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グラン・ブルー  作者: MENSA
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グラン・ブルー3

第三章

 

     1

 

 研修三日目の朝は、座学が中心の研修となった。救護技術に関する幅の広い講義とテレメトリと呼ばれる追跡用の小型発信機についての説明がその中身だ。

 オオワシ、オジロワシなどの海ワシ類やその他の天然記念物指定の鳥獣は、健康診断と生態管理のために捕獲し、標識用足環を装着した上で、テフロリボンで結ばれた発信機を生きていくのに支障のない程度に胴体に設置する。飛翔経緯はすべてシステムにより、データ管理される。またGPS機能と連動させることで、地球規模で生態系の流れを把握できるようになる上、さらにモニターにその様をリアルタイムに映し出した、総合的なシステム管理が可能になるのだった。

「明日はちょっと遠出して、テレメトリを装着した一羽を捕獲してみようと思う」

 と、瀧本は研修生たちに向かって努めて朗らかに言った。背景で進行している事件の捜査事情について、いまだけは頭から離していた。

「先生、それって、ちょっとの遠出ですまないんじゃないでしょうか」

 朝倉が手を上げて言った。

「そういえば、朝倉くん。君はたしか、長距離移動が苦手だったんだっけか」

 と、瀧本は返してから、目算に掛かった。うーんと唸る。

「ま、出かけるとは言っても、中標津ぐらいだろうね。隣町だ。それでも車で一時超はかかるから、往復で結構な時間にはなるか……。どうあっても、その日は一日いっぱいテレメトリの実習になると思う」                    

 朝倉がげんなりした顔を見せたところで、瀧本は意に介さず勢いを上げて言った。

「ちなみに、これは立派な研修という名目で行われるものだよ。そして同時にこれは僕の業務として行われることでもある。そのことを確かに証明してくれるのが、テレメトリという機材だ。これは、運用年数が主に二年と決まっていて、ことあるごとに交換しなければいけないんだ。せっかく観測している鳥獣の飛翔記録が途絶えたら、そこで終わりだからね」

 飛翔中にテレメトリが外れる事故は、しょっちゅう起こっていた。結束具のテフロリボンに欠陥があるわけではない。鳥獣の羽毛が夏冬仕様の換毛期に入ることで自然と外れてしまうのだ。かといって伸び縮みするような素材を使えば、無駄に長命となってしまい、今度は鳥獣の虐待にも繋がる拘束具と化してしまう恐れが出てくるのだった。

「そのテレメトリなんですが、ちょっと一つ質問して良いでしょうか?」

 と、遅れて言った朝倉は、気持ちを取り直していた。

「現在のデータ管理は、いったい何羽分にまで及んでいるのでしょうか? システムの規模が知りたいのですが……」

「一種あたり毎年、五、六羽は新たに装着している。野性のワシの寿命が二十数年またはそれ以下だとすれば、オオワシに限定して言えば、単純計算で百羽は管理していることになるね。全部生き残っている訳ではないだろうから、少し数を減らして七十羽ぐらいと見ていいんじゃないだろうか。つまりオジロワシと合わせれば、推定百五十羽近くになる、と。それ以外を含めた全体の総数でいえば、三百羽は超えるんじゃないだろうか? だから、明日捕獲するのがどの子になるかは運だよ。僕も思ってもみない子を捕獲することになるのかもしれない」

「それって数年ぶりの再会になるかもしれないんですよね」

 と、小鈴が幾分はしゃいで言った。

「まあ、そうだけれど、小鈴くんがいま頭に描いているような、そんな感動はないよ」

「どうしてですか? 先生の子供のような存在だったりするんじゃないのでしょうか?」

「病院で診ているあいだは、本当に子供だよ。でも、野性に帰った子は、そうじゃない。あの子らの親は別にいるし、自然そのものが親ともいえるからね。だいたい、向こうが僕の事を覚えていないケースが多いんだから、情を求めたところで駄目なんだよ」

「そういうものなのでしょうか……」

 と、小鈴はしょんぼりとしたような声で言い、黙り込んだ。

「ところで先生」

 と、今度は深澤が声を上げる。

「止まり木に休んでいる鳥を捕獲するとなれば、麻酔銃を使用するという事になりましょうが、これの用意はどうなっているのでしょうか?」

 これから行われるのは、麻酔配合の実習であって麻酔銃による捕獲の実習などではなかった。彼のその質問は、実習で配合されたものがそのまま麻酔銃に使用されるのだろうと読んでのことだったはずだ。

「それは、ここにはないよ。借りてくることになる、猟友会というところからね」

「もしや、その様式は、ライフルでしょうか……?」

 と、矢庭が鋭い口調で言った。

 そういえば、彼は猟銃についてある程度の見識があるのだった。彼に対してだけはその手の知見を披露したところで、支障はないはずだった。

「ライフルの中でも、エアーライフルというやつだ。CO2のガスボンベがカートリッジになったものを装填する。エアーガンと原理は変わらないと思っていい。でも、見かけはボルトアクションのライフルそのものだから、威圧感はある」

「なるほど、……CO2タイプのエアーライフルですね」

 彼の顔には、銃に精通している事による得意な色合いはなかった。むしろその逆で、妙な堅苦しさがあるのだった。

「……どうも、猟銃ばかりじゃなくってそちらにも知識があるみたいだね、君は。知っての通り、麻酔銃の取り扱いは猟銃とはまた異なる。麻酔取扱者の資格を所持していなければいけないし、申請許可の手続きもその更新も、いちいち面倒ときている。別物の資格を取得するとまで言っていいのかもしれない。狩猟の経験がある君の親戚がそうしたものさえ所持していたというのなら、その人は、あるいは研究者の一面もあったということになってくるね」

「そういう事実はありません。そして、その手の銃を見せてもらうようなことだってあったわけではありません。が、ぼくは麻酔銃について、ある程度は知っています」

「それはどうして?」

「将来的に必要なのではないか、と思っているからです」

「なるほど」

 と、瀧本は推理を巡らせながら顎を揉んだ。

「相当な思いがある……といつかに述べた通りに、本格的に野性専門の獣医に転向しようと、考えているってわけだ。それで、麻酔銃を取り扱える資格もそのうち必要になるのではないかと君は思っている。そういうことなんだね?」

「はい、そうです。それで先生。麻酔銃を取り扱える技術を持っていないと、この手の業界では厳しいのでしょうか?」

「あるに越したことはないという程度だと思うけれど、僕のように個人病院をやる人間の場合、どうしても僕自身がその仕事をしなければいけない時が、何度かやってくる。とくに生態系の監視を中心に保全活動をしている僕の場合は、その回数は比較的多いように思えるが」

 矢庭はほとんどしかめっ面というような態で口を閉ざしていた。面倒な手続きをしなければいけないことが彼にとって堪らなく煩わしいことなのだろうか。

「もし、それがどうしても叶わないなら、別のやり方がないわけではない」

 と、瀧本は彼の顔色をうかがいながら言った。

「それとは、別の人間にお願いするという単純なものだ。前にも言ったけれど、僕の病院も所属する、傷病鳥獣保護ネットワークは道東エリアをすっぽりと包むぐらい規模が大きい。だから、いろいろな人間が関わっている。これを利用しない手はないだろう」

 矢庭の顔がのそりと緩慢に持ち上がる。

「要請すれば、本当に、来てもらえるんです?」

「もちろん来てくれるさ。こちらは環境保全や、生態系管理という大きな目的があるからね。その仕事の一貫だと思って、生活の一部をつぶして応援に来てくれる。というより、明日どんなものか直截見てもらうわけだから、その実習を終えてから君なりに考えてみたらどうなの? いま何かを決めるのは早すぎるだろうに」

「はい、そうします……」

 なぜかしら、返ってきたのは部屋が一瞬しんとなってしまうぐらいに沈んだ声だった。

 沈黙という邪気を払うように、朝倉がぱんぱんと陽気に手を叩いた。

「先生、そろそろ麻酔配合の実習をお願いできますでしょうか?」

「そうだったな、君の言う通りだ。こうしている場合じゃなかったよ」

 ここに集まっているのは獣医師会のメンバーを中心に構成された研修生たちだ。だからこそ、麻酔薬の取り扱いは心得ていて、薬品に対する知識も豊富だ。資格もある。配合について少しだけの知恵を授けてやるだけで、後は自分なりに理解を進めてくれることだろう。

「それじゃ、本題に入るとするね――」

 瀧本は、実習のために用意していた機材を取りだし、教台の上に並べていった。

 

 鳥獣用の麻酔薬はケタミンとキシラジン注射液を混合したものが使用される。前者のケタミンは希少薬で値段が張るため、これを配合して完成させる麻酔薬は一本も無駄にできない高リスクがつきまとうのだった。

「オジロワシなんかは体重が三十キロ超あるわけだから、ケタミンの配合率を多めに調整する必要がある。あらかじめ狙う個体が限定しているなら、体重を目安にすればいい。それが分からない場合は、いま僕が教えている標準な仕様の配合率で作るといい」

 麻酔薬の配合をしくじると、死亡事故につながる恐れがある。その頻度は決して低くないため、獣医は常に麻酔薬に対し、高い見識を維持しなければいけなかった。

 瀧本は二種類の薬品を混ぜた配合ビーカーを手に取り、持ち上げた。混ざり具合を眺める。いつもに見る透明度が保たれていた。

「これから、麻酔弾にこの薬品を注入していくとする」

 カートリッジに入った細長いシリンダー。先端には長い針が装着され、その反対側にはどこに飛んでいっても発見できる蛍光標識がついたキャップが締められている。瀧本はそれをあらかじめ外しておいた上で配合ビーカーのゴム皮膜に一本のシリンダーを差し込んだ。しっかり噛み合うように注射器を連結させ、血を抜く要領でシリンダー内に麻酔薬を満たしていく。

 注入し終えると、注射器を抜いた上でキャップを閉じれば一本の麻酔弾の完成だ。

「麻酔弾の保管は、基本しないほうがいい。作った分は、二十四時間以内に使い切るか、処分しなければいけない」

 熱心に聞いているのは、赤坂と小鈴だった。

「最初から、多めに配合しないほうがよさそうですね」

 と、目が合うなり赤坂が言った。

「多めに配合した方がいいに決まっているよ」

 と、瀧本は反論する。

「最低、五本は作っておくべきなんだ。麻酔銃の腕に覚えがあったところで、一発で効いてくれない場合がある。個体差があるんだ。それに、捕獲は山の中で実施するから、予測しないことが次々に起こる。計算違いだったということにならないよう、あらかじめ少し多いというぐらいに予備分を持っていけば、確実なんだ」

「麻酔銃の飛距離はどれぐらいでしょうか?」

 小鈴がペンを持ち上げて言った。

「最大三十メートルはあると思っていい。けれど、たいてい麻酔銃というものは猟銃と違って、距離をできるだけ詰めて撃つものだ。対象との差は、十五メートルほどが理想だ。鳥獣の場合は、どうしても最大射程距離をめいっぱい使ってしまうことが多いけど、その分、射撃精度が落ちることを頭に入れて欲しい」

「猟銃と思って使用すると、ダメなんですね」

「別物だよ。ただ、見かけは狩猟そのものだし、撃つまでの動作や手順だって狩猟時の取り扱いと同じだから、まったく別物というわけでもない」

「それって撃ったときの、反動もないんですよね?」

「ある程度はあるよ。でも、猟銃と比較すればたいしたものではないというぐらいだ。小鈴くんにも抵抗なくできることだと思う」

 瀧本が言うと、彼女はたちまち拒否の反応を示した。

「よしてください。わたし、そういうのやりたくない人ですから。いくら保護監視のためという目的があった捕獲とはいえ、荒っぽい事だけはしたくないんです」

「そうか、勝手に巻き込んですまない……。じつは、こういうのは苦手だったんだね。でも、だからといって明日の実習は辞退してもらっては困るよ。遠くで見守るだけでいいから仕事の内容は見届けてもらう事になる」

「もちろん、参加させていただきます。麻酔に掛けられた子を、看視する役はわたしの仕事でしょうから。傍で見ているのも駄目だとまでは、言っていませんよ」

「ともかく、支障はないって分かってよかったよ。こういうのは常に全員がそろっていなければ、駄目なんだ」

「怖い気持ちは、あるんだろう?」

 と、深澤が割り込んで、小鈴に問う。

「多少はね。そういう深澤くんはどうなの?」

「銃についてはあれだけど、立場上、注射慣れはしているからね。だから、それが合体した麻酔銃も基本、同じような取り扱いだよ」

「そうなの? それで、ここにいるみんなもそんな感じなのかしら?」

 小鈴がきょろきょろと研修生たちを見やる。大半が同意的な感情でいた。ただ一人、矢庭だけが固い顔をしていた。

「ねえ、矢庭くんはどうなの? わたしと同じように、怖かったりしない?」

 と、小鈴が同意を求めるように言った。

「そういうのはないね。みんなと同じだよ」

 流したその言葉も、なんだかぎこちがなかった。瀧本は彼の顔色をじっと見ていたが、裏がありそうで、そうでもないような感じだった。結局、判断だけで分かることは限られていた。

 その日の実習は、矢庭以外の研修生たちが盛り上がる形で終わることとなった。

 

     2     

 

 身支度を終えた瀧本はRV車を駆りだし、病院から一山回り込んでいった先にある、猟友会所有の山小屋に入った。時刻は、夜半の十時を回っていた。

 瓜生玲奈は、すでに来ていた。ロビーしか明かりの灯らない空間に所在なげに立って待っていた。顔を合わせたことは何度かあったものの、面と向かうのは初めてのことだった。

「どうも、瀧本です。よろしくお願いします」

 瀧本はハンター帽のつばを摘んで、彼女にぺこりと頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 少なくとも、いつものパワフルな彼女ではなかった。いかにも無口を表明するような、感情のない顔をしている。猟師として最大限に気持ちを引き締めた状態にあるというべきなのだろうか。ともかく話をするときには、自分からリードしていったほうが良さそうだと思った。

「さあ、行こう」と掛け声をあげて、瀧本は入り口を示した。彼女は踵を返してラウンジソファー近くの壁に立て掛けていた猟銃ケースを取り寄せ、中からライフルを抜き出した。銃筒は傷一つなく、銃身を支えるサコ・ストックには丹念に塗り重ねられたニスの光沢さえ見受けられる。

「大事にしているようだね、それ」

「命ですから」

「命? 君は、まだ大学生だったはず。それなのに、銃にそこまで入れ込んでいるんだ?」

「はい。とにかく今、夢中なんです」

 パトロールが始まった。瀧本が懐中電灯を持って先導役を担う。彼女は後方支援という形での追従だ。それも、あくまで銃紐を肩に掛けた待機姿勢での移動だ。実際に臨戦態勢になるのは、非常事態が起こったときに限られる。

 エゾマツ林は立ち入ってくるのを拒むというような、冷たい威圧を静かにながら湛えていた。風もなく、獣の気配も感じられない。何かが起こるとしたら、突然だろう、と瀧本は周囲を見回しながらそう思う。

「瓜生さん……、今日呼ばれたのはどうしてか、知っているかな?」

 瀧本はちらちら後ろを振り返って彼女の顔を確かめながら言った。少しぐらいのことでは動じない堂々とした闊歩を彼女はつづけていた。歩き方もなんだかがに股で男っぽい調子があった。

「知りません」

 首も動かさずに答える。

「実は」

 と、前を向いて瀧本は言った。

「僕が、セッティングしてもらうようお願いしたんだ。つまり、君を指名して来てもらったということ」

「そうだったんですか?」

 彼女は気のない風に言い、しばらく時間を置いたのちに言葉を継いだ。

「どうして、わたしなんかを?」

「是非とも、聞きたいことがあってね。というのも今回、僕の身に起こった事と関係があることなんだ」

「つまり、その案件について、わたしが絡んでいるのではないか、という風に見ているわけなんですね?」

 彼女は緊急のパトロールが実施されるまでにいたった背景を当然のように知っている。だからこそ、瀧本が持ちかける話題について大半を省略することが可能な状況にあった。

「必ずしもそうじゃないさ。でも、その可能性があるとだけは言っておこう。ちょっと、犯人の条件がいくつか出てきてね、君はその何点かに符合してはいるんだ」

 と、瀧本は歩きながら言った後、彼女に振り返ってぴたりと足を止めた。すると彼女も二歩ほど遅れて止まった。

「わたしは、違いますよ。この銃は借り物ですが、いつもこればかりを使わせてもらっていて、ほとんど自分仕様になっているものです。瀧本さんのところから持ち出されたライフル弾とは口径が合いませんから、盗み出した弾を装填したところで、撃つことはできません」

「それが借り物であるように、盗んだ弾に合わせて銃を用意するということもできる。だから、ある意味、狩猟の経験者がある者なら、誰でもある程度の疑惑が掛かるものなんだよ」

 彼女は無表情で瀧本を見ていた。前方向を照らしているライトと、僅かな月明かりだけが頼りなだけに能面を見ているというぐらいに無愛想に映って見えていた。

「疑いを晴らす方法は、一つだけ」

 瀧本は息をついて言った。

「君が狩猟なんかに興味を持った経緯を、しっかり僕に教えてくれること。何をやるにしても、動機というものがなければ人は最後まで行動を為し得ないからね」

「疑いを晴らすには、どうしても話さなければいけないようですね?」

「面倒なことを押しつけてすまないけれど、でも君への疑いを解くには、こういうやり方しかないんだ」

「…………」

 彼女は口を結ぶなり、うつむいた。瀧本は怯まずに再び同じ問いを差し向けた。

「……君はどうして、狩猟なんかに興味を持つようになったのか、まずそれを教えてもらえないだろうか?」

 しばらく沈黙がつづいた。やがて持ち上がった彼女の顔は、応じてくれる気配を見せていた。

「話しますよ。ですが、こういうのは、一から説明しなければいけないことなのでしょうか? だとしましたら、すごく長くなりそうなんですが……。わたし、そんなに話をするのが上手い方ではないですし……」

「上手くまとめた説明なんて期待していないよ。だから、君の言葉で語ってもらえたらそれでいい。もちろん、話すかどうかは君に委ねられることなんだけれども」

 彼女は再度うつむき、小さくうなずいた。

「わたしは……」

 と、彼女は躊躇いがちに口を開いた。

「大学の先生にそうした資格を持っている人がいたことが一番のきっかけでした。その先生は生物学の先生です。そのお方の下に就いて、野生鹿の生態について研究していました。それでデータ採取のために何度も調査に出かけなければいけなくなったのですが、そこで困ったことが起こったのです」

 彼女は顔を上げて、瀧本をしっかり見据えた。

「その答えが、何か分かりますか?」

 急な水向けだった。まさか、そのように話を進めてくるとは思っていなかっただけに戸惑ってしまう。

 瀧本は一先ず首を捻って、思案に暮れた。

「いま、頭に浮かんでいるのは……、熊にでも出会してしまって、調査をつづけるのが怖くなったとかそういう事なんだけど、さすがにこれは違うよね?」

 否定的に言いながらも、あり得ない事ではないとは思っていた。

 熊のような猛獣と出会すような事を経験すれば、誰でもその時点で恐怖が擦り込まれる。結果、目的遂行と秤に掛けてしまい、自らを危険に晒すようなことはしなくなる。

「正解です」

「なんと、当たっていたか……」

「でも、厳しく言いますと、細かい所でちょっと違っています。狙ったところだけは当たっていると、言っておきます」

「となると、熊じゃない別の猛獣ってことかな?」

「はい、そうです」

「君が通っている大学の周辺の山だよね? あそこら辺に熊以外の何がいたっけか?」

 該当の猛獣を考えるも、普段からその手の猛獣を相手にしているはずなのに、なぜかしらこんな時に限って、ぱっと思いついてくれない。

「……猪です」

 と、彼女は少し自嘲ぎみに言って、目を細めた。その顔は、少し恥じらっているようでもあった。

「いきなり現れて突進してきたんです。見たら、近くにうり坊がいたんですね。母猪がわたしを敵と見なしたわけです。もの凄い勢いだったので、本当にびっくりしてしまいまして、その時近くにあった崖に転落してしまったんです」

「分かった。その時大怪我をしたってわけだ。それでいろいろ怖くなってしまったんだ」

「いいえ、怪我のほうは軽傷で済みました」

 と、彼女は首を振って言った。

「ですが、気持ちのほうに強いショックを受けてしまいました。その後も尾を引いて、家から出られなくなってしまったんです。それこそ大学を辞めるかどうかというところまで悩みましたね。なんだか、恐怖が自分の中でずっと続いていて……些細な事で反応してしまうようになったんです。あとこれから先、こんな辛い思いをしてまでして調査をつづけなければいけないのかと思うと、すごく気が滅入ってしまって……。とにかく先のことが考えられなくなったんです」

 体重が十キロ超も落ちて、一時は入院までしたということだったから、その時の瓜生は今とは別人というような感じだったのかもしれない、と瀧本は彼女を見つめながらそう思った。

「そこで先生が自宅のほうに様子を見にきて下さって、狩猟免許についての話をしていただいたわけです。それまで先生がその手の資格を持っていることなど知りませんでした。ですから、いろいろカルチャーショックがあったのです。最後に先生はこうおっしゃいました。山は怖い。だから、味方が必要だって。それが猟銃だったんですね」

 説明しながら、彼女の中で湧き上がってくるものがあるようだった。みるみるうちに、その顔の血色が良くなっていく気配が認められた。

「ともかく、わたしのなかに植え付けられた〝怖い〟という気持ちが一人だけのものじゃないって分かりまして、そのことにまず、わたしはほっとしたんです。だから、その時の先生の教えが身に沁みたのでしょうね。……わたし一年後には、言いつけどおりに狩猟の資格を取得したんです」

 これまで堂々としているように見えたのは、じつは銃という味方がついていたためにちがいない。もしかしたら、銃を下ろした途端、彼女にまた別の顔が現れるのかもしれなかった。

「とにかく、君が猟銃を握る経緯はわかったよ。それにしても、単に味方をつけるつもりだったのが、夢中になってしまうだなんてね」

「本当に、何が起こるか分からないものです」

 と、彼女は銃紐を脇下に引いて、銃身を握った。

「入院していた頃までのわたしからすれば、いまのわたしはあり得ない姿でしょう。銃を握るなんてことは、これまでに一度だって考えたことなんてありませんでしたから」

 ライフルを見つめる彼女は、どこかうっとりとした目色があった。バレルの先には発射口のリングが噛ませられ、フロントサイトとしてブレードが備わっている。タンジェントサイトの凹部で、照準を定める仕様。これは、ライフルには珍しい機能だ。

「愛用しているというその銃、これまた珍しい仕様だね?」

 と、瀧本は彼女のライフルを見つめながら問うた。

「旧ソ連の年代物です。TOZー17といいまして、重さは一キロちょっととかなり軽量仕様なんです。火力もそんなに大きくなく、猪撃ち専用の銃と言っていいぐらいのものです」

「なるほど君にぴったりだ。でも、半世紀以上前の年代物だろうからメンテは大変そうだね。暴発の心配はあるだろう?」

「あちこち改造済みです。ですから、ある意味新しいですし、ある意味でぼろぼろです。一番の改良点は、カートリッジを装填する方式なのを、単発式に組み替えたことでしょうか? 見ての通り、ボルトアクションですからハンドルを倒しながら撃つんですが、単発式に組み替えたことで、一発ずつ自力装填しなければいけません。撃つその度に、ハンドルアクションと、弾の装填を同時にしなければいけない分、手間が掛かるのです。この二度手間が、一応安全仕様につながっているのは、事実なんです」

 銃の暴発というのは、弾が込められた状態で初めて発生する問題だ。単発式にすることで、むしろ不測の事態を避け、安全性が確保されるようだった。

「撃つごとに弾を込めなければいけないということは、いま君は手許に弾を控えているということになってくるね。持っているの?」

「はい、あります」

 彼女は多機能ポケットが装備された迷彩ズボンに手を突っ込んで、三発分の弾丸を取りだして見せた。銅製フルメタルコーティングのライフル弾だ。口径は彼女の申告どおり、瀧本の病院内にあったライフル弾の様式よりもずっと小さい仕様だった。

「これを直截持ち歩いて、さらには一発ずつ装填だなんて、実にアナログなやり方だ。でもある意味、気分は酔えるんじゃないだろうか」

 瀧本はふと気持ちが大きくなるあまりに自分でも思ってもみないことを言っていた。彼女も調子を合わせてくれたのか顔つきを変えていた。

「そうですね、自分でやっていて映画みたいなアクションだとか思ったりはします。ですが、いつもそんなことを考えて狩猟に参加しているわけではありません。わたしは、真剣にこれをやっていきたいと思っているんです」

 急に、勇ましい顔つきになって彼女は言った。旺盛な精神が暗がりの中でもはっきりと分かる程に露わになっている。

 ここまで彼女の思いを聞けば、彼女が犯人だなんてもう言えなかった。しかしながら、その可能性がなくなったわけではない。これは気持ちの問題でしかないことではあるのだった。

 とくに、単発式の改造銃を使用しているという事実には、見逃せないものがある。これは、どのような弾や銃にだって対応できるという高い技術の保持者であることを表しているのだった。

「行きませんか?」

 と、彼女は固い口調になって前方を目で示した。

「時間に追われているわけではないんですけれど、でも変に時間がかかり過ぎると会の人に迷惑を掛けてしまうことになりそうです」

「そうだったね、そうしようか?」

 すっと顎を引くなり、彼女は平たい目つきになる。

「それとも、わたしにまだ疑いが残っているというのでしょうか?」

「とりあえず、パートナーとして信用するよ。君は、充分なことを話してくれた。ここまで打ち明けてもらって、まだ君の事を疑うわけにはいかないだろう」

 瀧本が歩き出すと、彼女は歩調を合わせてついてきた。曲がりくねった砂利道。轍の跡がくっきりとしたそこは、雨が降ればあちこち水溜まりになることが予想された。道の端までは平坦だが、そこから先はきつい崖が拡がっている。進むごとに、勾配はさらに急になっていった。

「君がいろいろ話してくれて良かった」

 と、瀧本はしばらくしてから言った。

「女性ハンターについて、いろいろ分からないことがあったんだけど、これですっきりした。男の猟師とそう大差なんかなくって、みんな始める理由はほとんど同じなんだなって理解したよ」

「先生も、同じような理由で始めたとか、そういうことだったのでしょうか?」

 瀧本は彼女に振り返った。

「僕の場合は、人に影響されて始めたのが最初だよ。でも、最初のスタンスは似ているね。狩猟行為について偏見を持っていた辺りとか、そのまんまだ。僕も、数年前までは狩猟免許を取ってハントしている自分なんて、想像したこともなかったよ」

 彼女は歩を一定調子で進めながら、瀧本をじっと見ていた。

「狩猟は思った通り、僕の世界観を拡げてくれたよ。同時にそこから派生的に繋がる、その筋の道理についても理解を深める事ができた。もし、他に知らない世界があるなら、僕はもっと進んでこれらを吸収すべきなんだ。自分が成長するためには、必要な事だと思っている」

 この時、彼女の顔に、少しずつ何かが形になろうとしている気配が見受けられた。

 瀧本はたっぷり間をおいた後、息を吸い込んで言った。

「君が見えている世界も、僕の知らない世界だ」

 ぴたり、と二人の歩行が止まる。

 固く閉じられていた彼女の口許が、ようやく動き始める気配を帯びた。

「それは、遠回しにながら、わたしのことをもっと知りたいおっしゃっているようにも感じられます。それも悪い意味の方で、です。やっぱり、疑わしいものは抜けきらないのでしょうか」

「深い意味はないよ。今度は、ハンターとしての君の中身が知りたいというだけのことさ」

「それは、できません」

 と、彼女は目を逸らして言った。

「できない……? どうしてです?」

「他意はありません。なんとなくこれ以上はできないんです。わたしは自らの手の内を明かすことに抵抗を覚えます。ハンターがそれをやってはいけないでしょう。だいたい、わたしが見えている世界を先生が押さえたところで何になるというのでしょう?」

「例えば、仲間として連携する能力を高めることにはならないだろうか?」

「仮にそうだったとしても、わたしには同意できないことです。わたしが見えている世界は、きっとわたしだけのものなんです。もし、そのことをどうしても知りたいというのでしたなら、WINGS(ウィングス)のメンバーに聞いてみてはいかがでしょうか? わたしが所属しているところです。皆さん考えている事は同じで、相通ずるものがあると思っています」

「そのWINGSというのは?」

「女性ハンターだけが所属することができる団体です。猟友会とはまた別物の所でして、道東を中心に現在二十五名が登録しています」

 女性だけで構成されるハンター団体が存在する事は瀧本にも知っていた。彼女がそうだったというのは、初耳だ。たいてい猟友会に所属すれば、関連の組織について二重所属を避けるのが当たり前なのだと思っていたが、例外はあるようだった。

「では、君の助言どおり、WINGSのメンバーに聞いてみるとする。紹介してくれる人がいるのだろうか?」

「団長さんは、気さくなお方です。連絡すれば応対してくれると思いますが……」

「それじゃあ、その人と接触してみますよ。ホームページなんかを開いていたりするんだろうか。だとすれば、そこから連絡先を調べられるんだが」

「ホームページはあります。たしか、週単位で更新していたはずです。こういう場合、団長さんから預かっています名刺を渡せばいいんでしょうが、いまこのような格好ですから、取り出すのが面倒ですので、そうしてもらえればありがたく思います」

「それじゃ、そうするとしよう」

 彼女からうなずきを得た後、なんとなくパトロールが再開された。

 歩くごとに二人のあいだの親密感がどんどん沈んでいくような感触があった。景色が物々しい気配漂う暗がりだからこそ、一層そうさせていくのかもしれなかった。やがて、淡々とした業務進行という具合になった。

 山の高い所を折り返し、巡回路の半分を過ぎた所で瓜生の足が意識的に止められた。彼女は銃身を腕に抱いた。

「どうしました?」

 と、瀧本が彼女に問う。

 瓜生は左手、木陰のずっと奥を睨んでいた。集中力のみなぎった顔つき。いま、ハンターとしての側面を披露しているということでいいはずだった。

「なにか、血の臭いがしませんか?」

 瀧本は鼻を上向かせて、思い切り息を吸い込んだ。嗅覚が拾うものといったら、森の青い臭いと、土の湿った臭いとが混ざったものぐらいなものだった。

「何も感じないけれど……」

「いいえ、間違いなくわたしは感じました。血の臭いです」

 彼女が森に足を踏み出し、一歩ずつ前進していく。蛇の出そうな、ミズナラとクヌギの混成林だった。

「ちょっと、ライトないと、そっちには行けないよ!」

「問題ありません」

 彼女は足を止め、胸ポケットからゴムベルトの付いたライトを取りだした。登山用のヘッドライトだ。帽子の上に被せる形で装着し、進行方向の明かりを確保した。瀧本の所有する懐中電灯の半分以下の明るさしかないので、視界はかなり限定的だ。それでも彼女は足を止めることなく、前へ前へと突き進んでいく。やがて木々をくぐっていくと、小枝を踏み締める音だけになった。

 瀧本は彼女の後を追わず、制止の声だけを飛ばし続けた。が、その甲斐なくとうとう彼女は闇の中に消えていった。

 こうなると置いていくわけにはいかず、自分も彼女の後を追わなければいけなかった。瀧本は足下を照らしつけながら、ゆっくりと森の中に足を踏み入れていく。恐怖から、瓜生に対する不満が我知らず口からほとばしり出る。

 最初の関門であるクヌギのアーチを抜けると、瓜生のヘッドライトの光がずっと遠くにあるのを見た。案外森の中を進むスピードが速い。瀧本よりも狩猟経験がはるかに多いのかもしれなかった。

「先生!」

 と、遠くから呼ぶ声がした。

「どうしました?」

「こちらに来てもらえます?」

 何度もこちらを見たりうつむいたりを繰り返しているらしく、光が不規則にちらちらとまたたいていた。瀧本はそれを目標に林の中を突き進んでいった。

 近くまで着くなり、足場の草むらにべったりと赤黒い血の痕があるのを見た。近くにそう幹の太くない切り株があり、血はその断面に、破裂模様を描いて拡がっていた。根元も、その周辺の笹藪も血で濡れていた。かなりの出血量だ。微風が強烈な生臭い血の臭いを鼻先に届けてきた。胃の微かな蠕動を感じるなり、うっと生理的な声が洩れた。思わず、吐くところだった。

「これは、熊か何かがやられた痕かな?」

 瀧本は口許に手を当てながら言った。

「そのようですね。……ちょっと、あの木を照らしてもらえます?」

 瓜生はすぐ近くにあった、細長い枯れ木を指差して言った。周辺の木々が薄くなったところに孤立するように残った木で、ほとんど立っているのもやっとといった風情があった。

 瀧本は木を照らし、はっきりと自分の眼に映し出してみた。何度も曲がりくねって伸びる枝に黒いものがぶら下がっていた。それは、動物の臓物だった。人のそれよりも何倍もあるといった大きさと容量からして、見込みどおり熊の内臓なのだと思われた。

「やっぱり、ここにハンターが通ったみたいだ」

 瀧本は獣医としての顔を取り戻すことで、平常心を取り返した。臓物がぶら下がっているところまで歩いていく。

 高さ、二メートルもない枝だった。そこに洗濯物を干すように、結組織でひと続きに繋がった臓物が引っ掛けられているのだった。幹に近い方から、膀胱、直腸、肛門、膵臓、気管を含む二つの肺……。グロテスクではあるが、仕事は実に鮮やかというぐらいにスマートに行われている。臓物の先端の切り口は手で触ったら切れそうな程に、鮮やかな断面を見せていた。

「先生、それを引っ掛けてからの推定経過時間なんかは、分かりませんでしょうか?」

 彼女は臨戦態勢を維持しながら言った。

 瀧本は臓物の先端に触れ、血と肉の感触を確かめた。

「結構、経っていると思う。二日ほどこうして干されていたんじゃないかな?」

 臓器の密度の薄い箇所は強い陽射しを受け、早くも乾燥が始まっている感触があった。ふと気に掛かることがあって、足場を照らしてみると、鳥獣たちが集まって肉を啄んだと思われる光景が広がっていることが分かった。

 この時、血の臭いに紛れて、薬品の臭いがただよってくるのを瀧本は見逃さなかった。そう遠くない木からだ。当てずっぽうにライトを巡らし、一本ずつ木々を確かめていくと、膏薬状の薬品が塗りつけられている立木を見つけた。

「どうかしたんですか?」

 瓜生がライフルを抱えながら、近づいてきた。瀧本は幹に擦りつけられた作為の跡を彼女に示した。

「これは、なんですか? 火薬を嗅いだときの刺激臭に似ていますが」

 彼女は鼻を近づけ、何度も息を吸い込んだ。

「よしたほうがいい。それはきっと罠だよ」

 瀧本は彼女の肩を押さえて言った。

「罠、ですか? 何のです?」

「おそらくだが、人間用の罠ではないのだろう。だけど、これは人間に向けて用意された仕掛けなんだ」

「おっしゃる意味が、よく分かりませんが……」

「この薬品自体は、こうして吊り下げられた臓物にたかってくる獣たちを警戒させるために用意されたものだ。では、なんのためにそんな事をとなってくるのだが、それはこうした狩りを行ったという事実を人間に報せなければいけなかったから、それまでこの状況を維持する必要があったということなんだ」

 このとき瓜生は観察の目を絶やさずに、足下を見張っていた。それもそのはず、仕掛けを無視して食い散らかされた肉片が、彼女の足場にも拡がっているようだった。

「なるほど、そういうことだったんですね……」

 彼女の目が一瞬赤く光った。

「つまり、こちらにこれを仕掛けてきた以上は、その人物こそが犯人で、その人は今まさにこの山の中で生活しているということになってくるんじゃないでしょうか?」

 冷静に考えれば、まさかとは思う。

 だが、今しがた目の前に提示されている状況は、その可能性が高いことを示す光景なのだった。

 監視カメラの映像に移った、謎のハンター――

 その人物がこれをやったというのだろうか?

「もし、そうだというのなら、こんなに怖ろしいことはない。……ともかく、猟友会のメンバーに報告といこう。話はそれからだ」

「そのほうがいいですね。わたしたち二人では、できることが限られますでしょうし……」

 彼女はいまから強い恐れを抱いているようだった。

 瀧本もほぼ同じ感情を共有しているのだったが、瀧本の場合、それとは別に無力感も同時に感じていた。罠に掛かった獲物の気分だ。すでに逃げ場がないと分かった獲物は、檻の中でじっとしている。

死の予感に耐えるように、何もしないままほとんど無為に佇んでいるのだ。その感覚と同じものを今まさに得ているのだった。

 臓物のぶら下がった枯れ木を見上げた。翼を畳んだトビが夜目を光らせ、瀧本の方を凝然と睨んでいた。それも一羽や二羽ではない。十羽以上の群れが、その奥にてハイエナのように待機していた。

 

     3

 

 午前の六時に病院を出発して、二時間近くが経とうとしていた。がたがたと左右に揺すられる未舗装の山道に入っていた。瀧本が運転する車には、深澤と小鈴が乗り、後続の赤坂が運転する車には、矢庭と朝倉が乗っていた。

「いま、ターゲットはどうなってる?」

 車のスピードを落としながら、瀧本は助手席の小鈴に問う。彼女は受信器のデータ表示モニタを眺めているところだった。膝に抱えたノートパソコンに取り掛かるなり言った。

「いまのところ北北西に向かっているようですね。飛行速度は二十キロから三十キロぐらいといったところでしょうか」

「帆翔している途中なのかな? だとしたらこの後近くの森に止まってくれるのかもしれない。深澤くん、デジタルマップで森の中で停まりそうな中継地点なんかをいまのうちにピックアップしておいてくれ」

「分かりました、何点か把握しておきます」

 グーグルマップを利用した、テレメトリ装置との連動追跡。これで、目をつけたターゲットの捕獲までのロス時間を削減することができる。もちろん、必ずしも計算通りの進行とはならないために、監視だけは怠ることなしに続けていかなければいけなかった。

「あと三十分から一時間以内に休憩してくれるはずだ。僕の推理では、その子はすでに疲れてきているのだと思う」

 帆翔をずいぶんと長く続けていた。活発な気流に乗っているというのではなく、体力調整に入っている証拠だと瀧本は見なしていた。

「データでは四時間前に休憩していることになっていますから、わたしもそろそろ限界なのだと思います。ちょっと気になったんですが、いいでしょうか。ターゲットはここ三日間、同じ所をぐるぐる回っている記録が残されているんですが、これは何かあったんでしょうか?」

 小鈴がモニターを示しながら問いを向けてきた。

「格好の獲物がたくさんいるスポットでも見付けたんじゃないのかな? オオワシは食物連鎖のトップに立つキーストーン種のくせして、意外と意地汚いところあるからね」

 瀧本のところにやってきた急患のなかで、おかしな案件がこれまでに何度もあった。その中に、食べ過ぎでダウンというオオワシの一件があった。野性だからこそ、毎日獲物にありつけられるわけではない。その獲物が目の前に大量に登場したとき、満腹中枢を無視した、信じられない健啖を発揮する。結果、体重が規定をオーバーして飛べなくなってしまうのだ。

 食べ物を溜め込んだ素嚢にメスを入れたとき、吐瀉物のように溢れ出てきた稚魚の残骸に瀧本もその時ばかりは、呆れたものだった。

「でも、食べられるだけ食べるというのは、これもまた野性の習慣だと思うんだよね。もし、食べ過ぎが原因で飛翔能力とか他の種と争う戦闘能力とかが落ちるということが分かっていたなら、そういう行為はしない。その時、食欲を満たす本能だけに突き動かされていたんだ。これは、まさしく野性そのものが発揮されたという状況なんだよ」

「理性的な行動って大事なんですね」

 小鈴は気のない口調で言った。

「そういう無茶な行動も合わせて、彼らの魅力さ。もちろん、それで種が全滅なんてことになると困るんだけれどね」

「では、ターゲットさんも野性を発揮中なんでしょうか? けっこう体力的に無理をしているように思えるんですけれど……」

 ターゲット選定は今朝方、総合的な判断の元で決まった。瀧本が過去に診察した一羽なんかではなく、保護ネットワーク内で管理されるうちの、まったく別の一羽を選択する結果となっていた。

「身体を壊しても目的を果たすというのが野性さ。それでも、僕はその子を信じているよ。僕たちの実習に協力してくれるってね。根拠は求めないでくれ。こういうのはすべて経験則から言っていることなんだ」

 彼女は薄く微笑んだ。

「わたしも先生の経験則、信じるとします」

「先生」

 と、後部席から深澤がノートパソコンを確認しながら声を上げた。

「どうしたんだい?」

「動きが止まったようです。止まり木で休憩を開始したのではないでしょうか?」

「ちょっとわたしも確認してみます」

 と、小鈴もノートパソコンを繰りだした。

「ほんとだ。動きが止まっています。早速、休んでくれたようですよ、先生」

「一時的な行為という事もあり得る。もう少し、様子を見た方がいいのかもな。というより深澤くん、悪いけど今度はどこに車を止めたらいいのか、ベスト地点、いまから計算してもらえる?」

「分かりました。中継地点の絞り出しはすでに完了していますので、すぐに答えを出せると思います。あと五分ほど、いただけますか?」

「五分ね。頼んだよ」

 瀧本はグローブボックスの上に置いていた自前の受信器を手に取り上げた。外出時はいつも持ち歩いている機器だ。保護フィルムは年期を示すように剥がれてぼろぼろになりつつある。それでも本体の方は現役で活躍できるだけの操作性が充分維持されていた。

『HQG79835521』――

 今回のターゲットに付けられた認識番号だ。パソコン内に構築されたシステムに登録データを打ちこむだけで、診察歴と飛行歴、その他備考一覧を閲覧することが可能だ。ネットワークの関係者が共有しているシステムなので、外の人間がこれにアクセスすることはできない。言ってみれば、内部の関係者だけが共有する、極秘の暗合のようなものだ。

 しばらくして深澤が言った。

「この道をずっと行った先に、細い枝道があるはずです。そこを真っ直ぐ行きますと森林公園のキャンプ場があります。駐車はそこがベストなんではないか、と」

「オーケー。とりあえず、そこまで向かうとしよう」

 

 二十分後、瀧本たちはトドマツとカラマツが相互に入れ替わる、林の中を歩いていた。五人の研修生のうち、ノートパソコンを操作しているのは、深澤だけだ。赤坂は受信器を握り、矢庭は受信器につながるアンテナを預かっていた。朝倉については麻酔銃を抱える瀧本の補佐役だ。黒の医療バッグを携帯しており、その中には麻酔薬関連の事故が起こった時などの緊急対応ができる救護一式がそろっている。残る一人、小鈴はといえば、捕獲用の網を保持する担当となっていた。

「電波が急に悪くなったようです……」

 と、進行にいちいち注意を払わなければいけない程の大きさを誇るアンテナをあちこち巡らせながら矢庭が言う。昨晩に引き続き表情は暗く、なんだか思いつめたような気配さえ感じられるのだった。

「お前、扱い方がなってないんだよ。ちょっと代われよ」

 と、突っ掛かるように朝倉が言い、手に持っていた医療バッグを矢庭に突きつけた。ほとんど強引という形で役の交代がなされた。

「先生、かまわないですよね?」

 と、朝倉がアンテナ役になることの許可を申し出てくる。瀧本は依然として調子が上がらないままでいる矢庭が気に掛かっていた。

「君がやりたいというのなら、やればいいさ。ただ、何度も役の交代をすることは混乱を招く。それで固定してほしい」

「分かりました。以後、アンテナ役に徹します」

 コネクションで繋がれた受信器を操る赤坂と連携しながら朝倉のアンテナ操作がはじまった。積極的な意思があるとおり、加減が悪くても何とかしようという努力をみせた。電波を追い続ける彼らの姿が自然と遠ざかって行く。瀧本たちは追い掛けず、居場所特定の声が上がるのを待つことにした。

「先生」

 と、すっかり静まり返った林の中で小鈴が声を掛けてきた。いつのまにか、二人だけになっている。

「どうしたんだい?」

 彼女には、ひどく頑なな調子があった。

「昨日、何かあったみたいですね。何があったのか、話してもらえないんでしょうか? わたし、朝からずっと我慢していたんです」

 昨晩のパトロールで見てしまった、異様な景色……。思いだした途端、捕獲に向けて気持ちをあげていこうとしていたのが、一気に引っ込むのを感じた。

「そのことは、なんでもない。君の気にすることなんかではないさ」

「いいえ、気にします!」

 と、彼女は瀧本に迫って言った。

「なんだか、普通じゃありませんでしたから。わたし、それこそ重大なことがあったんだって確信しています」

「……もしや、他の研修生たちも何かがあったんだって、知っている?」

「話はしていませんが、……多分、知っていると思います」

 瀧本は息をついた。隠しても無駄なことのようだ。だいいち、ライフル弾が盗まれる事件にすでに巻き込まれている以上、無関係ではないはずだった。ここは説明する義務があるのかもしれなかった。

「ちょっと、驚いてしまっただけさ」

 と、瀧本は努めて気安く前置きした。

「狩られた熊が捌かれた現場を見てしまってね……それで、気持ちが冷え込んでしまっていたんだ。いまは五月だろう? だから、春の熊駆除期間中で、そういう風景があったとしてもおかしくない時期ではあるんだ。きっと、どこかのハンターがやったのだろう」

 瀧本は首を上向け、近くにあったトドマツの木にゆっくり背を寄り掛けていった。

「胃と、肝臓……そして心臓、すべて食べられる内臓だ。それだけを切り取って、後は木にぶら下げられていた。森の住民たちへのお裾分けさ。そういう配慮もできるハンターがごく僅かながらいる。本物の猟師ということでいいだろう。そういった鮮やかな手際をこの目で見るのは、実は初めてだったんだ」

「先生、誤魔化さないでください……」

 と、小鈴が神経質な口調で言う。

「わたし、嘘をまじえて言う人の言葉、すぐに分かっちゃう方なんです。いま、先生は嘘とは言わないまでも、何かを隠していらっしゃいます。……本当のことを言って下さいよ!」

 この時、瀧本はあの切り捌かれた臓腑の光景が目に再現されていた。味わった恐怖がじわじわと身体に甦っていく。

 冷静に考えれば、狩猟行為そのものについては、法律に抵触する行為などではなかった。許可を得たハンターなら、食い扶持を確保したというような程度でしかない。そして熊の解体、これだって問題はない。肉を解体するのは許可制ではないし、そのまま放置していくことは、むしろハンターとしてルール違反になるのだった。

 ただ一つだけ注意すべき点があるとすれば、それは解体現場近くの木に、切り捌いた内臓を狙う獣たちを寄せ付けない薬品の臭いを残していったという事実だ。例の現場に残されたあの仕掛けは、間違いなく犯人の顕示行為というやつに違いなかった。

 ――お前たちのすぐそばに、いる。

 そう、メッセージを伝えるために仕掛けがなされた。

 しかし、これには曖昧なところがあるのもまた事実だった。たったその行為だけでは、メッセージが弱すぎて、本当にそうだったのか確かには言えない。ましてや、脅迫の要件になり得るというまでには到底いたらないのだった。

 結局、どうにもすることができず、瀧本はすべてを猟友会の奈良に打ち明けた上で、彼に全面委任という形で託すことにしたのだった。これは職務を意識した結果の苦渋の選択だった。

「今度こそ、いま受け入れている研修を取り止めなければいけないようです……」

 と、暗い気持ちから抜け出せない瀧本がぼそりと洩らすと、奈良は即座に引き留めてきた。

「そこまでではないですよ、先生。わたしもしっかりとその模様を見ましたけれどね、先生ほど深刻には受け取っていません。あれぐらいでしたら、わたしにだって出来ますからね。それに、薬品を塗ったという妙な工作……。あれで威嚇行為になるんでしょうか? そりゃ、考えすぎというものですよ」

「本気で、そうおっしゃるのです?」

「このわたしは、冗談なんて一言も言いませんよ」

 と、彼はいたって生真面目に答える。

「もし、わたしがやるとしましたらもっと派手にやりますね。例えば、周辺にロープトラップを仕掛けるとか、落とし穴を掘るとかそれぐらいのことはします。あんな薬を塗りつけただけであの現場が長く維持されるとは思わないですからね。先生の見込みではああしてから二日は経っているということでしたが、まあこれは運が良かっただけだと思いますよ。少なくとも合理的なやり方ではないんです」

 奈良の目には、穏やかな気配だけがあった。いっそう励ますような口調になって、言葉を奮う。

「ともかく研修は続行して下さいよ。すべては、わたしに任せてもらえば問題ないですから。パトロールのメンバーを増やして、徐々にながらローラー作戦を実行することになると思います。そいつの尻尾を掴まえれば、あとは一気に追いつめられますよ。うちには、腕のいい狙撃手が揃っていますからね」

 いかにも気持ちが高まっている様子だった。というのも、今回の一件を持って、これまでに疑っていたメンバーのアリバイが証明されたのだった。彼は今、ますます強く出ていこうという気になっているはずだった。

「僕は、心配です……」        

 と、瀧本は祈る仕草を作って言った。

「奈良さんまで巻き添えになる恐れがあります。誰も、傷つくようなことがあってはならないと思っているんです……」

「心配しすぎというものですよ、それは」

 彼はやはり、軽やかに言う。

「誰も傷つくようなことはありませんし、こっちとしてもさせるつもりはありません。ですから、研修だって中止してはなりません。もしそうなさるというのでしたら、ある意味、我らへの侮辱という風に受け取らせてもらいますよ。先生だって仲間である以上、充分お解りだとは思いますが、こちらは名目上、プロフェッショナルのハンター集団ですからね。むしろ、一緒にいるだけで怖いものなんて何も無いとぐらい言ってもらいたいものです」

 奈良のハンターとしての沽券には、並々ならぬものがあったようだ。彼を信用しないというだけで、名誉を傷つけるような行為に觝触する。その時は、怒りを買うという程度では済まされないのだろう。彼に対し、恩義を感じている瀧本としては避けなければいけない選択のようだった。

 しかし、今回のこれにはこちらの安全が掛かっている。そんなことを言っている場合じゃないというのが、正直なところだ。人の命を何より、最優先に回さなければいけなかった。

 ここは勇を鼓し、中止の決断を告げるべきだった。

「やっぱり、僕は――」

「先生」

 と、彼から機先を制される。顔から迷いを読んでいたようだった。

「大事な事を頭から離してはいけません。それとは、先生の所にいらっしゃる、まだ小さなお子様ですよ。もし近辺を徘徊しているハンターが危険だとおっしゃるのでしたら、その子の安全も考慮して、病院から家族ともども避難すべきじゃないでしょうか。事態が長期化すれば当然、進退についても考えなければいけなくなってきます。最悪の場合、病院を引き払うという選択になるんでしょうか」

 単なる警告というには、現実に即した一言であった。

 研修を中断し、安全に徹する選択をするというのだったなら、それぐらいはしなければいけなくなってくる。ただでさえ、仕事に追われる毎日なだけに、長期の休養は難しい。保護センター内の猛禽類医学研究所の籍を復活してもらい、そちらに流れ込むこととなるだろう。結果、段階的にながら動物病院を手放すことになってしまいそうだ。

「自分だけ居残るという選択なんて考えたら駄目ですよ、先生」

 と、奈良が追い打ちを掛ける。ちょうど、最善策としてその選択肢をよく吟味している途中だったので、思い切り鼻白んだ。

「ケージには何羽の患者さんがいるというのです? 一羽じゃありませんでしょう? その他にもシマフクロウの雛がいると聞いています。彼らを見捨てる選択などあり得ませんよ。結果、先生一人じゃ、どうしても限界があるんです」

「そうですよね、ここには僕のすべてが、ある……」

 観念するしかなかった。

 奈良の進言どおり、このまま変わらずに状況静観といくしかなかった。歯痒い限りだった。まるで、自分はただそこに存在しているだけの空気にでもなり果ててしまったかのようだ。だが、守るべき命は一つだけではなく、複数抱えた立場にある。どうしても動物病院から離れるわけにはいかないのだった。

 すべては、この病院の存続のため――

 いつしか事の成り行きをすべて訴えてしまっている自分にはっとして瀧本は我に返った。小鈴は淡々とした表情を固定して、瀧本を窺い見ていた。

「今の話は、忘れてくれ」

 と、瀧本は彼女に対し、言った。

「忘れませんよ」

 と、彼女は瀧本の意図に反して、即座に言った。

「他の仲間たちにもお伝えさせていただきます。が、ありのままには伝えません。少し、話を軽くする感じに簡略しようか、と」

「どうしても伝える気でいるというのなら、そうした方がいいだろう……。いま僕がそうしたように、すべてを語る必要なんてないんだ」

 小鈴に話してしまったのは、彼女には嘘は通じないと分かったことと、こうしたことの切り出しが不意討ち過ぎたからだ。性に合わないことをしてしまったせいか、いま妙な罪悪感が胸のうちに募り始めていた。

「先生」

 と、小鈴が呼び掛けてくる。

「今回、現れています犯人について、いったい誰なのか、先生の中でまるで見当が付かないのでしょうか。わたしはそうは思わないのですけれど……」

「ちゃんと、考えているさ。だけど、こういうのは警察さんの仕事だ。僕らは、これ以上干渉しない方がいい。一応、君の安心を取り付けるために教えておくけれど、自力解決の線を進めてはいる。そっちだって、どうなるかは保証できないんだけれども……」

 無言という膠着に入った。昨晩もそうだったが、今日も風がない日だった。獣の気配もなく、その手の痕跡もなかった。

「と、いま報告……で思い出したんですけれど、そういえば先生に話していないことが一つありました」

 と、小鈴が思い立ったように口を切る。

「それとは、今朝方ノートパソコンを操作していて思ったことです。追跡対象の鳥獣たちのデータなんですけれど昨晩に確認作業をしていた時よりも減っていたんです……。突然な話ですが、早めに報告しなければいけない事だと思いましたので、今お伝えします」

「減っていた? データが? それは本当の話なのだろうか?」

 由々しき事実だった。研修生たちに、おかしな行動を取る人間がいたということになってくるのだ。

「もうちょっと、詳しく聞かせてもらえないだろうか?」

「もしかしたら単なる勘違いという事もあり得ますので、そう重大に受け止めないで下さい。消されていましたのは四件ほどのデータだったでしょうか。データベースの中に含まれるものとページ情報が酷似しているものです。また、データ削除関連のソフトが見慣れないファイルの中に隠されてありました。それでさっき移動中にその四件について確認しましたら、ちゃんと復活していたんです。データを示して先生に報告しようと思っていた矢先にこれです。ですから、そう重要度が高いことではなくって、今まで何となく報告できずにいたんです……」

「伝えなかったことの言い訳は聞きたくないよ。ともかく今は、次に取るべき対応だけを考えよう。とりあえず、君からの報告はそれだけで終わりなんだね?」

「はい、そこからは何もありません」

 このとき顎を引いていた彼女は、自然と上目遣いになっていた。

 ふうむ、と瀧本は考えた。

「何のために、データが消されたんだろう。というより、昨晩と、今朝方に比較してあったと思われるデータが限定的に消えていた訳なんだろう……? そのあいだに、僕らはターゲットを選定している。とあらば、選んで欲しくないターゲットがいたということになってくるか。ある意味、計算的だと思う」

「そうですね……そうですよ、そういう目的があったんだ」

 彼女の顔に閃きの気配が強まると、それはやがて恐れと結び付いて、怖ろしげなあり様にすり替わった。

「君に聞きたい」

 と、瀧本は彼女に迫る。

「昨晩は僕がいなかったから、データ管理については君たちに任せていた。だからこそ、君たちにしか分からないことがある。データを操り、これを消したと思える人が誰なのか、教えて欲しい」

「ほぼ、全員パソコンを操作できる状況にありましたから、何とも言えません。わたしは、もしかしたら深澤さんかもしれないとか思っていて本人に聞こうとも思ったんですが、なんだかあの人を前にすると億劫になってしまって、いまだ聞けずじまいでいます……」

「なぜ彼が怪しい、と」

「思い返せば、ずっとPCに取り掛かりきりでしたから」

「講義室内での風景だよね、それは」

「はい、そうです」                 

「では、十一時の就寝まで、その部屋に君と深澤くんがずっと居残っていたわけだ」

「朝倉さんもいましたよ。あとの二人は、分かりません。男の人たちが寝ている部屋に引っ込んでいたのではないでしょうか?」

 彼女の証言だけでは、四人の研修生についてのアリバイ証明は難しそうだ。

「それにしても、選ばれては困るターゲットがいたというのは、どういうことなんでしょう?」

 彼女は改まった風に訊ねてきた。

「大事なことだよ。もしかしたら、すべてのキーはそこにこそあるんじゃないだろうか。まず、どの子のデータが消されていたのか、教えてもらいたい。その四羽について、徹底的に見ていく必要がある」

「その子たちのデータは、認識番号で管理されていますから、パソコンがなければ言い伝えられません。ですから帰ってきてからの報告になりますね」

「それじゃ、病院に戻ってから付き合ってもらうとしよう。いいね?」

「はい……と言いますよりも、これは、他の研修生たちには秘密なんですよね?」

 こちらが彼らに対し妙な勘繰りを入れているという事が知られたら、そこから関係がこじれていくきっかけになるのかもしれない。行動は秘密でなければいけなかった。

「そうなるね。理由は僕が用意するから、その時は合わせてもらう形でうまいこと抜け出してきてほしい」

「分かりました」

 二人は、林をゆっくりと歩き始めた。しばらくすると、おおい、と呼んでいる声が聞こえてきた。朝倉の声だった。

「ターゲットが見つかりましたよ! ……こっちです!」

 

 距離は百メートル近く離れていた。ターゲットのオオワシは、トドマツの枝木に停まったまま、羽を休めている。

「全員、ここに待機したままでいてくれ。必要が生じたら一人ずつ呼ぶから。それ以外の者は、間違ってもついてこないこと、いいね?」

 オオワシの警戒の度合いは、極めて高い。ただでさえ戦闘種族なだけに、近づいてくるものは皆敵と見なす傾向が強い。人間の六倍超という優れた視力を持っている分、瀧本はすでにテリトリー内に入っていることを理解していた。それでも、足を止めずに少しずつ差を詰めていく。足音を殺し、一歩一歩慎重に土を踏み締める。

 麻酔銃の、IMライフル。様式は散弾銃と変わらないが、装備が異なっているため、若干持った感触が違う。実習に入る前に試し撃ちをしたのだったが、その時には調子のいい発射音がバレルから弾けていた。使い方さえ誤らなければ、いい仕事をしてくれるはずだ。

 半径、十五メートル以内に入った。

 オオワシは高さ七メートル程の枝木に停まったまま、首をきょろきょろさせている。瀧本には気付いているが、麻酔薬を仕掛けられるだなんて、これっぽっちも思っていない。それでも銃身はぎりぎりまでタオルで隠した方が良さそうだった。

 枝の上で、オオワシの姿勢が入れ替えられたのを機に、瀧本は木陰に隠れた。そして据銃姿勢に入る。立てた膝でバランスを取る、かがみ撃ちだ。バレルを上向きにし、標準を定める。

 フロントサイトの真ん中にオオワシの胴部が入った。

 引き金に指を掛け、一気にしぼった。エアー弾が弾ける音。オオワシが驚いて逃げていった。しかし胴部には麻酔薬の入ったシリンダーが刺さっていた。一発で命中してくれたようだ。場所が良かったお陰だ。弾丸の軌道がきれいに確保されていた。他の獣たちの邪魔も入らなかった。何より、瀧本の視力がいつになく冴えている感じがあった。

 しかし、まだ油断はできなかった。

 麻酔が効くまで、捕獲作業は終わりではないのだった。瀧本は、オオワシが逃げていった方角を確認した後、研修生たちのところへ引き返した。すると、深澤と矢庭の二人がいなくなっているのに気づいた。

「二人は、どこにいったんだ?」

「深澤は、PCの様子がおかしいと言っていましたから、車の方にもどって代替え機を取りに行ったんじゃないでしょうか? 矢庭のほうは、分かりません。深澤の後を追う形でいなくなりました」

 答えたのは朝倉だ。引き留めなかったのは、自分の持ち分のことだけで頭がいっぱいだったからだという。

 瀧本は彼らが向かったと思われる林の方角を見た。見事に人気がないあり様がそこには拡がっていた。出ていっても捜し出すまで、かなり時間が掛かりそうだ。思わず舌打ちが洩れた。

「ここに待機していてくれって、言ったのに……」

「先生、反応が消えてしまいますよ。今すぐ、追い掛けましょう!」

 テレメトリの受信器を担当している赤坂が、言った。

 迷っている暇などはなかった。ここは、一番最初に浮かんだ案を選択しなければいけなかった。

「どちらも放っておくわけにはいかない。二人を探す方が優先だろうが、どうも自分の意志で出て行っているみたいだから、ここは道に迷ったとかそういうことではないはずだ。僕は、捕獲について全責任を負っているから、どうしてもそちらを追わなければいけない。だから、ここはそれぞれ分担でいこう。捕獲続行の僕としては、赤坂くんを連れていこうと思っているんだが、駄目だろうか?」

「かまいませんよ。でしたら、残りの俺と小鈴は、二人を捜すとします」

 朝倉は持っていたアンテナを赤坂に手渡した。彼の手には、受信器とアンテナの二つが握られることとなった。

「頼んだよ。ここは携帯が通じないエリアだから、遠くにまでは出ていかないこと、それだけは絶対に守って欲しい」

 瀧本は朝倉に対し、言った。

「分かりました、遠くまでは行きません。とりあえず車を停めた方まで出ていって、いなかったら引き返すとします」

「熊とか、途中で出ませんよね?」

 小鈴が心配げに言った。

「この辺は、そういう報告が出たことはないから、大丈夫だよ」

 瀧本が言うと、彼女はうなずいた。二人が出ていくのを見届けてから、瀧本は林の奥手へと進んでいった。

「アンテナを操作しながら、受信器を繰るのはつらくないかい?」

 瀧本は赤坂の後を追いながら言った。彼の手つきは実に器用だった。問題なく、二つのアイテムを使いこなしていた。

「と言いますより、先生は普段から一人でこの二つを操っているんですよね?」

「まあ、そうだけれども」

「でしたら、これぐらいは出来て当たり前と言ったところでしょう」

「案外、最初は戸惑うものなんだよ。僕なんかは、けっこう馴れるまで時間が掛かったね。君はそうではないようだ。まさか、この手の機器を過去に操作したような経験があったりはしないよね」

「もちろん、ありませんよ。こういうのは初めてです」

 いつしか下り坂に入っていた。ぴ、ぴ、と受信器が電子音を立てて、テレメトリからの位置情報を逐一伝えている。アンテナが電波をしっかりキャッチできている証拠だった。

「時に、赤坂くん」

 と、瀧本は麻酔銃の銃紐を肩に掛けながら呼び掛けた。

「なんです?」

 彼は機器を操作しながら応じた。

「昨晩のことなんだけれども……、君は、どこで何をしていたのかな?」

「昨晩、ですか? 何をお聞きしたいのでしょう?」

「その時、僕が不在だっただろう? 君たちは部屋で勉強しているのだとばっかり思っていたんだが、聞いたところ赤坂くんはそこに交じっていなかったそうだね。どこで何をしていたのかなって気になってね」

「…………」

 彼の口は固く閉ざされていた。ぴ、ぴ、という電子音だけが滑稽に響く。二人の歩みは少しだけ速くなっていた。

 瀧本は、彼が何かを言い出すその時まで、あえてじっと待っていた。もし、何も言わないなら、そのまま会話を取り止めるつもりでいた。

「僕は、寝泊まりする部屋の方にいました」

 と、赤坂はずいぶんと遅れてから言った。

「その時は、矢庭くんと一緒だね?」

「いえ、一人です」

「部屋で復習でもしていたのかな?」

「パソコンを操作していました。復習と言いますか、考えたことのレジュメを作成して、頭を整理していたんです。そうです、閲覧の許可を頂いていた本郷カルテについて、ノートに書き写した分をいろいろ考察していたのです。あとは、今日の実習に備えた下準備を少々やっていました……」

 内容的には、小鈴たちがやっていることと大差はない。部屋を出たのは環境を変えたかっただけだったのだろうか。一応、一人きりになっていた以上、データを弄ることが可能な状況にあったとはいえた。

「何か、不都合なことでもあったんでしょうか?」

 と、彼から問いが向けられる。

「いや、そういう事は特にないよ。ただ、中身を聞きたかっただけのことだ。そうそう、その時矢庭くんのほうはどこに行っていたのか、分かるだろうか?」

「モニタールームにでも入っていたんじゃないでしょうか? ……よく、分かりません」

 彼の口調が、変に固くなっていた。明らかに裏のありそうな気配だった。もしかしたら、この瞬間だけ嘘を口にしたのかもしれなかった。小鈴だったなら、そのことを問い詰めるべく、勢いよく突っ込んでいったことだろう。

「近くまで来ています」

 と、受信器を持ち上げて彼は言った。瀧本は麻酔銃を下ろして、手元に控えた。

「動きの方は、どうなっている?」

「少しずつ、移動距離が短くなってきています」

 麻酔が効いてきた証拠だ。

 それでも予備分の麻酔弾をケースから取りだして、銃身に装填した。念押しの一撃が必要なときは、迷わず撃たなければいけなかった。中途半端に掛かったまま逃してしまうのが一番駄目なパターンだった。

 二人は林の中を突き進んでいく。

 オオワシが地面に横たわっている姿が見えてきた。仰向けになったまま、翼を拡げようと躍起になっている。まだ逃げ延びる気でいるらしかった。しかし、明らかに身体が追いついていなかった。どうやら追加の一撃は必要なさそうだ。瀧本は麻酔銃を下げ、銃紐を操っては肩に提げた。

「触らなくていい」

 と、赤坂に一言言ってから、床に伏せっているオオワシの身体にしがみついた。翼をたたみ、頭をすっぽり覆う皮製の帽子を被らせる。一気に大人しくなった。背負っていた鞄から、海ワシ用のジャケットを取りだした。努めて丁寧な仕事を心掛けながら装着させる。

支度が終わると抱き込んで、慎重に配慮しながら立ち上がった。

 思いのほか重量のあるオオワシだと分かった。思わず、バランスを崩しよろけてしまう。

「大丈夫ですか?」

「問題ない。普通の子より体格が大きいから、ちょっと油断しただけさ」

 オオワシを抱えたまま、ゆるい勾配を登っていく。目指すは、車を停めた駐車場だった。途中、おーい、と女性の声が聞こえてきた。トドマツ林のずっと奥に、手を振っている小鈴の姿があった。

「おーい」

 と、瀧本も声を上げて応えた。

 小鈴は胸元に組み立て式のケージを抱えていた。いまはもう必要のない網籠まで腰にくくりつけていたから、かなり移動がもたついている。瀧本の傍にやってくるなり、ケージの組み立てに入った。ワンタッチ式のテントと同じぐらい手軽に作れる仕様なので、すぐにできあがった。瀧本はリュックから何枚かのタオルを取り出し、はみ出すほどに敷き詰めてからオオワシをその中に収めた。重量から解放されて、身体が楽になった。

「見てよ、これ」

 いつのまにか、腕に鋭いひっかき傷がたくさんできていた。足の爪を剥き出しにしたまま抱き込むと、このような結果をまねく。オオワシという個体は、身体全体が凶器でできているようなものなのだ。

「ところで、二人は見つかったの?」

 瀧本は素に返って小鈴に問いかけた。

「深澤さんは、車の中にいました」

「矢庭くんは?」

「深澤さんが言うには、キャンプ場の方面に向かったということでしたが……? 朝倉さんが出て行っていますが、どうなったのかまでは確認していません」

「赤坂くん、小鈴くん、オオワシを頼まれてくれないか? いまは麻酔が効いている状態だし、ケージに入っているから、暴れる心配はないから」

「分かりました。しっかりと請け負います」

 と、赤坂がテレメトリのアイテムを抱え持ったまま言った。

「それじゃ、任せたよ!」

 瀧本はひとまず車を停めた場所に向かって走り出した。同じような景色が続くトドマツ林とはいえ、象徴的な木にでくわすその度にそのスポットを頭にインプットしてきたので、どこを走っているのか見失うようなことはなかった。しっかりと北東方面に向かっていた。

 うねった遊歩道が、崖の下に見えた。駐車上はその先にある。キャンプ場は反対方向なので崖から下りず、回り込んだほうが良さそうだった。

「先生!」

 と、呼ぶ声があって振り返った。藪を挟んだ向こう側に立っているのは、朝倉だった。作業着の上を脱いだ、シャツ一枚の姿になっている。

「君か、矢庭くんはいた……?」

「いえ、まだ見つかっていません。キャンプ場にいなかったんです。たぶん、ここから近くにいるとは思うんですが……」

 あの男は、いったいどこに出ていったというのだろう。なぜ、途中で抜け出し、このようなところに迷い込んでしまったのか。まったく行動原理が読めなかった。本当に突然の失踪というやつだった。

 もしかして、死地を求めて彷徨いだしたというのだろうか。

 何のために? そして、なぜこのタイミングで? 

 もしかしたら病院で発生した事件と関係があるのかもしれなかったが、これまでの彼の行動を振り返ってみるに、どうもその根拠を見出せそうにもなかった。

 いや、昨晩から続いていた彼の暗く沈んだ様相こそ、その根拠に取り上げていいことなのかもしれなかった。何かがなければ、あそこまで変調をきたすようなことはない。そう受け止めれば、ある程度筋が繋がっていくものがあるのだった。

「とにかく手分けして探そう。君は左手を! 僕は、右手を探す!」

 二手に分かれて、瀧本たちは林の奥へと飛び出していった。藪を何度も超えていくと、世界が入れ変わったように、ダケカンバの林に入った。幹が細い林だったので、すいすいと移動が進む。枯れ草が深い分、足を取られそうになる進みにくさはあった。が、瀧本が履いていたサバイバルブーツは、こういう時でこそ真価を発揮するものだった。

 人の姿が、ずっと向こうに見えた。ひときわ樹齢の進んだダケカンバに寄り掛かる形で、うずくまっている。矢庭だ。瀧本は走るのを止め、遠巻きに顔色を伺いながら、ゆっくりと進むことにした。

 ぴしっと小枝を踏みつける音が、響いた。神経が研ぎ澄まされていれば気付いてもおかしくない距離ではあったが、矢庭は顔を上げなかった。完全に身動きが止まっている状況にある。まさか、死んでいないよな、と瀧本は心配した。

 ところが、残り五メートルを割ったところで、なんとなく生きている人間だけが放つ生彩というものが感じられるようになった。それは歩を進ませていくごとに確かなものになっていく。

「矢庭くん……?」

 ゆっくりとした呼び掛けで彼に語りかける。

 最初反応しなかった。ぴくりと彼の肩が反応するなり、傾斜が深く掛かっていた顔が持ち上がった。

「先生……」

 ひどく弱った顔をしていた。やつれたというのとは違う。精神面での衰弱からくる脱力のように思われる。もちろん、彼を追いつめたものが何なのかは、分からない。

「どうして、こんなところに逃げだしたんだい?」

 瀧本が彼に寄り添う形で屈もうとすると、いきなり訳もなく突き飛ばされた。麻酔銃を背負っていただけに、突起が背中にごりごりと当たって思わず顔をしかめた。エアーライフルで良かった。これが実弾入りのライフルだった場合、衝撃で暴発なんてことにもなりかねなかった。

「こっちに、こないでくださいっ!」

 彼は口許を子供のように歪め、叫んだ。

「そういう訳にはいかないだろう。いったい何があったのかそれを説明してもらわなければ困る」

 瀧本がまた距離を詰めたその時、彼は顔を伏せ、近くにあった石を闇雲に掴んでは、瀧本に投げ放った。ひゅっと風を切る音がした。顔をかすめた訳ではなかったが、なんとなく瀧本は左頬を押さえた。

「矢庭くん……」

「すいません……すいませんっ」

 矢庭が顔をうつぶせ、土下座する態になった。しばらく、謝っているのか泣きじゃくっているのか、よく分からない曖昧な挙措が繰り返された。瀧本は彼の肩に手を触れようとしたが、寸前の所で止めた。ふと、彼がそこまで臆病な反応をしていることの正体になんとなく気付いてしまったのだ。

「君はもしや……」

 瀧本は彼を見下ろしながら言った。銃紐を下げて、麻酔銃を手に握る。

「銃を見ることに……恐怖があったりするのか?」

 のそり、と矢庭の顔が持ち上がった。瀧本が麻酔銃を握っている姿を見ると、飛び上がるように身体を浮かせ、少しずつ後退りだした。

「そ、それを、こちらに向けないで下さいっ……!」

「もちろん、向けるようなことはしない。だから、安心したまえ」

 矢庭の顔からはちっとも恐怖の色が抜けなかった。まだ距離を取ろうと、四肢をじたばた藻掻くように動かしている。

 本当に恐怖心を抱え持っているようだ。昨晩から変調が表れだした彼の真実とは、実はそういうことだったのだ。

 銃への恐怖――。

 そういえば、病院に泥棒が入ったその日、倉庫室内にある銃ケースにいち早くそれだと見破り、瀧本に入手経緯を説明する流れを作ったのは彼だった。あえて積極的に出ていったのは、恐怖をコントロールする意図があったからだ。さいわい瀧本所有の銃は、組み立て式ですぐさま火力を発揮できる仕様ではなかった。そのことが、その時の彼にプラスに働いていたに違いない。

 とはいえ、程度はともかくとして彼の緊張はすでに始まっていたはずだった。心のトラウマが徐々に切り開かれて、彼の心の均衡はその時から少しずつ脅かされ始めていた。

「これは、麻酔銃だよ。そうだと分かっていても駄目なのだろうか?こうして銃の呈をなしているというだけで、君の恐怖心を煽るというのだろうか?」

「殺傷能力を発揮できるというだけですべてがダメなんです。そのことをイメージするだけでも苦痛を伴います。……すいません、それを見えないところに隠して下さい」

 瀧本は彼に言われるままに、麻酔銃を携帯式の銃ケースに収めた。ケース紐を肩に提げるなり、本体を背中に隠す。

「これで、大丈夫だろうか?」

「まだ恐怖はあります……。先生が少しでも動くようなことがあれば、それだけで精神がどうにかなってしまいそうです」

「近づかないから、とりあえず落ちついてくれ」

 と、瀧本は彼に言って、自ら二三歩後退した。

「ともかく、なぜ銃などに恐怖を持つようになったのか知りたい。このまま見過ごす事なんて出来ないよ。僕は、君のことをもっと知っておく必要があるように思える。察するに、銃を持っているという、親戚の人と何かがあったんだね?」

「いえ、ここでは叔父さんは関係ありません……」

 と、彼はそっぽを向く形で、膝を抱え込み丸くなった。

「すべては、ぼくに原因があります。ぼくこそが悪いのです。銃に興味を持ち、勝手に持ち出してしまったことから、悲劇は始まったのです」

 足下の草むらを眺めるその目は、うつろだ。自分の心にひたすら過去を映し出しているにちがいなかった。

「人を撃ってしまったのだろうか? それも、ほとんど暴発というような形で――」

 訴えるような眼差しが、瀧本に振り向けられた。顎をゆっくりと引く。うなずきの仕草だったようだ。

「その通りです。ただ暴発ではありません。撃ってしまったのです……。自分で引き金を引いてしまったのです」

 フェルト敷きのショーケースに立て掛けられた、ボルトアクションの散弾銃。それには、弾などは装填されていなかった。しかし、一式はそこに揃っていた。紹介してくれた叔父は、そのすべてを自慢げに見せびらかしたのだった。

 すべては骨董品のようで、まるで殺傷能力のある銃とは見受けられなかった。矢庭少年は、銃のショーケースが収められた部屋からみんな退散していったその後に、こっそり引き返し、散弾銃を眺めた。すると、ショーケースの鍵が開けられたままであることに気付いた。

 しめた、と思った。直截触ることができる。ゆっくりとガラスのスライドガラスを引いて、銃を握った。ストックの艶々した感触が思ったとおりの質感で、夢中になった。何より、三キロ超という銃の重みに妙な迫力を感じさせるものがあった。

 同じくショーケース内にあった金色の弾丸を一つ分握り、当てずっぽうにながら弾を銃身に装填してみた。カチャリと金属が嵌る音がした。銀色のハンドルが装填部近くから横向きに突き出ていて、これは動かすことが可能だった。気分を味わうそのために、何度も起こしたり倒したりを繰り返した。

 そのうち矢庭のことを呼ぶ、従兄弟の声が聞こえてきた。矢庭よりも二歳年下の、小学二年生の従兄弟だ。

 見つかったら、親にばれて叱られる――

 矢庭は慌てて銃を仕舞おうした。が、部屋のドアは出しぬけに開かれたのだった。怒りが籠もったような乱暴な開き方だったため、反射的にながらさっと脇を詰める仕草になった。その反動で、引き金を引いてしまった。

 ズドン、と低い衝撃音が響いた。

 同時に身体を後ろ向きに引っ張る反動が身体全体に掛かって、矢庭も床にひっくり返った。

 倒れたまま、長い沈黙がつづいた。鼻の奥がちりちり焦げ付くような臭いがたちこめている。

 矢庭は何が起こったのか呑み込めないまま、天井をぼんやりと見つめていた。半分は玩具だと思い込んでいた銃が本当に発射できてしまった。つまり、最も起こってはいけないことを、自分は起こしてしまったのだ。

 親に叱りつけられるという恐怖と、焦りが心を押しつぶしてくるぐらいに膨れあがっていた。吐き気をこらえながら、目の前に拡がった風景を見つめた。ドア近くには、従兄弟が倒れている。

 どうして、と思った。銃はまったく違う方向を向いていたはずだから、当たっていたはずがない。

 よくよく見ると、ドアや、部屋のあちこちに細かい傷がたくさん付いている。どうやら、弾は特殊な仕様で、小さな鉄の欠片が発射と同時に拡散するようになっていたようだ。

「そんな……」

 消え入りたい感情に苦しめられた。うずくまり、その場で声の限りを尽くして泣き叫んだ。誰でもいいから、この状況から自分を助け出して欲しかった。延々と、息が詰まりそうな状況がつづいた――……。

「なるほど、そんなことがあったんだね……」

 瀧本はいまだうずくまったままでいる矢庭を見つめながら言った。長い話を一気に語ったためか、精気が抜けたような顔をしている。

「それで、その従兄弟はどうなったのだろうか……?」

「散弾の一部が腹部に命中していたのですが、応急処置が迅速に行われたこともあり、助かりました」

 また矢庭の顔に辛そうな気配が湛えられる。

「後遺症だって残るようなことはありませんでしたが、身体に傷痕を残す結果にはなったのです」

 当然、彼はその時犯した過ちについてきつく咎められたことだろう。いまの彼の表情がそのことを物語っている。彼が銃に対する恐怖を抱え持つにいたったのは、その過ちについてひどく責められたからだ。

 繰り返し折檻を受けるようなことがあったのかもしれない。結果、

銃は、彼の中でトラウマになってしまうこととなった。悪いことに、思い詰めるあまりに、銃という要素のすべてに神経質に反応してしまう忌まわしい体質を抱え持ってしまうこととなった。

「それ以上は、何も言わないよ。だから、ともかく今は病院のほうに戻ろう」

 ふと、矢庭が膝を抱えたまま動かなくなっているのに気付いた。

「矢庭くん?」

 麻酔銃を足場に置いてから、彼の傍にまで出ていって肩を揺すぶった。すると、ころりと横倒しになって、地面に伏せる形となった。すぐさま身体の状態を診た。脈はやや荒れていたが、呼吸は正常だった。単に、気を失っただけだ。すでに限界に達していたようだ。瀧本は靴を脱がせてから、ズボンのベルトを外し、彼の身体を楽にさせた。

 しばらくすると足音が聞こえてきた。赤坂だった。テレメトリの一式や、ケージ等の道具を持っている訳ではない。車にまで届けた後、彼もまた捜索に入ってくれたようだった。地面に伏せている矢庭を見るなり、彼は茫然と立ち尽くした。

「気絶しているだけだ、だから問題ない」

 一先ずそう告げて、彼を安心させた。

「矢庭は、喋ったんですか?」

 と、赤坂はしばらくしてから妙なことを口走った。気絶している矢庭を見下ろすその目は、なんだか冷淡な気配がある。

「喋った、というのは……?」

「先生は先程、矢庭が昨晩何をしていたのか訊ねましたよね。その時、僕はモニタールームにでも入っていたんじゃないでしょうか、と答えましたが、じつはその他に話すことがあったんです。それとは、テレメトリの蓄積データを念入りに閲覧していた、という事実です」

 彼がその証言を口にするとき、嘘を口にしているとする兆候を感じ取っていたのだったが、やはりその読みは正しかった。彼には隠し事があった。それとは、矢庭に裏が隠されているという事実だった。       

「なぜ、それをその時に話さなかったのだろうか?」

「彼自身に語ってもらう必要があると思ったからです」

 赤坂は利発的な眼差しをいっそう鋭くして、気絶から醒めない矢庭をちら、と眺める。

「最初に、病院内にあったライフル弾が盗まれてから、僕はいろいろ警戒していました。もしかしたら、内部の人間に犯人がいるかもしれないと疑っていたのです。あれこれ吟味した結果、浮上したのが矢庭です」

「それは、いくらなんでも邪推というものじゃないだろうか」

 と、瀧本は言い返しにかかる。頭の隅に浮かんでいたのは、いつかに警察官に見せられた、編集を終えたキャプチャ画像中の女性ハンターの姿だ。

「だいたい、その時、僕らはダチョウを飼っている牧場まで出て行って、捕獲の実習訓練をやっていたんだ。全員にアリバイがある」

「それなんですが、出ていく直前にやったとすれば、問題ないですよね……? 少なくとも隙はあったはずなんです」

「君は矢庭の不審な言動でも見ていたというのだろうか?」

 やめてくれ、という否定の気持ちが沸き起こり始めた。が、赤坂は無情にも、そうです、と言い放った。

「こそこそ隠れながら電話を繰り返し掛けていて、なんだか落ち着きがなかったのです。あと、彼は出発する直前にも電話と称して、仲間から外れています。それだけではありません。帰ってきてからも、不審な言動を繰り返していました。それは例えば、先生から指示されない勝手なテレメトリデータの操作です」

 操作された云々の話は小鈴から話を聞かされたばかりだった。それだけに後押しのその一言でもって、決定的なこととなった。内訳は、四件もの追跡データが消され、翌朝には復活しているというものだった。

「実は」

 と、赤坂が口を切る。

「彼がいじったデータを履歴からしっかり確認した後にですね、僕はそのデータを消しました」

 不意討ちの告白だった。消したのは矢庭ではなく、赤坂なのだという。

「そうしたのは、その後の矢庭の行動を観察するためだったから?言ってみれば、カマを掛けたというわけさ」

「その通りです。消せば、彼が慌てふためくのではないかと思って、わざと仕掛けてみたのです。ところが彼は、その様を確認したところで、反応を示すことはありませんでした。それどころか、消えたデータがあるという事実を僕に報せるようなことさえしませんでした」

 赤坂の目論見は失敗に終わったということだ。その後、データを復活させたのは、仕掛けたことの行為そのものを闇に葬るためだったからだろう。そして矢庭が再度その様を確認していれば、自分に工作が仕掛けられたという事実を押さえる事になるのだった。

 もしかしたら、今日こうして銃恐怖症の発作が起こるにいたったのは、赤坂の間接的な圧力が矢庭にじわじわ効いていたからではないのか。

「その消したデータというのは、四件だよね?」

 と、瀧本は赤坂に問う。

「やはり、御存じだったのですね、先生は……」

「分かったのは、最近だよ。だから、四件のデータの中身についてはまだ確認できていない。これから調べる事になる」

「僕に、やらせてもらえませんか?」

 と、赤坂が申し出てくる。すでに、小鈴と連携して行動を取ることが決まっていただけに、なんだかやりにくいことになってきた。それとも、三人が協力してやればいいことなのだろうか。

「情報の裏を探れる、何かしらの当てでも掴んでいるのだろうか?」

「一つ、気になることがありまして、それを追求してみたいと思っているのです」

「それとは?」

 彼は一度かぶりを振って、受け流してきた。

「答えがしっかりそうなのだと確信するその時まで口にはできません。ここのところ失敗つづきなだけに、いっそうその思いが強くあります。結果、中途半端になってしまうようなことだけはもう言いたくないのです」

 赤坂が研修生の中でもとりわけ自分を強く持っていることは、何となく分かっていた。おそらくその一言も彼の気質を率直に表現したもののはずだった。だからこそ、ここは黙って彼を受け止め、信じてやるのが得策のはずだった。

「ならば、君に任せるとしよう」

 瀧本は面と向かって言った。

「ただ、小鈴くんもそのことを知っていて、彼女にも協力を要請することになっている。だから、やるのは君一人だけではない。これは、受け容れてくれるよね?」

「小鈴くん?」

 と、赤坂は考えを巡らせた。理解するなり、理知的な表情に落ちつき、いっそう気持ちを強くした。

「分かりました、彼女と協力関係を築き、データの向こう側にある情報解析に全力を尽くしたいと思います」

 ようやく焦点を絞った捜査の体制が整いだした。しかし、一方でこれで良かったのだろうかという不安もある。矢庭が犯人であるとはまだ確定したわけではない分、一方的にそちらに寄りかかるのは

危険な行為とも言えた。

「一つ、聞いておきたいんですが、先生は、小鈴さんについてはとくに問題ないとみなしているんですよね」

 赤坂が脈絡もなく、そんなことを訊ねてくる。その質問は自らにも跳ね返ってくる一言なのは、彼自身にも分かっているはずだろう。

「彼女は、大丈夫さ」

 と、瀧本はさらりと返す。

「基本的におかしな言動は、これまで見せていないから特に疑う材料はないんだ。もし、引っ掛かっていることが他にあるのなら、君の口から早い内に言ってほしい」

 そう言いつつも、腹の中ではもう一度、研修生たち全員の経歴を洗い直してみる必要があるのかもしれない、と瀧本は思っていた。

  

 その日の深夜十二時過ぎに、瀧本宛に一本の電話が鳴った。聞き覚えのない声が受話器から流れてきて、瀧本は一瞬間違い電話ではないかと疑った。

「WINGSという名前は、お調べになられたわけではなかったのでしょうか?」

 その名詞を聞いて、ああとなった。瓜生から紹介された女性ハンターたちばかりを集めた団体だったはずだ。ここ最近、やらなければいけないことが多すぎてホームページにアクセスすることすら忘れてしまっていた。

「すいません、……失礼ですが、まだ調べていなかったんです」

 瀧本は正直に述べ、相手の気分を害さないよう何度も丁寧に謝った。相手の女性は、さして気にもしていないようで、いいですよ、と一言そう述べた。

「わたくし、磯長と申すものです。WINGSの団長を務めさせていただきまして、今年で十七年目になります」

「十七年、ですか……」

 なんだかそのことを強調して言っているように感じられたので、瀧本は思わず釣られて反芻してしまっていた。「そうです十七年です」、と彼女は念押しのように言う。

「なんでも、先生にはお聞きになりたいことがおありということのようですね。それは、狩猟に関することで、間接的にながら瓜生さんの実力の程度を測るようなそんな疑問だったようで……」

 単刀直入にものを言う人だ、と思った。おそらく瓜生から事情を聞いたとき、すぐさまその裏側にある意図について察するものがあったにちがいなかった。そうした気付きの早さこそが女性ハンターの特性というべきものなのかもしれなかった。

「決して、疑っているわけではありません」

 と、瀧本は一先ず自分の立場を確保しようとした。すると、彼女は勢いを示すように、言下に言った。

「いいえ、こういうことも正直におっしゃって下さって結構なんですよ。わたくしがいま、先生に失礼だと分かっていながらこんな時間に電話をかけさせていただきましたのは、話しやすいように、と思ってのことだったんです」

「しかし……」

「わたくしとしても、放ってはおけないことです。メンバーの瓜生さんは大事な存在ですからね。彼女を全面的に擁護するというわけではないのですが、少なくとも信頼の置ける人柄であるということだけは理解していただきたく思っているのです」

 つらつらと瓜生の狩猟についての技術を語り始める。それこそ、ベテランという域にいるわけではないのだったが、研究熱心な下地に裏打ちされた論理的な行動を取り、獲物を追いつめていく術を彼女なりに心得ているようだった。追い込み猟をするときは、狩猟犬(セッター)の存在が不可欠だ。彼女はそのセッターと狩り役の二役をたった一人でこなすだけのスケールが備わっている。ことに、行動が単調な猪狩りにおいては目覚ましい力量を発揮する。そのパートでは彼女の右に出る者はいないということだった。

「技術の程度はよく分かりました」

「お待ちになって下さい」

 と、尚も話のリードを保とうとする彼女は、瀧本に口を開かせるチャンスすら与えない。

「先生がおっしゃりたいことはよく分かりますわ。おそらく、今回先生の身の回りに現れたハンターと同程度の力量があるのかどうか、ということなのでしょう? 熊狩りをこなし、食肉仕様に捌くなどの解体技術を披露する腕前、その他、山で何日も生活できるというような自衛隊さん顔負けのサバイバル関連の知識……。あいにく瓜生さんにはそこまでのことはできませんわね」

 瓜生は、磯長にどこまで話を伝えたのだろうかと思う。きっと、細かい事実まで伝えることがあったのではないか。でなければ、ここまで堂々と瀧本にものを言ったりはしないはずだった。もしかしたら猟友会にもコネクションを持っていて、関係者ともやり取り済みということなのかもしれなかった。

「そうですか。つまり、今回、僕の前に現れているハンターは高い技術を持っているということでいいんですね」

 と、瀧本は努めて声の調子を均質に保って言った。

「まあ、はっきりと言えば、そうなりますね。ハンターとして、とてつもなく高いものを持っていますことは確かです。だったら、その人と同じぐらいの事が出来る人はいるのかどうかってことになるのでしょうが、わたくしならできますことをお伝えしますわ」

 いかにも誇らしげな口調だった。それこそが、彼女が一番に言いたいことのように思われた。

 瀧本はなるほど、と思った。

「でしたら、いま、磯長さんから学べることはたくさんあるってことになってきますね。お付き合いいただけるのでしょうか?」

「もちろん、そのためにお電話をさせていただいたのですわ。とりあえず、瓜生さんにはその実力はないということで彼女への疑いは解いていただけますでしょうか? むしろ、そのレベルにあるわたくしのほうこそが疑われるべきなんじゃないでしょうか? もちろん、自ら名乗り出たところでわたくしこそが犯人であるというわけではないのですけれども。ライフル弾を盗み出したり、そのことで近所界隈を騒がしたり、混乱させたり……と、こういうのはどれも、わたくしの趣味に合わないことでしかありませんね」

「瓜生さんへの疑いは、一先ず解除します。そして磯長さん、あなたへ疑いを向けるようなことだっていたしません。ですが、ハンターについてもう少し情報を提供してもらいたいのです。知りたいのは、ハンターそのものについて、です」

「それでしたら、すべてはわたくしの経験を通して話すことになりますけれども」

「構いません、それでけっこうです」

「国内にも猟師養成学校というのは、存在しますわ。雑食動物の獣害対策や、熊被害などに関連した地域の安全対策の一貫として自治体が支援するタイプの学校です。ですが、わたくしが通ったのはそういうところではなく、もっと実戦的に訓練できるところです。……アメリカにまで飛んで、本格的に学んできたんです」

 アメリカのアラバマ州の荒野に設けられた、傭兵訓練学校(マーセナリー・スクール)。ベトナム戦争で将官をしていた男が退官し、開いた学校であった。サバイバル訓練は元より、軍隊仕込みの、ラベリング、ランドナビゲーション、E&E(脱出・脱走術)……その他、実弾訓練、ナイフ及び体術、遠泳といった幅広い課目を体得する。学校規定のコースが設けられ、それによって滞在期間が決まる。最長は四年で、そのコースの卒業生は、プロフェッショナルのソルジャーという称号が与えられる。

「そういうのは、海外の人間も入れるようなものなのでしょうか」

「もちろん、外国国籍でも大丈夫ですよ」

 と、彼女の声が柔らかくなった。電話の向こうで、微笑んだのかもしれない。

「年齢は制限されることもあるのでしょうが、性別までは制限されることはありません。ですから女性もオーケーなんです。だからといって、数がいたかというとそんなことはありません。当時は、わたくし一人でした」

 非常に物珍しい扱いを受けたということだった。だが、一緒に訓練をこなしていく内に打ち解け、受け容れてもらった。彼女はその時、女性として扱われることを拒んでいたということだったから、異色の存在として見られていたはずだ。そして、ある程度の実力を示すことで、しっかり仲間の一員として認められたにちがいなかった。

「それで、アラバマのその学校は、いまもあるのでしょうか?」

「残念ですが、いつだかのテロ事件の際、容疑者の一人を育成したとして廃校の憂き目にあったようです。が、マーセナリー・スクールは一つだけじゃありませんし、いまもアメリカに行けば、その門戸が開かれていると思います」

「では今回のハンターも、その手の学校に通っていたのではないか、と」

「それは、分かりません。その可能性もあるとだけは言っておきましょう。熊を捌く技術などは、向こうでも珍しいぐらいに思われるものです。少なくとも詰め込み式の国内の学校では無理なことでしょう」

 すっと大きく息を吸い込む音が聞こえてきた。

「そして、いまわたくしにできることは、先生の保護役を務めるということです。どうか、いま実施されています、パトロールにわたくしらも入れていただけませんか?」

 やはり、彼女は猟友会の人間と通じていた。

 ここは手助けしてもらいたいところだったが、百パーセント信用できる人間でない限りには、身内に敵を混ぜ込む行為になってしまうのだった。

「それは、希望しません」

 と、瀧本はきっぱりと言った。

「どうして、でしょう?」

 と、彼女は声高に問うなり、矢継ぎ早に言葉を繰った。

「もしかして、信用されていないということなのでしょうか。でしたら、矛盾ですよ。あなたは先程、わたくしと瓜生さんの疑いを解いて下さる旨の話を告げたばかりなのですから」

 ここでそのことを引き合いに出してくるあたり、駆け引き馴れしていることを思い知らされることとなった。瀧本が怯んでいる隙に、さらに突っ掛かってくる。

「こうなったら、猟友会の人に言って、あなたが許すよう働き掛けた方がいいのかしら」

「すいません、磯長さん。あなたが通じている猟友会のお方というのは、誰なのでしょうか?」

 と、瀧本は苦し紛れにそちらに切り込んでみた。

「奈良さんですわ、御存じですよね、あなたと同じメンバーのお方ですもの」

 思わず、まばたきが止まってしまう。

 まさか、ここで彼の名前が出てくるだなんて……。

 一番に通じている男だけに、そんな彼から説得されるようなことがあれば、言われるままに受け容れてしまいそうだ。最初からそうなると分かっているなら、彼女の申し出を素直に受け容れた方が良さそうだ。しかし、瀧本にはどうしても譲れない気持ちを取っ払うことができないのだった。

「もちろん、知っていますよ。そして、彼に説得を持ち掛けるのはよしてください。こういうことは、彼を巻き添えにすることなんかではないはずでしょうから」

 努めて、他人事を装って言った。奈良の影響力が通じる人間だとは察知されてはならなかった。

「いいえ、わたくしはやりますわよ」

 と、彼女は強情に言う。

「だって、こういう時、お役に立てないということほど悔しいことはありませんから。これは、是が非でもわたくしがやるべき仕事だと認識しています」

 

 

 

 

第四章

 

      1

 

 翌朝になっても矢庭の体調は快復せず、大事を取って、そのまま部屋にて療養することとなった。

 気絶からはすでに醒めて等しいのだったが、メンタル部分の凋落

から抜け出せず、どうしても身体に力が入らないようだった。彼の看病は赤坂と小鈴に任せ、病院の方を残りの深澤と朝倉に託した上で、瀧本は出張に出た。赤坂たちについては同時に削除データの分析を任せてあったから、二人で連携しながら併せて答えを出してくれることだろう。急患受付についてだけが気懸かりだった。

 二時間もの移動時間の末に行き着いたのは、阿寒湖近くの環境保護センターだった。単調な印象ばかりの針葉樹林に囲われた、三角屋根の施設。周囲の自然と調和するように建てられただけあって開放感に溢れている。スロープが大きく構えられている玄関口にもその兆候がよく表れていた。

「やあ、瀧本さん。朝からずっと、いまかいまかと待っていましたよ」

 およそ四ヶ月振りの顔がそこにあった。中友である。彼は荷物持ちを買って出るべく、わざわざ駐車場まで出てきたようだった。案内人として玄関口まで連れ立ってくる。

 ロビーは広々としていた。いつかに来たときと様相は変わらない。掲示されている防犯や、火災予防のポスターたちだけが刷新されていた。

 そのうちのシマフクロウが大写しになっている一枚に瀧本はなんとなく惹かれるものがあった。足を停めて思わず眺め入った。オレンジ色の虹彩が、じっと瀧本を見つめている。風格があってなんだか、格好がよかった。

「瀧本さん、こっちですよ」

 と、中友から呼ばれて慌てて追い掛けていく。

 施設奥部にある、自分の研究室に請じ入れてきた。たくさんの入院ケージと、医療機器に囲まれた十二畳の空間。他の研究者と相部屋になっている分、パーテションがあちこちに設けられ、複雑な間取りとなっていた。

 彼の机は部屋の奥手隅に設置された、薬棚のすぐ近くにあった。横手にはクリーン・ベンチが待機している。

「これですよ、これ」

「おっ、ありがとう。さっそく見せてもらうよ」

 と、瀧本は封筒を受け取るなり、封を解きに掛かった。ゆっくりと中身を取りだす。参考写真が十数枚と、カルテが入っていた。先日に二人のあいだで話題に挙がった患者の診察記録だ。写真のうち、足部の模様が写っているものをじっくりと観察に掛かった。

 すると、中友が述べた通り、趾及び、ふ蹠にはこれといった傷など見当たらないと判った。そこに傷がなければ瀧本としては困ることになるのだったが、映ってない事実を論理で覆すわけにはいかなかった。まだ来たばかりのこの段階で、さっそく悩ましい唸り声が喉から絞られることとなった。

「どうです? ぼくの言っていることに間違いはありましたか?」

 行き止まりにぶつかって呆然としている瀧本の気持ちなど知らない分、中友は平気な顔をして言う。

「間違いなんてないな、君の言う通りだったよ。ただ、こっちはそれで全面敗訴というわけにはいかないから、追加情報をさぐることになる。この患者についてその他、参考になる情報があったりしないだろうか」

「詳しく調べたんですけれどね、……じつは、過去に標識用足環が装着された一羽だったことが判明したんですね」

 ほらこれ、と彼は手の平サイズのタッパを引き出しから取りだし、瀧本に手渡してきた。

 その中身は確かに、外された標識用足環だった。生態調査として何羽かサンプルとして捕獲しては装着させる、環境管理プログラムの一アイテム。

 それを見ていてぴんときた。

 瀧本が診察したオジロワシの趾の怪我は、こうした標識用足環が強引に外されたものだったのだ。あの個体は、過去に獣医による診察対象になった経歴がある――。もしかしたら、道東に張られたネットワーク内のいち病院にて長く入院する患者であったのが、野性にリリースするにあたってそのような対象に入れられたのかもしれなかった。これは、野性に帰すことのリハビリテーションの精度がどれほどのものか、調べることにもなるのだった。

「こういうのは、すごく大事なことだよ。最初の内に伝えるべきことだったはずだ。電話があるんだから、判明した時点ですぐに報せることができたはずだろうに」

 瀧本は注文を付けるように言った。

「瀧本さん、それはお互い様ですよ。こっちも忙しいと電話で申し上げたでしょうに。そんな電話連絡なんてしている暇などはなかったですよ。というより、瀧本さん中身を詳しく話さないから、こうしたことが重要な情報になるだなんてこっちとしても予想がつきませんでした」

「ともかくこの標識を付けられた以上は、関連の記録のようなものがあるはずだ。まず、それを取り寄せるとしよう」

「今回のその患者についての報告書でしたら、すでに関係データベースから引き出して、それだけプリントアウトしていますよ。ちょっと今、持ってきますね」

 彼は席を立って、パソコン機器が並べられたコーナーに向かった。引き返してくるなり、書類が寄越された。

 報告書は簡潔な内容だった。捕獲日に、場所、健康診断の結果、実施グループ名、責任者、申請許可をだした自治体と、市長名……。その他、備考欄には、協賛団体名が記入されていた。

 瀧本はそのうちの責任者の名前欄に、衝撃を覚えた。

 そこには、良く見知った名前が書かれてあった。瀧本の人生の恩人にあたる男――本郷喬司。二度も見返してしまうほどに、自分の目を疑うこととなった。

「どうしたんです、瀧本さん」

 と、中友が書類を覗き込んでくる。

「ここに、本郷先生の名前が書かれているじゃないか」

「それは確認していますが、何かあったんでしょうか?」

「分からないだろうか? 事件の背景には、本郷先生が絡んでいるということなんだよ」

「いや、瀧本さん。どうつながるのか、ちょっと分からないですね。ちゃんと説明してくださいよ、お願いですから」

 懇願する彼の顔は、切実な気配を感じさせるほどのものだった。瀧本は観念して息をついた。

「話すとするよ。こっちが救護したオジロワシのことはすでに伝えた通りだよ。実は、このオジロワシの足には、複数の擦り傷があったんだ。その傷は特徴的なもので、何かがあったことを思わせる具合だった。それが、何であるか僕は分からないままでいた」

「なるほど足の傷……」

 と、中友は要領を得た顔をして言った。

「いま提出しました、標識用足環でもって答えが分かったんですね。

まさに足環が原因で拵えられた傷だったということですよ。それで、うちの患者がその手の検査対象になっていた事実からして、同様の仲間である可能性が高いと瀧本さんは読んだ――そういうことなんですね?」

「そうなんだ」

 瀧本は言い、標識用足環を鼻先まで持ってきて、じっと見つめた。内側に皮脂の汚れが付いていた。かなり長いこと拘束帯として足に結ばれていた証拠だ。

「さらに言うと、単に検査対象の一羽として選ばれたのではなく、本郷先生の患者でもあったのかもしれないんだ。これはまだ仮定に過ぎないが、そうである可能性は比較的高いように思える。いま僕は、そこにこそ注目しているんだ」

「でしたら、瀧本さんこの子もそうなんじゃないですか?」

 と、中友は写真を扇形に開いて主張する。

 瀧本はオオワシが写っているそれらのうち一枚を、空いていたもう片方の手でそっと抜き出して眺めに入った。顔が大きく写しだされたもので、一番全体の特徴を捉えやすい写真だ。

「少なくとも、検査対象として捕獲されるなど本郷先生と絡んでいる一羽なんだから、その可能性はゼロではないだろう。これから、この写真の子も合わせてうちの病院に残されている本郷先生のカルテと照合してみることにする。だから、この標識用足環をこちらに預からせてもらえないだろうか?」

「分かりました。どうぞ、それはお持ち帰りください」

 と、彼は言ってから、一先ず瀧本の手にあった標識用足環を取り上げ、裏側をめくって見せた。そこには、暗合めいた個体認識番号が綴られている。それこそがその鳥に与えられた名前でもあるのだった。

「これがぴったり合えば、まさに患者さんであったと間違いなく証明されることになりますね。……いま、自分の目でしっかりと確認しましたところ、改竄したというような痕跡はこれといってありませんでしたから、合致したその時には問題なく、そのことが確実に言えることになりました」

「改竄? 何を根拠に、そんな心配などしたのだろうか?」

「報告書を読んでいただけませんか? 備考欄の隅っこの方に小さく書いてあるんですが……」

 瀧本は書類の一番下に敷いてあった、報告書を再び手に取った。彼の進言どおりに備考欄に目をやる。そこには、転落時の発見模様について詳細が書かれてあった。標識用足環は現場から離れた林の中で見つかったとつづられている。

「なるほど、そういうことなのか。足環……それを取り上げては、

鳥獣の個体登録データの内容について、意識的に確かめたわけだ。犯人にとっては、それこそが目的だったんだ。でなければ、検めた足環がその場に落ちているはずがない……普通なら持ち帰るはずだろう」

「何のためにそんなことをしなければいけなかったのでしょうか。この問題を解決しないことには、どうも先には進めそうにもありませんね」

「鳥獣が所有する登録データの中に、何か曰くがあったりするのだろうか。今のところ、判断材料があまりにも少ないから、僕からは何とも言えないな。ここは一つ、見方を変えるとしよう。何か、オオワシに装備されている別のものがあったとかそういうことはなかっただろうか?」

「いいえ、お伝えしましたことがすべてです。これ以上はありません。瀧本さんのオジロワシの方はどうでしょう?」

 瀧本は診察の中身をもう一度丁寧に思い出してみた。頭部、頚部、胸部、竜骨部、翼、胴体部……。これといったものは何もなかったはずだ。

「思いつくことなど、とくにないな。それとも、そういったものは取り上げられた後だったりするのだろうか?」

「それでしたら、瀧本さんが現在進行形でトラブルに巻き込まれる理由がなくなってくるのではないでしょうか?」

「そうだよな、狙っているものをまだ犯人は手に入れていない。だからこそ、僕はいまだ付け狙われていることになっている……」

 こうした対象の鳥たちに、いったい何があるというのか。

 標識用足環――これだけでは、足りないように思える。もっと、具体的に値打ちのあるものでなければ、いけなかった。そうでなければ、犯人だってここまで骨を折ってまでして動くようなことはしないはずだった。

 ここで別視点として注目したいのが、犯人が目をつけている鳥たちに共通点があるという点だ。それは、テレメトリの装備だ。瀧本は、これについてじっくりと思案を練ってみた。やがて掴んだ閃きの尾を自分で辿りながら、それを言葉にしていく。

「標識用足環が装着された鳥たちには、高い確率でテレメトリが装着されていた……犯人は疑いもなく、この事実を知っていた。つまり、一連の報告はこれを悪用する形で、行われたということなんだ。もしかしたら、片端から関連の鳥を撃っていくことで、自分が求めている対象の一羽を捕まえようとしたのではないだろうか……?」

「まさか」

 と、中友は苦笑いを浮かべる。

「だとしましたら、かなり無茶苦茶なやり口ですね。テレメトリを装着している対象の鳥は何羽いると思っているのです? それを全部撃って確かめるというのですか?」

「犯人の狙撃技術の程を君も確かに見ただろう? あれは、偶然ではないんだ。ちゃんと計算して狙ってのことなんだ。つまり、腕に覚えがある分、そうした無茶な行動に手を出すことに躊躇いを持たない」

「それでは、何年掛かってでも、探している一羽を自分の手中に収める気でいるということですか?」

「それを少しでも短縮しようと思って、今回、僕のところに影を見せたのかもしれない」

 中友は腕を組んで、得心顔を見せた。

「なるほど、瀧本さんのところには本郷先生のカルテがまだたくさん残っています。ですから、そうしたものを直截見れば……いえ、本当にこの筋の推理で正しいのでしょうか。だいたい、翼を狙って撃つ狙撃技術の持ち主など、本当に存在するのですか? オオワシは百二十キロ前後のスピードが出ます。オジロワシは、それよりもさらに速い百六十キロです。高度があればもっと困難を伴います。これまでに提示されたものが意図的にやったものだなんて、ぼくはやっぱり信じられませんね」

 確かに、ジェット気流に乗って悠々と飛翔している海ワシ類を狙って撃つなど、至難の業だ。狙撃のプロでようやくできるといったぐらいの難易度だろう。彼がその点を取り上げ、否定に入るのも無理ないことだった。

「ここで役に立つのが、君に別件で頼んでいた、浜頓別の方のセンターからの情報だよ。ちゃんとそちらのほうとコンタクトを取って、情報をもらってくれたんだろうね?」

「ああ、これは、そのための要請だったんですね。……もちろん、連絡を入れましたよ。そうしたら、該当の報告事例を知っているとおっしゃって下さって、すぐにコピーを送ってくれました。なんでも九件見つかったようで。とはいっても、ぼくは依頼者ではないので直截には確認していないのですが」

「別に中身を見ても構わなかったのに。まあいいや。それを、ちょっと見せてもらいたい」

 中友は部屋の端に移動すると、書類封筒を手に戻ってくる。最初の写真提示と合わせて用意しなかったのは、彼の中で別件とカテゴリー分けしていたからのようだ。封筒には、簡潔なカルテのコピー用紙だけが入れられていた。それほど厚みはなく、重さもなかった。

 九羽分のカルテに目を通した結果、驚いたことに、診断内容がほとんど一致していると分かった。

 翼を狙撃され、真っ逆さまに落下したというような内容――。被弾部の大半は中雨覆に限定されていた。腱や骨を撃ち抜かれ、翼が不能になるというようなケースは一件としてなかった。その他、銃創の大きさが七ミリから八ミリ強とほぼ一貫しており、渦中のライフル弾がここでも使用されていることが確かにながら認められた。

「これは、どういうことなんです……?」

 と、彼はカルテを握りながら、考え込んでしまった。

「やはり、狙ってやったということなんだよ」

「そんな馬鹿なというのが、ぼくの意見ですが……」

「この九件ものカルテが真実だよ」

 と、瀧本はコピー用紙をぱんと彼の前で叩いて見せた。

「これを見ておきながら、まだ信じられないというのは、おかしい。ここまでくると、もはや信じるしかないんだ」

「一番古いので四年前ですね。使用されたのは、鉛弾ではないようです」

 カルテを冷静に精査しながら言う中友は、明らかに自前の推理構築に入っていた。

「僕の病院に現れた犯人が盗んでいったライフル弾は、銅のフルメタルコーティングだ。弾不足でこれを持ちだしたとは思えないんだが、それにこだわっているというのだったなら、持っていくぐらいのことはするのかもしれない」

「いまのところ、まだそのライフル弾を使用したとする追加報告は入っていないんですよね?」

「そのように聞いているけれども……」

「そういうのは、すぐに使用するものでしょう。盗んだ途端、使用するのを躊躇うというのはなんだか、おかしいです」

「となると、別の目的があったと考えるべきなのだろうか」

 瀧本が思案に暮れると、中友も黙り込んでしまった。改めて言葉を尽くしての掛け合いがはじまるも、噛み合わない感じがつづいて決まり悪くなっていくだけだった。

「一旦休憩するとしよう。……それでなんだが、別件で電話をしてみたいんだが、ちょっと、面倒を頼まれてくれないだろうか」

 と、瀧本がスツールに腰掛けながらさりげなく持ちかける。

「電話ですか? どこにです?」

「このカルテを送ってくれた、浜頓別のセンターの関係者だよ。是非に、中友くんに仲立ちしてもらいたいんだ」

 瀧本はカルテのコピーを持ち上げて言った。

「それは、構いませんが……、何を聞こうとしているのです?」

「九件もの同様のケースが起こっていながら、どうしてこれまで見過ごされてきたのかちょっと気になってね。事情ぐらいは聞いておいたほうが良さそうだ、と」

「そのことですか、なるほど。……分かりました。いま、お繋ぎ致します。ちょっとだけ、時間を下さい」

 中友はデスクに置いてあった外線機を取り寄せ、番号をプッシュし始めた。最近も連絡を取っているためか番号をそらで覚えているようだった。

 相手が出ると、馴れ合いのやり取りがはじまった。はい、はい、と引き継ぎを意識した受け答えに入ると、すぐさま瀧本に受話器が寄越された。

「センターの所員、古河さんです」

 うなずいてから、受話器を耳に当てる。

「どうも初めまして。瀧本動物病院の、瀧本泰弘と申すものです」

「こちらこそ初めまして。古河大樹です。浜頓別のセンターにて登録獣医をやっております」

「早速なんですが、もろもろのことを省略させてもらった上で質問に入らせていただきたいのですが」

「はい、事情は分かっていますので、いきなり要点に入っていただいて結構です」

「お伺いしたいのは、送っていただいた九件ものカルテなんですが、なぜこれほどの件数になるまで報告がなされるようなことがなかったのでしょう? 早い段階で各方面センター内で情報を共有していればなにがしかの対策が取れたのだと思うのですが」

「それなんですが」

 と、彼は慎重な口調になって言った。

「それぞれの患者の発生場所が異なっていまして、受け持った医者が違うわけです。それぞれ個人病院を経営する者たちで、各病院の個別な問題として処理してしまったのです。そのような結果になったのは、それぞれの病院が離れたところにあるということと、ネットワークとしての機能不全があった結果でしょう。後者につきましては深刻な問題です。どうも個人病院というのは、田舎ということもあって協力体制というやつに前向きではなく、単独行動に走りがちになってしまうようです。結果、組織体系が成り立っていながら、連携が遅れてしまうわけです」

 しかし、事実を確認した今、動きはまた変わってきているということだった。協力をせざるを得ない状況に追いやられて、各個人病院はこのままではいけないと感じ始めている。今回、発覚した件が、さらに由々しき問題に発展していくことがあれば、その求めに応じて、全体を召集しての報告会を開き、連絡体制について強化を図る方針でいる。

「それにしても、道北エリアには、野生動物を診察できる個人病院が多くあるというのは、ちょっと驚きでした」

「獣医師会斡旋による研修は、こちらではセンターに所属する獣医たちの負担を減らすためにも必要なことです。なにぶん、道北エリアは海ワシ類がサハリンに渡来していく通り道ですから、どこで傷病鳥獣が発生するか分からないのです。取り組みはずいぶんと以前から始まっていますよ。こういうのは、土地柄に合わせた普及活動と言っていいでしょうね。もっとも、地理に由来した欠点が、連絡体制の件に限らず、その他にもたくさんあったりするのですが……」

 中央に自然公園と合わせて湿原を抱えているのは、根釧原野を中心とした道東エリアと共通してはいるが、縦に二百キロ超と細長く伸びる地理に、さらに鳥獣たちが海を渡っていく空の道がその上空に開けているとあらば、それだけで条件は大いに異なってくる。瀧本たちが管轄するエリアとは、またちがった環境が拡がっており、特有の問題を抱えていると言うべきだった。

「よく分かりました」

 と、瀧本は言った。

「送っていただきました九件の報告のことなんですが、いま確認しましたところ、銃創の模様と位置がほぼ類似しているとこちらは診断したのですが、そのあたりの総合評価はそちらでも把握済みでしょうか?」

「もちろん、把握済みです。依頼を受けてからネットワーク内の関係者にFAXを送り、情報を募ったのですが、このように九件もの類似した報告を受けて大変驚きました。これらは、まさに同一の事件です。まさか、そちらで起こっている件も、これらと一致する条項があるというのでしょうか?」

「まったく同じです」

 と、瀧本が言うと、古河は黙り込んでしまった。

「はっきりと申し上げましょう。同じようなことが、道東のネットワーク内でも起こっているのです。つまり、同一犯による犯行が広い範囲にわたって行われているということです。海ワシ類にターゲットを絞った上で、犯人はこうした狙撃行為を繰り返している可能性があります」

「そうですか……」

 古河は重苦しい口調で、つぶやいた。頭ではそのことがある程度ながら、分かっていたように思われる。

 瀧本は一度口許を引き締め、肺に息を溜め込んだ。

「ここで追加情報といいますか、犯人を追いつめていく段階に入っていることをお伝えします。近いうちに、行動を取ることになるでしょう。そちらから預かりましたカルテのコピーはその人物の犯行を追求する上で、大事な資料になると思います」

「つまり、犯人について、すでに特定できているというわけなのでしょうか?」

「いえ、そういうのはこれからです。ただおおよその予想はついています。あとは、最後の確認といったところでしょうか」

「なるほど、そういうことですか。では、瀧本先生に期待するとします」

「追加情報があれば、また連携していきましょう」

「はい、こちらこそよろしくお願います」

 受話器を耳から離し、二秒溜めてから、ゆっくりと架台に下ろした。

 ふう、と瀧本の口から長い息が洩れた。

「どうやら、納得していただけたようですね」

 と、中友が勢いよく口を切った。

「――と、それより、瀧本さん。犯人の予想がついているとはどういうことですか? ぼくにその中身を教えていただくことはできないんでしょうか? 察するに、瀧本さんの周囲に現れているという女ハンター……。その人のことを言っているんですよね?」

「まあ、そうだけれども」

「では、その人の素性が分かったということなんですね。今の状況を考えますと、どうしても知人を含む、瀧本さんの周りにいる人となってきますが……」

 うーんと、中友が考え始めたところで、瀧本は制した。

「推測の域を出ないようなことを話すのは嫌いだ。だから、これ以上は何も訊かないでおくれ。僕からも話すことはない。というより、ハンターの素性について一言言うと、あくまで予想がついているというだけの話であって、これだって暫定的な情報に過ぎないんだ」

「そうですか、ではこの話はここで止めるとしましょう……」

 編集された画像中の、あの人物。彼女が例の熊の解体現場を作った、張本人だったとはとても信じ難いものがある。だが、あれは間違いなく彼女こそがやったのだ。瀧本は確実に言えるそのことだけをいま、頭に繰り返し描いていた。

「すぐに、帰らせてもらうよ。直に連絡を入れるから、その時まで待っていてほしい」

 

 病院に直帰すると、診察の当番を任せていた深澤と朝倉の二名からその日一日の業務内容の報告を受けた。急患はなかったようだ。入院ケージ内のオジロワシの具合がよくなかったようで、その患者だけの簡単な救護措置を取った。

 研修生たちが寝泊まりしている部屋前まで移動すると、ちょうど廊下の向こうから小鈴がやってくるところだった。

「矢庭の体調はどうなっている?」

 瀧本はドアを指で示しながら言った。彼女は、首を振った。

「まだ、よろしくないようです。もう少し様子を見た方がいいように思います。いまは、赤坂さんがつきっきりで見ています」

 三十分前に小鈴と交代したばかりなのだという。

 今は、午後の九時を回ったところだった。かれこれ二十四時間以上床に伏せっていることになる。目下研修期間中なだけに、そのロスは実に大きなものがあった。

「彼だけ家に帰すなどの措置を、真剣に検討をした方がいいのかもしれないな……」

「ここでそんなことを取り上げるべきかどうかは分かりませんけれど、例のことはまだ本人に問い質すことはできていませんが……。もし、このまま帰させてしまうと、ずっと分からないままになってしまいます」

 小鈴は瀧本の気配を伺うように、上目遣いで言っていた。

「それは、すぐにでも解決しなければいけないことなんだろうけれど、あんな状態ではどうにもならない。下手に問い詰めるなどの行為に出れば彼の容態は悪化するだろうし、自白を強要したことにもなるから、悪循環な結果しか生まれない」

 矢庭が一連の事件について、何らかの形で関わっていることは事実だった。ただ、どう結び付くのかが今のところまだはっきりとしなかった。その結びつきの線が明らかになったその時、事件の全貌が、すべてはっきりとした形で詳らかになる。

「四件の削除データについての報告ができました。赤坂さんの指導に基づく形で、わたしが調査しました」

 と、顔つきを引き締め直した小鈴が、事務口調で言った。

「そうか、お疲れさま。で、結果はどんな感じになったのだろう?」

「二人で報告書をまとめています。それは、先生の書斎に置いてあります。が、ここでも簡単に口頭で告げるとします。……四件のデータは、標識用足環を装着した生態監視サンプル対象で、また、テレメトリのデータ監視対象でもあるオオワシであることが判明しました」

「そうか……」

 中友のところではっきりとした事実関係が、ここでも証明されたということになる。

「となると、それらの四件のデータは、きっと本郷喬司先生がかつて診察したという履歴の詳細を含んだファイルのようなものだったということなのだろうな」

「……さすがは先生といったところでしょうか。そのとおりです。本郷先生の診察歴がある、鳥たちでした」

 矢庭はそうした履歴がある鳥獣たちに強い興味を持っていた。いや、その前に注目すべきことがあった。それは、そうした鳥獣たちがかつて本郷の患者であったという事実をどのように調べたのかという問題だ。矢庭はそのことさえも事前に押さえていた。だからこそ、四件のデータについて別の視点でものを観察することができた。

閲覧を許可していた本郷カルテから、直截その手の情報を抜き取ったということなのだろうか。もしそうなら、彼は隠れた所で独りでにじっくりと検分していたということになるのだった。

「いったい、何をしようとしていたのでしょうか? わたし、全然分かりません」

 と、小鈴は少し悔しそうな顔をして言った。眉間に力を入れると、張りの良い肌に、その箇所だけねじくれたように皺が寄った。

「先生はきっと、そのことまで分かっていらっしゃるのだと思います。あえて、慎重な姿勢をとっているのも、そうした背景があるからでしょう。もし、よろしかったら教えてください。このままだと、辛くってどうしようもないんです」

 語気が乱れ始めた彼女の肩にそっと優しく手を触れ、瀧本はドアを示してから、しーっと告げた。

「君の辛い感情は分かるよ。だけど、それを明らかにするには、タイミングというやつがあるだろう? いまはその時じゃない。ただ一つ言えるのは、矢庭は君に危害を加えたりするようなことはしないということだ。これは、赤坂と二人に看病を任せたことからも分かることだと思う。僕は決して、人を危険に追いやるような真似だけはしないから信じて欲しい」

「その時というのは、いつでしょうか?」

「そう遠くない日になると思う。明日かもしれないし、明後日かもしれない……」

「そうですか、近いうちに分かるんですね……。でしたら、これ以上は問い詰めません。先生、失礼なことを言ってしまってすいませんでした」

 彼女は申し訳なさそうに言って、丁寧に頭を下げた。

「ちょっと、四件のデータについての報告書、気になるから見てくるとするよ」

 瀧本は彼女の顔が持ち上がったのを見届けてから、書斎に向かった。

 

 赤坂と小鈴が共同でまとめた報告書は、段落に分けて説明するなど、じつに細やかな様式となっていた。瀧本は机に向かって立ったまま、じっと読みふけった。

 本郷が診察したという共通点がありながら、それらは異なっている条件が多くあった。その最たるものが診察日であり、古いものと新しいものとの差は、三年もの開きがあった。野性馴化への訓練はいずれも予定より早く終えられたようで、本郷がその頃からリハビリテーションについて確かな見識を獲得していたことが窺い知れた。

 しかし、データからそうした本郷の診察過程が分かったところで、矢庭の本当の目的が分かるわけではなかった。

 それぞれの鳥獣たちには目立った特徴があるわけではなかったし、重要なコンテンツを持っているというわけでもなかった。また、頼みの綱でもあった鳥獣保全事業関連の特別なプログラムに組み入れられたという履歴があるわけでもなかった。

 やはり、別の所に矢庭の目的があるというべきだった。

 瀧本は報告書をそっと机の上に戻してから、PCの電源を入れた。メール箱を確認する。依頼した探偵社から連絡が入っているのを確認した。すぐさまマウスカーソルを合わせ、中身を表示させる。

 研修生たち五人の個別な身元照会――。誰が疑わしいのかまだはっきりしない今、瀧本は探偵社に依頼して人物履歴を洗ってもらう事にしたのだった。赤坂と小鈴は瀧本が研修生を受け付けるのに当たって確認した履歴書の通りだった。この二人には、影らしいものはない。深澤と、朝倉もほぼ履歴書どおりの内容となっていた。

 矢庭伸一郎――やはり、この男が引っ掛かった。

 一番気に掛かる存在だからこそ、念入りに調べて欲しいと探偵社に依頼していたのだったが、その選択が正しかったことがはっきりと明らかになっていた。

 矢庭は、本郷喬司の甥っ子にあたる親戚だった。

 つまり、形の上で見ると、矢庭は元叔父が所有していた動物病院に研修生という偽りの形で乗り込んできたようなものに近かった。目的外の目当てがあったのだから、確実によからぬ事をたくらんでいることには違いない。

 彼は、いったい何を狙っているのだろう。

 もしや、病院を乗っ取ろうとでもしているということなのだろうか。根拠のない発想だったが、本郷の甥であると分かった以上、決して無関係ではないだけに野望を果たすことの動機だけは成立するのだった。

 椅子に座って休もうとしたその時、こつこつ、とノックの音がした。

「……誰かな?」

 変調を悟られまいと、明るい声で応じた。ゆっくり扉が開く。その向こうに立っていたのは、予想外の人物だった。矢庭。その後ろには、赤坂が付き添っている。

「どうしたんだい?」

 と、赤坂をも意識しながら、矢庭に向かって言った。

「お話ししたく思います」

 と、彼は目も合わせずに言った。

「まだ、調子が完全には回復していないみたいで引き留めたんですが、まるで聞いてくれません。そうです、矢庭はほとんど夢中といった感じで、ここまで移動してきたのです」

 赤坂が状況を端的に説明する。瀧本は矢庭の顔色を見た。たしかに、調子が復活しているわけではなかった。ふらつきながらも、なんとかここまでやってきたという具合だったはずだ。

「身体のことは問題ありませんから、是非にぼくに少し時間を下さい。全部、話したいのです……」

 いまにも途切れそうな矢庭の懇願は、浅い呼気とともに吐き出されていた。

 瀧本は彼の容態を考慮し、しばし迷った。彼は一連の事件に関わったことについて、自発的に話そうとしている。ある程度、自分に勢いをつけているはずだった。あるいは、こうしたチャンスはいましかないのだろうと、最終的にそう見なした。

「いいだろう、とりあえず中に入りなさい」

 と、瀧本は書斎中央の応接間を示す。矢庭のゆっくりとした移動を見守る。立ち尽くしている赤坂はドアの向こうに取り残されていた。

「君も入って。是非に、矢庭くんの付き添い役をやってもらいたいんだ」

「分かりました、しっかり看護役を務めさせていただきます」

 興奮した声で言い、それから書斎に立ち入ってドアを閉めた。ぱたり、と閉じられる音が響いた。

 

 応接間には、単身用のソファが向かい合う形で、一つずつしかない。つまり、二席しかない分、赤坂は自然と矢庭の背後に就く形となった。

「話してもらいたい」

 と、瀧本が矢庭に向かって口を切った。視点がさだまらないうつろな目が限定した視界の範囲内でちろちろさまよい、最後に瀧本を見た。

「お話しさせていただきます」

 と、重苦しい声音で言う。その途端、くらりとソファの中でよろめいて、不安定に崩れかかった。

「おい、大丈夫なのか!」

 赤坂が後ろについて、直截支えに掛かった。

「問題ないから……、ちょっと手を離してくれ」

 矢庭は気丈を装おう。赤坂は困ったように瀧本を見ていた。中止にしましょうと、そう言いたげだ。

「その分だと、満足に語る体力はなさそうだ」

 と、瀧本は言って、矢庭の機先を制する。

「だが、君の目には話したいとする意思が持続されているように思えるから、取り下げはしない。そこで君の代わりに、僕がことのあらましを語っていくというのはどうだろう? 間違いがあれば、君が指摘していくというようなやり口だよ」

「それでもけっこうです」

 彼はしっかりとした口調で言う。

「ですが、先生。すべてを理解しているというのでしょうか……?これまで先生がこのぼくの身の周りについて得られた情報など、ごく限られると思うのですが……」

「充分、情報は集められている。だから、問題なくあらましを語ることができるさ」

 真っ直ぐに言うと、ひたむきな目で見つめられ、微かなうなずきを得た。推理を口にしていく流れができあがった。

「では、遠慮なしに話させてもらうとしよう。まず最初なんだが、君はいち研修生として今回の野生動物救護実習を含めた勉強会に参加した訳だが、しかしこれは建前でしかない。君には獣医の資格があるのは事実だが、野生動物救護への志向などは持ち合わせていない。病院内に侵入し、カルテやデータなどをあさることこそが目的だったのだと思う」

 矢庭は輝きの失せた、うつろな眼差しで瀧本をじっと見ている。

「ここで、猟銃のライフル弾が盗まれた話が出てくる」

 と、瀧本が続けざまに切り出したとき、赤坂が反応した。

「先生、ちょっと待って下さい。あれは、やはり矢庭がやったことなんですか?」

「いや、違う。もしかしたらこれは君らには充分伝えられていない情報なのかもしれないが、警察のほうから報告された監視カメラに映っていた人物――その者が、盗みを働いたということでいいだろう。このことは第三者の指紋が採取されていると報告を受けていることからも言えることだ」

「では、矢庭は……」

「そう、それについては無実の身だ。……だが、無関係ではないんだ。直截手を出していないだけであって、通じていると。そう、矢庭くんは実行犯と二人で行動していた共犯者なんだ」

 ダチョウがいる牧場まで出て行くその直前に見せていた、いかにも不審な慌ただしい言動。赤坂は今、その事を思いだしているに違いなかった。瞬きが繰り返されるなど、落ち着きのない反応が表れていた。

「でしたら、あの時の電話……。あれは、もう一方の相手に掛けていたんですね?」

「だと思うよ。これは、正しいね?」

 と、瀧本は矢庭に正否を求めた。

「正しいです」

 と、矢庭は言下に言った。

「直前まで情報提供をしていました。その時、向こうからいますぐにでも実行したいと言われていましたので、早急に病院内の詳細を伝えなければいけませんでした。それは、我ら実習生の動きについてだけではなくて、先生及び、先生の奥さまのかなめさんの動きも合わせてということになります」

 かなめは基本、研修生たちとは別行動を取っているために、家の外側にいる人間からすれば一番動向を把握しにくい立ち位置にあった。だからこそ、矢庭は電話でそれを求められ、慌てた行動を取ることになったのだ。

「その共犯者というのは、誰なんだろうか……?」

 と、赤坂が矢庭の背中に向かって問いかけた。矢庭は微動だにせず、緩慢なまばたきを繰り返していた。

「一つだけ、引っ掛かっていることが僕の中にある」

 と、瀧本が入れ替わりに言う。

「それとは本郷先生の娘さんの存在だよ。その人物について、人伝に消息を求めたところ、何でもアメリカの方まで出て行ったということだった。それで、父である本郷先生の意思を継いで、彼女もまたそちらに永住権あるいは、国籍を取得したのではないかと思ったのだが、これは単なる思い込みだったのだと思う。アメリカへの渡航――それが、なぜそうした父にまつわることに限定してしまったのか。もっと別の目的があったとしても、おかしくはないはずだった」

 瀧本は息継ぎをしてから、すぐに言葉を継いだ。

「ここで、監視カメラに写ったハンターを取り上げる。その人物は、僕らの所に飛び込んできた急患の中身からして、すさまじい狙撃技術を持っていることがはっきりしている。それは、後日僕の前に披露された熊狩りからしてもいえることだ。熊を単身で狩るだけではなく臓腑を捌き、切り分け、なおかつそうした肉が一定期間他の猛獣たちの餌にならないよう工作するなど顕示行為を行ったんだ」

 二人の瀧本を見つめる目は、それぞれ趣向が異なっていた。矢庭の方は、相変わらず気力が上向かないままでいる。

「こうしたことは、素人なんかには真似できるはずもない。というよりも、これは高いサバイバル技術を持っていることの証明でもある。こんなことを学べる場所は限られる。それが、アメリカなんだ。マーセナリー・スクール。そういうものが向こうにはある。そこでは火器を使用した実戦訓練も含め、日本では学べないような高度なサバイバル技術を学ぶことができる」

「先生は、こうおっしゃりたいのですね」

 と、赤坂が引き取る。

「ハンターは本郷さんの娘である可能性がある。人伝に得た情報……アメリカに渡航したという事実は、じつは訓練学校に出て行ったことによるもので、いま僕らの前に披露されている狙撃技術などを、そこで学んだはずなのだ、と――」

「簡単にまとめれば、そういうことだよ」

 と、瀧本はうなずいて言った。

「ハンターが本郷さんの娘であるからには、当然、親戚関係である矢庭くんにもつながりがあるということになってくる。どのようにつながったのかといえば、やはり君にあった事件が関係しているのだろう」                       

 この時、矢庭の目は閉じられていた。瞑想を深めるなり、目尻に強い皺を湛えた。

「先生……、自分の口からはなかなか言えないことなのです。推測でいいですから、さらに続きを話すことを頼まれていただけませんか?」

 銃恐怖症――厳密に言えば、それは過去への恐れでもあるのだった。彼はいまも自らの意思でそれを紐解くことだけはできないようだった。麻酔銃を見ただけでパニックになってしまったのは、決して演技ではない。

「推測でいいなら、僕が請け負う」

 と、瀧本は厳かに言って、思案の続きに耽る。

「事件――そう、君から語られた事件は、親戚の家に遊びにいった際に起こったものだった。ショーケースの中に収められた散弾銃。それを興味本位で握ってしまい、あろうことか引き金を引いて事故を起こしてしまった。すべては親戚の子が突然部屋に飛び込んできたショックによるものだった。その飛び込んできた子は、散弾に当たって大怪我をしたということだったが、その子こそが本郷先生の娘さんだったというのならある意味、主従関係はそこでできあがったようなものだ」

 矢庭はまだ目を閉じたまま、顔をうつぶせていた。静まり返った部屋の中で、またもう一度ぶるっと身震いをした。

「……正しいです」

 と、一言かすれぎみにながらそう言った。

「誤って弾に当たってしまった子が、自分の従兄弟であります……本郷貴子です。あいつは肉体に傷をつけられたことに対し、ひどく恨みの感情を持っています。もちろん、自分への恨みです」

「そうした感情を逆手にとって、君を手懐けさせたというわけなんだ」

 と、赤坂が割り込んで言う。矢庭は首を傾げてから、曖昧にうなずいた。赤坂に顔を向けるなり、ゆっくりと口を開く。

「逆手に取った……というのは、ちょっと違うのかもしれない。自分の同意もあったのだと思う。ともかく、ずっと傍に付き添っている内にご機嫌を伺うような関係になっていたんだ。それは、退院以後もつづいた。いや、いまもそんな感じなんだ。貴子とぼくは、向こうのほうが立場が上で付き合っている」

「恋人同士とかそういうことなのだろうか?」

 瀧本が問う。従兄弟同士なのだから、そういう関係にあったところでおかしくはなかった。

「いえ、そのような事実はありません」

 と、矢庭は顔を瀧本に戻して答えた。ほとんど真顔に近い、固い顔になっている。

「あくまで、連れ添う仲間というような関係に過ぎません。一応、親戚同士ですから、その手の交友という風にも取れるのでしょうが」

「仲間の延長として、今回のことを共謀したんだね。それで狙撃術を学ぶために渡航したという僕の見立ては当たっているのかどうか?」

「その通りです。狙撃術を学ぶためにアメリカに渡っています。モンタナ州にあります、プロハンター養成学校です。すでに狩猟免許は取得していましたから、技術を磨く目的でした。なんでも獣の皮剥や、保存方法、また獲物の足跡を追い掛けながら追いつめていく、トラッキングの技術なんかを手に入れたということでしたが、それでは足りなかったようで、ご指摘の通り傭兵訓練のところにも通ったようです」

 傭兵訓練のほうは、ハンター学校よりも体力訓練の度合いが大きく、ハードルが高い。そのことはWINGSの団長、磯長から聞いて知っていた。本郷貴子の場合は、三ヶ月という限定的なコースに通っていたということだった。

「なぜ、そこまで狩猟の技術にこだわったのだろう?」

「元々、夢中になったらのめり込むタイプです。あと、これは銃への恐れの克服ということもあるのではないか、と自分は勝手にそう見ているのですが……」

 事故で腹部に重傷を負ったという過去が、本郷貴子のトラウマにならないはずがなかった。これを克服しようと思ったら、むしろ銃に向かって行くようなことがあったりするのではないか。

 勇気と行動力を養うことこそが、克服の近道でもあるのだった。荒療治ではあるものの、自信と勢いを得るという意味では、それこそがこの上ない選択というべきものなのかもしれなかった。

「そういうことか……、そこまではよく分かったよ。そうそう、ずいぶんと回り道になったが、ここで話を本題に戻すとしよう」

 と、瀧本は矢庭の気配に配慮しながら言って、自ら気勢を得た。

「ライフル弾が盗まれたことの続きだ。それは、ハンターの女、つまり本郷貴子のことだ。彼女がやったんだ。矢庭くんからリアルタイムに情報を伝えてもらい、偵察の上で無人になった動物病院に侵入した。……しかし、ライフル弾を盗むのは、じつは陽動作戦だったのだと思う」

「そうだったんですか?」

 と、赤坂が驚きの声を上げる。瀧本はうなずいた。

「もっと注意深く現場を観察すべきだったんだ。ライフル弾が目当てなんかではなかった。本郷貴子の真の目当ては、カルテ全般だ。なぜ、回りくどいようなことをしたのかと言えば、目的を分からなくする狙いがあったからだ。ライフル弾のインパクトは強い。その分、翻弄する事が容易にできる訳で、病院にそれがあると分かっているなら、これを利用しない手はなかったんだ。一方、診察室内の書類を荒らすなどカムフラージュ策を実施しているが、これだって、狙いがあってやったことだったんだ。書類を中心に荒らされたとあらば、どうしても倉庫室の方のカルテに注目してしまう。この流れを作るために、これは必要なことだったんだ。さらに言うと、犯行後、倉庫室のドアを閉じたり、動かした段ボールを元に戻す偽装を施した訳なんだが、それらは中途半端なものでしかなかった。だが、仕掛ける方としてはそれで良かったんだ。そこは滅多に入らない場所だって最初から分かっていたからね」

 手術室や診察室に置いてあった段ボール。そして、倉庫室の中にあった銃ケースを隠す材料として使用された段ボール……。扱いの重要度といった差はあるものの、すべてが本郷ノートの入った大事な保管箱だった。

 事件後、それらを最初に目にした時、動かされたということが意識的に分かる、違和感を感じ取っていた。が、中身の確認まではしなかった。後から言われて中を覗いたぐらいなものだった。動かしたのは工作の結果に他ならなかったが、その時、彼らの本当の意図というやつを強引に推理を構築してでも、気付くべきだったのだ。

「倉庫室のやつを重点的に見たということはあったのでしょうが、分けられた段ボールのほとんどが動かされていたということはつまり、収納されていたカルテのすべてを確認したということなんでしょうか?」

「カルテの膨大な量を考えれば、それはないのだと思う。もし、本当にそれをやっていたとしたら、脅威だね。でも、方法がないわけではない。例えば携帯カメラなんかを使って全部流れ作業で撮影し、それで大量の情報を搾取するという方法がある。この場合だと後から写真を確認する流れになるから、持ち時間の限り検分が可能になる」

「それで先生、本郷ノートはどれぐらいあるのでしょうか……?」

「本郷先生のこれまでの勤務分の数だけある。保存分だけで、ざっと二千五百件分はあったはずだよ」

「では、すべてを持ち出すには、カメラを使った搾取という方法が一番になってきますね。いえ、そうしたやり口でなければ無理というぐらいでしょうか」

「仮にそのやり口だったとして、いくら流れ作業だったにせよ、やはり時間は掛かったのだと思う。一時間二時間で終わるのかどうか……、どう考えてもすべてがぎりぎりだったと思うよ」

 かなめが開を連れて病院を離れた直後に浸入が行われたと計算しても、それでも時間的に余裕があったとは思えなかった。何にせよ、猶予時間内に犯行を終える必要があったことから、かなり計画的に物事を進めていかなければいけなかったことだろう。

「あと、鍵の話についても言及しておかなければいけないね。僕が倉庫室に立ち入ったとき、鍵は開いていた。その鍵は、元の箇所におかれてあった。となると、侵入者の貴子が礼儀正しく犯行後に元の位置に戻したとなってくるが、そんなはずがない。事前に鍵は開けられ、そのまま放置されていたという状況だったなら、これは説明できるんだ。そう、矢庭くん、君がこれをやったんだ。一度倉庫室に立ち入ったその時、鍵の在処が分かってしまった。だから、君にはこれを実行することが可能だったんだ」

 瀧本は説明している内に、顔と胸が沸々と熱くなってくるのを感じ取っていた。

「もしかしたら、ライフル弾が持ち出されるその当日の朝……いや、その前日の夜だ。その時間帯に、君はこれをやったのかもしれない。中には立ち入っていない。なぜなら、君には恐ろしいものがそこにあると分かっているからね。ましてや予定通りにライフル弾を持ち出さなければいけなかったとあらば、それから以降のことは、どうしても貴子に任せるしかなかったんだ」

 この時、矢庭は何を考えているのか分からないというような、感情の見えない目を見せていた。

「あれ?」

 と、赤坂が素っ頓狂な声を上げる。

「ちょっと思ったんですが、倉庫室にありますカルテ情報のほとんどを持ち出していったのでしたなら、後日、熊を捌いたのを晒すなど、顕示行為に入る必要はなかったんじゃないでしょうか? なぜ、そのようなことをする必要があったのでしょう?」

「それは、盗んだ情報に思っていたような内容が記載されていなかったからだろう。だからこそ、メッセージを発しなければいけなかったんだ」

「カルテ情報だけではダメだったんですね? でしたら、彼らが求めていた情報とは、どのようなものだったのでしょうか?」

「それこそが本郷貴子とその共犯者、矢庭くんのこうした事件計画を企てた動機そのものじゃないかと僕は思っているのだが」

 と、瀧本は矢庭をしっかり見て言った。彼が目を向けてくるまでひとしきり黙り込んだ。

「矢庭くん? そろそろ語ってもらえないだろうか。君は、これだけ大掛かりなことを仕掛けてまでして、何を求めて回っているというのか?」

 彼は目を横に逸らし、何事か考えている。頭の中を整理しているように思える。決して、証言拒否をしようというような否定的な態度ではない。時間をおいてから、彼は自ずと語ってくれることだろう。瀧本は場つなぎのつもりで、続けざまに言った。

「本郷貴子がプロフェッショナルというまでの狙撃術を持っていることは、すでに分かっている。彼女に狙われたと思われる鳥獣の銃創症例を何件も探しだし、その中身を見てきた。比較検討し、医学的な考察を積み重ねてきた。いずれも致命傷を与えないばかりか後遺症が残らないような形で翼の筋肉部が撃ち抜かれている。位置や、銃創の程度、その他を勘案して、すべて同じ症状であると断定していいだろう。

 これまで確認してきたのは、僕のところの一件も含め、さらに仲間の一件も含め、十一件だ。それは押さえた範囲内での数に過ぎず、実際はまだもっと多いだろうことが確実に言える。下手をすると、何倍にも増える恐れだってある。エリアが問題だ。じつに広範囲に及んでいる。道東エリア全域のみならず、道北エリア全域にまで及ぶ。しかもどの件も統一性がないというぐらいに、場所が異なっている。この分だと、まだ裾野が広がる可能性があるが、そこまでやる以上は並大抵の精神ではできないように思える」

 瀧本は一息置いてから、語気を強くして言った。

「どうしても成し遂げなければいけない程の、重大な理由があったはずなんだ。もちろん、本郷貴子には技術があり、そうしたものを試したい、ひけらかしたいというような欲があったのだろうが、それよりもすべての発端となった動機のほうが大きいものがあるのは、言うまでもないことだ」

 矢庭はようやく気持ちが整ったようで、もの言いたげに口許をもぞもぞとうごめかしはじめた。

「先生、語りますよ」

 と、理知的な響きで彼は言った。

「動機なんですが……、それは瀧本動物病院そのものに関係します」

 瀧本に軽い衝撃がぴしりと稲妻のように貫いた。やはりそうだったのか、と得心するなり、次には悩ましいものが頭をもたげてきた。

「本郷先生の遺産……。きっと、それを狙っていたということなんだろうな」

 矢庭はみじろぎもせず、淡々とした目を瀧本に注いでいる。

「遺産目当てなのは、たしかです。あいつ……貴子には不満があったのです。叔父さんから相続した遺産はわずかに二百万程度だったようです。これは、少し以前からその額だと予告されていたようなのですが、貴子は信じていませんでした。それでも焦りがあったようで、時間を追うごとに貴子は追いつめられていきました。ここ数年のあいだに起こした貴子の奇行の数々は、そうした焦りと現実拒否があった結果です」

 矢庭は沈鬱に目を伏せた。

「そして、叔父さんの死……。遺産は、本当に二百万円だけだったようです。いまは瀧本先生所有のこうした病院も含め、たくさんの施設を同時経営していたという身でありながら、貴子の手許にはほとんど財産が渡るようなことはなかったのです。それでは、どこに財産が出ていったのかと言いますと、それがまったく不明なのです」

 本郷にはいくらかの資産があったことは、疑いもなく事実であろう。そのことは、病院を明け渡してもらった、売買契約者の一人である瀧本が良く知っていることだ。

 それなのに、娘の貴子に相続されたのは、申告どおりの二百万円きりなのだという。もしかしたら返済しなければいけない借金を清算するようなことがあったのだろうかと思ったのだったが、瀧本に譲渡された病院の、当初からの健全な経営状況を考えればそれもあり得なかった。

 本郷の財産は、どこかに消えてしまったのだ……。

「なるほど、彼女はどこかに、不明になった財産があると信じているというわけだ」

「はい、そうなんです。そして貴子が一番に目を付けたのが、叔父が残したカルテです。先生の言い方を借りれば、本郷ノートと呼ぶべきでしょうか? そこには、あるいは一羽の鳥獣に対し、遺産の一部を括り付けたというような妙な記録が残されているはずだとそう見なしたのです。もちろん根拠もない憶測に過ぎず、見方によってはじつに馬鹿げた考えでしょう。それでも、貴子はそれ以外に当てがない、とぼくに強硬に言うのです。おそらく、これまでにも本郷先生の財産についていろいろと探してきた経緯があったのではないでしょうか」

 本郷貴子が渡米した時期は触れ込み情報を信用すれば、本郷喬司の渡米から少し経った後だ。その時はまだ猟師として研鑽を積むことしか考えていなかったのだと思われるが、たびたび父と接触する機会はあったはずだ。

 例によってお金に関する手回しについては徹底しているところがある、本郷のことだ。

 彼が立てた相続の計画について、娘の貴子に対し何事も告げなかったはずがない。早い段階で中身が伝えられたのだと思われる。貴子の捜索は不審に駆られたその時からはじまった。スクールでの研修が延びにのびたのは、そうした背景があったからだ。しかし、成果は上がらず、渡米の本分であるスクールの研修が終わってしまうこととなる。彼女の手許に残ったのは、猟銃の取り扱いや狙撃技術だけだった。

 まだ本郷が存命のうちに、貴子は自らの判断で帰国を果たす。

 気持ちを仕切り直して、今度は日本で調べてみようとなった。が、当てはなく、やはり情報収集はうまくいかない。とうとう強行策に出ようというところまで疲労が極限に達した。ここで、アメリカで体得してきた技術を使わない手はないと思っていた。またテレメトリの通信を傍受する技術も心得ていることから山籠もりまでして、可能性のある情報をしらみ潰しに捜査していこうとなった。

 その矢先での、本郷の死去。そして申告どおりの相続額。彼女が追跡を取り下げず、ライフル弾を盗み出すなどの犯罪行為に走ってしまったのは、いよいよ追い込まれ、精神の余裕がなくなった結果だ。

 おそらく、いまの本郷貴子の精神状態は、かなり危ういものがあるはずだった。あるいは、破綻寸前の所まできているとまで見なしても、いいのかもしれなかった。

「彼女と今、連絡を取ろうと思えばできるのだろうか?」

 瀧本が矢庭に問う。

「それが……」

 と、矢庭が口を濁す。

「できないと思います。というのも、ぼくが銃について神経を悩ますようになったのを機に、やり取りが途絶えたからです。貴子からも掛かってきていませんから、向こうも見切りを付けたはずなんです」

「まだ、どうなのかはっきり分からない段階だと思うよ、それは。ここは思い切って繋いでもらいたいんだが、やってもらえないだろうか?」

 矢庭はポケットに収めていた携帯を取り出すなり、じっとモニターを眺めに掛かった。気が重たいらしかった。彼についてだけはすでに陥落した状態にある。そのことを告げるのは、一種の敗北宣言にもなるはずだった。

「彼女が研修を終え、帰国したとき、君には彼女を止める義務があったはずだ。それなのに、見過ごすどころか加担してしまった。幼少時、彼女を撃ってしまったという過去のトラウマを突き破れずに、すっかり彼女に隷属してしまっている。それでいいのだろうか? いまこそ、彼女を説得すべきだろうに。殻を突き破るこのチャンスを逃してはいけないよ」

 矢庭の携帯を握る手が、ぶるっと震えた。反動でずれた携帯を、きゅっと握り直す。

「連絡したい気持ちは強くあります。……が、できません!」

 自分の内側に塞ぎ込むように、足下を見下ろしながら言葉を吐き出した。

「どうして、できないというのだろう?」

「分かっていますでしょう? トラウマとは、それほどのものなのです」

 持ち上がった彼の顔は貧相で、その目には哀れみを請う色があった。それを受けても、瀧本には同情の念が起こるわけでもなかった。むしろ、彼の弱さについてある種の嫌悪を抱いていた。

「トラウマの克服が難しいことなのは良く知っている。が、それにしても君はそのことに対して向き合おうとする努力を怠っているように思える。君が犯した過ちは貴子に隷属しつづけることで解消できるようなことなのだろうか。そのようなことは断じてない、と僕は君にはっきりと言うよ。悪いことに君たち二人は、不幸のぬかるみにはまってしまったきり、お互いの傷をなめ合いながら生きてしまっている」

「先生に、何が分かるというのですか?」

 矢庭が息を乱しながら言った。

「おい、よせ」

 と、赤坂が彼の手前に移動して言った。が、すぐに矢庭が身を乗り出す事で押し退けられた。

「先生には、こちらの苦しみなんて、何一つ分かるはずがないんですよ!」

 勢いよく吐き出されたその一言で、書斎はなりを潜めたように静まり返った。

「もっと、吐き出しなさい!」

 と、瀧本は機を逃さずに、彼に対し叫んだ。

「この僕には、まだ君の気持ちを受け止めるだけのものがある。だからこそ、もっと吐き出せ。吐き出して、吐き出し尽くしてしまうんだ! その中にある苦しみを、僕の中に植え付けてやるつもりで、思い切り叩き込んでくれ!」

 今度は、瀧本の息が乱れた。

 赤坂は、どうしていいか分からず、立ち尽くしたままきょろきょろと首を巡らせている。

 矢庭の振り乱れた感情は、瀧本が強く見返している内に、やがて沈静化の方向へと向かっていった。ある程度は、通じてくれるものがあったようだ。それもそのはず、これまで彼の前で見せていた顔とまるで違う一面をぶつけてしまっていたのだった。いま、本気の気持ちでいることが彼に理解できないはずがなかった。

「先生……すいません」

 と、矢庭が凝視の目を片時も動かさずに言った。

「この状況をどうすればいいのか、よく理解できているのは、先生の方であることは間違いないようです……。自分は、貴子を説得するべきなのでしょう。あいつに同調することは、たしかにトラウマの放置なのかもしれません。ですから、自分のためにもこれは必要なことのように思います」

「一つ聞いておきたい」

 と、瀧本は矢庭に対して言う。

「先程、君は貴子くんとは恋人同士でもなんでもない、ただの従兄弟同士だと述べた。しかし、本当のところはどうなのだろう。そうじゃなくとも、別の感情を持っていたりするのではないか?」

「そのあたり、どうも何かがあると思ってしまうようですね。まあ、それが疑われてしまうぐらい、関係が深いことは認めなければいけないでしょう。ですが、疑わしいものは何一つありません。ぼくと貴子のあいだには、限定した感情しかないのです」

 じつにあっさりとした回答だった。事も無げに否定する一言ということでよかった。

 が、瀧本には関係を明らかにすることの二回目の問いにして、彼の言葉の裏に潜んでいた尾を掴んでいた。それは、はっきりとしたものなんかではない。それでも、彼が正直に言っていないだろうことはある程度、確信していた。

 実はそうだったのだ。矢庭は貴子に惹かれている。しかしながらそれは実らないものだと諦めて掛かっている分、恋愛という形とはまたちがった、別の形を選択するしかなかった。それが隷属だ。この関係を維持することで、気持ちを満たすことはできずとも、慰めることが可能だった。彼はその小さな幸福に満足していた。それこそが彼の拒否感情の正体というやつなのかもしれなかった。

「ぼくは、連絡しますよ……」

 と、矢庭は笑顔を取り繕ったまま、言った。強張った調子があるのは否めない、勢いに欠ける表情だった。

「あいつを説得します」

 かなり無理をしている風情があった。瀧本は彼を見ているだけで息苦しいものが立ち上るのを感じ取った。しかし、差し止めるわけにはいかなかった。ここは、どうしても本郷貴子を止めなければいけない状況なのだ。

「頼む、君しかいないんだよ」

 彼に自ら勢いを喚起する首肯がある。即座にリダイヤルのボタンを押し、彼女に繋いだ。

 耳に当てるなり、じっと様子をうかがいに入った。しかし、その姿勢が維持されたのはわずかに一分も満たなかった。彼はぼんやりと気味にモニターを見つめている。

「どうしたんだい?」

「いえ、掛からないのです。……もう一度、掛けてみます」

 と、続けざまに試みる。同じだった。電話はつながらないようだった。

「そうか、山の中にいるから繋がりにくいんだ」

「いえ」

 と、矢庭が思案に暮れながら言う。

「それは、ないです。貴子は、自分で電源を落としたのでしょう。つまり、単独行動に入ったんです……。あいつはそういうやつですから――」

 それが事実なら、一人で戦うつもりでいるということになってくる。矢庭に頼る気など最初からなかったのかもしれない。いつでも一人で生きていけるだけの気力を彼女は持っていた。

 彼女からの精神的な見切りを否定するように、矢庭は繰り返しリダイヤルボタンを押している。しかし、反応は決まって弾き返されるだけのようだった。やがて、彼の手は動かなくなった。

「お願いします」

 と、矢庭が祈るような仕草になって瀧本に言った。

「貴子を、助けてやって下さい……!」

 懇願する彼の思いは真摯だった。その模様を見る限り、縁を絶ち切られたことによるショックの感情は小さいようだった。いや、いまの彼には理性的にそんなことを考える余裕などないのかもしれなかった。

「あいつは、孤独なやつなんです――」

 しゃくり上げる声と混じって、甲高い訴えとなった彼のその一言が、瀧本の心を妙に強く引っ掻いた。

 

 

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