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グラン・ブルー  作者: MENSA
5/5

グラン・ブルー5(終)

 

最終章

 

     1

 

 サンフランシスコは空気こそからからに乾燥していたが、温度は低く、道を行くジョガーも上着を羽織っている人が多かった。目当ての弁護士事務所は、ヤシの並木道を抜けていった、市役所通りのすぐ近くにあった。隣接する建物同士の間隔は大きく、エリア全体の空間が広く取られている。

 約束を取りつけていた、ジークムント・ビュッセルは玄関先まで出迎えてくれた。仕立屋の主人と勘違いさせてしまうほどに、隙のない着こなしでキートンのスリーピースを身にまとっている。顎髭や頭髪のまとめ方にも品の良さが滲んでいた。見るからに、信頼のできそうな人柄が外見に現れている。

「用件はお伝えしました通りです。日本から、お話をうかがいに来ました」

 と、瀧本は紹介された椅子に腰掛けながら、なんとか英語で言った。

「遠くからの来訪、歓迎いたします。あなたがいらっしゃられるのをずっと心待ちにしておりました。力になれるかどうかは分かりませんが、海を越えてきたその熱意に応えるだけのことはしていきたいと思っています」

 少し離れた空席――ビュッセルの専用席だと思われる――の机の上には、書類が拡げられていた。直前まで確認していたものに違いなかった。とすれば、伝えるべきことはすでに決まっていると見ていいのだろう。

「まず、本郷医師のことからお話をしなければいけません」

 と、ビュッセルが口を切る。

「彼が侵されていました病は、静脈瘤とセットになった、肝硬変です。知名度を得た病でしょうが、誤解がないよう、あえて簡単にながら説明するとします。これは肝細胞が壊死し、炎症したり再生したりを繰り返すことで、肝臓が内側から固くなっていく病気でして、やがて血流障害を起こし、症状が全身に波及する形で進行していきます。活性酸素などの関与を経て、さらに二段階、三段階……と硬化が進むと、あらゆる合併症を引き起こし、それと合わせて治療を続けていかなければいかなくなります。

 本郷医師の場合、症状の進行が早く、すでに末期の状態となっていました。生体肝移植をしないかぎりには、余命一年と宣告されました。静脈瘤と先に伝えました通り、深刻な合併症が進んでいたのです。事実が判明しましたのは、定期検診です。御本人に告知されましたのは、2008年の六月のことでした。つまり、今から七年前のことに遡ります」

「2008年……? それは、正しい情報なんでしょうか?」

「はい、事実です」

 と、ビュッセルは事務口調でながら答える。

 すでに、瀧本にとって衝撃的な情報を報せられていた。2008年――つまり、瀧本に動物病院が明け渡されるずっとその前に本郷は重病を患っていたことになるのだった。彼はその事実を、瀧本に隠していた。

「病気をしていただろう事は分かっていたが、本当の所はそうだったんだ。思っていたよりも、重病だった……。余命一年だっただなんて、よっぽどだよこれは。それにしてもこんなことを黙っていただなんて……先生のことが、信じられなくなってしまいそうだ」

「そのことについて深く考えるのは、止してください。これは、本郷医師の生来からの気質が成したことなのですから」

 と、ビュッセルはなだめてくる。

「彼は強い人です。人に弱みを握られることを、ことさら嫌います。ですから、例えあなたが親身になって問い質しても、彼の口はそのことを語ることはなかったはずでしょう。――ともかく、その年から治療がはじまりました。しかし、病院指定の即効性の薬物治療は副作用があり、これは本郷医師には辛い選択でしかなかったのです。彼は、医師からたっぷりと説明を聞いて勉強した上で、こうした治療を拒否し、従来どおり働きながら民間療法の施設に通うことにしました」

「その、民間療法というのは……?」

「内容は伝えられません。医学的な回復の根拠がないものということだけは言っておきましょう。薬を飲むということには違いありません。GDTや、GPTなど肝臓機能に関するもろもろの数値を正常化させ、身体の内側から回復に持っていく治療方法を選んだのです」

 その治療の段階にいただろう、彼の姿を瀧本は何度も見ている。傍目には変わっていないように感じられていた。瀧本が気付かなかったのは怠慢とか、不注意の結果ではなかったはずだ。しかし、いくら表にその兆候が表れていなかったにせよ、やはり悔しい気持ちはじわじわと起こってくるのだった。

「本郷医師の選択は、的中しました。半年後の検診で、改善の兆しが見られたのです。見事に数値を正常化させることに成功していました。深刻だった合併症の静脈瘤は、このとき完治しました。それでも、肝硬変との闘いが終わったわけではありません。引き続き闘病生活を続けなければいけませんでした。本郷医師は、この時、すでに将来のことを考えていたようですが、これではいけないと思い立ったようで、日本からこちらまで海を渡る決意をしました。これは、治療のためではありません」

「知っています」

 と、瀧本が話を引き取る。

「なんでも、特定の動物に遺産を遺すことを決意したようですね。その子は、鳥獣であり、本郷先生の元患者であることも押さえています。が、一部の情報を除き、どこのどの鳥なのか、その像について具体的に特定できているというところまでは至っていません。それは、娘さんである貴子さんですら報されていないことでした。……いま、僕に教えてもらうことはできませんでしょうか?」

 ビュッセルは難しい顔をして、喉の奥で唸るような咳払いをした。

「それは、できないのです。遺書には、そのことを報せないようにして欲しいと、綴られています。アメリカでは故人の意思が重要視されますから、遺書に書かれた内容は絶対というぐらいの執行力を発揮します。ましてや遺言執行者として指名された私には、これを破るわけにはいかない事情があります」      

 厳しい口調だった。この彼を説得し、内情を引き出すことは困難という壁を越えて、不可能であるようにも感じられた。

「が、ご安心ください。話せる内容は、まだありますので――」

 と、ビュッセルは穏やかな口調で言葉を紡ぐ。

「それとは、信託のことであり、本郷医師が選択しました遺言の形式です。あなたが求めるだけの情報には敵わないかもしれないのですが、それでも充分満足してもらえるのだと私は確信しています」

「信託については、ある程度調べが付いています。どうも、ペット名義で本郷先生が生前のうちに作ったもののようですね。その名義、というのは、〝リュウセイ〟です」

 何も情報を持たないままに渡米するわけにはいかなかった。〝リュウセイ〟という名義の情報をキャッチしたのは、瀧本のせめてもの意地というやつだった。

「その通りです。〝リュウセイ〟――そのお方が、信託の名義人です」

 と、彼はうなずいて言った。

「事前に設立された信託に、遺産として指定された基金を直截当てこむ形での相続です。こうした手続きは、かなり面倒なものが伴いますが、本郷医師はそのことに躊躇するようなことはしませんでした。形式は注ぎ込み条項付きの遺言というやつです。死後、しっかりと信託に基金が渡るように仕向ける手続きです。私の指導の下、彼は何度も書類を作り直し、作成しました。ほぼ誤った解釈が不可能な、それこそ完全なといっていいほどの書類が仕上がりました。この手の相続は誤解を招きかねない記述が一条でもありますと、検認裁判(プロベート)で思ってもみない処置が下されることになってしまうのです」

「一条の欠陥もない、完全な書類を作成した背景はよく分かりましたよ。察するに、それには先生の強い意思があった結果なのだとおっしゃりたいのでしょう。ですが、僕がいま気に掛かっているのは信託相続のことではなく、その元である信託のことです。これを設立するには管財人と世話人が必要です。もしやビュッセルさん、あなたがその役に任命されているのではないかと見ているのですが、どうでしょう?」

 彼はノーと、小さくつぶやいて手を振った。

「私は被任命者ではありません。信託自体の設立は、私に依頼するずっと前になされたものです」

「でしたら、管財人と世話人が誰なのか、それを教えてもらえないでしょうか?」

「それは、できません」

 彼は静かに言った。

「まさか、そういうことも遺言に書いてあるのです?」

「その通りです」

「…………」

 なぜ、そこまでして情報を封鎖するというのだろうか。その徹底ぶりからして、むしろ理由が知りたくて堪らなくなってきた。

「それでは、質問を変えるとします」

 と、瀧本は突き上げてくる苛立ちを抑え込んで言った。

「信託のことです。〝リュウセイ〟名義の信託が設立されたということは、つまりリュウセイが信託を相続したのでしょうけれど、これはリュウセイがずっと維持し続けることができる財産なのでしょうか?」

 リュウセイは動物で、しかも本郷の手に掛かった患者だったという理由からして野性の鳥獣であると思われる。対象がなんであれ、法律上は相続者として扱われたところで、自分の意志を提示できないことから、遺産の行方はつまるところ、限定されたところに転がることになっているはずだった。

「実は、信託の運営には上限が設けられています」

 と、ビュッセルは言う。

「二十一年です。その期限に達しますと、運営主がどのような状態になっていようが関係なしに自動的に停止させられます。結果、信託財産は宙に浮くというような形になるのです」

「そうなりますと、家族に戻るということなのでしょうか?」

「その可能性もありますが、じつは遺書にはその後のことも記載されていますので、そちらが尊重されることになります」

「つまり?」

 瀧本は息を呑んで、彼を見守った。

「本郷医師が任命した世話人に相続されるように、と――遺書にはそのように指定されています」

 世話人――もしかしたら、その役を預かる人こそが本郷の本命の相続相手というべき人物なのではないだろうか。

 その人は、家族以外の人間であることは疑いもないことだ。どこで何をやっている人なのだろうか。よほど信頼できる人間でない限りには、世話人の役を託されるようなことはないだろう。

「僕は、その世話人に会いたいです。できましたら、いますぐにでもです」

「すいませんが、私からは、もう何も教えられることはありません」

「せめて、アメリカにいるのか、日本にいるのかぐらいは教えてもらえないでしょうか?」

 手を合わせて懇願に掛かった。が、ビュッセルは事もなげに首を振った。

「無理です。本郷医師の意思を尊重させていただきます」

「僕がここまで足を運びましたのは、本郷先生のためであり、娘さんのためでもあります。とくに後者は深刻ですよ。父である本郷先生を疑い、自分から切り離そうとしています。このままだと親子関係が途切れたままで終わってしまう……。僕には、彼らを修復する義務があるんです。本郷先生が亡くなられた今、もう直截的な恩は返せません。ですから、せめて父娘の繋がりだけは僕がなんとかしなければいけないんです。これは先生との絆を証明する恩返しでもあるのです。簡単に日本には帰るわけにはいかないんです」

「あなたの熱意は、すでに分かっています。ですが、遺言執行者の役を担っている立場上、どうにもならないのです」

 述べたビュッセルの言葉には、拒否感情が手堅く込められていた。 何も言えないでいると、顔を見合わせるだけの黙する時間に入った。事務所の方にはいつしか来客の姿があった。事務員が懸命に対応しているが、それはあくまで引き留める策にすぎない。ビュッセルがそちらに呼ばれるようなことがあれば、そのまま面会が打ち切りになってしまう恐れがあった。

 瀧本は全力で頭を捻る。だが、次の一手がまるで思い浮かんでくれそうにない。相手がいかにも堅気なビュッセルだけに、仕掛けていくハードルは高いはずで、そのことの焦りが瀧本に追い打ちを掛けていた。

 これで行き止まりなのか。この先に道は開けていないのなら、このまま為す術なく日本に帰ることなってしまいそうだ……。

 本郷貴子に何も報告しないままで接見したら、彼女はなんて言うのだろう。

 諦めに似た顔で、あっけなく受け容れ、そのまま流しに入るのかもしれなかった。しかし、それはあっさりとしている一方で、絶縁を意味していた。父娘関係の冷たい終焉――それが完成してしまうのだった。

 そんなことは受け容れられないことでしかない。

 二人には繋がっていたままでいてもらわなければいけなかった。橋渡し役を果たし、なんとしてでも、自分の仕事を全うしなければいけない。これを成すのが自分であれば、維持するのも自分だ。本郷と娘の貴子はセットで保護していくべきものなのだ。

「――あるとすれば、一つでしょうか」

 煮詰める表情にさすがに情を禁じ得なかったのか、ビュッセルが突如として言った。

「なんですか?」

 と、瀧本はソファから飛び出して食いついた。

「管理監督人ですよ。これは信託設立のいち要件でして、管財人と世話人の他に用意する必要がある役職です。これに指名されている人物なら、接見が可能でしょう。遺書には指定されていませんし、何より第三者として信託を管理する立場でありますから、外部の人間からの要請や連絡に応じる役目を担っています」

「それですよ! ビュッセルさん、知恵を貸していただきありがとうございます。早速、管理監督人を探しだして、接触してみるとします」

「私は立場上、そのお手伝いはできませんが、もう一つだけ情報を授けるとします。その人物は、私の調べによれば……たしか、ニューヨークにて会計士をやられているお方だったはずです」

「ニューヨーク、ですか?」

 サンフランシスコは西海岸の都市だ。ニューヨークとなると正反対の東部海岸まで飛行機で飛んでいかなければいけなかった。その時は四千キロ以上の飛行旅となる。

「長距離移動が無理でしたなら、電話で済ますという方法もあります。どちらにせよ、向こうまで出ていったところで必ずしも望んだ成果が得られるとは限りませんから、そうしたほうがいいのかもしれません」

「いえ、直截出ていきますよ」

 と、瀧本は負けじと言った。

「そうじゃないと、僕が述べた〝絆〟という言葉の説得力がなくなりますからね。直截会って面と向かって言った方が気持ちが伝わるでしょうし、何かと細かい情報が聞けるはずです」

 ビュッセルは顎を引き、瀧本に向かってゆっくりとうなずいた。

「でしたら、もう少し、お手伝いをさせていただくことになりそうですね」

 

 スタンリー・ミューラー。

〝リュウセイ〟名義の信託設立の管理監督人として任命された人物の名前は、そういった。

 会計士としてニューヨーク、マンハッタンのビジネス街にて個人事務所を開いていた。が、ごく最近、事務所名が変えられていることが分かった。また経営陣の刷新もあったようだった。瀧本はJFK空港からイエローキャブに乗って、目的の事務所まで向かった。人が歩いているだけで喧噪が目に付くようなビル街だった。年季が経っていて、壁が息しているかのように黒く煤けている。屋上からは乳白色の排煙がたちのぼっていた。

 体重の分だけ音がうるさく響く階段を登りつめ、六階の事務所にたどり着いた。受付は誰もいなかったので、事務所に直截顔を出した。太った黒人女性が一人で仕事をしていた。

 ハロー、と彼女は銀の指輪がはまった太い手をもちあげて、大きな声で挨拶してきた。

「何か、ご用ですか?」

「人を訪ねてきたんですが……、よろしいでしょうか?」

「はい、どうぞ」            

 と、彼女はカウンターにまで身を乗り出して言った。瀧本が取りだした持参の書類を一緒になって覗き込む。

「スタンリー・ミューラー氏が、ここで事務所を開いているということでしたが」

「そうですよ、こちらがスタンリー・ミューラーの元事務所です。間違いありません」

「それで、彼は……?」

「ミューラーさんは、すでにお亡くなりになられていますよ、ミスター」

 瀧本は一瞬、彼女の述べたことが理解できなかった。

「亡くなったって、いまおっしゃったのですか?」

「はい、残念ですが、彼は心臓の病気でお亡くなりになりました。去年の十一月のことです。事務所名が変わったのは、実はそのためです。何か、彼に関して重大な用向きでもあったのでしょうか?」

 その時期となれば、ほぼ本郷と同じ時期に亡くなっているということになってくる。その事も合わせたショックがいま瀧本に響いていた。

「いえ、亡くなったとは知らなかったので……、これ以上はけっこうです。何も申し上げることはありません」

「そうですか、それでは、他にお手伝いできることがありますか?」

「とくに、ありません。ありがとう」

「いいえ、とんでもない。何かあれば、いつでもお手伝い申し上げます」

 最後まで事務的な対応だったが、愛想は良かった。瀧本を気遣う念を少しでも持ってくれているようだった。瀧本は彼女に感謝の気持ちを持った。

 それでも事務所の階段を下りていく足取りは、この上なく辛いものとなった。徒労感は感じていなかったが、無気力が強く掛かっていた。下手をすると足の感覚を失い、階段から転げ落ちてしまいそうだった。

 

 いつまでも気落ちしているわけにはいかなかった。

 瀧本は事務所ビルを出た後、喫茶店に入り、すぐさまサンフランシスコのビュッセルに携帯を繋いだ。そして事情を告げた。

「亡くなっていらしたんですね、それは残念なお話です」

 少し薄情とも取れる、対応だった。すぐにでも瀧本は問い詰めてやりたい感情に駆られた。が、今は時間がないことを意識しなければいけなかった。何より、今回のこの旅は、自分のためにやっていることなんかではないのだった。

「自分が言いたいことの半分は省略します。……いま相談したいのは他の方法についてです。もうないのでしょうか? 管理監督人の喪失という件に出会してふと思い出したんですが、執行人のあなたを含む関係者の予備人という形で指名する、承継人の指定というのがあったと思うのですが、こちらはどうなっているのでしょう?」

「するどい指摘だと思いますが、残念なことにその筋だって行き止まりです。本郷医師は、承継人の設定まで希望されなかったのです。

というのも、ここアメリカでの友人が少なかったからでしょう。永住権につきましては、傑出した研究家などに与えられる特殊ビザのタイプで申請していますから人に頼る必要もありませんでしたし、御本人自身、ミューラー氏との付き合い以外はとくに希望されなかったように思うのです。かくいう私との付き合いも、限定的なものでした」

 彼は、遺言執行人としての仕事をまっとうするよう何度もお願いされたことを、淡々とながら説明にくれた。どうやら、事務的な付き合いだけを彼に期待していたようだった。

 彼の説明は、過去の話にまで及んだ。それで、二人が出会うまでの本郷のニューヨークでの生活振りが少しだけ明らかになった。病気しているというのにもかかわらず、あちこち企業を求めて回り、一日も無駄に過ごす日などはなかったようだ。このことを打ち明けるに至ったのは、遺書の手続きにあった『追記』の存在について説明するためだった。いまもビュッセルが執行者でありつづけているのは、そうした事項が綴られたために他ならなかった。この瞬間も、契約の履行がつづいている段階にあるということなのだ。

「ともかくミューラーさんと付き合いがあったんですね? 本郷先生は」

「若い頃にアメリカに留学したときからの付き合いだそうです。旧交を温めつづけ、ことあるごとに相談に乗ってもらっていたようですね。ご病気してからまもなくアメリカに渡る決意をしたのも、彼のアドバイスに寄るものだったと伺っています。これまでにも何度も自宅を訪問するなど、家族ぐるみの付き合いがあったのではないでしょうか?」

「では、彼の家族を訪問すればあるいは情報が得られるかもしれませんね」

「それは、保証できないことです。あなたが希望されるのでしたなら止めはしませんが、基本、よしておいたほうがいいでしょう。ミューラー氏も本郷医師もお亡くなりになられたのです。家族はいま、一番の傷心に沈んでいる時期ではないでしょうか」

 ビュッセルの指摘はもっともなことだった。盟友というまでの付き合いがあった二人の男たち。何がそうさせたのか、同じ年の同じ時期に息を引き取ることとなった。これが、彼らについて同じ運命を背負っていたことの証しだというのならば、残されたミューラーの家族は二重の悲しみを負っているはずだった。

 ビュッセルの言う通りだ。安易に、訪問すべきではない……。

「あなたは、充分やりましたよ」

 と、ビュッセルは声を張り上げる。

「ですから、引き時というものをじっくり考えるべきなのです。恥じることはありません。あなたがやってきたことは日本でも肯定的に受け取めてもらえることでしょう。私がその証人です」

 ここまでビュッセルには、協力的にしてもらっていた。ここで身を引くべきだと諭しているのも、私心のない弁護士としての忠言ということでいいだろう。

 それにしても、ここまで情報提供があっさりとしていたのは、どうしてなのか。自分のことを信用できる人間と見なされたことの結果というだけでは、説明が足りないように思えてならない。

 もしかしたら、遺書手続きの裏側に隠された事実について、ある程度は知られても構わないとでも思っているのかもしれなかった。あくまで知られていいのは全体の着地点というやつだ。関係者名簿など、その具体的な中身まで明かすつもりはない。

 ではなぜ、着地点だけ知られても構わないのかとなれば、そこに情報の性質が関係しているからだろう。これが、公的なニュアンスを含むものであるということだったならば、結局のところ、知られたところで問題などは発生しないはずだった。

「ビュッセルさん、ありがとう。ともかく今日一日だけはじっくり一人で考えてみることにします」

 瀧本はすべての感謝を込めて言った。

「それぞれの人にとって、もっとも賢明な選択をされることを期待します。それでは、また――」

 携帯をポケットに仕舞い入れた。すると、自分でも意図しないうちに、なんとなく雑踏に混じって歩き出していた。無性に海の臭いが嗅ぎたくて堪らない思いでいた。が、鼻を高くして嗅覚を研ぎ澄ましたところで、風に潮の兆候が含まれているわけでもない。ニューヨークは埃臭くって、息が詰まりそうなほどに粉っぽい空気をしていた。クラクションの喧噪から逃れるように歩いていると、いつしかキャナル・ストリートを抜けて、モニュメントの建つ、セントラルパークまでたどり着いていた。

 ベンチに腰かけ、広々とした公園の風景を眺める。どこを見ても退屈そうにしている者などいない。誰もが常に何かの目的を持って行動していた。だからこそ、忙しい街という風に映って見えるのかもしれなかった。

 空を見上げると、灰色の雲が満遍なく降り懸かっていた。それでも空の色が確認できないわけではない。西海岸で見たそれとはまた別の色をしているように感じられたが、やはりアメリカ特有の空の兆候は残されていた。

 そして雲の下を飛翔する、鳥獣たち……。

 瀧本は獣医としての顔が、ぴんと立ち上がってくるのを感じた。世界のどこに来ても、この風景は同じようにあるんだと野鳥たちの群れを見て何となくそう思った。

 ふと、日本に残してきた動物病院のことが取り留めもなく思い出される。急患受付の方はいつでも維持しなければいけなかったから、保護ネットワークの方に支援を要請し、獣医の派遣を受けていた。今頃、応援の獣医二名が懸命に仕事をしてくれていることだろう。慣れない作業場で仕事をすることから、診察室がかき乱されるというようなことがなければいいが、と瀧本は余計な心配をしてしまう。

 その時、へい、ユーと、乱暴な声が掛かった。隣のベンチで英字新聞を読んでいる男だった。

「何をそんなに辛気くさい顔をしているんだ? ギャンブルでもやってすっちまったのか? 自殺の相が出ていて、いけないね。これでも食っときなよ」

 投げこまれたのが、スニッカーズのチョコだ。男の昼食らしい。身なりを見る限り、ビジネスマン風だ。まさか、変なものは入っていないだろう。ところが、礼を言う前に彼は去っていってしまった。

 そんなに暗い顔をしていたのだろうか、と瀧本は考えながらチョコを開封して囓った。空を仰ぎながら、今度は本郷のことに想いを馳せる。

 娘との確執があっただなんて、まったく知らなかった。多くは誤解だろうとは思うも、実際瀧本が見ていない顔というやつはあるはずだった。その手掛かりとなる厳しい一面を、瀧本にも見せたことがあった。

 それは、瀧本が保護センターに所属していた頃のことである。重度の鉛中毒に罹っていた入院中のオオワシの容態が応急救護から一晩経って急速に容態が悪化した。これまでの経験からして助かる見込みは極めて低かった。すでに衰弱死を待っているような段階にあるとまで言ってもよかった。安楽死をしてやりたいと思ったところで、オオワシは天然記念物に指定されていることから安易にできない事情があった。

「なぜ、手を休めるんだ。この子は、まだ生きているではないか……!」

 鬼面で救護に当たるその手つきは感情任せだった。応援のスタッフも完全に萎縮してしまっている。瀧本もさらなる飛び火がないよう、精一杯救護に務める振りをした。

 内心では不満があった。

 延命措置をすればするほど、苦しむ時間が伸びるだけなのだ、と――。それは、一人の獣医として鳥獣を愛しているからこそ抱く感情でもあった。

「とにかく、やれるだけのことはやった。瀧本くん、ちょっと見ていてくれ」

 手術用の手袋を脱ぎながら彼は言った。

「あ、はい。分かりました」

 鳥獣用のICUの中に収まったオオワシは生死をさまよっていた。生体情報を数値化する、セントラルモニタからは悲壮感しか感じ取れない。波形はいつ死のラインに重なってもおかしくない状況にあった。

 補助的な救護を終えた後、もう手の出しようがなくなった。オオワシは苦しそうな呼気を繰り返している。目はうつろで、半分昏睡しているというようなあり様だった。身体だけは生理的に反応していて、酸素マスクの装着を拒否するような動きを見せている。やがて衰弱が加速すると、それも無くなり、麻酔を掛けられたかのように大人しくなった。

 横たわった肢体。翼を支える肩の筋肉が均質的で美しく、たくましいラインが作られていた。瀧本はその様に見取れつつ、容態を見守った。一時間の膠着。バイタルサインは依然として不安定だったが、それなりに小康を保っているようにも見えた。

 かかと関節を見ているうちに、暴れたときにほつれた羽が一本、胴体下部から突き出ているのを見た。別に処理するようなことでもなかったが、何かしてやりたいという思いから瀧本は剪刀を手にICUに手を突っ込んだ。足を抱え、羽をぱちりと切ってやろうとした瞬間だった。

 オオワシが突如目覚めたように動き出したかと思えば、瀧本の手をいきなり鷲掴みしてきた。強烈な握力が甲に掛かる。潰されるような感触を味わうだけでは済まなかった。オオワシには手のひらを抉ってもまだ余りあるだけの鋭い爪がある。趾に力が込められると、甲に爪が突き刺さった。皮膚が食い破られる音。その下の血管が思い切り傷つけられた。血がほとばしり出た。一瞬にして、甲の色が赤に塗り替えられる。

 苦痛の呻きが洩れる。が、なんとか堪えた。補助のスタッフはすべて出払っていて、瀧本一人だけだった。

 まだ爪が手の甲を抉ったまま、離れてくれない。どこに、こんな脅威的な力がこの衰弱したオオワシに秘められていたというのか。瀧本は引き剥がす方法を焦眉の急で考えなければいけなかった。強引に手を引くと逆効果になりそうだ。引いた方に思い切り傷口が開いてしまう。また、反射的にオオワシの握力が込められる恐れがある。

「力を抜いてくれ。僕は、君の敵じゃないぞっ……!」

 瀕死のオオワシに訴えた。

 が、効果はない。

 このまま爪が手を貫通するのか――と、最悪の絵図が過ぎった。目を瞑って、為す術もないこの状況をひたすら耐え抜く。

 ところが、オオワシの体力はそこまでだったようで、急速に力が抜けていくのを感じた。藻掻くように動かし出した趾がそっと内側に引っ込められると、甲を思い切り抉っていた鉤爪が真っ赤な光沢をさらして瀧本の患部から姿を見せた。

 安全が確保されたのを確信してから、脇元に手を引っ込めた。今度は指の先に血が絡んでいく感触。深手を負ったのはもうすでに出血量からして分かっていた。痛みは後から大きくなっていくことだろう。瀧本は道具一式が揃っている医療棚に取り掛かり、止血材として消毒済みのタオルを選んだ。患部を押さえ、じわじわ迫り来る痛みに抗った。

「瀧本先生、どうなされたんですかぁっ……!」

 スタッフがやってきて、悲鳴のように叫んだ。すぐさま、応援の人間を呼ぶ大きな声を張り上げた。

 さいわいスタッフの中に応急処置の心得がある者がいた。その彼女の手当てを受け、一先ず急場を凌ぐ。

 本郷がやってきたのは、二分後だった。むっつりとした顔で瀧本を見ていた。

「瀧本くん。君は、何をやっているのかね? 怪我をしたら、さっさと病院のほうにいきたまえ。それがいま一番の仕事だろうに」

「いま、手を離すわけにはいきませんから――」

「いいから、さっさと行きなさいっ!」

 先程からつづいていた不機嫌はいま最高潮に高まっているようだった。瀧本は何も言えず、頭を下げ指示に従うことにした。

                        

 オオワシの爪は地下組織の奥深くまで達して、骨の一部すら傷つけていた。真皮でしっかりと結紮された縫合糸が痛々しく露出している。合計十二針も縫う始末となった。しかし、瀧本はそれ以上に心を痛めていた。獣医として現場を預かっているのに、持ち場を離れ、人様用の病院なんぞに取り掛かっていたのだ。移動中は役を剥奪されたというような疎外感に苦しめられ続けた。

 本郷は詰め所の片隅にあるワークデスクにてうずくまっていた。声を掛けられないぐらい暗い顔をしている。

「先生……」

 と、瀧本は部屋に立ち入るなり、つぶやいた。そして、本郷に頭を下げる。

「すいませんでした――」

「瀧本くん?」

 と、彼は顔を上げて言った。すぐさま感傷的な面持ちにすり替わった。

「オオワシは……、さっき、息を引き取ったよ」

 がつん、と器物で殴られたような衝撃が心に走る。分かっていたことじゃないか、と瀧本は自分に言うも、なんだか気持ちの悪い感触が胸に迫ってくるのだった。どきどきと鼓動が胸騒ぎをともなって早まり出す。

 ゆっくりと持ち上がった本郷の顔は、疲弊しきって一瞬別人の顔に見えたぐらいだった。頬に痩けて見えるような、黒い影が差し込んでいる。ゆらり、と揺らめくような動きで立ち上がる。

「先生……」

 自責の念が強烈に強まっていた。なぜ、こんなことになってしまったのか。もっと、最善の選択があったはずなのに。

「こうなることは、お互い分かっていた……」

 と、本郷は息を乱しながら言う。屈辱と、涙を堪えているような顔をしていた。

「だが、我らはそれでも傷病者を迎え入れ、懇切丁寧に救護してやらなければいけないんだ。最後まで、治療を諦めてはならない。……これはあくまでわたしの個人的な信条になるが、救護する子がまさに死に逝く時、親の死を看取るようなそんな気持ちでいなければいけない」

 さらに気を溜めて、本郷はそっと言う。

「それを、君は怠った。許されないことなんだよ、これは……」

 父親のような叱りつけだった。瀧本の胸に強く響くあまりに、しばらく為す術もなく放心に入った。

 不意に本郷が瀧本の肩を掴み、包帯の巻かれた手を優しく持ち上げた。

「何針塗ったんだ?」

「……十二針……ですが」

「君が看てた子の、生きていたという最後の証しになってしまったな……」

 ぽつぽつ、と手首まで巻かれた包帯の一部が玉粒状に湿る。本郷は顔をうつぶせたままに泣いているのだった。

 生きた証し……。

 瀧本はそうかもしれない、と思いながら感傷的にながら包帯の巻かれた自分の患部を見つめた。悔しさが一気に胸に詰まった。

「先生、自分は間違っていました……」

 と、瀧本は感情を抑えながらなんとか言った。泣きたいほど悔しいのに、涙の兆候はまったくなかった。抑圧が強まるあまりに、やがて感情の風向きが変わって、今度は自罰的な感情が込み上げてきた。

「僕は、もっと自分ができることについて考えるべきだったんです……。正直なことを打ち明けますと、あの子に関してはもうこれ以上の治療は徒労で、救護する側も苦しい思いしかないとみなしていたんです。……そうです、救護は無駄な行為だ、と僕は見なしていたんです!」

 正直な心情の吐露。

 それを口にして、やっと自分の愚かさを悟った。自分は、本当に馬鹿な男だ。獣医でいることの資格すら危ぶまなければいけない程に、不甲斐ない男だ。

「それ以上は、いい。分かっているなら、それでいいんだ……」

 と、本郷は優しく言う。詰め所から通じる、手術室のほうへと顔を向けた。

「それより、息を引き取った子の顔を見てやってくれ」

「はい……」

 瀧本は呪わしい気持ちを抑えつつ、L字に部屋を進んで、奥手に設置されていたICUにまで向かった。隣接する籠の中だった。その中にオオワシは収められていた。タオルが充分というほどに敷き詰められ、柩のような仕立てになっている。吐血したのか嘴周りに

汚れのような血痕がこびり付いていた。それでも、表情は穏やかそのものだった。苦しそうに喘いでいた影はもうない。悔しさが改めて込み上げてきた。唇を噛んで、必死に耐えた。

「わたしは君にきつい一言を放ったが、それは立場で言ったことだ。もちろん、真摯に受け止めて欲しいことだが、深刻に捉え過ぎて、自分を追いつめるようなことをしてはならない。君が負う傷は、手の甲だけで充分なんだ」

 言葉の端々に怒りを均質的に含めながら本郷は言う。そしてオオワシに向かい、そっと語りかけるようにつづけた。

「この子に、たくさんのことを学ばせてもらったことに感謝しなさい。この子の存在そのものが、教師だ。無駄な教えなど何もないし、どこにもない。すべてが完全というような、立派な教育者だ」

 ひとしきり指先でオオワシを撫でた後、瀧本に振り返ってポケットから抜き出したものを差し出してきた。合金製のバングルだった。

「まだまだ垢抜けない、未熟な君への餞別だよ。戒めだと思って、これを手首に巻いて常日頃から自分の生命線を守りたまえ」

 瀧本はバングルを受け取った。

 特注品なのだという。それだけあって、小さいながらもずしりと重たい感触があった。早速手首に装着した。ずっと本郷のポケットに入れられていたせいか、そこはかとない温もりがあった。

 ふと気が付くと本郷の影はすでに無くなっていた。一人取り残されていることが分かった瀧本は息を引き取ったばかりのオオワシと対峙した。タオルの端を引っ張り上げ、嘴の血を丁寧に拭う。こすってもこすっても取れないような呪いのような汚れで、手先が痛くなるまで磨く必要があった。

 終えると、オオワシの象徴というべき、雄々しい黄色い嘴がしっかりと甦った。頭部から突き出るように伸びたフックのような形状。捕らえた獲物を離さない、猛禽としての誇りと強さが確かにながら、そこに表明されている。

 獣毛を整え、完成した勇ましいその姿を、瀧本はいつまでも飽きることなく眺め続けた。気の済むまで、ずっと傍に居つづけた。さいわいというべきなのか、その日はこれ以上の急患が入ることはなかったのだった……。

 一連のエピソードは独立して、身を固めることができた今も忘れてはいない。手の甲の傷は依然として残ったままだし、バングルもいまだに現役で活躍している。獣医として、すべてがはじまった日と位置づけてもいいのかもしれなかった。

 背中を押してくれたのは、本郷だった。彼はやはり、自分にとって一番というぐらいの存在だった。

 ここは自信を持って、貴子に先生の真実を知ってもらおう。

 瀧本に俄然勢いが沸いてきた。スニッカーズの残りを口の中に放り込むと、こうしてはいられないと興奮のうちに立ち上がった。手帳に書き込んだ、故ミューラー氏の個人情報。そのうちの電話番号を取り上げた。

 瀧本は携帯電話を握った。

 

 ミューラーの家族は、クィーンズ区の一角にある一戸建てにて暮らしていた。細く尖った三角屋根の家で、赤いフレームで構成された屋根付きの出窓が中央に配されている。家の化粧煉瓦の半分を蔦が埋めていて、それに負けない勢いで広い土地に植えられた庭木が青々と茂っていた。ロフトと思しき三階の窓が、換気のためか、はたまた常日頃からそうしているのかは不明だったが、大きく開かれていた。

 瀧本の訪問を、夫人は思ったよりも快く迎えてくれた。

「主人は、ドクター本郷のことを、敬愛していましたわ」

 と、目に興奮を湛えて熱心に言う。主人を失ったことの悲しみは、

皆無ではなかったものの、親交のあった友人の話を咲かせることで癒される方の女性だった。ビュッセルからの警告などは、単なる杞憂でしかなかった。訪問する決心をして正解だった。

 瀧本は彼女の話に付き添いながら、事情を徐々にながら打ち明けていった。日本で海ワシ類を中心とした鳥獣が傷つけられるような事件が起こったこと、その張本人が本郷の娘ですでに警察の手に落ちたこと、最大の関心事としていまだ本郷のことについて解決していない謎があること……、その他にも話題はあったのだったが、もっぱらこの三点が説明の中心となった。

「興味深い話ですわ」

 と、夫人はレンズの度がきつい眼鏡をいじりながら言った。

「是非とも、お手伝いさせていただきますわね。でも、そうは言うものの、お求めに応じられる自信などありませんわね。主人が遺したものなど限定していますし、わたし自身、知っていることといったら親交を深めたときの記憶に限られていますから」

「では、本郷先生とやり取りされた会話についてなんかは、記憶がありますか?」

「ええ、それぐらいでしたら、いくつか……」

「その中で、例えば国指定の天然記念物……これにまつわることのやり取りをしたことがなかったでしょうか?」

「天然記念物ですか? ……覚えがありますね」

 と、応じてから、夫人は思い出に浸った。

「ドクター本郷は、獣医師さまでいらっしゃいますからその手の話は多かったと思います。主人も動物が大好きなんです。本当に真からのナチュラリストでして、家のことなどそっちのけといった具合で環境保全のボランティアを何度も請け負ってきました。ですから、もしかしたら二人の話題の中で一番多いテーマというべきなんじゃないでしょうか」

「でしたら、その中でさらに焦点を絞るとしましょうか」

 と、瀧本は持ち掛ける。

「何かしらの依頼を受けていたようだというようなことがあれば、そこに注目したく思います。例えば、金銭的なことにまつわるこうしたことを請け負って欲しいとか、預かって欲しいとか、そういったことです。それは、主人からあなたに伝えられたような話ではなくって、最近、あなたが遺品整理をしていて分かったことだったとしても構いません」

 夫人の口が、あ、という形になった。頬に手を当てて、思案に暮れたままに言葉を紡ぎ出す。

「いま、依頼と聞いて、大事なことを思いだしたわ。主人の遺品の中に、銀行の貸金庫に預けられていたシステム手帳があったんです。それは主人が取り扱ってきた本業関連にまつわる重要書類と入り混じった感じで発見されたものです。中身は、やはり本業についてのことがもっぱらなんですが……、挿入という形で、ドクター本郷についての記述もありました」

「なるほど、そういうものがあったんですね……。受けていた依頼があれば、きっと手帳に記録しているはずです。是非、それを僕に見せていただけないでしょうか? 興味がありますのは、その部分だけです。ですから、コピーを……それも大半を黒く塗りつぶしたものを渡していただくという形で結構ですので」

「そこまでには及びませんわ」

 と、夫人は生真面目な顔になって言う。興奮がそうさせるのか、このとき彼女の顔は熱っぽく上気しはじめていた。

「あなた様は、ドクター本郷の友人さまでいらっしゃるということの確信をもう持っています。ですから、手帳を直截あなたに提示いたします」

「ありがとうございます」

 と、瀧本は手を合わせて言った。

「ようやく仲間を得られたというような気分です。実のことを言いますと、ここまで何の伝手もなく、勢いだけできてしまったのです。本郷先生は顔が広いと思っていましたから、足を運べば無条件でコネクションに出会えると思っていたんですが、どうも当て外れで、僕は今日という日まで見事に孤立していました。それで、ちょっと気持ちが塞いでいたところだったのです」

 お気の毒に、と彼女は肩をすぼめてから言った。

「ドクター本郷は、どうもこちらでは友人に恵まれなかったみたいね。というよりも、意図的に作ろうとしなかったのかしら?」

「それは、僕にも分からないことです」

「あの人のことですから、その辺り何か考えがありそうですね。……まあいいですわ、手帳持ってきます。ちょっとの間だけ待っていて下さいね」

 早速、夫人はリビングの奥へと出ていった。しばらく経って保管していた部屋から持ち出してきたのは、薄汚れたあり触れた様式のシステム手帳だった。

「たぶん、このあたりに……」

 と、夫人は瀧本の目の前で頁を大胆に繰り、目的の箇所を探し始めた。そのあいだにめくられた頁にはびっしりと企業名が書かれてあった。それらは、きっと本郷がアメリカで巡ったという企業の数々に違いなかった。ミューラーはその同伴者だったのだ。もっぱらIT系ベンチャー企業が集中しているようだ。その他に、証券会社、銀行、エネルギー会社などの名前が書かれてあった。後はその系列会社たちなのだと思われる。一頁あたり二十社から三十社が列挙されていることから、合計三百社以上は回ったのではないかと思われた。

「ここです」

 と、ようやく探し当てた箇所を指差して示す。瀧本は手帳を覗き込んだ。すると、自由頁の部分に走り書きがあるのを見つけた。

〝リュウセイ〟の一時保護先、確保――

 その下には、マルで囲む形でUrgent business!(急務)と、つづられている。しかし、前後をめくっても、保護先の情報が書かれているわけではなかった。

「これ、日付とか分かりますでしょうか? あと、年度も知りたいのですが……」

「年度はこちらに書いてありますが……」

 と、夫人は指差す。二〇〇九年となっていた。つまり、本郷が渡米した当年に当たる。

「あと、日付……これはどうなのかしら? カレンダー部分に書かれていたらすぐわかるんですけれどね。すぐ前の頁に8/11とあるから、これに近い日じゃないのかしら?」

「……すると、多分、本郷先生が渡米してからまもない時期ということになりますね」

「あら、何か掴めたことがあったみたいね」

「いえ、すべては推理に過ぎないものですよ。先生は、渡米するにあたって〝リュウセイ〟を日本から送らなければいけなかった……それで、預かり先を探していたのではないでしょうか。これは、その子をペットとして関係者に認知させるための行為だったと思われます。人様にわざわざ預けるようなことをしたのはわざとだったように思うんですが、実際どうだったのかはもうちょっと調べを進めてみないことには分かりません」

 瀧本は続けていた思案に区切りをつけ、気持ちを切り替えに掛かった。

「ともかく、鳥獣を日本から連れ出していたという事実が明らかになりました。この事実を持って、その鳥獣が海ワシ類ではないということが、はっきりとしました」

「それはどうして分かったのかしら?」

 と、夫人が話を差し止める疑問を飛ばす。

「国の天然記念物指定ですから、余程の理由がない限りには国内から連れ出すことはできません。環境省がこれを禁止しています。強行すれば、当然法に裁かれることになります。結果、海ワシ類以外しか、考えられないのです」

 すると夫人は不満そうに考え込んだ。

「先程、あなたは余程の理由がない限りにはと、おっしゃいました。もし、余程の理由があったとしましたら、それに該当することについていくつか思い浮かぶものがありますか?」

「どうして、そのようなことを訊かれるのです……?」

 と、一先ず問いを向けて、探りに掛かる。

「どうも、天然記念物が持ち込まれたはずがないという瀧本さんの一方的な推理に抵抗感を覚えたのです。今回の手続きは煩雑な過程があったような節が感じられます。そこまでしてはたして鳥獣を日本から連れてくる必要があったのでしょうか? ペット相続について代用を用意しようと思えば、このアメリカでも、いくらでも可能ですよ。ドクター本郷は、あくまで相続相手が〝リュウセイ〟でなければいけなかったのです」

「おっしゃられることの本意は分かります。ですから、一応と言いますか、ご疑問の〝余程の理由〟について僕が考えられる限りのことをお答えするとしましょう」

 と、瀧本は彼女を押し返すように言った。指二本を立てて言葉を継ぐ。

「それには二つあります。まず一つ目なんですが、取り扱いを研究サンプルにすることですね。国際的なシンポジウムを通して、重病に罹った鳥獣を世界の獣医たちの前に提示する、もしくはその手の救護が発達している動物病院に預けて治療を共同で行うといったものです。二つ目、国際交流としての取り扱い対象にするということでしょうか。これは、国益に絡んだ外交政策の一つですから、あえて説明するまでもないことでしょう。どちらも国家レベルの事業で、個人では不可能というぐらいにハードルが高いものです」

「なんだか、スケールの大きな話になってきたわね……。こういうのは、どうしても外交や研究に限定した話になってしまうようね。決して納得した訳じゃないけれど、とにかく厳しいってことだけは理解したわ」

 夫人は肩を竦めるなり、目を伏せた。

「かといって、うちの人にはドクター本郷以外にその手のコネクションがあったとは思えないから、どこぞの研究者にでも預けたとかそういうことが考えられるわけでもない……。こうなると、もうどこを攻めても平行線になりそうだわ」

 話の進行が止まり、二人して煮え切らない熟考を続けることとなった。途中、夫人は思い立ったように顔を上げた。

「そうそう、手帳にはもう一つ、添えられた情報があるんだったわ。この頁にね、折り畳まれたメモ用紙が挟まれていたの」

 彼女はシステム手帳の巻末カバー裏に指を差し入れ、紙切れを取り上げた。拡げると事務用手帳サイズの大きさしなかった。書かれてある内容も至極単調なものだった。

『HSN99538263』――

 思わずメモ用紙に釘付けになった。これは認識番号だ。本郷が設定したものだろう。まったく予想もしないものが出てきたことから、しばらく瞬きが止まらなかった。

「このメモ用紙、いただけませんか?」

 と、瀧本は気が急くあまりに、夫人に夢中でそうお願いしていた。

「ええ、それぐらいでしたなら、構いませんけれども……」

 と、夫人は辟易して言う。

「それが何なのかは、わたしには説明してもらえないのかしら?」

「失礼しました。説明が先でしたね。これは、患者のデータ登録整理番号というやつです。野生の鳥獣というやつはいくら普段から見慣れている僕らでも、外見だけで過去に治療したことがあるその子だとは認識できません。こうした番号を設けることで、過去の診察データや、その他検体データを確認することができるのです。つまり、過去に会ったことがあるその子だとはっきりさせられるのです」

「つまり、リュウセイという子について、特定できたも同然、と――」

「あるいは、そうかもしれません。が、まだはっきりとは分かりません。ともかく、この用紙がその頁に挟まれていたんですよね?」

「間違いないですわ。ここに、それはありました」

 夫人は興奮混じりに、勢いよく言った。

 ここにきて、ようやく確かなものを掴んだと、瀧本はこの時確信していた。じわじわとながら喜びの感情が湧き起こってくる。が、それを吐き出せない状況にいることを、忘れてはいけなかった。表面上は穏やかながら、ミューラーの喪は夫人の中で続いているのだ。

 何より、本郷との絆をまだ証明したわけではないのだった。瀧本はこういう時こそ、理性的にならなければいけないと、自分に言い聞かせ続けた。

 

     2

 

 その日の夜遅くになって、ようやく瀧本の気持ちが落ちついてきた。一先ず疲れを清算するそのために仮眠を取ろうと思ったのだが、ホテルのシングルベッドは窮屈すぎてそれがうまくできないのだった。代わりに、ルームサービスを頼み、シャンパンで気を紛らわすことにした。

 自宅番号を押した携帯を耳に当て、深呼吸する。相手は、かなめだ。接続音に海を渡る特殊な音が混じっていた。繋がると瀧本は真っ先に言った。

「僕だよ、分かるかい?」

「もちろん、分かるわ。あなたの声ですもの。いま、どこにいるの?」

 かなめの声がいつもよりも小さく聞こえていた。

「ニューヨーク郊外にある、小さなビジネスホテルだよ」

「あなた、いまニューヨークまで来ているの?」

「ちょっと事情があってね……。というより、通信代がもったいないからこっちのリードで話を進めさせてもらうよ。いま、大事な情報をキャッチしたんだ。それで、これから日本に帰る前に君にやってもらいたいことがあるんだ――」

 瀧本はこれまでの経緯を簡潔に説明してから、ミューラーの存在と、行き合った死を伝え、その上で、ミューラー夫人から今後の手掛かりとなるメモ用紙を預かったことを言い伝えた。そして、かなめへの依頼内容を告げる。それとは、メモ用紙に書かれた認識番号について調べてもらうことだ。瀧本は一先ず番号を読み上げ、かなめにメモを取らせた。

「〝リュウセイ〟――それが、対象の子の名前らしい。品種がなんなのかはまだ分からない。だから、大部分はそちらの裁量で調べてもらって結構だよ。それでなんだけど、ここで一つ約束をしてもらいたいんだ。それとは、仮に情報先が見つかったとしても、僕がそちらに向かうまで手を出さないで欲しいということ」

「分かったわ」

 と、かなめは言った。

「手を出さないでおく。情報だけを調べればいいんでしょ。ちゃんとあなたが帰ってくるまで大人しく待っているわ」

「そうか、だったら頼んだよ。……と、例の研修生のほうはどうなっているのだろうか?」

 瀧本が気に掛けているのは、リハビリテーションの研修として居残っている小鈴のことだった。矢庭が抜けたその後、研修は中途打ち切りという形で、瀧本が取り止めた。ところが小鈴だけが居残りを希望してきたのだった。研修で給餌行為の基礎技術を体得しただけに、彼女に単身続行してもらうことは瀧本にとっても有難いことだった。アメリカにまで出てこられたのは、じつは保護ネットワークからの獣医派遣という支援よりも先に、彼女の全面的なサポートを取り付けてのことなのだった。

「ちゃんと、やっているわ」

 と、責任者役を請け負っているかなめが声を朗らかにして言う。

「朝も自分で起きてくるし、時間があれば定期的にながらモニタールームを通して、患者さんは元よりフクロウの雛をもちゃんと観察してくれているみたい。後者に至っては、本物の親のようよ。ちょっと様子がおかしいときも、自分だけで解決しようとしないところもいいわね。あ、大丈夫、こういうのはわたしと二人で済む範囲内のことだから……」

 かなめがふうっと、わざと送話口に吹き掛けるような息をつく。

「安心していいんじゃない? 彼女ならこの仕事向いているわね。というより、すでにスタッフをやっている子なのよね? あの調子でいてくれるなら、現場に戻っても仕事のパートが増えたところで問題なく即戦力で働けると思うわ。あとね、これは関係ないことかもしれないけれど、家のこともやってもらってる。とくに開ね。あの子、娘とも相性がいいみたいなの」

 もはや家族として定着しているとまで言っていいのかもしれなかった。瀧本は心が温かになるのを感じていた。自然と口許に笑みが浮かぶ。

「彼女の持ち前の母性は僕も知っているよ。あの子は、いい子だ」

「そうね」

「このまま仕事を預けてもらって結構だけど、頼りすぎるのは良くない。だから、そこの判断を誤らないように」

「分かっているわ。というより、あなた誰にそれを言っているのか、ちゃんと理解しているのかしらね?」

 瀧本は尻込みする。

「もちろん、分かっているさ……、君の存在の大きさは忘れていないよ。今回も充分、助けてもらった」

「ううん、まだこれからよ。わたし、頼まれた件、徹底して調べてあげるから」

「それだけは間違いなく頼んだよ」

「それじゃ、あなたも気をつけて帰ってきて」

 通話を切るボタンをそっと押した。瀧本はシャンパンの残りをグラスに注いで、カーテンの掛けられていない窓辺を見やった。昼間に見たニューヨークの光景とはまるで別物を見ているようだった。色の異なるライトアップが、夜の装いとして各ビルを照らしつけている。見納めとして目に焼き付けておくには、絶好の景色だった。

 二杯目を飲んだところで眠気が降りてきたので、瀧本は逆らわず受け入れた。

 翌朝になっても、眠たいような懈いようなそんな不調が続いた。が、日本へ向かう長距離移動に挑む身としては、都合のいい体調というものなのかもしれなかった。

 搭乗した後は、体力調整していくことを念頭にシートに深く沈み込み、ひたすら飛行旅の惰性的な時間と付き合うこととなった。

 

     3

 

 釧路空港に足をつけた頃には、体調はすっかり快復していた。が、疲れの方は溜まっていて、節々に痛みが残っていた。

 英気を養う弾みとして、売店で栄養ドリンクを二本買って、その場で飲み干した。タクシーを使い、自宅の病院まで向かう。キャリーバッグ一つ以外、ほとんど荷物などなかったから気だけは楽な方でいた。

 三十分もすると、動物病院に到着した。

 瀧本は支払いを済ませるなり、正面玄関から中に立ち入った。真っ暗な診察室の電気を付け、モニタールームに入る。

 まず入院中の患者と、育雛ケージ内のシマフクロウが健康なことを確認する。問題なかった。患者は順調に回復し、シマフクロウの雛は健やかに成長している。ほっとした。本音を言うと、アメリカ滞在中に何かあったりするのではないかと気が気でなかった。申告通りかなめも、小鈴も一生懸命やってくれたようだ。そのことが確かにながら認められた。

 その時、モニタールームの扉が開かれた。出てきたのは、寝間着姿のかなめだった。開を抱っこしている。

「あなた、いま帰ってきたのね」

「いま、着いたばかりだ」

 と、瀧本は返してから、寝ている開の頬をつんつんと突いた。相変わらず見事な弾力だった。そして、少しのことでは動じない堂々とした熟睡ぶりに、いつものことながら感心する。

「そうそう、頼んでおいた件、どうなったんだろう?」

 瀧本は顔を引き締めて問いかけた。空港待機時間も含め、二日の移動となっていただけに、随分と時間が流れていたように感じられていた。

「それが」

 と、かなめは珍しく鼻白んだ顔を見せる。

「残念な結果になったわ。該当の認識番号なんてなかったの……」

「嘘だろう?」

 と、瀧本はモニタールーム内のPCを起動させて言った。過去の診察歴を登録したデータベースにアクセスし、検索欄にそらで覚えた認識番号を打ちこんでいく。リターンキーを押すと呆気なく、『該当の番号は存在しません』――と弾き返される。かなめの言う通りだった。今回探し当てた情報は、データベースには登録されていないもののようだ。あれこれ操作しても結果は同じだった。モニターを見つめたまま、瀧本はしばらく動けなくなった。

 いや、と思い直す。

 あのメモ用紙がニセモノだったはずがない。あれは、確かにこれだと直感が得られるだけの、信頼度の高い重要な情報のはずだった。何かが間違っているだけだ。その手違いはこちらにこそ、ある。

「もしや、鳥獣の種類を間違っていたとかそういうことなのだろうか?」

 ミューラー夫人から天然記念物の線を無闇に否定してはならないのだと指摘されたことがなんとなく思い出され、コードをちょっとだけ変えて検索の再挑戦をする。が、やはりエラー音が聞こえてくるだけだった。

「駄目よ」

 と、かなめが言う。

「わたしが同じような事を考えて何度もやったんだから。一般の鳥獣カルテは元より、海ワシ類を含めた天然記念物たちのカルテデータにも何度も挑戦してみた。見事にぜんぶ駄目だったわ。どれも引っ掛からなかった……。その他の予備分というか、急患データも確認したけれどこれも駄目だった。もしかしたら取りこぼしがあるんじゃないかって思って、今度は本郷先生の遺した段ボール内のカルテを一つずつ見ていったけれどこれまた駄目だったの」

 完全な行き詰まりだ。

 要領のいいかなめのことだ。捜索はかなり合理的なやり方だったはずだ。それを必死になってやっても成果が出せなかったというのだから、ここは通常のやり口はすべてシャットアウトされた状態にあると言っていいはずだった。

「どうすればいいんだ……」

 と、瀧本は思わず独りでに唸った。また思いつきで浮かんだやり口を試みるも、エラー音で拒否を食らう。

「それって、うちの病院の認識番号じゃないのではないかしら? あるいは別の所の、カルテデータを管理する認識番号だったとか……」

 と、かなめが開をあやしながらなんとなく言う。二人の声が少しずつ大きくなり始めているらしかった。開の反応が少しずつ目覚めに引き寄せられつつあるようだった。

「いや、そんなはずはない。認識番号自体本郷先生が作ったものだから、その可能性はないんだ」

「調べてみないと分からないじゃない」

 と、彼女が興奮して言うと、とうとう開がぐずつきはじめた。慌ててあやす動きに入った。それでも収まってくれず、彼女は開だけに懸命になった。やがて目顔を示すなり母親口調で言った。

「開を寝かしつけてくるわ。ちょっと、いま起きられたら困るから」

 彼女がばたばたと慌ただしく去っていくと、静けさが広がった。

 一人になったところで、アメリカから持ち帰ったメモ用紙をライトの下に晒し、じっと見つめる。そこに書かれてある認識番号の正体を何としてでも突き止めなければいけなかった。

〝リュウセイ〟とは何者なのか――

 日本で生まれ、本郷の診察を受けた一羽の鳥獣であることはもう間違いない。その一羽は登録データそのものが抹消されたように、本郷の世代から情報を蓄積しているデータベースには存在を確認することはできなかった。

 となれば、かなめが述べたように他の病院が設けた認識番号だったというのだろうか。その場合、また別のシステム内の患者データということになってくるから、本郷が使用していた認識番号の様式と重なることはどうしても考えにくい。もし、この二つが繋がるというのならば、第三者機関が本郷が作ったシステムをまるごと買い取り、同じように運営していたということになってくる。

 そうだったとしたら、本郷はなぜそうしたシステムを輸出した相手の患者を引き取り、なおかつ複雑な手続きを経てアメリカ方式で遺産を相続させたというのだろうか。まるで整合性がつかなくなってくる。やはり、リュウセイは本郷のかつての患者という直截的なつながりがあったほうが望ましかった。

 この時、瀧本の思考が途切れ途切れになっていた。いい加減疲れが溜まっていたのだった。栄養ドリンクなどで体調を無理に整えたところで限界があった。

 ほんの一瞬の油断だった。すっと瞼の上から滑り込んできた眠気に囚われ、そこから一気に意識が吸い取られるように眠ってしまった。

 

 翌朝、目覚めたのはいつもの起床時間だった。

 顔を洗ってから、歯を磨いた。屋外に設置された、入院ケージが覗ける窓からは小鈴が野外施設へと向かって歩いて行く姿が見えていた。瀧本は後を追うべく外に出た。

 追いついたとき、小鈴は入院ケージ内の、オオワシの監視をしているところだった。

「ずいぶんと念入りのチェックだね」

 と、瀧本が声を掛けると、小鈴が振り返って、あ、と洩らした。

「瀧本先生、いま起きられたんですね。昨日、帰られた事は奥様から伺って知っていたんですが、昨晩は、なんだかちょっと遠慮してしまいました。……とりあえず、長旅、お疲れさまでした」

「君こそ、お疲れさま。いい仕事をしてくれていると、妻から伺っているよ。たかがリハビリといえど、見張るだけじゃ駄目なんだ。そして構い過ぎても駄目。こういう仕事は、忍耐と経験こそが大事なんだ。君は、すでにそれを持ち合わせているようだ」

「まだまだです」

 と、彼女は笑顔を作りこそはしたが、自信なさげに言った。

「個々の患者さんたちの気持ちというやつが、掌握できていません。何をしてもらいたいのか、何をするべきなのか。もっと、早くに気持ちが通じ合うようになれればいいのですが、わたしはどうしてもそこまで迫れないようです」

「野性だからね。何かをしてもらいたいなどとは考えていないさ」

 と、瀧本は入院ケージの網前に立って言う。オオワシは近くにいる事を察していてもリラックスをした状態を保っている。

「迷った時は、感情的なものを空にすればいい。生理的な欲求こそが第一で彼らは生きている。だから、身体の反応に正直な行動だけを取る。もちろん脳はあるから計算的な行動もする。給餌だって、何曜日にどういう餌を出すのかパターンを覚えてしまう場合がある。すると、どうなるか。美味しいものが出てくるまでハンストを開始するんだ。そういうのは、いけない。野性の心を取り返す仕掛けをやってやらなければいけない」

「つまり、どうするんですか?」

「突き放していいさ。荒療治かもしれないが、自然というのはもっと厳しい。下手をすれば餓死寸前まで空腹にさらされることもある。常に生死の掛かった、サバイバーであることを忘れさせたら駄目なんだ」

「その子についてなんですが、一応、野性に帰るという精神だけは強く持っているようです。というのも、ケージ近くまで飛んできた野鳥たちに強く反応するんです。時には落ち着かないぐらいに翼をばたつかせたり、と……」

「なら、このままでいいのかもね」

 と、瀧本はオオワシの背中を見つめながら言った。

「あとは、放任で行こう。君が今やるべきことは、情を断つことだ。これは難しいことだとは思うけれど、やはり猛禽のためにも体得しているのが望ましい。しばらくこの子から離れ、自由にさせよう。給餌は落ち着くまでストップさせる」

「いいんですか……?」

「君が決めることだ。ここには、フライングケージなどはない。だから、保護センターの方に預け、本格的なリハビリ訓練に移行するまであと少しの付き合いだ。その短い期間の裁量を、君に任せる。最後の仕上げというやつさ。どうするんだい? 給餌をするのか、それとも断つのか……?」

「反応を見てからにします。一概に給餌をストップさせるのは、なんだか納得できませんから」

「だったら、それでいい。君の判断にすべてを委ねるとする」

「御信用くださり、ありがとうございます。なんとか、このチャンスで掴めていないことの答えを出して見ようと思います」

 小鈴の顔は、自信を取り戻していた。救護を意識しすぎて過保護になってしまっていたのだろう。この手の職業にはよくある障壁だった。それを自覚した彼女は、もう迷わない。今後、野性を意識した駆け引きをしてくれるはずだ。すでに、最善の選択をしてくれるであろう事が、この時点で確信できた。

 瀧本が踵を返し、彼女の元から離れた時、先生と声が掛かった。

 振り返ると、彼女は強い眼差しを寄越してきていた。

「アメリカの件がどうなったのか、教えて下さい」

「僕の家内の方から聞かなかったのかい?」

 瀧本は一拍遅れて言った。 

 小鈴の目が焦れったそうに横にそれた。

「先生から聞きたいと思って、聞かないままでいました。先生がアメリカで情報を求めて回っている間、ずっと我慢してきたんです。面倒ですが、わたしにも話していただけないでしょうか」

 なんとなくこれと同じ状況に覚えがあった。そうだ、と思い至る。麻酔実習に出かけていって二人きりになった時の事だった。その時も彼女は、このように好奇心を発揮してきた。性分的に、そうした事を放っておくことができないのだろう。

 もしかしたら、彼女のオオワシへの過保護はちょっとしたストレス行動ということもあるのかもしれなかった。

 やれやれと思いつつ、瀧本は小鈴に一から順を追ってアメリカでやってきたことの中身を話していった。小鈴の関心事は、やはり本郷が遺産を託した、〝リュウセイ〟に向けられていた。しかし、その正体がまだ掴めていないのだと知ると、途端に悲しそうな顔をした。

「それでも、前進はしているはずなんだ」

 と、瀧本は勢い込んで言った。

「何もないわけではない。だから、解決策はすぐ手前に転がっているはずなんだ。あと少しのひねりだけが必要なのだと思う。それさえあれば、僕は答えを得られる。リュウセイの正体を突き止めることができる――」

 こうも強がりの感情が出張ってしまうのは、アメリカまで出て行って掴みかけたものを逃したくないという感情が強くあるからだろう。瀧本も自分の中で大きくなってきている意地の感情について、ある程度自覚していた。

「登録抹消されたデータの存在……」

 と、小鈴が思案顔のままにつぶやいた。ちら、と見やったのは彼女が担当しているオオワシだ。

「ちょっと、話を聞いていて思ったんですけれど、今回のこの子は例えば関連ネットワークのうちのシステムが違うところに移動することになりましたら、管理していますデータごと移籍することになってしまうのでしょうか?」

 小鈴のさり気ない疑問は、瀧本に強い閃きを与えるようなヒントを含んでいた。それは、移籍というワードだ。そうなのだ、移籍……。これこそが瀧本が探していたもののはずだった。単語を耳にした時、頭でかちりと何かがはまる感触があった。

「ネットワーク内にシステムが違うところは存在しないし、システムが違うところにリハビリの続きを依頼することもない。……だけど、小鈴くん。君の発想は間違っていないよ。いま、素晴らしくいいことを教えてくれた!」

「え――」

「いや、これはこっちの話だから気にしないで」

 瀧本は大慌てで診察室に飛び込んだ。そして、閃きの続きを思案する。

 移籍――

 本郷が診察した履歴を持った患者が別の所に預けられ、そちらで保護される形を取る。この場合、その選択をすることの理由が説明されなければいけなかった。獣医には預かった動物の診察を最後まで請け負う義務と、責任がある。そしてこうした事は何より、医者としての沽券にも関わってくることでもあるのだった。

 理由の一つ目に挙げられるのは、重くそして特殊な病気に罹った場合。二つ目は、鳥インフルエンザなどの流行病が流行した場合の特殊保護――これは、天然記念物などを含む希少種の品種保護だ。三つ目は、医者が何らかの形で治療を放棄しなければいけない事情にさらされた場合。             

 四つ目は――……。

 瀧本は唸りながら思案を練りつづける。

 なぜかしら無意識にながら、玄関口経由で外に出、ケージの方に向かっていた。リハビリケージの中にいるのは、鉛中毒に罹ったオオワシだ。給餌されたものに手を付けていない。見た目の健康的なあり様とは違って、神経質な性質の改善は進んでいなかった。これは、病による結果なのだろう。

 瀧本は屈み込んで、オオワシと対峙した。

 ぷい、とそっぽを向く無愛想さ加減は相変わらずだった。しかし、その態度について、瀧本は今回ばかりは好意的に受け止められなかった。

 この子は、すでに野性へ帰っていく力が失われてしまっている。おそらくリリースをしたところで、野性として生きていくたくましさを発揮することはできないだろう。ほんの少しの油断で命を落とす世界だ。危険な真似だけはさせられなかった。

 瀧本は移動して、もう一度ケージ越しにオオワシと面と向き合った。すると警戒心を訴えるように、翼をばたつかせはじめた。

 こういう時だけは、しっかりと本能に倣った行動を取る。まるで、自分は健全なのだと訴えるようであって、なんだか涙ぐましくさえも映って見える。しかし、それでも瀧本の意思が揺さぶられるようなことはない。

「安心しろよ。まだ、望みがあるかもしれないから」

 瀧本は語りかけた。オオワシは興味なさそうに景色の向こう側に見えているものを注視している。

 そっと立ち上がり、瀧本はケージを離れた。そして携帯電話を握る。掛ける先は、中友だった。アメリカに出国する前に一度連絡していたから、彼の方も現況はすでに分かっている。

「やあ、君か」

 掛かるなり、瀧本が真っ先に言った。

「今日、帰ってこられたんですね。詳しい話を……と、いきたいところですが、どうもこのタイミングでの電話は、訳ありのようにも思えます」

「ふむ、実はそうなんだよ。また、手助けしてもらいたいと思ってね。聞いてもらえないだろうか」

「はい、今度は、どのような手助けをお求めなのでしょうか?」

「君の職員IDで、関連のデータベースにアクセスしてもらいたい。是非に調べてもらいたい患者識別&認識番号があるんだ。これは、ニューヨークで手に入れたものなんだよ」

 瀧本はアメリカであったことの経緯を彼に話していった。そして、そのことと合わせて、渡米についての本旨を打ち明けていく。もちろん本郷の遺産相続相手の特定といった要点にも言及していく。すべてが円満に解決するアイテムとしてミューラーが遺したメモ用紙の存在を知らせる。瀧本はその番号を彼に伝えた。

 なるほど、と中友は筆記音を立てながら相槌を打つ。

「この番号を調べれば特定できるというわけなんですね?」

「それが、ノーマルな検索のやり方じゃ駄目なんだ。伝えた認識番号は本郷先生がかつて使用していたものなんだけど、すでに抹消されている。なぜ、抹消されたのか――その理由は、どこぞの施設に移籍されたからだ。その施設というのは、保護ネットワークの外側にある施設だと思われるんだけど、一方でそうした施設を運営しているのは、我らの元関係者であった人間だったのではないかと思っているんだ」

 すると、中友が引き継ぐように言った。

「抹消された認識番号の追跡ができればそれが一番に違いないと思っているのでしょうが、しかしそれは厳しいのだと瀧本さんは思っている。だから、抹消されたデータの期日と合わせて、ネットワーク内から登録抹消された人を割り出して欲しいと思っている……。

ぼくのIDを使って調べて欲しいと述べたのは、データベースとは別の、人事部のデータを当てにしたからでしょう。ヒントは二つの件のそれぞれの期日ですね。ぴったり一致していれば言うことないんでしょうが、それはまずないのだとして、まあ近いものを探し出す、と」

「よく分かっているね。ま、IDを使っての捜査と聞けばだいたい限られるから、あえて説明するまでのことでもなかったのかもしれないね。それで、できるのだろうか……?」

「やることは分かっているんですから、できないことはないでしょう」

 と、中友は妙に余裕を覗かせた口調で言う。

「ともかく、やってみましょう。身内にデータを閲覧していることが知られたらちょっとまずいことにはなりそうなんですが、一応問題行為には觝触しないはずです。ただ、ちょっとここで条件をつけたいんですが、いいでしょうか?」

「条件? 何のだろう?」

「こちらのほうに、瀧本さんが直截来て欲しいということですよ。データ追跡にあたって、いろいろ話し合わなければいけないこともあるでしょうし、近くにいてもらった方が何かと都合がいいのです」

 何かちょっとした裏がありそうだ、と瀧本は感じていた。これまでの付き合いからして、その答えは少し考えればすぐに分かることだった。

「分かった。君は、仕事を手伝ってくれとそう言っているんだね?」

「さすが、瀧本さん。その通りです。こっちも仕事が詰まっていまして、どうもその手の作業を手伝えそうにないのです。ここは、是非とも応援を頂き、余裕が欲しいところなんです……」

 瀧本は掛け時計を見た。まだ朝の早い時刻だ。充分、出て行けると思った。

「それだったら、すぐにでもそっちに行くとするよ」

「こんなにもあっさりと承諾していただけるとは思っていませんでしたよ、本当によろしかったのです?」

 と、中友からの返しはへりくだっていながらも、明るい声をしていた。

「こっちも忙しい身だが、さいわいというかネットワークの方から手助けを得られていて、今のところ調整できる段階にある。……だいいち、さっき埋め合わせをすると言ったばかりだろうに。この際、喜んでやってやるさ」

「なら、今すぐきてください。お待ちしておりますから」

 契約成立だ――

 瀧本は受話器を下ろしてから出かける身支度を調えに掛かった。机の上に何となく横たわっていたバングルを見つめる。瀧本は握って、ポケットに突っ込んだ。お守りが必要だと思っていた。

 

     4

 

 みなぎる意気とは裏腹に、その日の中友の勤務する施設は急患がまったく無く、給餌などの監視を代役すればいいだけだった。昼過ぎになって、PCに掛かりきりになっていた中友から答えが出たと報告を受けた。彼は問題の人物についてのメモを瀧本に手渡してきた。中標津町内にある、公的な施設に所属しているようだ。

 藤園晃久――

 施設の責任者でもあるこの男の名前は、どこかで聞いたようなことが気がするのだったが、直截には会ったことはないはずだった。

「この人が所属しているこれは、具体的に何をやっている施設なのだろうか?」

 瀧本の問いに、中友は無言で首を振った。

「分かりません。うちらから見て外部の施設ですから、データベースには掲載されていません情報です。ただ、我が方の関連施設の元職員だったわけですから、その筋の施設であることは間違いないでしょうね」

「それで、この藤園とかいう人が抹消された理由はなんなのだろうか? あと、今現在の年齢も知っておきたいところだよ」

「理由は、単純に定年ですね。再雇用云々の話は辞退をしているようです。これについて言えば、独立した施設を立ち上げるそのために、自主的に辞退したとかそういうことではないでしょうか? 年齢につきましては、本郷先生と同期と申し上げれば、分かりやすいでしょうか?」

「本郷先生と同期か。つまり、現在……六十八歳」

「それぐらいですね。そもそも抹消情報ですから、残っている分を拾っても誕生日換算の年齢欄が空白になっていることから、ぱっとすぐには出ないんですよ」

 本郷と同期という点に瀧本は、確信を覚えていた。間違いなく彼こそが、リュウセイを預かっている人物に違いなかった。

「いまから、ぼくと一緒にそちらに向かいましょうか?」

 と、中友が車のキーを示して言う。

「ここまで乗り掛かった船ですから、ぼくも興味が湧いてきました。是非に一緒に行くことを許していただきたいものです」

「構わないさ。というより、君にも来てもらった方がいいだろう。向こうも、ネットワークという大きな図式で見れば君のOBでもあるわけだしね、決して無関係ではない」

「では、車に乗って下さい。すぐに出ますから」

 瀧本たちは専用の公用車に乗り、中標津町郊外まで向かった。

 

 農園と牧場が一緒になったようなところだった。古びたサイロは使用されていないらしく、倉庫代わりに使用されている。広い面積が取られている木柵は獣の臭いと毛玉を残したまま、動物の影がなくなっていた。

 家はすぐ裏の林に呑み込まれるかのように、ほとんど茂みの中に隠されていた。しかし進むほどに、ちゃんと人が通れる道が確保されているのだと分かった。そして、鳥を飼うケージがその奥手にしっかりと設置されているのを見た。十メートル四方の金網に囲まれた本格的なケージ。その中に、リュウセイがいるのだと思うと、瀧本は思わず夢中で歩が進んだ。

 その途中で、声が掛かった。

「どちら様です?」

 むっつりとした顔の男が背後に立っていた。日焼けした肌に脂ぎった光沢が認められる、生粋の農家といったような風体の男。角膜は黄色く濁っていて、瞳も白濁しがちだった。

「藤園さんですね? 藤園晃久さん……」

 瀧本は落ちついて彼に語りかけた。

 彼はしばらく黙って見返していた。

「私に何か用があると見える。もしかして、仕事の依頼人なのだろうか……?」

 何やら取っつきにくいほどに固い調子があった。しかも目が細められているので、警戒されているようにも感じられた。瀧本は病院から持ってきたバングルを取りだし、自分の手首にそれをはめた。

「これを見れば、分かりますでしょうか? 本郷先生からいただいたものです。そうです、僕らは先生の最後の遺品を探しに来たのです」

「…………」

 藤園の目はぴくりとも動かないまま、瀧本を凝視していた。やがて、しみじみとした口調で言った。

「とうとう、こういう日がやってきたというわけだ。いつかは来るのだと思っていましたが、まさかこんなに早いとは。……まあ、いいでしょう。こちらについてきてください」

 藤園は踵を返すなり、藪の奥まで続くS字にうねった道に進んでいく。それを過ぎるとコナラで区切られた細い道となった。瀧本たちは足下に配慮しながら、彼の背中を淡々と追った。獣くさい臭いが強まっていく。ほとんどジャングルのような呈になってきたところで、草むらに紛れる格好で新たなステンレス製のケージが現れた。屋根が付いていて、ケージの奥はガラス張りの小屋と繋がっている。中の鳥がそちらまで飛んでいけば、ほとんど室内にいるような環境で休むことができるはずだった。

 しかし一羽の大人しい鳥獣は、エリア内の外側に面する止まり木の上にいた。瀧本たちが立っている場所からすぐ斜め上に位置する場所だ。あまりにも大人しいので、中友に指摘されるまでまるで気がつかなかった。

 白い羽毛。ふんわりと達磨のように膨らんだ体格。マスクを装着して作ったような、端正な顔貌。オレンジ色の瞳に、猛禽の影が潜んでいた。シマフクロウだ。

「あなた方が探していたのは、この子でしょう?」

 と、シマフクロウにケージ越しに向かい合ったまま、藤園は言った。

「すると、彼が、〝リュウセイ〟ですか?」

 と、瀧本が藤園に近づいて、問う。

「そうですよ。〝リュウセイ〟です。そういう名前がつけられています。本郷くんが大事にしていた子供というべき、元患者さんですよ。いま、私が預かっています。いえ、この先もずっと私が世話をすることになっているんですよ……」

 感情の薄い目が少しさまよった後、リュウセイに固定された。漫然とながら、見つめに掛かる。

「となると、藤園さん……。あなたがこの子の法定上の手続きで言います世話人を務めていらっしゃるというわけなんですね?」

 こくり、と藤園の首が垂れる。

「世話人ですよ」

 つまり、彼こそがリュウセイ死後の、本郷の遺産の相続人ということになるのだ。

 予想していたよりも、ずっと地味な人物だった。いや、本郷が依頼する相手といえば、彼のような人物こそが相応しいというべきなのかもしれなかった。どことなく本郷とうまく付き合えそうな、似通った気質が感じられるのだった。

「あなたは、私が相続人であることを問い詰めたいのでしょう?」

 と、再度振り返った藤園の目は固い調子があった。

「残念ですがね、遺産について独り占めをしたいとかそういう欲はまったくありませんよ。というよりも、独り占めできないようなシステムがちゃんと組まれているのです。管財人が別にいて、その人と相互監査するようになっているんです。まったく、そんなものは必要ないというのに、本郷のやつはそういうことだけはやたらと几帳面で、困る」

 愚痴に近い言葉なのだったが、顔の機微に不満そうな色が混じっているわけでもなかった。

 彼が自分で述べた、欲がないというのは、見た目の印象からしても正しそうだった。ストイックに生活していることの節が、彼の全身によく現れているのだ。もしかしたら、日灼けもその一種というべきものなのかもしれなかった。規律正しい、健全な農家の生活。それを厳格に守っている人間ほど、肌色にその様が現れることがあった。

「あと私は、この子の後継を育てています」

 と、藤園は言った。

「その子は、ここにはいませんから紹介できませんが、ちゃんと健康に過ごしています。仮に、リュウセイが鬼籍に入るようなことがありますと、私に遺産が相続され、その後私が育てているその後継に襷を渡すことになります。ここまで言っている意味、わかりますね?」

 瀧本はうなずいた。

「後継が、すべての遺産管理責任者というような役を請け負うのですね? もっとも動物だけに自主的に行動はできないでしょうから、表向きは藤園さんが管理をするという形を取るのでしょうが……」

「そうなります」

 と、彼は顎を引いて言った。

「そうやって、代々引き継がれていくんです。すべての終焉は遺産が尽きたその時でしょうが、こういうのはちゃんと篤志家がいて、応援してくれるんですよ。ですから管理者の情熱がある限り、尽きることなく、ほとんど半永久的に持続するようなことになると思いますよ。あと、管理者の欲の問題ということもありますか。私欲。こういうのが少しでもあれば、すぐ信頼を失って、駄目になるのだと思います。もちろん、私だけの話ではなくって、私を取り巻く周囲の人間にも求められることでしょうが」

 今のところ、そのような人間は一人としていないのだという。なお、藤園が人との関係を極力拒んでいるのは、そうしたことに巻き込まれることを嫌ってのことということであった。人との繋がりが薄ければ、無難にやっていける――彼はそういう考えの持ち主のようだった。

「ですが、そういうことはずっと先の話というものです。いまは、私らの時代であって、リュウセイの時代です。まだやるべきことがたくさんあるのです」

「リュウセイがやるべきこと、というのはなんでしょうか?」

 中友が割り込んで問うた。

「彼の顔を見て、何か分かりませんか?」

 と、藤園が焦らして言う。

 三人の注目の的となったリュウセイはけろりとした顔で昼の一時を漫然と過ごしている。このまま眠りそうな勢いだ。

「分かりませんが……」

 と、中友が呆気なく折れると、藤園は肩で息をついて、道のさらなる奥手にあった、プレハブ小屋を指差した。鉄屑となった農耕機の車輪などが折り重なったその場所を指しているように見えたが、彼が示しているのはその奥手にある小屋の壁に貼られていたポスターだった。

「あれが、見えますでしょうか? フクロウの写真です」

「ええ、見えます……。あの手のものは、ぼくが勤務するセンターのロビーにも貼ってあるものですよ。ですから、よく見かけるものではあります」

 二十メートルは離れたところにあったので、中友は何度も目を細めたり開いたりを繰り返していた。一方で瀧本にはしっかり見えていた。ポスターの中の一羽は疑いもなくシマフクロウで、〝リュウセイ〟その子なのだと思われた。まん丸の目と、オレンジの虹彩のセットが特に、はっきりそうだと言える特徴をしていた。

「いま、目の前にいるリュウセイ……その子が、写っているんですね……」

 と、瀧本は止まり木に止まっているフクロウを見上げながら言った。

「お分かりいただけたようで。その通りです。ここまで理解してもらえれば、後の説明は不要でしょう? そうなんです、リュウセイには職業があります。それは、タレントというやつですよ」

「タレント……リュウセイは、タレントだったんですか?」

 中友が呆けた口で言う。

「そういうことです。タレントなんです。その子が写ったポスターは何枚か種類があるんですが、向こうにあるのはそのうちの一枚の、北海道警察公認の防犯ポスターです。マスコットをやっているということでいいでしょう。一応、防犯課の職員名簿にも仮登録されています」

「マスコット……」

 中友の声はすっかり裏返っていた。無理もなかった。これは瀧本にも驚きというべき展開だった。シマフクロウなんかがタレントをやるといった発想など、どうあっても瀧本からは出てきそうにない。まず、抵抗感から払拭しなければいけなかった。

 それにしても、夢中で追いかけたことの帰結がこうなるとは、瀧本にもまるで予想できないことだった。

 第一、リュウセイが天然記念物のシマフクロウだったということは、アメリカにまで連れていったのは、かなり面倒な手続きを経たということになってくるのだった。通常はあり得ないことを押していかなければいけない困難があったはずだろう。当然、それを成し遂げるには、並々ならぬ情熱がなければいけなかった。その事はアメリカにまで渡って関連の手続きを調べてきた、瀧本にはよく分かっていることだ。

 本郷にはそれがあったのだ。彼のリュウセイを守ろうとする庇護の念は、どこまでも本物だったということだ。

「これが、生き残る最後の手段なんですよ」

 と、藤園は低い口調でながら、しっかりと言った。

「この子たちは、これで生きていくしかないんです」

 これは本郷が用意した道ということだった。

 

     5

 

 釧路刑務所内の拘置所に、本郷貴子は拘留されていた。諸般の手続きが終えられ、あと少しで判決が出されるという時に瀧本は彼女と接触する機会を得た。

 ともに三畳の空間しかない、二つに隔てられた面会室。拘留者と面会人を区切るアクリル板は、思ったよりもずっと厚く、板の向こう側がやけに遠い世界のように感じられていた。ただ、思いの外明るさはあった。磨り硝子ながら中堅の窓が、隔てられた空間に一つずつ設けられ、採光が積極的になされているのだった。

 瀧本は息を詰めて貴子の来室をじっと待った。

 まもなく物音がして、ドアが開かれた。刑務官の引率の元、規定服に身を包んだ貴子が姿を現す。あらためて見つめる本郷の娘の顔容は健康的に均質で、それだけで美しいとまで感じられるぐらいのものだった。持ち前の凜とした強さも健在で、彼女の魅力を押し上げていた。鷹のように尖った目つきに、ハンターとしての矜恃が籠もっている。徳が備わっている人を前にしたような安心感があり、静かな佇まいなのに、そのことに抵抗感を感じさせなかった。

「お久しぶりです」

 と、正面向こうに座った貴子にしっかり対峙しつつ、瀧本から口を切った。

「…………」

 こくり、と頭を下げて僅かな反応を示した。返事はしなかったものの機嫌が悪いというわけでもなさそうだった。顔色がいいことから、健康的に過ごしていることだけは手に取るように分かった。瀧本はそれだけでほっとするものを感じた。

「気のせいかな……、肌が白くなったような?」

 瀧本は続けて声を掛けた。

「気のせいじゃないでしょうか?」

 と、貴子は少し遅れて答える。そっと、頬に手を当てた。

「元からこんな感じです。……わたしの調子のことで妙な気を遣ったりするのはよしてください。こういうのは関係ないことのはずでしょうから」

「気なんて遣っていないさ。正直なことを述べたまでだよ」

 上辺だけの会話がなんとなく続く。瀧本が気を引き寄せようとするも、彼女が素通りしていくような、そんな噛み合わないようなやり取り……。それでも貴子の顔に不愉快そうな面影が浮かぶというようなことはなかった。また瀧本に成果云々のことを促さないあたり、様子見に入っているという気配が強く感じられた。

「今日は、君に見せたいものがあるんだ」

 と、瀧本は写真を取りだし、アクリル板越しにそれを見せた。三枚の写真。いずれも〝リュウセイ〟が写ったもので、最近撮られたものだ。その内の一枚は、タレントとしての顔が分かる内容となっていた。

「見覚えがあるかい?」

 彼女は朗らかな調子を残したままにかぶりを振った。

「ちっとも、です」

「この子は、君が探していた子だよ。ずっと、追い掛け回していた……遺産の相続相手さ」

「その子が……」

 と、貴子は前にのめって写真に食い入った。感情はいたって冷めたままでいる。しかし、自身を追いつめた張本人ということもあって何も感じないというわけにはいかないようだった。眼の奥に、好奇と恐れがない交ぜになったものが微かにながら浮かんでいるのを、瀧本はしっかり感じ取っていた。それが表に形となって現れないうちに写真を重ね、懐に仕舞う。

「この子について説明しなければいけない」

 と、瀧本は改まった。

「その説明は、本郷先生が君に対して、曲がった感情がなかったことの証明ともなることは、先に言っておこう」

 貴子がうなずくと、後ろに綺麗にまとめていた結髪が少しだけ瀧本の目に顕わになった。

「写真の子は、〝リュウセイ〟という。本郷先生が名付けたものだ。この子の正体は何かというと、見ての通り天然記念物のシマフクロウなのだが、事情がある……。その事情というのは、まあ野性への馴化の失敗だ。本来の住処である自然に帰れなくなったんだよ。それで行き場がなくなってしまった子だったのさ。本郷先生は、そういう子を助けるつもりで基金を作り、その子名義の信託を作り、保護していこうとしたんだ。それが、複雑な相続の裏側だ」

「馴化の失敗……」

 と、貴子は呆けた口からそう洩らしていた。

「そう、馴化の失敗だ。野性になりきれなくなってしまったんだ。もちろんこういう場合、通常のシマフクロウとは区別されなければいけない。リュウセイは本郷先生が獣医として現役だった頃、いち患者として施設のほうに運ばれた。左目が眼球出血していた。夜遅くに獲物を狩るために飛翔していたその時、どこかの木か岩かに誤って衝突したのだろう。それで半身に怪我を負った。左目の負傷が最も大きく、視力の半分を失っていた……。衰弱していたところを、人に発見されたんだ。それで急患として施設のほうに運ばれた」

 貴子は口を閉じるなり、きゅっと結んだ。瀧本は言葉を継ぐ。

「担当となった本郷先生の救護は適確で、予定どおり快方に向かった。しかし、野生動物の場合、完治すればそれで終わりというわけにはいかないことは、獣医の資格を持っている君にはもう分かっているね?」

 彼女のうなずきを得る。

「野性の馴化、それが関門としてある。シマフクロウはそれにパスできなかった。人慣れしてしまったのか、あるいは野性に帰れないだけの精神的傷を負ってしまったのか、それは分からない。ともかく馴化は失敗してしまった。つまり、施設の関係者が面倒を見なければいけない子になってしまったんだ。そういう子は、やがて篤志家の手に渡るなり、天然記念物を研究している研究家の手に渡ったりするのだが、本郷先生はそうした道が一本しか開けていないことに疑問を感じていた。それで、自分が道を作ろうとなった。それが、タレントだったんだよ」

 貴子の目がゆっくりと細められていく。感じやすくなっていたのだろうか。顔から彼女特有の引き締まった感じが失われつつあった。

「つづけてください」

 と、驚いて見ていた瀧本を促す。うなずいて即座に応じた。

「しかし、自前の地道な活動を続けているうちに、重度の肝硬変に罹かっている事が分かった。闘病しなければいけなくなった。宣告された、余命一年のうちにどれぐらいできるか本人もチャレンジ精神でやるしかなかった。そうしたことに夢中で取り組んでいるうちに、身体が活性化するようなことがあったのだろうか。民間療法を試していたことも後押しして、肝臓機能の数値が正常化ラインを維持し、さらに寿命が延びていた。先生はそこであらたな方法を思いついた。自分が持っている遺産の一部を彼らに分け与えたい――まもなくプランを立て、実行に向けて着々と細部が決められていった。君に遺産のことを告げたのは、ちょうどその時だ」

「父は……」

 と、貴子がうつむいて口を切る。

「その時の父は、真っ直ぐな顔をしていたと思います。わたしは、それを逆に受け取ったのです。嫌っているわたしに、してやったりの感情があるに違いない、と……」

「それは誤った見方なのは、もう君には充分解ってくれているよね?」

 と、瀧本は彼女が見返していなくとも目に力を込めて言った。

「だいいち、先生はその時、すでに死を意識していた。だから、そんな歪んだことを考える余裕なんてなかったと思う。……ともかく、プランは組み上がった。渡米にあたって、まずやらなければいけなかったことは、リュウセイの一時預け先についてどうするのかということだ。さいわい、先生が選んだニューヨーク州には、ミューラーという仕事で通じた、心から信頼できる友人がいたんだ。彼こそが、すべてだった。その彼の紹介により、ほとんどスムーズに預け先が指定されることとなった」

「その人は……?」

「ミューラーさんのことだろうか? 彼はもういないよ。どういう因果か、本郷先生と同じ年に亡くなったんだ」

「それでは、預け先の人のほうは……?」

 と、彼女は間をおいてから、訊ねずにはいられないといった口調で言った。

 瀧本はゆっくりと首を振った。

「単なる篤志家だと思われる。どこの誰かも分からないんだ。ナチュラリストであることには違いないな。その人は、本郷先生の仕事をしっかり見ていたと思う。そして人柄を認めていた。だからこそ、無償で彼を手助けしようと思ったのだろう。そういう人間は、一人なんかではなく、無数存在していると、今回のアメリカの旅で判った。ここでは省略しなければいけないのが悔しい限りだけど、でもそうした人たちを突き動かしたのだって、つまるところ本郷先生の強い意思なんだ。そのことだけは、君に良く理解してもらいたい」

 彼女は静かにうなずいて口を結んだ。瀧本はさらにつづけに入った。

「時は経って、去年の暮れ頃、本郷先生は息を引き取られた。闘病生活六年目だったわけなのだが、それまでに先生が何をやっていたのかは分かるね? 国籍を取ったんだ。市民権を取得する試験をパスし、正規の意味でのアメリカ人になったんだ」

 瀧本は息を溜め込んだ。

「すべては、〝リュウセイ〟に相続させる、信託のためだ。もちろん、それはリュウセイのためだけに設立されたのではない。国内の野性馴化に失敗した子たち全体に向けたものでもある。〝リュウセイ〟はその象徴のような存在でしかないんだよ。野性馴化に失敗した鳥獣たち全員を先生は救う気でいたんだ。基金を積みたて、信託を設立したのは、そのためだったんだ。誰もがやれるようなことではない……そういう思いがあったんだろうな。だからこそ、私財のほとんどを注ぎ込むことを惜しまなかった」

 瀧本のところにも鉛中毒に罹かり、すでに野性への馴化ができないであろうオオワシがいる。その子はやがて施設に引き取られ、さらに保護してくれる第三者の手の元へと送り出されていくのだったが、それは保護ではなく、扶養という形で送り出されていくに近かった。その子の将来が別に開けているのだとすれば、瀧本としてもこんなに嬉しいことはなかった。本郷がやろうとしていることは、可能性を広げる素晴らしいことだった。

 貴子の口が悔しそうに歪みはじめた。

「なんで、こんな大事な事を父は話してくれなかったというのかしら……。わたしのことを信用できないからだと思うけれど、それにしても――」

「誰にも頼りたくないというのはあったと思う」

 と、瀧本は諭すように言った。

「信用できる仲間筋だけでやってこれが成し遂げられなければ、ある意味守ろうとしている鳥獣たちのその後も保障してやることができないとでも考えていたのではないか。あと、自分が納得してやりたいということもあったのだと思う。先生はこだわりが強い人だったからね。結果、最後に迎えた死は、極めて孤独なものだったようだ。これは残された日々の多くを人間ではなく、鳥獣たちと付き合ってきた結果だろうことは承知の通りだよ……」

 瀧本にも辛いものが胸に込み上げてきた。が、耐えた。こんな所で自分が情に振り回されるようなことがあってはならない。

「滞在期間、五年という歳月がありながら、友人はミューラーさんだけだった。しかし、だからといって向こうで大人しく過ごしていたかというと、それは違う。本郷先生はアメリカでもやっぱり、本郷先生だったよ。あちこちに投資を募って、金を集めていた。託す遺産を少しでも増やす仕事だ。これは、遺書の手続きを踏む際に追記でつづられた内容が示していることだ。追記には、残余条項という一項目があった。遺書を書いた以降にあらたな財産形成があった場合の追加遺産の行方を決定するものだ」

「……それすら、父は、子供たちにいくよう指定したのですね?」

「そうなんだ。すべて〝リュウセイ〟名義の信託に、それは注ぎ込まれることになっていた。総額いくらになったかは、リュウセイの世話人をしている元同僚で、同じく獣医をしていた藤園さんという人が教えてくれた。……四十一億円だ」

 本郷はアメリカを奔走し回っていた。身体に鞭を打って、自分ができることを精一杯やり遂げようとしていた。四十一億円はその結晶ともいうべき額だった。彼の野生動物への思いが籠もっている。

「だから、決して孤独な死なんかじゃなかったはずだ。むしろ先生はやり遂げたことによる、充ち満ちた気持ちでいたのではないだろうか。むろん、これで終わってはいけない。僕らは、先生の意思を継ぐ必要がある。その〝僕ら〟の中には、当然君も含まれている。だから、君は早く帰ってくるべきなんだ。以前に僕が伝えた、ポストを空けて待っているというのは、冗談ではない。本当だ。是非とも、ここにいるあいだずっと検討しつづけてもらいたい。というより、僕はすでに君が来てくれるものだと思っているが」

 彼女は申し訳なさそうにうつむいていた。

「いまは、まだ整理が必要です……」

 と、沈鬱に述べた。

 そうか、と思った。彼女には独りでに考えなければいけないことが多くあった。自らが取得したハンターとしてのタグもその一つだ。これをどうするのか? それだけでも彼女には悩ましい選択のはずだった。

 だが、瀧本は、彼女は最終的に、称号を捨てるようなことはしないだろうと思う。瀧本のように二つを選択することだって、可能なのだ。彼女の見本に適うかどうかは分からなかったが、それでもハンターをつづけながら獣医の仕事をこなすという二足の草鞋を履いてきた自分がいる。そしてその自分こそが彼女を迎え入れることには意味があると思っていた。

 本郷医師への恩返しばかりではない。これは自分がやりたいことであり、やるべきことのはずだと、瀧本は心からそう思っていた。瀧本が実行する〝自然に基づいた活動〟は、何も鳥獣にだけ限定したものなどではないのだった。

「それでいい。整理すればいいさ。納得いくまでね。君の中で間違っていたことがたくさんあると思う。その一つ一つを、もう一度今回のことで吟味し直してみれば、また別の何かが見えてくることがあるのかもしれない。その答えについて、どのようなものを出そうが、それは僕が口を出すようなことではない。……ただ、僕からは、先生は君の事を愛していたとだけは言っておきたい。先生は、ちゃんと君の事を娘として扱っていたと思うよ、それだけは間違いないんだ……」

「そのことは、わたしの中で真摯に受け止めさせていただきます」

 と、貴子はしっかりとした口調で言った。

「ともかく父がやっていることの中身が分かった今、すべてのことを見直さなければいけないのは確かです。まともに考えると、気が変になってしまいそうなぐらいに、これまでわたしはとんでもないことをしていたのかもしれません……。ですが、父への謝罪は、ずっと後のことになりそうです。ともかく誤解だけは解けたことを認めます。……ここまで身を粉にして尽くして下さり、ありがとうございました。お礼だけは言わせて下さい」

 丁寧なお辞儀だった。そして、無用にそれは長かった。下がった頭がなかなかに上がろうとしない。

 そこで無情にも面会の制限時間がきた。つい夢中で話しているうちに、時間が過ぎてしまっていたようだ。

「立ちなさい」

 と、貴子の背後についた女性刑務官のきつい一言に引き寄せられて、瀧本は貴子の顔に注視する。この時、彼女の顔には、強い変調が起こっていた。顔を押さえ、嗚咽を力一杯噛み殺している。が、すでに声なき号泣に入っていると言ってよかった。刑務官に抱き起こされる形で立ち上がるも、彼女の二本足は不安定で、とても歩行などはできそうにない。

「行きますよ」

 それでも、規定を遵守しなければいけない刑務官に苦しい気配が認められた。ほとんど強制的に連れ出される形で入り口に向かう。ドアは同僚が手助けとして開いていた。

「貴子くん!」

 と、瀧本が叫んだ。

「また来るよ! また、会ってじっくり話そう!」

 身体を押さえてきた面会担当の刑務官に警告を受ける。が、瀧本は食い入るように、貴子の姿を見ていた。彼女は感情を堪えきれないまま、逃げ出すように戸の向こうへと消えていった。

 

 

 

 

エピローグ

 

 本郷貴子が裏山から投降して、一先ず事件が収束を見た日から数えて、ちょうど一ヶ月半が経過した。

 そのあいだにあったことといえば、一旦中止されていた研修が行われたことだった。今度は修了までつつがなく進行し、修了まで漕ぎつけた。修了証を渡したその時は、重い荷を下ろした、じつに清々しい気分になったものだった。

 対象は、赤坂、朝倉、深澤、小鈴の四名である。うち、小鈴はそののちに従来の職場である施設に戻るも、瀧本動物病院から引き継いだ、オジロワシの担当に任じられることで、最後まで関わり合いを持つこととなった。野生馴化への訓練。総仕上げは、彼女の手に委ねられた。

 トレーニングは、一ヶ月にも及んだ。オジロワシはメニューを難なくクリアしては、心身を強化していった。体重を少し増やし、充分というほどに身体が作られたところで、ようやく野生に帰れる手はずが整った。最後に、規定の試験をパスすることで、馴化訓練の成功が確かにながら実証された。

 その日、すべての成果が明らかになる、解放日と指定されていた。フライングケージ内にいるオジロワシを一先ず捕獲して、移動ケージ内に収容し、それから規定の場所でリリースする流れだ。このうちの捕獲の仕事を、小鈴の仲間たち――赤坂、朝倉、深澤が請け負っていた。もちろん関係係員も混じっている。

「ほら、そっちに出ていったぞ」

 朝倉が追い立て役で、残りの二人がケージ内への収容役だった。深澤が背後から近づいて、素早い手つきで目隠し帽を被せると、小鈴を含む三人に歓声が上がった。研修の成果が出たというような、ワンシーンだった。

「よし、良くやった」

 最後に朝倉が戸を閉じて、仕上げをした。

「みんな、ありがとう」

 と、小鈴が甲斐甲斐しく言う。仲間たちには誇らしそうな笑顔があった。

「ここからは、君の仕事だよ」

 と、傍で見ていた瀧本は小鈴に向かって言った。彼女は気概を満たして、勢いよく首肯した。準備を経て、ケージを車の荷台にまで抱え持っていった。二台の車に分かれて、解放場所へと共に向かう。

 空は晴れていた。鳥獣たちにとって心地よいだろう風が吹いていたから、絶好日ということで良かった。瀧本は運転しながら、障害物のない開けた道に繋がる空をじっと見つめていた。

 何となくではあったが、あの時のニューヨークと同じような気配があるように感じられる。本郷が駆け抜けたアメリカでの熱意がこちらで少しずつ馴染み始めたからであろうか。

 今日も彼が設立した信託の基金でもって、野性への馴化に失敗した日本での鳥獣たちが各々自分の生き方で過ごしている。

 タレントのリュウセイは、子供たちの集いに引っ張りだこで人気者として持て囃されている。その他、リュウセイの仲間たちが動物園などに営業出張し、いずれも来園者を喜ばせている。どこに足を運んでも彼らは、堂々とした立ち居を崩さず、何気ない日常のあり様を振る舞っている。それこそが、彼らに与えられた新しい仕事なのだ。

 解放場所に、到着した。棚段式の耕作放棄地と野原だけが拡がっている、山裾にあたる場所だ。自然が目の前にあり、オジロワシにとって食べ物の豊富な川がすぐ近くにある。

 瀧本の車が停められた位置は、ケージが解放されるのを見届けるのに絶好な場所だった。乗っているのは、瀧本の他に、赤坂がいた。

「先生、降りないんですか?」

「君こそ、降りたらどうなんだ」

「僕は、ここから見届けます。なんとなく、ここのほうが見栄えがいいような気もしますし」

 瀧本はシートを倒して、姿勢を楽にした。

「そんなはずはない。君はきっと聞きたいことがあって、ここに留まっている。そうじゃないだろうか?」

「聞きたいことといいますか、まあ、気になっていることがあります。それとは、今後のことです。貴子さんは、先生の所に迎えられることになるということですが、これは正しいのでしょうか?」

「君は、反対だったのだろうか?」

「いえ、そういうわけではありません」

 小鈴がケージの位置を固定し、解放の準備に掛かっていた。朝倉と深澤はその時がくるのを、ひた待っている。風が勢いよく彼らに吹き付けていた。

「問題ないはずさ」

 と、瀧本はシートから背を浮かして言った。

「貴子くんは、いまやお父さんの意思をしっかり受け継いだ、獣医の顔になってくれた。僕の試みは成功したのさ。父娘の愛情は、一般のそれとは異なってはいたが、根元の部分だけで言えば同じものがしっかりと存在していたというわけ。これから、彼女にはやってもらわなければいけないことがある。道東エリアの環境保全のこと、野性馴化に失敗した、リュウセイをはじめとする鳥獣たちと子孫のこと……、それから動物病院だ」

 赤坂は口を閉ざして、瀧本の顔色をじっと見ていた。瀧本は流れを断ちきらない形で続けた。

「彼女にその素質と意欲があるならば、病院を継いでもらおうと思っている。いまは僕が経営主に違いないが、あれは預かり物というつもりでやっているから、ゆくゆくは彼女に返さなければいけないんだ。もちろん、これは義務なんかではないから、僕が設けたハードルを越えてもらう必要があるんだろうけれど、でも彼女はそれができる子だと思うよ。なにせ、情熱だけは強く持っている子だからね。これまでは、間違ったところに力を注いでしまっていたかもしれない。でも、最終的にそういうのだって、彼女の役に立つときがくるのだと思う。一先ず僕はすべてを受け止め、彼女が向上していくよう、応援してやる必要があるのかなって思っている」

 外では草木を巻き込んだ、強い風が吹いていた。

「これまでのことを許して、付き合っていくということなんですね?」

「そうなる。そうしなければいけない。関係を断ち切ることは、いつだってできる。が、そこから先は何も生まれないんだよ。せめて、寛容の精神を持って最後まで付き合っていくことを試みなければいけない。さいわい軽い判決だったし、今回のトラブルが悪い形で尾を引くというようなことはないと思う。これは、辛抱強く鳥獣たちと付き合ってきた僕だからこそ、言える言葉でもあるのかな……。あと、本郷先生の教えということもある」

 瀧本は息を吸い込んで、勢いを付けた。

「彼女はその娘なんだから、当然同じように理解できているはずだ。そういえば、先生から彼女に送られた最期の一言は、〝あなたのことを信じている〟だった……。それを受けていて、このままではいられないだろう。彼女は行動を起こさなければいけないはずなんだ」

 小鈴が手を上げている。解放の合図だ。瀧本は車に乗ったまま応えた。すると、ゲートが開けられ、オジロワシに風が降りそそいだ。野性からの洗礼というべき、仕打ち。しかしものともしない態度で乗り切るあたり、猛禽の強さを提示していた。二メートル超もある翼を大きく開く。

 オジロワシは低滑空から始めた。風にすくい上げられると、一気に上昇気流に乗って近くの山に向かって飛んでいった。

 自然回帰への雄飛だった。

 迷いのない、確かな飛行が清々しく、見る者に勇気を与えてくれる。

 見届ける小鈴の顔は勇ましい。涙などはない。野性へ帰すことの厳しさを、彼女は心で理解したのだ。朝倉がぴょんぴょん跳ねて喜びを表現すると、深澤も万歳しはじめた。距離がある分、動きがコミカルに見えている。

「行きましたね、オジロワシ……」

 赤坂が目を輝かせながら言った。

 瀧本もその勇姿をしっかりと見届けていた。

「あの子は、自分で生きていくべき道を知っている。本郷先生も、それを知っていたから追い掛けつづけたんだろうなあ。つくづくそう思うよ」

 自分も、夢中で生きなければ――

 興奮に区切りを付け、ドアを開放すると、赤坂もつづいた。二人して、外に飛び出した。歓喜の声を思い切り上げながら、小鈴に向かって駆け抜けていった。(了)

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