入店待ちのスペースにしたり。

もちろん、そこにも本物の絵と、選び抜かれたアートの書籍が置かれた。


まるで、忙しい芝居の舞台での演技が、楽しくて仕方ないという女優のようだった。


最後に忘れてはいけない。

マリエさんのパートナー、ケンジさんだ。

ケンジさんは比類ない実務能力を行使した。


実際、経営の素人だけでは店を続けられない。

仕入れ先との交渉、支払い。

月次決算に、口座の管理、税務処理まで、ケンジさんは軽々と片付けていった。


上場企業の役員秘書や、経営企画をしていたことがあると聞いたが、

何をしてもパーフェクトだったと思う。


伝票のまとめ方、帳簿類の残し方といった基礎から、

金というものが入ってきて、形を変えながら出て行く、その流れの中で押さえるべきポイント。

この時に、ケンジさんから学ばせてもらったことは、今もとても役に立っている。


※ ※ ※


店で過ごした時間の中で

もっとも幸せに感じていたのは、

四人の寝顔を見ている時間だった。


慌ただしいランチの時間を見送ると、テーブルを囲んで昼食をとった。

前菜、サラダに、パン、ランチメニューの主菜。


そして、

マリエさんとエレナさんはワインを少し

ジュリアンはビールをたっぷり、

飲めないサオリさんはエレナさんのドルチェ。


毎日のドルチェは、妖精の姿に少しだけ丸みを帯びさせた。

もっとも、それはサオリさんを、

より優しく、魅力的に見せる効果しかもたらさなかったのだけれど。


昼食を終えると、四人は

siestaシエスタ!

と言って、それぞれの場所に別れる。


自分は、主に夜のシフトのため、仕込み前の時間に、裏口からそっと入った。

電気が消され、引かれたカーテンを通して、柔らかな光が店の中に射し込んでいる。

そこで四人は、それぞれの姿勢で眠りの世界に入っている。


マリエさんは窓際のチェアー。

肘を付いた手の平に、顎を預けて眼を閉じている。

何かまた、楽しい空想でもしているかのように。


エレナさんは厨房のスツール。

背中を、壁につけて腕組みをしたまま。

戦闘の再開までの間、つかの間の休息をとる塹壕の兵士にように。


ジュリアンは、夜も使っているソファー。

身体を丸めて横になっている。

小さい頃から、ずっとこんな風に眠っていたのだというように。


サオリさんは、パイン材のベンチ。

長く美しい指を交差させて。

祈りを捧げる修道女のように。


いつも、別の時空にいるように思えてしまうサオリさんなのだが、

眠っている時には、確かにそこにいると感じられた。


四人の安らかな時間を見守っていると、

かけがえのない大切な場所に居られることに、

心から感謝したいような気持ちになった。


今も、あの時の気持ちは色褪せない。


だから、

“トレビスのエレナ”は、他とは比べられない。

いつか、もう一度、戻りたい店だというわけだ。


※ ※ ※


ベイフロントのビルの、最上階にある店から、見える街の灯りが少なくなった。


ミサキは

時々頷きながら、ほとんど姿勢を崩すことなく、

長い想い出話に耳を傾けていた。


「この話をしたのは、初めてだよ。

こうして話していて、思い出したことも多い」


「オーナー、

ありがとうございます。

この店の名前、Non ti preoccupare.のルーツですね」


「ああ、そうだ」


「それから、祝福のあの花とワインの送り主は、マリエさんですね。

どんなお知り合いがいらっしゃるのかな、と思っていました」


「こちらから知らせたわけではなかったけれど。

ケンジさんが見逃す訳はなかったね」


「お話しを伺って、オーナーが目指しているものが、少しだけ分かったような気がします。

けれど、どうしてその店はなくなってしまったんですか?」


「どうして、、、


どんなおとぎ話にも、終わりがある。

これはマリエさんの言葉だ。


そう、物語にただ終わるべき時が来た、突然に。

そんな風に、この世界から消えてしまった」


※ ※ ※


サオリさんが、店に出てこられなくなったことが始まりだった。

理由は聞いていない、とてもプライベートなことだったのだろう。

マリエさんは、もちろん事情を知っていたはずだが、誰にも話さなかった。


二週間ほどして、サオリさんが、店に挨拶に訪れた。

どういう表情をして、会って良いのか分からなかった。


奥の事務スペースにいると、

サオリさんが、ゆっくりと厨房を巡りながら近づくのがわかった。


立ち止まったサオリさんは、

いつもとは違う、辛そうな微笑みを浮かべていた。


「ごめんなさい。

ここにずっと、居たかったのだけど」


そう言うと、瞳を閉じ、少し上を向いて、涙を抑えようとした。

深呼吸をするように、息を吸う。

それでも、一筋の涙が、頰に流れるのを防げなかった。


「ここで過ごした時間のことは、忘れない」


そう囁きを残して、妖精は消えてしまった。


それから本当に一ヶ月と経たない頃だ。

ある日、エレナさんが二度も調理をやり直した。

もちろん、それまで絶対になかったことだ。


マリエさんも、すぐにおかしいと感じたようだった。

閉店を待って、エレナさんに話を訊いた。

何でもないと言う、エレナさんの様子には無理があった。


そして、


「実はPapa’が倒れたという連絡があった」


といって、顔を覆ってしまった。


「すぐに日本を発ちなさい。ここは大丈夫だから」


マリエさんは、それ以外の選択肢を与えなかった。


その夜、エレナさんはずっと厨房を離れなかった。

メニューを絞って任せるジュリアンに、それぞれの調理上の細かい配慮のようなものを伝えた。


明け方になって、寸胴鍋に火を入れ、ベーコンを炒め始めた。


ベーコンを一度取り出し、その鍋で白ネギを炒め水を入れる。

すぐに押し麦を入れて煮立たせ、トロッとなるまで煮込む。

味をみて、最後に塩、コショウ。


真っ白なスープに、薄いピンクのベーコンが見え隠れする。

ベーコンと白ネギと押し麦のスープ。


戻ってこれないと、感じていたのかもしれない。

実際にそうなってしまったわけだが、

ジュリアンと自分は、エレナさんの最後のスープを、言葉なく口に運んだ。


泣きまくるジュリアンの涙がスープに入ると、

塩気が増してしまう、と言うエレナさんも袖口で涙を拭っていた。


そうして“トレビスのエレナ”から、シェフが去って行った。


ジュリアンは本当に最後まで、全力を尽くした。

何人か交代で入った助っ人に指示を出し、素早く調理をする姿は、別人のように見えた。

三ヶ月近く踏ん張って、マリエさんも、何とかなると思い始めた頃だった。


ある夜、たちの悪い酔客が二人、閉店まで店に残っていた。

雑誌を見てきたのに、書かれているドルチェが一つもないと言い出したので、

マリエさんが応対に出た。


料理はともかく、エレナさんのドルチェは真似などできなかった。

仕方なく、代わりのものを知り合いのパティシエの店から届けてもらっていた。


騙したんだからタダにしろ、という客に対し、

シェフが心を込めた料理を召し上がったのだから、それはできない。

お気持ちでも支払っていただきたい、といったマリエさんに一人が小銭を投げた。


そのコインが額に当たってあげたマリエさんの声に、ジュリアンがキレた。

店から客を外に出そうとして揉み合いになった。


マリエさんが

「交番へ行って!」

と叫ぶのを聞いて、外に飛び出した。


警官を連れて戻った時には、客は床に倒れていた。


そのまま、ジュリアンは事情聴取に連れて行かれて、戻って来なかった。

ビザの問題か何かで、一度国に戻る必要があったのを隠していたのだ。


翌日から、店は開けなかった。

とうとう三人が居なくなってしまった店の静けさは、胸を締め付けるようだった。


「魔法が解けちゃったようね」


マリエさんの言葉通り、

“トレビスのエレナ”はあっけなく、この世界から消えてしまった。


※ ※ ※


「そうだったんですね。

でも、“トレビスのエレナ”があったから、この店がある。

そうですよね」


「もちろんそうだ。

店がなくなった時には、自分の進むべき道に迷いはなかった。


学校には、店で働き始めてから復学していた。

経営学も語学も、ちゃんと意味のあるものだと理解したからだ。


夜は、店にいた頃と同じリズムで、色々な他の店でアルバイトをした。

大学を終えると、自分の貯金を使って専門学校に入学した。

料理と店舗経営について基礎から学び、卒業して海外に渡った。


今日まで迷いなく来られたのは。

あの店で、大人が本当の情熱を注いでいる姿を見ることができたからだ。


それがどれだけ幸運なことだったかは、

今になってみて分かる」


「その後、皆さんがどうしてるかご存知なのですか?」


「それぞれに続きの物語はあるよ。


サオリさんを除いてになってしまうのだけれど」


※ ※ ※


マリエさんとケンジさんは、店の片付けに目処をつけると、旅にでた。

最初はアフリカから、しばらくしてインド、ネパール、ブータンからハガキが届いた。

それから、ラオス、ミャンマー、カンボジア。


マリエさんは新しい世界を探しに出かけたのだ。

何年かして、旅から戻った二人はNPOを設立した。


「ミッションといっても、お店を出すのだから楽しいのよ」


久し振りに会ったマリエさんは、身に纏うものまですっかり変わっていた。

コットンの柔らかな風合いのカットソーにパンツスーツ。


「熱帯で動き回るためのオートクチュールを創るメゾンはないみたいだから」


マリエさんが始めたのは、途上国の女性に収入を得る機会を創出する活動。


観光地の近くに、カフェをオープンし、手工業品も販売する。

周囲にない洒落たカフェには、すぐに観光客が集まるようになり、軌道に乗る。

地元の女性にトレーニングをし、経営を任せられるようになれば、預けて次の店の準備を進める。


「いくつもの国に、娘ができるような感じね。


娘が千人いるお母さんになるの!」


そう話をする笑顔のマリエさんを、見守るケンジさんもとても嬉しそうだった。


エレナさんにも、一度会いに行ったことがある。

いや、本当は自分の店にシェフとしてもう一度迎えられないか、

そう考えてトレヴィーゾに向かったのだった。


私のragazzo(少年)が日本から来た!

と歓待してくれたエレナさんも、幸せそうだった。


お父さんも、不自由は残ったのだけれどお元気だった。

たくさんの甥や姪の相手をして、大家族の笑顔のための料理に腕を振るっていた。

卒業した料理学校にも戻り、また製菓を教えていた。


結局、肝心の話は切り出せずに帰ってきたが、それで良かったのかもしれない。

どこかで“トレビスのエレナ”を再開することを考えていた。

その気持ちに区切りをつけて、自分の店をどう創りたいのかを真剣に考えるようになったのだから。


余談だが、エレナさんには、鉄人の料理対決番組への出演依頼が何度もあった。

飛び抜けて個性的なイタリアンを提供する若い女性シェフ、エレナさんの料理は業界でも注目されていたのだ。

ところが当の本人はテレビ嫌いだったので、どんなにジュリアンが煽っても関心を示さなかった。


エレナさんに製菓指導を受けた生徒の中から、有名なショコラティエも育っている。

もしも違う形の環境を与えられていたら、エレナさんは恐らく、世界的に名を知られる存在になっていただろう。

しかし、そういう道を選ばない性格だったことも運命なのだ。


きっとトレヴィーゾのエレナさんは、今もとても幸せな日々を送っているはずだ。


ジュリアンの消息は、随分経ってから分かった。

ケンジさんに知らせてもらった。

驚かせてやろうと、連絡をせずに会いにいったことがある。


ジュリアンに聞いていて、何もない寂れた港湾都市をイメージして向かったカーディフ。

ライブハウスや洒落たバーが立ち並ぶ、先進的なアート&カルチャーに溢れる街だった。

それが歴史的な遺産である古城や教会の神聖な佇まいと見事に融合していた。


またジュリアンに騙されたと思いながら、

セント・メアリー・ストリートの一軒のパブに入り、何食わぬ顔をして、カウンターに座った。


想像もしていないほど腹回りが大きくなっていたが、二の腕の刺青に間違いはない。

奴がビールを注いでいた。


振り返って眼があったが、しばらくキョトンとして固まっていた。


首を振ってビールを客に出しに行ったと思ったら、後ろに回って「ダーレイダ」をやった。

ジュリアン!と答えると同時に揉みくちゃにされた。

パブ中の客に紹介をされ、ビールをたっぷりと飲むことになった。


生まれ育った街に受け入れられ、すっかりと馴染んでいるジュリアンはもう孤独ではなかった。

厨房に連れて行かれ、俺の本物のMUMだと、お母さんに引き合わせてくれた。

それから数日間、ジュリアンの実家に世話になって、さらに驚くべき事実を知った。


ウェールズに戻って、仕事を探していた時、

日本から一人の女性がジュリアンを追いかけてきたのだ。

ミチさんだ。


店の常連で、エレナさんのドルチェを口に入れた時の、こぼれ落ちそうな笑顔がとても印象的だった女性だ。

一体、あの忙しい毎日のどこで、ミチさんとそういう関係になっていたのか。

ミチさんのお腹には新しい命が宿っていた。


とにかく二人は同棲を始め、MUMに知らせに行ったという。

十年以上顔を見せたことのない息子が、小さな日本人女性を連れて現れた。

おまけに、子どもが出来たという。


お母さんはミチさんを優しく抱きしめた後、

息子に渾身のパンチを見舞って、その日からこのパブで働けと連行したのだという。


以来、ほとんど休みはもらえず、料理はさせてもらえず、下拵えと、ホールと、掃除の毎日。

性分には合っているが、母ちゃんは厳しいとボヤいていた。


マリエさんの新しい挑戦や、エレナさんの様子を伝えるとジュリアンは本当に喜んでいた。

俺の妖精はどうしちまった?と聞くから、

お前のじゃないが、サオリさんの消息だけは分からないと伝えた。


そう、ある時からマリエさんにも連絡がつかなくなってしまったらしい。

もし、どこかで繋がったら知らせて欲しいと、マリエさんも探している。


あの時間を共にした、みんながそれぞれに幸せな人生を歩んでいる。

だから、サオリさんの人生にも同じエネルギーが循環しているはずだ。

そういうものはバランスするものだから。


そう信じている。


※ ※ ※


「これが“トレビスのエレナ”の物語の全てだよ」


「ありがとうございました。


オーナーの一番の店を聞いて、そこに行こうと思ってました。

でも、視察に行ける店ではなかったですね。


そして、手強いです」


「手強い?」


「オーナーの初めての店で、その店は想い出のまま消えてしまっています。

まるで、初めての恋人を、一番深く愛していた時に亡くしたようなものではないですか。

それを超えるのは、とても難しいことです。


もちろん、諦めはしません。

私には未来に向けての時間がありますから」


「君はよくやってくれている。

実際、お客様との直接の関わりの部分は、君に任せている。

ここまで来れたのは君のおかげだ」


「オーナーは、いつかこの店に、サオリさんが現れるのを待っているんじゃありませんか」


「そうかもしれない。


幸せの妖精が現れるとしたら、この店が“トレビスのエレナ”のように

お客様の歓びに満ちた場所になっている時だろう」


「そうなるといいですね。

私に、ずっとそのお手伝いをさせて下さい」


ミサキが立ち上がり、そう言いながら改まって礼をするのに驚いた。


「この店を大切に思ってくれて、ありがとう。

むしろ、お願いをしなければならないのは私の方だよ。

これからも宜しくお願いします」


十代だった自分が、道を定めて歩き続けてきて、いまこの場所にいる。

“トレビスのエレナ”は全ての始まりだったのだ。


目を閉じれば、


厨房のエレナさんとジュリアン、

常連のお客様と語らうマリエさん、

フロアで微笑んでいるサオリさん、


店の光景がすぐに蘇ってくる。


このビジネスの厳しさに、何度か心を挫かれそうになった時、

思い浮かんできたのは、

四人が静寂の下に微睡んでいた、シエスタのシーンだ。


あの安らかな空間に意識を戻し、少し佇んでいると、どんな傷も癒えていった。


“トレビスのエレナ”への思いは、決して消えることがない。

人生を方向付けてくれた、大切な人たち。

そこで経験できた、濃密で素晴らしい時間。


その全てに感謝し、報いるための場所が、この店だ。

Non ti preoccupare.


何があったとしても、

一日一日、ただ来てくださるお客様のために、できることをする。


いつの日にか、

妖精が、その羽根を休めに来てくれることを心から願いながら。




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