グラン・ブルー4
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熊狩りをしたことで得た赤肉の食料は保って、あと二日ぐらいだろう。自家製の塩こうじに一日付けこみ、保存用に仕込んだのだったが思いの外、脂質が酸化していて、生臭い臭いが強くなってきている。貴子は炙りたての熊肉に齧り付いて、硬い線維をまた一口噛み千切った。
熊の肉は黒くて弾力に欠け、ラードを仕込んだような濃い味がする。初めて食べる者には違和感しかない肉だが、慣れたサバイバーにとっては贅沢品だ。肉を絞ることで出てくる脂は、万能薬にもなる。
すでに太陽は、十勝岳の稜線の中に沈んで、息を潜めている。榾火だけが小さくちろちろ燃えて、辺りを照らしていた。
ポータブル・コンロにセットしたコッフェルからは、ふつふつと湯気が立ち上っていた。採取してきたばかりの山菜が、茹で上がって、沸騰する湯の中で骨抜きされたように、すっかり丸くなっていた。その一つを取り上げ、咀嚼しながら傍受用の受信器を確認する。ぴ、ぴ、と律動の音は絶え間なく続いていた。
ターゲットのオオワシはすぐ近くまで来ている。おそらく、明日にはここを通過することだろう。
本郷喬司に診察された履歴を持つ、貴子にとって曰く付きの一羽――はたして、その子には値打ちのある財産が括り付けられているだろうか。
これまでに何十羽とその手の猛禽たちを撃ち落とし、その身体を検めてきたのだったが、すべてが当て外れで、そうした兆候さえ発見する事はできなかった。今回もそうなる可能性は極めて高いだろう。冷静に考えれば、必ずしも成果が上げられるとは限らない、かなり回りくどい選択をしている。
しかし、後には引けなかった。計画がスタートした当初から強引にでも押し切っていくつもりでいたから、ここで一歩身を引くというだけで計画の放棄を意味することになってしまう。ここは、いつも以上に強い気持ちで臨みたいところだった。
簡易テントの中に待機させている猟銃をそっと取り寄せ、ハンドルの感触を確かめる。操作性は抜群だ。毎日のように手入れを怠らなかった分、勝手が利く。銃把を持って、座ったままに肩付けの据銃姿勢をとったのだったが、銃床を肩に当てる際に巻き込んだ乳房がひきつれて、その反動で腹部の古傷がうずいた。
八歳の頃、ペレット弾の一部が貴子の小さな身体にめり込んだ。従兄弟の伸一郎が猟銃の操作を誤ったことによる事故だった。銃が発射される際の、マズルフラッシュと、地底を突き上げるような銃声は各神経がしっかり記憶している。だが、それ以降は何も覚えていなかった。気が付けば、集中治療室の中にいた。
あの時に味わったえもいわれぬ恐怖は、いまも心の中にあるだろうか、と貴子は自分に問いかける。
これまで猟銃への恐怖を克服するそのために、猟銃にあえて向かって行くという努力を積み重ねてきたのだった。それには、父への反駁という後押しがあったに違いなかったが、それでも最終的には自分のためにやってきた。
もう一度、猟銃を握りしめ、腕の中に抱く。
愛用している、その子にはこれっぽっちも恐れなどはない。むしろ、自分の手足というぐらいに思っているから、なくてはならないものだ。何より素晴らしいのは、超越した能力だ。弾丸を装填し、引き金を引くだけで殺傷能力の高い火力が発揮される。スナイパーたちが使用する軍用ライフルよりも、猟銃は殺傷能力という点では優れている。その事実を、スクールで学んだときは、じつに誇らしい気持ちになったものだ。
これさえあれば、自分は何でもできる。
何かに迷いそうになった時、いつも銃を磨いた。すべての答えは、そこにあった。強さだ。それがなければ、人は真っ直ぐには立てない。猟銃には見本となるだけの力強さを、物言わぬ静かな佇まいの中にしっかり備えていた。
明日、また猟銃の力を借りることになる。
きっと、思いに応えてくれるだけの能力を発揮してくれることだろう。それを引き出すだけの集中力をいまから養わなければいけなかった。
貴子は息を吹きかけて榾火を消し、シュラフザックの中に潜り込んだ。五月の半ばを過ぎているのに、冬のように寒い夜だった。
翌朝、早い内から移動に入った。例によって荷物は猟銃といくつかの弾、その他サポート材だけだ。すべてはビバーク地点に置いてきた。受信器から伝えられるオオワシの位置情報と、飛翔パターンを頭で計算しながら、狙撃地点を捜し出す。条件は、傾斜が三十度以上ある山を含む勾配で、且つある程度の植生が認められる所だ。また、その勾配はオオワシの移動を考慮し、西向きでなければいけない。これは、直射日光を浴びることで装備品の反射光を飛ばすのを極力退けるためだ。
サバイバルナイフを振り回しながら道を確保する。前日に熊肉をたらふく食べたせいか、まだまだ体力はつづきそうだった。スキットルに口をつけ、昨晩コッフェルで山菜を茹でるのに使った水を念入りに補給する。健康的な土の味がした。
絶好という訳でもなかったが、それなりのポイントを見つけ、貴子はそこに穴を掘った。ちょっとした陣地の設営作業だ。できあがると穴に入り、身を屈ませてから、表面をまるごと覆うように麻布を使った迷彩布を被る。傍目には気付かれない、擬態の完成だ。一応、素肌を晒した部分には、カモフラージュクリームを薄めたのを塗っている。猟銃にも迷彩ラップを巻いている。どこにも目立つ部分などない。
ここからは、耐久戦に入る。根気のいる勝負となる。
渡米した先のスクールでは、スナイパーに求められる三つの資質が教えられた。それとは、体力、忍耐力、注意力の三つの力だ。どれも欠けてはならない重要な要素で、三位一体の絶妙なバランス感覚を保持しているのがスナイパーとして望ましいあり方だった。狙撃者向きの性格まで規定されるぐらいの世界だからこそ、その世界でやっていける者や、選ばれる者はかなり限定される。それだけに、そうした資質に叶わない一般の狙撃者は、せめてこの三要素の体得を徹底して養うことを求められるのだった。
さいわい貴子は性格上、忍耐強いところがあった。正確判断テストも良好な結果を出している。スナイパーに求められるベスト数値には敵わないが、それに迫る力を発揮することが可能だった。
最低、三日は飲まず食わずでこの穴に入ったままでいられる――
貴子としては、そのつもりで待機していた。
また、受信器から伝えられる傍受情報を確認する。ターゲットのオオワシは休憩に入っているようだ。この分だと、別のルートを辿る可能性が高かった。だが、ルート外に入るまでは陣地から抜けるつもりはなかった。ひたすら耐え、その時がくるまでじっと待つ。
日が傾いていく様が身体で実感できる程、その日は一日が短く感じられた。
次の日、雨が降った。
受信器が伝えるオオワシも羽を休めているようで、一点に留まったまま動かなかった。
雨具は持っていたが、暖を取る道具は持ち合わせていなかった。ひたすら冷気に晒されたまま、やり過ごすしかなかった。
古傷がまたもや、うずく。
ふと伸一郎のことを頭に浮かべた。彼の心身状態が悪化したことで、脱落も同然に向こう側に投降したであろう事はすでに読めていた。だからこそ、通信手段である携帯は電源を切った上で破壊し、土の中に埋めた。
伸一郎は、いつも気持ちの弱いところがある男だった。それは彼が小さい頃からずっと変わっていない。
おそらく本人も自覚していない所で、父親に対し強いコンプレックスを持っているに違いなかった。幼少時に起こした事件もその流れを汲むものと言って良かった。銃なんかを握るに至ったのは、強さへの憧れであり、また弱い自分からの脱皮という願望の表れのようなものだったはずなのだ。
そんな劣等感を突き破れない彼が貴子の言いなりになったのは、ごく自然なことだったように思える。貴子に忠誠を誓ったときのことは、いまも記憶に新しかった。地元の女子高校に進学してから二年が経ったときの事だった。
「あなたに傷つけられた痕よ。いまも、痛むの。あなたがこれをやったの」
シャツをまくって、手術痕が今も残る腹部を晒した。勢いに任せての披露だったから、下着の一部が見えても構わない気でいた。
「これ……」
と、伸一郎は患部の一点を見つめ、指先に触れようとしてくる。やがて触れられた指の感触から、貴子はぴくんと反応してしまう。
はじけ飛んだ小さな弾丸は、肝臓の下部にめりこんでいた。最小限切除という形で、外科手術は終えられた。肝臓は再生能力の高い臓器なだけに、すぐさま自然治癒で復元されたのだったが、後遺症というべき古傷の疼きだけは、貴子に残った。触れられただけで、患部が擦れ合うような、臓器疾患とは違った痛みがじわじわ起こり、いつまでも同じ箇所でくすぶりつづけるのだ。
伸一郎はまだ触れていた。その手つきは診察するように、丁寧なものだ。だが、貴子はむしろそれに生理的な嫌悪を持った。また、疼きが起こりそうな感触を受け止めてもいた。手首を捕まえ、突き放す。
「やめてよ! いつまで、触っているの」
彼を思い切り睨み付ける。
「すまない」
と、小声で言ったかと思えば、ぼろぼろ目から涙を零した。それを伸一郎は、拭おうとも隠そうともしないのだった。
「なんで、泣いているのよ、あんたが」
泣きたいのはこっちだ。こんな傷を負わされた上に、古傷の後遺症を背負わされているときている。このまま、こういうことが死ぬまで続くのかと思うと、とてつもなく憂鬱な気分に襲われる。
「分からない」
と、彼は言った。ようやく手首を顔に当てたと思ったら、頬元を擦っただけだった。
「分からないんだ……、とにかく痛みは感じた。それは、ぼくの傷でもある。そう思うよ」
「だったら、わたしのこの傷に誓いなさい」
と、貴子はもう一度シャツをまくって、傷を披露する。
「わたしのためなら何でもするって。どのようなことがあっても、裏切らずにこのわたしを支え続けるって誓いなさい。……勘違いしないでよ。あなたには支えられたいって思うほど、わたしは弱くなんかはない。これは、あなたのために言っていることなの」
「そうだ、それはぼくのために言ってくれている」
と、彼はやんわり目に光を滲ませながら言う。
「……それは、よく分かるよ。だって、貴子は人を放っておけない性格をしているからさ――」
もう涙は止まっていたが、彼の顔はまだ危うさに満ちていた。いつになったら、こんななよなよとした弱い性格から抜け出してくれるのだろう。ずっと、このままなのかもしれない。そして、だらだらとしたこの妙な付き合いが続くのだ。この男には、自分が求めるものなどはない。だからこそ、わたしは、自分が求めるものを探し出し、彼に与えてやらなければいけない。
「誓うよ」
と、彼は言った。
「貴子のその傷に、ぼくは忠誠を誓う。いつまでも扱き使ってくれればいい。ぼくは、いつだって貴子を裏切るようなことだけはしない」
「ねえ、変に同情とかするのはなしよ。わたし、人から哀れまれたりするのって、虫酸が走るほど無理なことなんだから。それ、分かっているでしょ?」
「同情じゃないよ」
と、伸一郎は言う。
「本心さ。ぼくを思ってくれている貴子の優しさが分かっているから言うんだ。もし、君が優しくなかったらこの関係などは、すでに終わっている。最初から存在しないような付き合いで終わっている」
貴子は、何か自分が理解していないことがあるのではないかと思った。しかし、考えてもまともな答えにはならない。
――もしかして、彼は自分に恋愛感情を抱いている?
その疑問だけが頭にあったが、これは考えただけでもぞっとするようなことでしかなかった。
「契約に当たって一つ、あなたに言っておくとするわ」
と、溜めを作って言う。
「わたしたちのあいだでの取り決まり。それとは、妙な感情を持ったりするのはなし、というようなもの。わたしは大丈夫だけれど、あなたは勘違いしやすいタイプみたいだから、一応言っておいた方がいいのかしらと思ったのね。それ、守れる?」
伸一郎の表情は変わらなかったが、口許は不釣り合いに笑んでいた。
「ああ、守れるさ。恋愛感情なんて抜きだ。ぼくらは、本当の意味での主従関係でしかない。それはここで誓うよ。そうとも、いつまでもこんな感じでやっていくんだ」
――あれから、何年の月日が経ったのか。
伸一郎は依然として、なよなよとした気質が変わっていない。貴子が顔だけは無表情を装うようにしなさい、と躾けておいただけあって表面上は目立たなくなった。その反動としてか、今度は感情とストレスを溜め込み、耐えきれなくなったその時、一気に爆発する性格に成り果てた。結局、内面の弱さは変わっていないということで良かった。
呆れたことに、今回も、それが出てしまったようだ。
まったく、使えないやつだと思う。
もしかしたら、彼のためにも早いところ切り捨てた方が良かったのだろうか。しかし、貴子には果たさなければいけない目的がある。そのためにも、彼には馬車馬のように働いてもらわなければいけなかった。
いま、どうしているのだろうと思った。
雨は、穏やかな調子が保たれたまま降り続けていた。そして、それは夜遅くまでずっと変わりなく維持された。
次の日は、一転して快晴の天気となった。ちぎれ雲のそよぐ空は、綿菓子のように柔らかく見えている。地肌を晒した山だけが、どっしりとした色合いを呈している。
貴子は無線機がキャッチした最新データを確認する。オオワシの動きは活発的だ。この分だと、あと二時間もすればこのエリアを通過することだろう。ここにきて、飛翔経緯が読みどおりの線に入ってきていた。
胃袋が空腹を訴える。
栄養価の高い乾物以外は、何も口にしていない。ここが堪え所だった。身体の奥にあるエネルギーを絞りだし、ここ一番の集中力を維持に掛かる。
カラスの群れが上空を渡り始めた。
貴子はライフルに備え付けられた望遠スコープで、その一羽を監視する。時速三十キロ程度だ。距離は二キロ。ライフルの最大飛距離は三キロだ。うち殺傷能力が維持される有効射程は一キロ。その圏内に入ってくれれば、カラスは狙撃対象としてロックオンできる。ただし、それは動きが止まっている場合の計算でしかない。
動いている対象を撃つ機動射撃はまた別の技術が要されるため、別個の訓練をしなければいけなかった。
貴子は、この手の訓練について手ほどきを受けたことがある。が、その時はまったく形にならず、辛酸を舐めたものだった。わずか百メートル先にいる獲物さえ、命中することがままならない失敗が何度も繰り返された。対象の動きと合わせて、バレルをスイングさせなければいけない。発射する際は、このスイングを止めてはならず、対象を追い越したその瞬間に引き金を引く。つまり、対象を再確認することはせずに、空に向かって撃つ形をとるのだ。これがランニング射撃の特徴であり、また最大の難関ポイントでもあった。
このランニング射撃が完成するには、イメージトレーニングが不可欠だった。そして、気が遠くなるまでの経験が必要だった。
貴子は帰国を果たした後に自ら研鑽を重ねて、独自の手法でこうした困難を克服した。そのためには、どんなことでもした。野性に近づく必要があると思ったから、山籠もりをしたまま、一ヶ月間帰らないというようなことも繰り返した。
狙ったところを、適確に撃ち抜く――
鳥獣の肩に近い翼部――中雨覆だ。腱が走っている輪郭線と、上腕骨が入った筋肉部の三角ゾーンを狙う。翼を痙攣させることで飛翔能力のみを奪うのだ。命までを狙わないのは、ハンターとしてのプライドだ。
チャンスは一回きり。
ライフル弾も、銃身に一発分しか装填しない。
カラスがさらに接近してくる。翼を何度もばたつかせている。不意に風がそよいで、土の臭いを運んできた。妙なきつさのある腐臭が混じっていた。貴子は集中力が切れるのを感じて、一旦スコープから目を離した。
気持ちをリセットして、再度望遠スコープを覗く。
カラスは加速を止め、帆翔に入っていた。距離は、七百メートル。微妙なところだ。すでに、狙撃する事を決めていた。演習用の実験台だ。こうしたことは、イメージ射撃で充分なのだったが、体調が万全ではない今、調子に狂いがないか試してみる必要があった。
距離が一気に迫り、六百メートル圏内に入った。
貴子は引き金に掛けた指に少しずつ力を加えていく。バレルをスイングさせ、僅かに対象を追い越す。感性が訴える閃きがほとばしった瞬間、一気に引いた。破裂音とともに、反動が肩に直撃する。
まもなく狙いをすませたカラスの翼が空中で弾け、縦回転の錐もみ飛行で地上に落下していった。
三角ゾーンをしっかり捉えていたはずだ。
成功だ。
達成感が胸に満ちる。が、それは最高潮というまでではない。至福の感情は、本番までに取っておく必要があった。貴子はボルトアクションのハンドルを倒し、新たなライフル弾を装填する。そして、来るべき本命にそなえて待ち伏せに掛かった。
一時間、二時間……と永遠というほどの長い時間が流れる。集中力は切れることなしに維持されていた。
そして、無線機が伝えていた通りに、オオワシの姿が表面向かいの山陰から現れる。帆翔体勢なので、ほぼカラスと同じ飛行道を通る。じっくりと息を潜めて待つだけだった。訓練どおりに、集中力を高める。意識的に興奮しているせいか、感覚は冴え渡っていた。
距離が一キロラインを割った。
バレルのスイングを開始した。オオワシの場合スピードがある分、カラスの倍以上の難しさがあった。対策として、有効射程距離を三百メートルに設定していた。これだと、スイングのずれ一ミリで五センチ程度にまで縮小できる。
貴子は、神経を研ぎ澄まして、引き金をしぼる瞬間をひた狙う。
繰り返し吹き付ける微風よりも、湿気が気に掛かった。前日雨が降ったことで地表付近の湿度がやや高くなっている。水蒸気量が多いと、弾の飛距離に影響が出る。また弾が発射されたときの初速も異なってくる。すべてを計算に入れた上での発射にしなければいけなかった。狙撃はいつも環境に左右されるのだ。
焦るな。いつも通りに、撃てばいい。それができるだけの訓練を重ねてきたではないか。貴子は自分を励まし、少しずつながら気持ちを高めていく。
バレルをスイングする角度がさらに深くなっていく。頬に鉄が触れたとき、銃身が溜め込んだ冷たい感触が鼻先に伝わっていった。
オオワシが五百メートル圏内に入った。
いまのところしっかりとスコープ内にターゲットを据えることができていた。撃とうと思えば、いつだってできる。しかし、ここは百パーセントの成功だけに絞りたいところだった。貴子は気持ちを溜めに掛かった。
大きく深呼吸をすると、思いの外肺が膨れあがった。ミリ単位のズレが生じた。また、一から照準の定め直しに掛かる。
心臓の動きが早まってきた。息が、乱れる。混乱がストレスを呼んでいるのか、角膜が作る生理的な発光体がうねうね視界を自由に泳ぎ出し始めた。それでも、スコープから目を離すわけにはいかなかった。引き金を引くチャンスは今だけと思わなければいけない。自らを追いつめ、さらに集中力を倍増させに掛かる。が、すでに身体は限界点を突破していたようだ。
固定していた頭が、僅かにながらぶれはじめた。吐息がひどく荒くなった。喉がからからに渇いている。額は熱っぽく上気していた。固定した据銃姿勢だけはぶれるまいと気持ちで踏ん張った。
オオワシが三百メートル圏内に入った。
有効射程距離内だ。
バレルのスイングを本格始動する。ランニング射撃体勢だ。しかし、そのスイングが僅かに狂った。さらなる延長追跡に掛かる。落ち着け、と自分に叱咤した。歯を思い切り食いしばると、酸っぱい分泌液が舌先に拡がった。
スコープによるロックオンは依然として維持されていた。あとは、無駄のないスイングと、引き金を絞るタイミングだけが揃えばいい。意識して撃つのではない。これだ、と思う瞬間が必ず電撃のように走る。その時には反射的にトリガーを引いてしまっている。それこそが真のスナイパーの射撃というものだ。
その時、またもやスイングが微妙に狂ったように感じられた。
だが、気のせいだったようにも思えた。ベスト狙撃体勢だけは維持されていた。惰性的にスイングを続ける。内心では、味わったことのない不安がくすぶりだしていた。
――これだ。
自分でも予期しない形で、ベストショットタイミングが突如やってきた。ほとんど反射的に肩と腕が反応した。
山に木霊していくライフル弾の破裂する音が響いた。――が、それは予想外に小さなものだった。貴子自身、強い錯誤感を感じていた。無理もなかった。自分の手許からではなく、ずっと遠くから発射音は聞こえていたのだった。
何が、起こったの?
貴子自身も、状況が把握できなかった。ともかく狙っていたオオワシが大慌てで北の空へと逃げていた。
一先ず、自分の猟銃を確かめた。
弾が入ったままだった。
撃ってしまったと思ったのだが、実は撃ってなどいなかった。空振りによる完全な失敗だ。それも、スナイパーとしてあるまじき失敗というやつを犯してしまっていた。訓練してきたことが全否定される、途方もない脱力が貴子にのし掛かる。
ぴ、ぴ、と無線機が電子音を鳴らしている。
貴子はギリースーツの被せられた穴蔵から出て、ようやく身体を解放した。二日ぶりの自由。四肢がそのことをずっと求めていたように、動かすだけで無駄に快楽が付きまとった。
「後ろを取られているって、すでに分かっているのかしら?」
貫禄のいい婦人が発したというような声だった。その人物は、貴子のすぐ後ろに立っていた。足下に差した影から、手にサバイバルナイフを持っていることが分かる。
「誰なの?」
と、貴子は振り返らずに言った。不覚にも猟銃は穴蔵に置いてきてしまっていた。普段ならそんなことはしなかっただろうが、いまは撃つべき所を撃たなかったという、かつて経験したことのない不測の事態が起こっただけに事故の検証をする必要があったのだ。
一応、反撃の材料が他にもあった。
それは、道を切り開くために使用したナイフだ。
どうする? 出ていくべきか従うべきか?
「ねえ、わたくし、いまあなたが考えていることが手に取るように分かるのよ。ズボン右のスラックスにナイフが入っているんでしょう? 抵抗してもダメよ。あなたなら、状況が分かるじゃない?」
「どういうこと?」
貴子は間合いを計りながら言った。
「いいから手を上げて。さもないと、こっちもあなたの安全を保証できないわ」
どうすればいいというのだろう。貴子は迷った末に両手を中途半端に上げた。戦闘に挑んでいく意気がうまく昂ぶってくれないのだった。先程の失敗が大きく心の負担になっているらしい。
背中を向けているのが苦痛で堪らなかったから、相手に構わずゆっくりとながら振り返った。不思議と相手から制止の声は上がらなかった。
五十輩の一人の女がそこにいた。一度目を合わせてから、五メートルの距離を置いて向き合う。
戦闘服に身を包んでいた。ハンターというよりも、ソルジャーという気配が強くある。その証拠に、ナイフの持ち方が妙に様になっていた。
「あなたは、いったい誰なの?」
と、貴子は相手に問うた。
「磯長というものよ。ここをパトロールしている猟友会の面々とつながりがあってね、わたくしも勝手ながら参加させてもらうことにしたの」
彼女の後方百メートルあたりに、猟銃を構えているもう一人の女がいた。こちらは若い女だが、やはり肉付きの良い体格をしていた。観的手だ。狙撃というのは、通常二人組で行動する。たいてい、実力者と新人のコンビだ。狙撃担当はもっぱら観的手である、新人が担うことが多い。ベテランはあくまで監視役に徹するだけだ。ペアで行動することで、設定した目標を確実に達成する。今回の二人も、その基準に当てはまっているといってよかった。つまり、その手の技術と知識があるということだ。ここは逆らわない方が、無難だった。
貴子は体勢を維持したまま右手でポケットをまさぐった。ナイフを取り出すなり、女の足場へ放り捨てた。
「これで、良かったの?」
「けっこうよ」
と、言って、彼女はナイフを拾ってから自分のポケットの中に突っ込んだ。
「素直に従ってもらえて、幸せだわ。あなたはとてもお利口さんね。ここで妙な抵抗をされたらどうしようかと思っていたの」
「勘違いしないで」
と、貴子は手を上げたままに言った。
「あなたと戦うのが怖くて身を引いたんじゃない。さきほどのハントについてかなり上手い具合に阻止されたなと思って。察するに、こっちの手を全部読んでいたのではないかと思うの」
貴子は自らが作った陣地をじっと見つめていた。相棒の猟銃は入り口に放置されたまま、持ち主の帰りを待っている。
あの瞬間、何が起こったのか――。
冷静に立ち返った今、少しずつ自己分析ができるようになっていた。おそらく、磯長と観的手の二人は山の頂点まで登り、そこから少しずつ自分の陣地に近づいていったはずだ。そして、途中から磯長だけの移動となった。ギリースーツの下から伸びる猟銃のバレル。銃口の向きから発射座標軸を求められる拠点を確保する。
それからは、観的手への連絡役を務めることになる。バレルの向き、発射のタイミングを徹底して読んで、リアルタイムで情報を共有する。そしてターゲットを捉え、動きに入ったことを掴むなり、観的手に発射準備を指示する。
オオワシを逃がす威嚇射撃を、貴子が発射するぎりぎりまでのラインを読んで実行。結果、貴子は発射したと誤認したままに、ターゲットを取り上げられることになったのだ。
すべては、この女が自分の行動を読んだ結果に、なされた業だったのだ。彼女が確認していたのは、バレルの動きだけだろう。たったそれだけで狙撃手の心理状態を読むなんて、並大抵のことではない。それに、貴子は陣地に籠もっていたとき、集中力をいつもよりも倍増させていた。野戦に挑むときに大事になってくるのは、絶えず五感を研ぎ澄ますことだ。この時も例外なく発揮されていて聴覚は普段よりもずっと冴えていた。それなのに彼女の接近は分からなかった。
「あなた、何者なの? 本当のところを教えてよ」
と、貴子は彼女に問うた。
「そんなことはどうでもいいじゃない。と、言いたいところだけれど、ナイフをいさぎよく捨てるなど紳士に振る舞ってくれているから、誠意ぐらいみせないとね。一つ言うと、わたくしは、ソルジャーの資格なんて持ってないわ。取り損ねたような、女なの。でも、通っていたマーセナリー・スクールではそれなりの成績を収めたつもり。これでいいかしら?」
「なるほど、マーセナリー・スクール……。わたしも、そこに出入りしたことがあるわ。短期期間だけれどもね」
「だったら、同士じゃない。出会いがこんな形だったことが、本当に残念な限りだわ。それは、こうしてあなたに対峙する前から思っていたことでもあるんだけれども」
彼女は身体を横向けて、観的手の方を気に掛けた。
「そうそう、いまあなたを見張っているパートナーも若くて優秀な子よ。瓜生っていうんだけれど、まだ学生さんをしている。彼女は専門の学校で技術を学んだわけでもないし、その手の訓練を受けた事があるわけでもない。すべては独学で、自前の訓練方法でセンスを磨き上げてきた子なの。それでも筋がよくって、いい勝負ができるわ。あなたとも上手くやっていけるはず。だから、ちゃんと向こうでお務めしておいでよ。そして、わたくしのところに顔を出して頂戴。今度は仲間同士としてやっていきましょうよ」
「……本当に体の良い、お愛想をありがとう。気持ちだけは通じたわ」
「嘘なんかじゃないわ。これは心からの言葉。わたくし、すでにあなたのことを認めているのよ。これが嘘だなんて取られると、本当にがっかりだわ」
彼女は言うなり、観的手の女へ合図を送った。すると、遠く向こうにいた女が構えを解いて、ゆっくりと立ち上がりに掛かった。その様をぼんやりと見つめながら、彼女は続けざまに言葉を繰る。
「猟銃は人を撃つためにあるものじゃない。猛獣をハントするためだけにあるの。それ以外の使い方なんて、わたくしは好まない」
「わたしだって、そのスタンスよ」
うん、と磯長はうなずく。自分のナイフを軸足と反対のポケットに仕舞い入れた。無防備になった彼女は、心を開いた顔つきをしていた。本当に仲間として迎え入れたいという気持ちがあるのかもしれない、と貴子は少しずつ思い始めた。
「だったら、このまま戦わずに一緒に山を下りましょう? 下では猟友会の面々と、警察の方が待っているわ。分かっているでしょ?あなたが下山するということは、無条件で投降を意味するの。それとも、抵抗したいだけの未練がまだあったりするのかしら?」
「……そんなものはないわ。ただ、わたしの猟銃だけはちゃんと丁寧に扱って欲しい。それだけは確実にお願いしたいこと」
「それは、向こうにいるパートナーの役よ。大丈夫。いちいちそのような事を伝えずとも、あの子は丁寧に扱ってくれる。猟銃を自分の命の次に大切に思っているのは、何もあなただけじゃないのよ。あの子もそうだし、このわたくしも同じ」
彼女の口調には、いかにも誇らしそうな気配があった。同志としての感情を共有しているということでいいのだろう。貴子は小さくうなずいて、猟銃への心配を頭から消し去った。
「いいかしら?」
と、断って磯長は踵を返し、先導を開始した。貴子は彼女の背に付いていくだけでいいようだった。が、しばらくはそれに倣わず、周囲を気に掛けた。自分がここ二日間、寒さと飢えに耐えながら、付き合ってきた世界を目に焼き付けようと思っていた。
日干しに晒された山の乾燥した臭いが、強まっている。思ったよりも空が青く、眩しかった。そう感じさせるのは、ずっと穴蔵の中に閉じこもっていたからだろうか。何となくガラスのような光沢を感じさせるところに、気持ちが惹かれた。
ああ、自分はこんな所の下にずっといたんだ、と感傷的にながらそう思った。
地上に降り立つまで、一時間半の移動となった。
瀧本動物病院前までくると、関係者の面々が顔を並べていた。どうも観的手の女が早々と連絡を済ませたらしい。ターゲットに設定していた、瀧本本人とその家族もそろっていた。固唾を呑んで貴子をじっと見つめていた。
一先ず警察官とのやり取りを済ませると、貴子は待機していたライトバンの方にちらと目をやった。すでに伸一郎が乗っていて、小さくうずくまっていた。すべてを告白し、内情をさらしたのだろう。彼はいま、消え入りたい気持ちのままに、なんとか息をしているといったところだろうか。
貴子がそちらに向かって歩を進めるなり、近づいてくる人影があった。獣医の瀧本だった。口を引き結び、決然とした態度をみせている。しかし、吐き出した言葉は、柔らかみを帯びた親しげなものだった。
「あなたが本郷先生の娘さんの、貴子さんなんですね」
貴子は足を止めた。彼を見返しているうちに、直視できないつらい感情が昂ぶって、思わず目を逸らした。自分はこの人の安全を脅かそうとした張本人なのだ。恨みの感情があったとしても、おかしくはなかった。
「顔を上げてください」
と、彼から懇願される。
「僕は、あなたがやったことについて、問い詰めたい感情を持っているわけではありません。むしろ、あなたに興味を持ってこなかったこれまでの自分について、情けなく思っているぐらいなんです」
導きのままに顔を上げると、そこには力強い顔つきをした、一人の獣医がいた。真っ直ぐな気持ちで生きている者だけが持っている、健全な溌剌さがみなぎっていた。
「本郷先生は、僕の命の恩人であり、大先生です。それこそ神さまのような存在と言ってもいいぐらいなんです。いまも、その思いは変わっていません。つまり、先生のお子さまでいらっしゃるあなたも、僕にとって大切な存在です」
そんな名誉など、自分には必要のないものだ。貴子は反駁の精神が突き上げてくるのを感じ取った。が、それが表に表れないよう、懸命に耐えた。
「わたしは、娘という立ち位置にいながら、父のことが理解できないでいます。それは、いまもそうです。ですから、父の子というだけで無条件にもてはやされるのは、わたしにとって迷惑以外のなにものでもないことです」
貴子はポケットに手を突っ込み、まだ控えてあった、ライフル弾一式が詰まったカートリッジを瀧本に示した。
「これが、何かお分かりでしょう? いま、あなたにお返し致します」
彼は貴子から受け取っても、しばらくカートリッジを手のひらに乗せたままでいた。ゆっくりと握るなり、そっと手を下ろした。
「どうして、そうお父さんを拒否しているのです?」
と、真剣なあり様で、貴子に問いかけた。
「父のやることのすべてが理解できませんでしたね。父は、わたしの理解者ではなかったのです。それは、ずっと小さい頃からそうだったように思います」
本郷喬司――という自分の父親。獣医としての働きぶりが世に聞こえていたのは、小さい頃から分かっていた。それが誇らしいと思っていた時期もあったのだった。が、父は仕事ばかりにかまけ、愛情を注ぐことに無頓着であり続けた。
貴子よりも動物と接する時間があまりにも多く、またそれが間違いないことだと信じ切っていた。結果、貴子は自分の立ち位置について、悩むことが多くなった。
――わたしは、父にとって動物と同等か、それ以下の存在なんだわ……。
何度、その自虐を自分の心に課したことか。
中学生の終わり頃になってから、急に教育的指導が厳しくなった。悪い成績を取り、それを隠していたのがばれるとヒステリックに怒鳴りつけてきた。テスト順位だって、上位ランクから外れることを決して許さなかった。休みの日も勉強するよう塾や予備校に通うことを強制させられた。結果、スケジュールはすべて父の管理下に置かれることとなった。
それが保っていたのは二年と少しぐらいだった。やがて貴子に変調が起こることとなる。
無気力のあまりに、何もしたくなくなる抑鬱の気が身体に現れ始めた。それでも父からの要求は止むことはない。対立は日を追うごとにますます顕著になっていくばかりだった。暴力こそはなかったが、精神的な威圧は絶えず振るわれ続けた。ひどいときには勉強強化期間と称して部屋に隔離するなど、人格を疑うような行為までやってのけた。
そんな日々の鬱憤を晴らす存在が貴子に何もないわけではなかった。主従契約をした、伸一郎の存在である。彼は便利な男という点では、この上ない存在だった。
耐えられない気分になった時、すべてを彼にぶちまけ、心の粗という粗をすべて清算してきた。結果、心の均衡は歪んだ形で維持されつづけてきた。
そんなある日、父が忌み嫌っている職業があることを知った。それは、獣医から対極的も同然といった位置づけをされる、ハンターというものだった。
すぐさま猟銃への関心に取り憑かれた。まもなく、これを取得しようという気持ちを固めていくこととなった。調べた所、狩猟免許一種を取るには、二十歳まで待たなければいけないことが分かった。その好機がくるまで、下準備をしなければいけない、と貴子は考えた。
この頃、ほとんど匙を投げていた大学受験が目先に控えていたので、成り行き上、これと合わせて考えることとなった。
結果、存分に利用しようとなった。心を入れ替えた猛勉強が始まることとなった。もちろん、すべては復讐のためだった。獣医を志す振りをして、猟師になってやり、その分強烈に父を出し抜いてやろうと思ったのだ。しかし遅れを取り返すのは容易ではなかった。それこそ自分のすべてを犠牲にする必要があった。結果、一浪の末に獣医学部のある私立になんとか合格した。
大学に入っても、復讐の念は変わらず持続された。六年もの歳月を掛けて国家資格を取得する一方で、そのあいだ猟銃の射撃スキルが積み重ねられ続けた。貴子にとっては、腕を磨くのにちょうどいい期間でもあった。が、どれほどスキルを上げても、満足するというレベルにまでは到底いたらず、さらに射撃の腕を磨く学校に進学するなど、貪欲にながら訓練は続けられた。
感触を掴み、射撃の精度が少しずつ確かなものとなっていくその折だった。突如父が病院を引き払うことを宣言してきた。渡米し、そちらで隠居するつもりでいるのだという。そして貴子に対し、先制攻撃を食らわせる一言を述べたのだった。
「お前に残す遺産は、二百万だけだ。それだけで充分だろう? その他にも相続してもらう人がいる。それとは、お父さんが世話をしてきた大切な子だ。お前ならすでに分かっているのかもしれない。そういう子といえば、これまで一緒に仕事をしてきた仲間だ。つまり、鳥獣だよ。そのうちの一羽にすべてを託すことにした」
信じられないことだった。
アメリカのニューヨーク州ではペットを指名して遺産相続ができる手続きがある。極めて特殊な案件ではあるものの、すでに資産家がこれをやってのけた前例があり、権利の一つとして州内では認識されていた。父が永住権云々の話を進めだしたのは、そうした特殊な相続を確実に行うために他ならなかった。
事実を知るほどに、怒りがじわじわと煮え上がってきた。
その対象の詳細について父は明かさない。それは微細なレベルまで徹底されていた。ここは手許に残っているものと、父が残したという手続きを頼りに、独自の捜査を始めるしかなかった。
しかしこの問題を解決するには貴子はあまりにも無知な上に、無分別だった。手段を持たないばかりか、その手の策さえ持ち合わせていなかった。一向に結果を出せないまま、歳月ばかりがいたずらに流れる。悪いことに父が雇った弁護士は優秀で、裏で情報操作をしていたのだった。
貴子は猟銃の資格を得た後、まもなく渡米を決心する。そして、アメリカにて猟銃の研鑽を積む傍ら、情報を求め続けた。が、現地にやって来たからといって、成果が上がるわけでもなかった。むしろ英語ができない分、日本にいる時よりもずっと不利な点が多くあった。手続きに煩わされている内に、時間が経過していた。帰国を決めたのは、募りにつのった苛立ちと決別するためだった。
日本に戻ってからも、懸命に情報を求めつづけた。遅れを取り返そうと躍起になっていたのだったが、無情にも父の死は予定されていたようにやってきたのだった……。
結局、すべての計画は徒労に終わることとなった。貴子に残ったのは無力感と、怒りだけだった。
死後、母から聞かされたのは、「あなたのことを信じている」などといった、勝手とも取れる遺言だった。父は、獣医になってまっとうに生きていると信じたままにこの世を去ったのだった。追い打ちだった。
「父は、本当にどうしようもない人です」
と、貴子は強く言葉を放って、奥歯を一度強く噛みしめた。
「聞けば、母に遺した遺産も、ごく僅かばかりということでしたので、やっぱり動物のことしか考えていない人だったのでしょう。人のことなど、そして家族のことなどどうだっていいような人だったんです。獣医としての父は、立派だったのかもしれません。ですが、その分、父は家族を犠牲にしてきたんです。わたしたちは苦しめられ続け、最後までその扱いは変わることはありませんでした。それでも、あなたは父を尊敬する人とおっしゃるのでしょうか?」
瀧本に訴えているうちに、身体の内側から燃え上がる熱を感じた。まだまだ吐き出し足りない不満がくすぶっている。
「君は一つ勘違いしていると思う」
と、瀧本は注意深く、そして諭すように言った。
「本郷先生は、家族をないがしろにするような人じゃないし、薄情な性格の人でもない。それは、長らく先生の部下として、後輩として付き合ってきた僕が良く知っていることだ。決して、君の事が嫌いだったとは思わないし、むしろちゃんと娘として愛していたと思う。察するに時間がなかっただけなのさ。いつも心では、後悔ぐらいはしていたと思う。
君が行き過ぎだったと訴えるぐらいの叱責や、それにまつわる折檻だって、実のことを言うと、誰にでも経験があるようなことでしかないとも思う。親も、所詮人間なんだ。子に期待するあまりに、感情任せに行動してしまうことがある。完璧な教育なんて誰もできないし、それが何十年も掛けて行われる子育てとなれば、正直な所、そういった粗はどうしても生まれてしまうものだと思う。もっとも、そうした行為について肯定するわけじゃないんだけれどもね。行き過ぎは行き過ぎだ。心に傷をもたらす行為など、どのような理由があったところでやるべきではない」
彼のそれは、胸に響くどころか、強い苛立ちしか感じられない返しだった。貴子の胸に、こちらの事情など、やはり分かってもらえないんだという寂しさが込み上げてきていた。その寂しさがじわじわ怒りのエネルギーに濾されていくのを抑えながら言った。
「仮に、そうだったとしても、遺産までこんな仕打ちをしなくたって良かったじゃないですか? これはどう説明するのですか?」
瀧本の口がたちまち閉じられた。
ほらごらん、と貴子は肩から力が抜けるのを感じた。この人は、本当の父の顔を知らないまま自分の中にある虚像だけを守ろうとしているだけに過ぎない。だから、言っていることなど、信用するに足りないようなものでしかないのだ。
「父の遺書は、遺産相続に関わる手続きといっただけのもので、わたしたちのことなどは、何一つ書くようなことはしませんでした。日本では不当な配分があった場合、遺留分を根拠に裁判を起こすことが可能ですが、個人の意思を尊重するアメリカでは、そのようなことは基本できませんし、根拠にもならないのです。この仕打ちは、見方によっては間接的にながら、社会的罰が与えられるというのに近いように思います。少なくとも私はそんな感じで受け止めているんです。ですから、今すべてにおいて、満身創痍といった状態にあるんです」
「だったら、僕がアメリカにまで出て行って、確かめてみるとするよ」
と、彼は突如として言った。その顔には、最初に見た時に感じた溌剌さがぶり返すように、また甦りだしていた。
「僕が、君が見てこなかった真実を掴んでみたい。おそらく、君は間違った事実だけを信じ込んで、誤解しているだけなんだ。それが間違っていると、確かなものを得てくる。だから、チャンスを僕に与えて欲しい」
「いったい、何をするというのです?」
「遺書があったということは、選任の弁護士がいたということだろう? その人に接触してみるとする。そして、先生が遺産を託した、相手……その子が何者なのかを確かめてみようと思う」
「無理だわ」
と、貴子は一蹴してやった。
「娘のわたしでさえ、何年掛けても真実に行き着くことはできなかったんだから、他人のあなたが出ていったところで何になるというの。徒労に終わるだけよ」
「他人だからこそ、分かるということもあるんじゃないだろうか?」
と、瀧本は力強く言った。すでに何かを掴んでいて、そのことを確信しているといった自信がこもっていた。
「遺産というのは、どうしても人間関係についてのトラブルが発生しやすい種を持っている。弁護士が頑なに情報解禁を拒むのは、そうした流れを汲むことによるものが大きい。こういうことは他人こそが有利に情報を求めることができるはずなんだ。第三者的な立場ということもあるし、何より客観的にものを見られるからね。あるいは先生の弟子のような存在だった僕なら、新たな情報の道筋を切り開くことができるかもしれない。僕はそれができると思っているんだ」
「…………」
貴子が何も言えないでいると、瀧本の顔ににっと微笑みが浮かんだ。
「だから、待っていてほしい。僕が、しっかり証明できる情報を持ってきてくるから。と、その代わりといってなんだが、君がこれまでやってきたことのすべてを語ってもらわなければいけない。それとは、主に鳥獣たちを狙い、その子たちから某かの情報を手に入れようとしてきたことだ」
話すべきなのだろうか。正直なところ、駆け引きには応じたくもなかった。ただ、ここまで彼が申し出てきたことは多少強引ながらも、なんだかすべては貴子のために言ってくれているような気がしていた。少なくとも、自分はその熱意にだけは応えなければいけないように感じられていた。
貴子は彼から顔を逸らした。
「あなたが大方知っている通りですよ。わたしはライフル弾を盗んではそちらに気を引きつける工作を仕掛けた上で、病院内の全カルテをカメラ撮影したの……。もちろん情報を盗み出すためよ。伸一郎には倉庫室の鍵を予め開けさせるなどの協力をさせたわね。目的は、父の診察歴がある、そしてその中でテレメトリを装着している鳥獣たちの中から父の遺産を継いでいるだろう一羽を探し当てること。すべては父が述べた〝過去に診察した子〟が、ヒントなの。それ以外にはない。だから、わたしはがむしゃらにこれを求めるしかなかったの。何羽か検めている内に、必ず目的の一羽に出会えると信じていたの」
「狙いはよく分かったよ。だけど、見つかるまで本当に全部検めるつもりでいたのだろうか? それは、いくらなんでも無理があるやり口なのだと思う。君ほどの子なら、他に選ぶべき選択肢があったんじゃないだろうか。それなりに努力家のようだし、知恵はあったはずだ」
「あなたもよく考えてみて下さいよ。その他に、何か方法があるとしたらどういうものです?」
と、貴子はこれまで無茶苦茶な選択をしてきたことを、暗にながら思い返しつつ言った。
「何もないんです。こうするしか、仕方がなかったんです。それに、わたしは焦っていたの。これは早く解決しなければいけないことなのだとずっと思って行動してた……。すべては父への苛立ちと、わたしの欲求不満から始まったことだから、たとえそれが思いつきに近いようなものだったにしたって、このままでいくしかなかったのよ。ここは迅速さと、行動力こそが求められていたの」
「つまり、こうするしかなかったのだ、と」
「そうね……」
沈黙が落ちて、二人の口が固くなりだしたところで、彼は静かに言った。
「怒りが、行動を起こすきっかけだったというのならば、その中で〝優しさ〟を発生させる必要はなかったのだと思うよ……」
まったく脈絡のない一言だった。当然、話は断ち切られたように、接ぎ穂が見つからない状態になっていた。
何が言いたいのだろうか、と貴子は瀧本を見た。試すような目が、彼からじっと寄越されていた。リードを自分に引き寄せるように、おもむろにながらつづけに掛かった。
「狙撃術――君のそれは徹底していた。そして、それは鳥獣たちに致命傷を負わせないということに、焦点が絞られていた」
彼の言わんとすることが、少しだけ見えてきた。彼は獣医として目を光らせ、貴子が成し遂げた手の内を、しっかりと見ていたのだ。
その手の職業に就く人間だからこそ、気付くことがある。もしかしなくても、貴子が発揮した手腕の中身について、把握している可能性があった。
「考えすぎですよ」
と、貴子は軽く受け流す。
「わたしは、ターゲットを一羽ずつ選定し、狩猟対象として撃った――ただそれだけのことです。どこに当たったかは、問題ではないでしょう」
「だったら、僕のところにある、君が狙撃したターゲットの数々のその後の治療経緯……、そして行方、これらの情報について興味がないんだね? いま、ここで伝えなくても問題がないんだね?」
ちりちりとした怒りの火種のようなものが、彼の言葉の端々にくすぶっていた。
自分が手がけた鳥獣たち……。
彼らは今、どこでどうしているのか。貴子は迷いが沸き出したところで気持ちを殺した。
「そんなのは、興味がないわ。わたしに、何の役に立つというのかしら?」
貴子が突き返すと、突如溜めていたものが爆発したように、瀧本の眉間がぎゅっと寄せられた。
「こんなときに何を言う? 君が本物のハンターなら、自分がやった結果ぐらいちゃんと自分で押さえておかなければいけないだろう? それとも、君はハンターの精神など持っていない、単なる射撃屋だというのだろうか……?」
彼の剣幕に気圧されて、しばらくものも言えない状態が続いた。一方でひどく侮辱されていることは理解していた。ここは黙っているわけにはいかなかった。
「わたしは、射撃屋じゃないわ。本物のハンターのつもり。父への反動でなったものだから、それだけは譲れない。あなたの言う通りに、これはとても大事なこと。だから、心を澄まして聞いておくとするわ。どうなったのかしら?」
「……みんな、無事だったさ。その後、衰弱して死亡なんていう報告はない。野性への馴化も成功し、皆、自然へと復帰している。おそらく繁殖して子を儲けたなんていうこともあったりしたはずだろう」
怒張の気配はまだ顔に残っていたものの、口調は穏やかだった。意図的だったかもしれない。ならば、こうしたことは貴子こそが押さえていなければいけないことなのだ、と暗にながら諭されているようにも感じられた。
「そうだったの……?」
とはいえ、事実を押さえても、だから? というような疑問符しか沸いてくるものはなかった。それは、計画前からイメージしてきたことでもあったのだ。手がけた子たちはその後、幸せのうちに、野性に帰っていくのだ、と。
「これらは君が無謀というべき計画の中に、〝優しさ〟を発揮した結果に他ならない。ただ鳥獣を撃つだけなら殺せば済むことだ。腕の立つハンターにとってはそんなに難しいことではないのだと思う」
「それが〝優しさ〟だなんていう認識はないけれど、あなたがそう見なすならそうなのかもね。で、その〝優しさ〟なんだけど、これはわたしのプライドが成したことなのかも。ハンターってね、無駄な殺生を嫌うのよ。それこそお侍さんじゃないけれど、必要のない殺生はしない。ハントは狙った数だけしか実行しないし、そのターゲットだって苦しまないように、そして醜い死にならないように、尊厳を守る形で狩る。わたしがやったのは、そうしたハンターとしての、動物たちの尊厳を守る信条の一種でしかないと思う」
「それが事実なら、君が狩ったとされる例の熊に対してもそのようにするべきだったはずだよ。じつはあの現場を、僕はこの目で直截見ている。かなり酸鼻極まる現場だったというか、思い出しただけでぞっとするような光景だった。君はそれに工作を加え、現状が維持されるよう仕立てた。……この二つには矛盾が生じているとも言える」
「獲物解体が派手派手しくなってしまったのは、わざとよ。体内に溜まった血を振りまくことで、集まってくる鳥獣にアピールしておくの。熊は大きいから肉がたくさんある。だから、屠る鳥獣たちにたくさん集まってもらわなければいけない。それができてようやく、後始末という名の弔いが成立するの。それから工作なんだけれど、これにもちゃんと正当な理由があるわ」
貴子は気勢を上げ、弁解の口を止めずに続ける。
「ハンターのわたしが山の中にいるとそれでもって間接的に報せたわけなんだけど、これは、一言で言えば、無用な戦闘を避けるためだったの。だいたい、居場所を報せることはサバイバーにとって致命的な行為でもあるはずでしょうに」
「少なくとも、僕にはそのメッセージは伝わらなかったよ。別のメッセージというか、まったく逆の意味で受け取ってしまった。ほとんど挑発という具合に感じていた。そうそう、その時同伴していたハンターの子も特に何も言っていなかったな」
「それは、あなた方がそうしたことの経験がないからよ」
と、貴子は幾分の非難を込めて言った。
「その手のサバイバーなら、手の内を明かしていることをすぐに分かってくれる。きっと、あなたの同伴者はまだハンターに成り立ての子じゃないかしら。あるいは、独学で学んできたような、そんな特殊な人……」
うふん、と咳払いをした。
「礼儀というのがあるのよ、ハンターには。今回のこれは、撃ち合い沙汰だけはお互い止しましょうという一種の合図。でも、だからといって矛を交えるつもりが一切ないというわけではないわ。銃を所持しない形での戦いは別もの。今回だって、わたしはナイフで抵抗することもできた。でもやらなかったわ。わたしを追いつめたその人が、力量を認めなければいけないだけの人だったの」
「君は、手をださないでおいて、正解だったよ」
と、瀧本は言った。貴子を地上まで先導してくれたハンター二人をちらと横目で見やる。
「磯長さんは、それぐらいの人だからね。君とは通った学校こそは違うが、ちゃんとプロフェッショナル仕様の訓練を受けている。それは狙撃に限らず、ナイフも同じように言える。一時はソルジャーを目指したというぐらいの人だからね。本格度だけでいえば、どの面をとっても彼女のほうが一枚上手のはずだ」
その磯長は泰然としたあり様でいま状況を見守っていた。瀧本の視線に気付くと、顔を上げて意識的な動きを示した。
「それは、聞いたわ。ご本人の口からね」
と、貴子はちら、と磯長を気に掛けて言った。
「あえて、説明するようなことでもなかったと」
「そう。だいたい、わたしが大人しく投降したのも、出会った時点ですでに勝負が決していることの流れを掴んだからよ。完全に負けを認めた訳じゃないけれど、でもその時敵わないって思ったのは、事実なの」
「そういうことか……。だったら、それ以上は何も言わない方がいいのだろう。僕としては、ともかくここまで語ってくれてありがとうと礼を言っておく」
瀧本は顔を改め、律儀に頭を下げてきた。
「あとは、任せてくれ。期待していないかもしれないし、もしかしたら藪蛇だと思われているかもしれないけれど、でも、僕は確信しているんだ。ちゃんとした情報があるはずなんだ、と――」
「わたしとしては、あなたのやろうとしている事について歓迎なんてしていない……するつもりもない。それでもあなたはやるというのかしら……?」
貴子が言いながら一歩足を進めると、自分でも停められなくなった。
まもなく瀧本を追い越していったところで、声が掛かった。
「本郷先生のことを、どうしても信用する気にはなれないんだな……。君の中には、獣医としての志がしっかり植え付けられているというのに」
ぴたり、と足が止まる。
貴子は振り返った。見過ごす事のできない発言というものだった。
「獣医としての志……? そのようなものなんてないわ。先程のあなたが言う、〝優しさ〟というやつが根拠なんだろうけれど、でもそれはいましがた、わたしの口からハンターとしてのプライドからくるものだと説明したはずよ」
「それは、君の解釈だ」
と、瀧本は強引とも取れる一言を放つ。
「僕の解釈では、そのように受け止めることはできなかった。確かに、ハンターとしてのプライドもあった結果だとは思う。しかし、それにしても怖ろしい腕前を発揮したものだよ、君は。翼の中雨覆部――これを狙って撃つことは、至難の業だ。神経を研ぎ澄ますことは、ハンターにとって簡単なアクションではない。命を懸けて行うものだ。ともすれば、魂をすり減らす行為というぐらいのものでもあろう。つまり、一発撃つごとに、君は命を分けたんだよ」
命を、分ける?
瀧本の言葉が、スローモーションになって胸に響く。
「そんなこと――」
「言ったはずだよ。これは僕の解釈なのだ、と」
と、瀧本は言葉をおっ被せてまでして、揚々と言った。
反論してやりたい感情は胸のうちにあった。が、ここでそれをして何の意味があるのだろうかと考えたとき、急に意欲が萎んで何も言えなくなってしまうのだった。
命を分ける――
そのようなことを、自分は無意識にながらやっていたというのだろうか。そんなことはない。いつも自分本位に行動してきた。自分はそう自覚できるほどに、勝手な人間なのだ。狙撃するその時、そのように鳥獣を配慮するような意思があったはずがない……。
「…………」
悩ましい思いが悶々と続く。何を、わたしは迷っているのだろう。その迷いの元というやつからして、よく分からなかった。
「僕が、本郷先生のことを証明できたら、また帰ってきてよ。僕のところに」
と、瀧本が言う。
「病院は、本郷先生が建てたもので守ってきたものだ。だから、ある意味、君の家でもあるんだ。戻ってきてくれるようなことがあったら、無条件ですべてが違って見えるだろう。その時、君はいまの君のままではいられなくなる」
彼が言わんとする言葉の裏側には、どういうものがあったのだろう。貴子には表面上のことしか分からなかった。ともかく、ハンターの部分まで否定するというような感情はなかったはずだろう。瀧本もまたハンターの資格を有する者なのだ。もしかしたら、自分と同じ道を歩むべきなのだと、暗にながらそう諭してくれていたのだろうか。
だとしたら、その誘惑を聞き入れるわけにはいかなかった。彼は、憎むべき父の手下というべき男なのだ。従うことは、父への接近に繋がっていくことを意味する……。
貴子は突っ切るつもりで、闊歩を始めた。が、それでも瀧本は負けじと声を飛ばしてくるのだった。
「助手としてのポストを空けておくからさ、このことは、君の中でしっかり覚えておいて――」
ライトバンに乗り、延々とした森林道の移動がはじまった。伸一郎が項垂れたまま横に座っている。何かを言うべきなのは分かっていたが言葉にならず、ただ激しい車の振動に揺すぶられ続けていた。
「貴子……ごめん」
と、突如、伸一郎が極小の声でつぶやいた。あいだを置いていたとはいえ、隣同士には変わりはなかったからしっかり聞き取れた。
「謝るのはわたしのほうよ。わたしが立てた計画は無茶極まりないものだった。だから、あなたを振り回してしまったことを謝らなければいけない」
「…………」
伸一郎は顔を横向けて貴子をじっと見つめていた。普段にはないものが顔に浮かんでいるのかもしれなかった。貴子はそれが分かっていたから、あえて目を合わせるようなことはしなかった。
「もう契約は破棄になったから。あなたは、今日から自由よ。もちろん、わたしも自由。もうこれからは共に勝手に生きていくの。自分の道だけを選んで、突き進んでいくの」
ようやく、伸一郎の顔を見た。彼は思った通りにきょとんとしていた。
「どうして、急にそんなことを……」
「余計なことは聞かないで。ともかく、このままではいられないって思ったのよ。父も死んだし、わたしも新たなステップに進まなければいけなくなった。従来のままでやっていくわけにはいかなくなったのよ。それに、わたしは今、自分のために生きていかなければいけない時にきている」
「だったら、遺産の件のことは、もう……」
貴子は自分の膝元を見て、うなずいた。
「あなたには、迷惑を掛けたわね。もう、それはいいことになったの。ここまで振り回しておいて、いきなりそれかよとか言われそうだけれど、でも代わりが出来たんだから、そっちに賭けるしかないのよ」
「代わりって?」
「獣医の瀧本よ」
と、貴子は顔を上げて言った。
「あの人が、調べてくれるらしいの。期待して待っていてくれ、ということだったけれど、どこまでできるのかしら? このまま徒労に終わってくれればいいけれど……。どちらにせよ、これで区切りをつけることになるのだと思う」
貴子は瀧本が申し出てきた事の旨を伸一郎に話していった。
「そういうことか、つまりこのぼくは用済みになったわけだ……」
と、伸一郎は肩を少し落としてつぶやいた。いかにもねじけた自分勝手な反応と受け取った貴子は、思わずむっとする感情を得た。
「何を言っているの? そんなつもりでその人に賭けることにした訳じゃない。だいたい、瀧本の申し出というのは、ほとんど強引に取り付けるようなものだったんだから、こちらとしては拒否するまでもなかったことなのよ」
この時、なぜか伸一郎は落ち着き払っていた。
「ともかく、ぼくらは新たなステージに踏み込んだわけだ。これからはまた別の生き方をそれぞれ探さなければいけない。こんなことになってしまったのは、なんとなく寂しくって、理由のない悔しさがあるけれど、でも一方で一種の期待もある。……ぼくはもしかしたら、元の自分を取り返せるのかもしれない」
伸一郎の目は妙に感傷的だった。次に何を言い出すのか分からない恐ろしさを漂わせていた。
貴子は、このまま話が途切れるかというところまで黙った後に、慌てて口を開いた。
「……そうしなさいよ。こっちだって、それを望んでいるわ。いつもうじうじしているあなたなんて見たくないし、早く治って欲しいといつも思っていたんだから!」
そっぽを向いた途端、方向性が定まらないでいた感情について、ある程度区切りがついた。落ち着いて呼吸を整える。
「もっと胸を張って、堂々としてもらいたいわ。それが出来る瞬間を、わたしはずっと待ってた。二人で行動しているときは、とうとう出来なかったわね。……それが、こうして契約破棄した途端、できるようになっちゃうんだ?」
伸一郎の沈黙。
早く答えなさいよ、という内心の苛立ちを目に込めて、貴子は彼を見やる。ところがどれほど圧力を上乗せしても、伸一郎の中に流れているゆったりとした時間が変わることはなかった。
「できるようになっちゃうというよりも、いまのぼくはできているつもりでいる。それだけ、精神的な意味で大人になってきたということさ。いや、それだけの経験をもう積んでいるんだ。だから貴子の前だとできないというだけであって、普段はできるんだ」
いつもの彼ならば、絶対に口にしないようなことでしかなかった。
きっと、彼自身、自分でも何を言っているのかよく理解できていないに違いなかった。
貴子としては、ここで彼の言葉を理不尽にも断ち切ってやりたかった。が、彼の中で気持ちが満ちているらしく、そうすることができる隙というやつがまるでなかった。
「突然だけど、ぼくは貴子が好きなんだ……。だからこそ、貴子の前ではいつも思ったような感じに自分を出せないでいる。貴子からのぼくの評価は低いだろうけれど、ぼく自身は自分について、そんなに低い評価点を付けていない。本当は、もっとできる人間なのだと思っている」
「…………」
貴子は妙にしんみりとした顔でいる伸一郎の顔を、ただ見つめるだけで精一杯だった。予想もしないことが自分に起こると、何もできなくなるというのは本当だったのだ。頭の中をいくつかの思考の断片が浮遊している。しかし、それについての感情が伴わなかった。考える力自体が停止していた。
「もちろん、貴子への思いは同情なんかではあろうはずもない」
と、伸一郎は力強く言う。
「そういうのは、虫酸が走る、と君は過去に口にしたことをよく覚えている。同情なんかではない。本心だ。貴子が好きなんだ。もちろん、貴子がぼくに興味がないことはよく分かっている。だからこそ、傍にいられる選択が嬉しくって、ずっと君に言われるままに従ってきた」
「それじゃあ、今回のこれで決別する気持ちになったってわけ?」
「思いは、しばらく引き摺りそうだよ。形だけの自律ってことかな。離れてみれば、分かることもあるのだと思う」
「よく分からないわ。離れて何が解るっていうわけ?」
「ぼくにもよく分からないよ。この先は、暗闇さ。……でも、何もないわけではない。何かがきっとその先にあるはずなんだと思っている」
伸一郎はやけに満ち足りた表情でいた。彼なりに何かを掴もうとしているのかもしれないと貴子は彼をじっと見ていてそう思った。
悪い選択をしているというわけでもなさそうだから、きっとこのままでいいのだろう。そう思った瞬間、貴子も感傷的な気配が心に入ってきて、気持ちが柔らかくほだされていくのを感じ取った。
「もしかしたら、もっと早い内からそうすれば良かったのかもね……」
と、貴子は身体の力をそっと抜いて言った。
「それにしても、ごめんなさいね。わたしはいきなりそんなことを告白されても、なんだか本気だとは受け取れないし、あなたの気持ちには応えられない。これまでがそうだったから、ちっともその手の興味なんてあなたには沸かないの。自分でも薄情というほどに、気持ちの中が空っぽなの。これが嘘偽りないわたしの気持ち。……本心よ」
「分かってるさ」
と、伸一郎が力をこめて言う。
「これは一人相撲なんだって、ずっと昔から分かっている。今後も、発展しないことも分かっていた。それは二人の内の約束でもあったから当然だろう。それでも、ぼくは幸福を味わえた。だから、貴子との付き合いは後悔していない。いまもそうだ。もちろん、今日までやってきたことの罪はお互い償わなければいけない。この償いのことも合わせて、ぼくの中には何一つ後悔などない」
「……本当に、健気ね。でもそれ以上はよして。なんだか今度は、かわいそうになってきちゃう」
貴子は自分で言いながら、神妙な気持ちが顔に現れていくのを感じ取っていた。翻弄される気持ちを持ち直すそのために、フロントウィンドウからのぞける景色をじっと見つめた。
「本当に悪いんだけれど、やっぱりというか、腹の底を探ってみたところであなたへの思いなんてないわ。そもそもわたしはいつも男に対して冷めている。ある意味、軽蔑もしている。父が嫌いだったからかしら……? がっかりするようなことをこれから言うから、いやだったら耳を塞いで――」
息を呑んでから、続ける。
「わたしね、すでに何人もの男を作ってる。そして抱かれてる……。アメリカに滞在していたときは、ストレス発散のためだけに男を受け容れたわ。所詮、その程度の女なの。安くって、自分を一人でコントロールできない女なの……。でも、やっぱりそういうのにだって、愛情はなかった。あったと感じても、後から幻想になっちゃう。天性的に、男を受け付けない女なのかも。自分では何もできないくせして、欲求だけは一人前。わたしという存在は全部、エゴでできているのかもね。男の扱いだってね、きっとわたしにとって、エゴの付属品というぐらいのものでしかないのよ。ねえ、がっかりした?軽蔑した……?」
伸一郎は耳を塞がず、貴子を見ていた。優しい目をしている。
「もちろん、それは知っていたよ。そして日本で作った男を部屋に入れていることも知っていた。悪いけれど、狂わしい感情はとくになかった。ぼくも、ちょっと淡泊なのかもしれない。だからというか、軽蔑はしないよ。むしろ、それでこそ貴子なのだとも思う。そういう世に倣わないところが好きなんだ」
貴子は伸一郎の顔を見返しているうちに、勇ましい気配を感じ取った。なんとなく懐かしい気分になった。彼の顔から目が離せない時間が続く。しばらくぼんやりと気味にそうしていると、何を思ったのか、彼の方に微笑みが湛えられた。貴子は慌てて目をそらした。
「そんなどうしようもないところを、好きになんかならないでよ」
意地っ張りな台詞だけがどうしても口から出てしまう。
「これは、直らないことなんだよ」
と、伸一郎が言って、遠くを見つめる。
「これからもずっと、こんな感じで貴子のことを好きで居続けると思う。……大丈夫だよ。振り向いて欲しいとかそういうことではないから。ぼくらは、もう別々の道を進むことになったわけだし、すでに別れ道をともに歩んでいる……。自由なんだ。もう、これまでの通りに関わることはない。関わっても、元の従兄弟同士としてだよ」
「仮に、このまま離ればなれになったとして、これから普通の従兄弟同士としてやっていけるのかしら……? もう二度と会わない方が良かったりするんじゃない? わたしたちのケジメのためにも……」
「しばらくは、そういう訳にはいかないんだろうな。だって、瀧本先生が遺産について調査をしてくれるって約束してくれた訳なんだし、まだ、ぼくらはあの人を介して繋がっている。それが済むまでは、近くにいることになるんだ……」
「ねえ、どうなると思っているの、そのことについて。わたしは、あの人がやけに自信たっぷりでいたのがずっと気になってるんだけど」
「よく分からないな」
と、伸一郎は首を振って言った。
「なるようになるんじゃないか。何も起こらないというようなことはないと思う。あの人は、熱心な人だ。何かしら一つのことを教えるにしたって、真剣に取り組んでくれる。人という存在を無条件で信用しているし、愛してもいる。だから、情熱を駆使して何かしらの答えを向こうから持ってくるのだと思う。それができる人だ」
「そうだったとしても、答えが持ち込まれることは、必ずしもわたしにとっていいことじゃないわ……。その時は、憎くって堪らない、わたしの中の父の像が崩れてしまうことになるんだもの。そんなこと、あり得ない事なんだから……」
「怖れてはいけないよ、貴子」
と、伸一郎は言う。
「いま、ぼくの前で示してくれた素顔。その君には、強さが残っている。仮に受け容れがたいことが今後伝えられるようなことがあったとしても、乗り切って欲しい。そのためには、ぼくもどんなことだってする。それが、最後の仕事だ。ずっと味方でいるから……それは契約破棄をした今でも有効だから……、頼って欲しい」
味方。
琴線に触れる一言だった。そうだ、と貴子は思う。いつも、何も支えがない状態でひとりぼっちで振る舞ってきた。だからこそ、自分は絶対に裏切らない味方が欲しかったのだ。傍にいてくれる人間を求めつづけてきたのだった。それが、すぐ近くにいた。それも、義理なんかではなく、また口先だけでもなく、本心から支えてくれる男がいた。
ほろり、と貴子の目から涙が伝う。これまでの涙など、耐えられない屈辱や、自分への呪いからくるものが大半を占めていた。それだけにこの種の涙は、初めて流すもののように感じられていた。小さな感動があった。顔がひどく熱くなっているように感じられた。
「ありがとう、伸一郎」
昔日の記憶、それがいま、少しだけ切り開かれていた――