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グラン・ブルー  作者: MENSA
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グラン・ブルー2

第二章

 

     1

 

 捕獲の研修は、予定よりも一時間半ほど超過して終え、瀧本たちはマイクロバスで病院に帰ってきた。が、研修生たちを下宿先に向かわせた後に、自分だけ診察室に入ると、部屋の様子がおかしいことに気付いた。大きな調度品が動かされているのだ。

「あなたっ……!」                    

 手術室の方にいたかなめが駆け足で近づいてきた。

「なんなんだこれは……、もしや、強盗でも入ったのか?」

「どうも、そうみたいなの。ちょっとお買い物に出て行ったその隙に、やられたみたい」

 衝撃が瀧本を貫く。なぜこんな片田舎でこのようなことをしなければいけなかったというのか。何かしらの間違いが起こってしまったとしか思えなかった。

「それで、開は無事なのか? あと、入院ケージに入っている患者たちはどうなんだ? どの子か勝手に連れ出されていたりしないか?」

「開は、買い物に同伴させていたから無事よ。入院している子たちの方も、さっき問題なくケージの方に大人しく収まっているのを確認したわ」

「間違いなく、みんな無事だ、と?」

「うん、そのあたりは何度も確認しているから大丈夫」

 瀧本は一先ず息をついた。

「そっか、無事か……ならいいんだよ」

「でも案外、喜んでいられる状況でもないわよ。ここまで荒らされると、少なくとも今日の分の業務には影響が出そうだわ……」

 彼女の視線がとくにひどい箇所だと思われる場所を向いた。検体の一部が収められている冷蔵庫の周辺である。その上にあった段ボールから学会配布の報告書が何束か取り出され、床にぶちまけられている。すぐ近くのレターケースの引き出しがすべて開いている。どうも書類用紙を中心に物色されたらしい。当然、カルテの入った段ボールもその対象に含まれていた。この分だと確実に診察室の方も荒らされているに違いなかった。

 じっくりその模様を眺めながら、かなめの話を聞いた。

 彼女が帰宅したのは、いまから三十分前の事だ。部屋に入った途端、異様な気配にすぐ気が付いた。診察室を覗けば、案の定、荒らされていた。すぐに110番通報をしたが、分駐所から派遣されるために、警察官が到着するのはずっと後のことだと分かっていた。だから、瀧本の携帯に繋いだ。

 ところが、携帯の電波が届かない地域にいるというアナウンスが入ってくるだけで、なかなかに繋がらない。無理もなかった。その時、瀧本は移動中で、バスは電波の届きにくい山を下っている途中だったのだ。

 彼女は五回目で諦め、部屋にて待機することにした。それから思い立って自分なりに検分をしてみることにした。盗み出されたものが何か、それを確かめようとしたのだった。

 しかし、現場を保存しなければいけない約束から制約が多く、やたらと面倒で手間が掛かる作業となった。手を進めてもなかなかに捗らない。

 瀧本が帰ってきたのは、そうした作業が一山越し、途方に暮れ始めたところだった――。

「とにかく誰にも怪我がなくて良かったよ。これは不幸中の幸いというやつだ」

 瀧本はここはポジティブに考えようと思っていた。

「あなたって、こんな時でもマイペースでいられるのね?」

 と、かなめが軽く息をついて言う。

「いや、これでもけっこう動揺しているよ。ここは、守るべき存在を意識しなければいけないところだからさ、いまその事だけを考えている。自分のことは、ずっと後回しにしているだけ」

「そうなの? ともかく開は大丈夫だから、あなたは自分たちの子をちゃんと見てあげて。もしかしたら、見えないところで異変が起こっているかもしれないわけだし」

「そうか、だったらそうさせてもらうよ」

 瀧本は手術室から通じるモニタールームに入った。かなめも急に心配になったのか、開の様子を見届けたのちに後から追い掛けてきた。機材の電源は二十四時間入れっぱなしなので、すぐさま確認できる状態にあった。入院ケージが映し出されたモニターに二羽の患者たちがしっかりと映し出されていた。窃盗犯が立ち入り、ほんの僅かでも危険に晒されただなどまるで頭にない様子だ。

 そんな脳天気なありさまに、なんだか騒いでいた気持ちが少しだけやわらぐ気になった。そして楽観的なそのあり様を見るに、テリトリー内に見知らぬ人間が近寄ることもなかったはずだ、と結論を出した。

「ねえ、モニターに犯人が映っているなんてことはあり得ないの?」

 ふと思いついたように、かなめが言った。

「仮に映っていたとしても、期待は薄いものでしかないよ。というのも、ケージ内限定撮影の固定カメラだけに、それだけ条件が限られるからね。多くは、足下が映っているぐらいだろう。それでも望みがないわけではないから、これから警察さんが来たら、一応データを渡すことにはなると思う」

 その時、ふと瀧本に思い当たることがぱっと浮かんで、身動きが取れなくなった。盗みだされたもの――それとは、貴重品でなければいけない。この病院にある貴重品といえば、あと一つあったではないか。

 猟銃だ。

「まさか……そんなことは、ないよな」

 瀧本は大サイズのキャスター付きモニターの裏側に隠された、ドアに注目した。戸自体はしっかり閉じられていたが、キャスターの位置加減に注目すると、いつもと模様が違うことが分かった。

 動かされている。しかも、中途半端にながらも、分からないように元の位置に戻そうと偽装までされた節が認められる。

 いや、これは見間違いだ。きっとそうに違いない。このキャスターは最初からこのような感じだったはずなのだ……。

 瀧本は考えを打ち消しながら、自分の目でしっかり確認すべきだと決意した。一先ずキャスター付きのモニターを移動させ、倉庫室への道を確保する。

「あなた、まさか……猟銃が?」

 かなめもそのことに気付いたようだ。瀧本は反射的にかぶりを振った。そして大丈夫だと伝えるそのために、微笑みかけた。しかし、思ったよりも心が強く囚われていたから、どうもぎこちないものになってしまって逆効果だった。

「とりあえず、……鍵を頼む」

「そこに誰かが立ち入ったというのなら、最初から開いているんじゃない?」

 キャスターが元の位置に戻されていた云々の説明をすることが、なんだかひどくわずらわしいことのように感じられていた。ひどい焦りばかりが胸の内にあった。

「そうか」

 と、言われるままに反応して、とりあえずドアノブに手を掛けてみる。腕を押していくと、するっと前へ押し出すことができた。かなめの見込みどおり、鍵は掛かっていなかった。

「鍵……やっぱり、開いていたわね。なんだか、中を検めるのがちょっと怖いわ」

「大丈夫だ。僕だけが見るから。君はついてこなくていい。というよりこの際だから、この事を研修生たちにも報告しておいてくれないだろうか」

「……分かったわ、すぐにでも伝えるとするわ」

 彼女はうなずくと、急ぎ足で部屋を出ていった。

 独りになったところで、瀧本は倉庫室に踏み入った。冷え冷えとした空気が肌に触れてくる。一見して、特に弄られているような気配は見当たらなかった。いや、ついさっきまで誰かがここにいたような気がした。これは、何度もこの部屋に立ち入ったことがある者だけが理解できる、僅かな感触だ。

 何かが、異なっているように感じられる。

 瀧本は息を呑んだ。自分でも意図せぬほどの音が喉から鳴っていた。

 頭に専用の黒い銃ケースを思い浮かべ、それが設置されている場所までゆっくりと歩いて行った。中に収まっているのはSKB5100だ。海外の専門店から取り寄せた高級品。組み立て式になっているので、ケースもそれに合わせて特殊形状をしていた。三つのボックスが設けられ、うち二つには分解された銃が収まり、残り一つに、ライフル弾が詰まったカートリッジが入っている。

 ――頼むから、いつものとおりにあって欲しい。

 銃が設置してある部屋の隅にまでやってくると、えいやっと反動をつけてその箇所を見やった。

 すると、黒い銃ケースはしっかりとそこにあることが分かった。

 救われた感情になったが、まだ油断してはならないと、すぐさま気を引き締め直した。銃ケースを取り寄せ、足場におく。頑丈に掛けられたラッチを外すと、口が二ミリほど開いたままになった。心臓がどきどきと強く鳴り響いている。呼吸を一旦、整え直す必要があった。

「先生」

 声がして、思わず飛び上がるところだった。

「な、何?」

 振り返ると、そこには朝倉の姿があった。後方に矢庭が待機している。二人ともいつになく固い顔をしていた。非常事態だと聞いて慌てて駆けつけてきたのだろう。

「君たちか、驚かすなよな……」

「すいません、先生」

 朝倉が口早に言った。

「まさか、こんな時に泥棒が入るだなんて、自分らにも予想できませんでした。こちらのほう、いま確認しているところだったんですね? 問題なかったのでしょうか?」

 二人の視線は、黒いケースに集中している。

「もしや、それは――」

 矢庭が目を見開いて言った。

「猟銃が収められているケースでしょうか?」

 思わず、脱力してしまう一言だった。知られてはならないことに彼はいち早く気づいてしまったようだ。

「なぜ、そうだと思ったんだろう……?」

 この時、彼の目は感情を抑えるように、至極細められていた。

「うちの親族に、ハンターの免許を持った人間がいます。……猪狩りを中心にやっていまして、何度かその手の狩りの話を聞かされました。銃は、そのついでといった具合に見せられたのですが、いまでもすごく印象に残っています。なにぶん、その手のものは生き物を殺すための道具ですからね、新鮮な機能美というやつがあります。そのケースもそうです。猟銃を収めるのに相応しいというべき特殊な形状をしています。そういう雰囲気をまとっています……」

 猟銃ケースには種類がある。携帯用のものならば、銃を包むだけの簡易な形状をしているのですぐに猟銃と分かる。しかし、今回のボックス式のケースは、その例外に入るものだった。それなのに、彼はそうした雰囲気があるのだと指摘する。

「もう分かっているなら、誤魔化せない。その通りだよ。これは猟銃ケースだ。君たちには言うつもりはなかった。いくら狩猟仕様とはいえ、そうしたものが病院にあるというだけで動揺を与えてしまいかねないからね」

「先生は、ハンターだったんですか?」

 朝倉が問いかけてくる。瀧本は言下にうなずいた。

「ハンターだ。狩猟一種免許というやつを持っている」

 銃ケースの前に向かっていた姿勢を解き、二人に向かい合う。

「なぜ、そんなものを取得したのでしょう……。いえ、そんなものとは失礼な言い方でした。お詫び致します。が、普通なら、獣医には必要のないもののはずですよね? やはりと言いますか、腑に落ちないものがあります」

 な、と朝倉が矢庭に同意を求める。矢庭は、曖昧にうなずいて受け流した。

「確かに、獣医には必要のないものだろう。ハンターと獣医という職業は相容れない関係であることは間違いない。しかしだからといって、獣医がこうしたライセンスを持ってはならないという決まりはない」

「それは、分かっていますが……」

「君の言わんとすることは、分かるよ。僕も、基本同じ考えでいる」

 瀧本は銃を所持する前の自分の事を思い返しながら言った。

「しかし少し前に、対極的な位置にいるからって、ハンターを頭ごなしに目の敵にするのは間違っていることだと気付いたんだ。ハンターの中にもナチュラリストは普通にいるし、環境保全運動に積極的に取り組んでいる人間もいる。僕らが憎むべきなのは、規制しても規制しても、法の抜け穴を見つけ出しては悪さを働く、節操のないごく一部のハンターだけだ」

 講演に招かれ、ゲストスピーチする機会に何度も恵まれた。

 その一席に交じっていた一人の男がいた。その人物は、ハンターであった。自らそうなのだと名乗った。名刺まで寄越し、活動の内容を語った。獣害が特にひどいと報告されている地域の野生動物駆除を手伝っているのだという。シャープシューティング。雌だけを狙い、繁殖をコントロールする狩猟だ。彼は農協組合と協力体制を築き、合理的な手法でもって農業被害を減らす慈善活動を展開していた。

 当初は獣医界へのスパイと疑っていたのだったが、その人物の環境保全と、農協組合への献身は本物だった。まもなく彼との直截的な交流がはじまった。付き合っていくほどに、ハンターに対し偏見を持っている自分の程を思い知らされ、一種のカルチャーショックを受けることとなった。気付くと、ハンターという存在を自分に近いものとして受け容れていた。

 後、彼からの諭しを受けて、猟銃免許を取得するに至った。その大部分の目標として、自らも獣害削減の狩猟活動に参加しようということを挙げていた。またその他に、偏見を持っていた事の、これまでの罪滅ぼしということもあったのだと思う。

 思い切ってそちらの世界に飛び込んだときの清々しさといったら、他の何にも代え難いものがあった。自分に設定していた禁忌の一つを破棄するような行為だったからだろう。その時のことを、瀧本は今もなお新鮮な感覚で覚えている。

「猛禽類を担当する獣医をしているから、モットーとして、鳥獣だけは撃たないようにしている。たとえ、それが獣害をもたらす生き物で、農協からの要請だったにしてもね」

「だからといって、先生の選択が業界にとって肯定されるようなものにはならないでしょうに」

 朝倉には、どうしても理解できないものが引っ掛かっているらしかった。それが獣医として自然な反応なのかもしれなかった。

「もちろん、否定的に捉えている人間が周囲にはいるよ。この男は、いったい何を考えているんだってね。分かり合えるその日がくるかどうかは何とも言えない。だけど、僕は自分のこの活動を地道に続けていくつもりだ」

 瀧本は自信を持って言った。背筋を伸ばして軽く胸を張る。

「だいたい、農家にとって獣害がどのようなものなのか知らない人間が多すぎるように思える。獣害ははっきり言って、深刻だよ。収入の二割近くがやられるパターンがほとんどだ。それも一瞬にしてやられるから、被害者のショックは大きい。それに、やつらは耕作放棄地で繁殖するから、今後も人間の生活圏とぶつかっていくことは確実だ。放置しておくことは、いたずらな被害拡大を招くだけにしかならない。駆除活動は今後も絶対に避けられないということ。よって、ハンターという職業は必要なものなんだよ。そのことが、ハンターになってみて、よく分かった」

 直截ハンターになって分かることがあるはずだと思って飛び込んだのだったが、その通りになった。ハンターはたしかに必要な存在だ。決して、獣医と正反対の存在なんかではなく、あるいは共存ラインにある職業の一つとも言っていいのかもしれなかった。

「ともかく、先生が環境保全についていろいろな視点を持っているということだけは、理解しました」

 朝倉は急に身を引いて、一人でに納得に入った。これは立場上、瀧本の不興を買うようなことはよしておこうと妥協した結果に違いない。

「しばらくは、すっきりとしない感情に苦しめられるのかもしれない。でも、最終的には理解してもらいたいと思っている」

「…………」

 朝倉は口を引き締めたまま、瀧本を見ていた。それは無理なことだと、暗にながら顔で訴えているようにも受け取れた。

「――と、先生。そんなことよりも、ケースの中身が気になるところですが……?」

 やたらと固い顔をしている矢庭が声を上げたことで、瀧本はいまおかれている状況に立ち返った。そうだった。自分の不安を払拭するそのために、自分はここに立ち入ったのだった。     

 もう一度、黒の銃ケースを見やる。蓋が二ミリ開いたままに、それは足場に佇んでいた。合図なしに、一気に蓋を持ち上げた。楽器ケースの内装と同じ仕様を思わせる、ベルベット仕立て。中央に二つに分解された銃の本体がしっかりと収められてあった。

 あった――

 安堵が瀧本の心を包む。が、ある事実に気付くと、すぐさま気持ちは暗転し、足がぶるぶると震えだすのを感じ取った。

 ――弾丸の入ったケース――カートリッジがない。一式まるごと消えてしまっている。

 

     2

 

 分駐所からやってきた警察官は顔馴染みの男だった。猟友会の人間と通じているため、瀧本もたびたび接触する機会があった。小柄で四角い顔をしている、いかにも土着民気質丸出しといった警察官だ。

 一通りの事情聴取を終えると、彼は筆記を止めて瀧本に言った。

「ま、とりあえず、これから提出されるビデオの件がどうなるかですね。あと、指紋の方もちゃんと調べるとしますので、報告はもうちょっと遅れることになると思います。……にしても、こんな山奥の中にある病院が狙われるだなんて、まったくおかしな話もあったもんですね」

「まったくですよ」

 リビングに集まった研修生たちは、皆固い顔をして、状況を静観している。このようなトラブルに巻き込まれて、彼らの研究意欲が少しでも損なわれたことに、瀧本はやるせない気持ちになっていた。

「一応言いますと、近隣に空き巣が入ったとする報告はありません。かといって、全国を放浪しているプロの空き巣がここにやってくる機会があったという風にも考えていませんから、やっぱり病院の関係者に絞られてきましょうか? 関係者とは言っても、ここでは病院内に立ち入った、外部の人間が中心になりますが」

「だからといって、病院が保管している個人名簿を提出しろというような要請なんかをされても、僕は応じかねますが」

「それは、どうしてです?」

 警察官は肩をぐっと下げて、低く尖った声を上げる。

「かりそめにも、野性専門の病院ですよ。傷病鳥獣が運ばれてくる多くは、第三者が善意でやってくれているものです。その彼らの記録を渡したりすれば、いかにもその善意を踏みにじるような行為になってしまうでしょうに」

 記録帳を脇に挟むと、警察帽を一回脱いで、彼は短く刈られた頭をさっと手で梳いた。次におもむろにながら持ち上がった顔は、なんだか苛立っているような調子があった。

「果たして、いまそのような事を言っている場合でしょうか?」

 銃の弾が盗みだされた事実。それは、警察にとっては軽く扱えないことであることはすでに分かっていた。

「綺麗ごとはよせとおっしゃりたいのでしょう? 確かにそうでしょう。こんな時に、それは不必要なものです。が、やはりそうしたものは提出できません。いくら民間の動物病院とはいえ、運営資金の大部分は公的資金に頼っています。あと、市民団体からの支援金ということもあるのです。ですから、そうしたことを仇で返すようなことは、したくないのです」

「先生のそれは、単なる個人的な杞憂の域を出ませんよ。外側にそうした事実が洩れることはありませんから」

「それでもダメですよ」

 と、瀧本は頑なに言った。

「僕が拒否しているんですから、譲れないことだと思って下さい。説得しても無駄です。僕の性分として、市民さまたちとは精神的な意味でも健全な形で繋がりたいと思っているんです。要求に応じてしまうと、すべてが台無しも同然でしょう。やっぱり、これは無理なことなのです」

 警察官はため息をついて、眉間の辺りに手を当てた。一度、首を振る。

「まあ、いいでしょう。先生の言う通りにします。ただ、それ以上、保守的な態度を取りますと、我らとしても非常措置を取らざるを得なくなると思いますので、その点は覚悟しておいて下さいよ」

 一息間を置くと、表情を素に戻して言った。

「ともかく、狙われたものが何かという特定ですね。弾だけ持ち出して、銃本体が入ったケースは置いていくだなんて、少しぶれています。こちらとしても何を考えているのかさっぱり分かりません」

 犯人にはどのような目的があったのだろう。それがはっきりとしないことには、今後も何者かに監視されているというような不安がついて回ることだろう。研修生を迎えているいまだからこそ、これはひどく迷惑なことだった。

「もしかしたら、犯人はそれを使って悪さをしようと企んでいるのかもしれません」

 と、警察官が口許を歪めて言う。

「近頃、ヤクザたちの取引場からいくつかの未使用弾が押収されるようなことがありましてね……、まあ、弾の登録者として一般人が誤認逮捕されるというようなことがあったのですよ。そういう風に、偽装工作として使われた場合、同じように先生に累が及ぶのは必至。もしかしたら、今回もその筋のことなのかもしれませんねえ」

 威圧的な響きが、言葉の端々に籠もっていた。それには、自分たちに従わせようとする、彼の本音が含まれているように感じられる。瀧本は気を強く持った。

「その時は、そのときでしょう。いくらでも対応をしますよ。僕は、そうしたものを悪用なんかはしない人間ですから、そのことを証明してみせるまでです」

 力強く押し返し、意気の程を顔に込める。その様を見届けるなり、彼の口から、はあっと息が洩れた。

「どうあっても、名簿を渡してもらえないとみえます。何かがあったら、その時はもう遅いんですよ。……ま、一先ずそれはおいとくとしまして、あと、何かあれば、聞いておくとします」

「近隣で空き巣が入った報告はないとおっしゃっていましたが、もう少し範囲を広くしたらどうなのでしょうか? 弾だけが盗まれるなんていう報告は入っていますでしょうか?」

 猟友会の関係者が忍びこんできて、弾だけを持ち帰ったとするケースだ。その可能性は決して低くなかった。金銭的に不自由をしているために、やむえを得ず使用禁止の鉛弾を倉庫から引っ張り出しては狩りに出るハンターも多くいるのだ。

「それは、ないですね」

 と、警察官は渋い口調で言った。     

「つまり、今回が初のケース、と」

「ま、そういうことですよ」

 だから、病院が保管する名簿に注目しているのだ。犯人は、瀧本動物病院になにかしらの恨みがある人物なのだとみなしている。

 その犯人が、病院にあった猟銃の弾でアクションを起こすとしたら、どんなことだろうか。今回の場合、猟銃仕様だけに狩猟用に使われる可能性もあったのだが、人を撃つために使用するという場合もあり得なくはなかった。

 瀧本としても、まさかとは思う。しかし、この状況は、そのまさかが起こってもおかしくはないというだけの事態なのだった。

「どうやら、先生」

 と、警察官が妙に親しみのこもった声を上げる。

「わたしが言った、累が及ぶ、ということの意味が分かったようで?そうですよ、先生。これは、じわじわと責め立ててくるような、そんな厄介なことなんです。少なくとも、しばらくは落ち着かない日々が続くことになるでしょうね。大丈夫ですよ、そういう気持ちは、常々わたしらも共有していますからね。警察官というのは、弾の一発でも口うるさいほどに管理している所なんですよ――」

 後味の悪い感情が、この時、瀧本の胸のうちでくすぶりだしていた。いつまでも、抱えていたくないような、そんな苦しさを伴うようなものだ。ストレス症状なのか、瀧本の目下がひくひくと痙攣しはじめた。

 

 応援による臨場が終わった後、瀧本はリビングに研修生たちを座らせ、彼らに相対した。

「このようなことになってすまない……」

 深々と頭を下げた。かなめはキッチンに立ったまま、台所仕事に明け暮れている。

「先生が謝ることないじゃないですか」

 と、研修生のうち最初に口を切ったのは朝倉だった。呼応するように、深澤もそうですよと荒々しい声を上げ、擁護に掛かってきた。

「先生はあくまで被害者なんですから。もし、誰かが悪いとするのでしたら、私らも無関係ではありませんね」

「いや、君らは……関係ないよ」

「ともかく、私らは先生を全面的に支持します。何か、協力できることがありましたら、申し付けて下さい。少なくとも、私はなんでもやります」

 深澤の一言に火を点けられたらしく、他の研修生たちが一斉に支援を申し出てきた。瀧本は、暗く沈んだ気分を切り替え、一先ず勢いづいていく彼らをなだめた。

「君たちの気持ちは嬉しい……。だが、これはやっぱり僕の問題なのだと思う。ここで取り上げるべきは、次のことだ。今回、僕の病院から弾が持ち出された訳なんだが、まさかと思うが、これで君たちが狙われるというような可能性はゼロではないと思う。だから研修を続けるべきなのかどうか、それを君たちに問いたい」

 瀧本は研修生たちの目を順番に見ていった。そして息を吸い込んでから確かに言う。

「僕としては、中止にしたほうがいいのではないかと思っている。君たちは若い。だからこそ、後から研修をやり直したところで、問題はないはずだろう。安全が確保されていない今、無理に強行する必要はないと思う」

「僕は反対ですね」

 と、赤坂がほとんど間を置くことなしに言った。決然たる口調だった。

「ここで一歩身を引いたら、なんだかその犯人に屈したような感じがあって、なおのこと許せないものがあります。僕は、そういうのに耐えられないタイプなんです。あと、常日頃から後悔のある選択だけはしたくないと思っているタイプでもあります」

「わたしも、同じかな」

 と、今度は小鈴が言った。

「だいたい、先生。いくら若いからといって、チャンスが今後、何度もあるというわけではありませんよ。野生動物に関する研修というのは、ただでさえ特殊な講義なんです。わたしとしてはこれで自分の運命を変えるというぐらいの思いで来ています。それが、こんなことですごすごと途中で引き上げて帰ることになりましたら、これまでのわたしと同じままという結果に終わってしまいます。そんなの、いやです」

「それは、みんな同じ気持ちだと思うよ」

 朝倉が取りまとめるように言った。

「俺もそうだし、矢庭もそんな気持ちで来ていると、本人から聞くことがあった。そうだろう?」

 朝倉から水を向けられ、矢庭は無言で応じた。そして引き継ぐように矢庭が言った。

「同じ気持ちです。このまま解散というわけにはいかないと思います。自分も相当な思いがあってここまで来たつもりです。解散するその時は、自分の半分を喪ったとそれぐらいのことを意味します」

 全体の勢いがついたのをいいことに、朝倉が気炎を上げた。

「みんな野生の鳥獣たちを守りたいのです。できれば、先生のように環境保全ネットワークの一員として活動の拠点を作りたいと思っています。この困難を乗り切りましょう。いま、無下に取りさげることはこうしたネットワークの一つを潰すようなことだと思って下さい」

「思いは分かったけれど……しかし、気持ちだけではダメなんだ」

「先生、気持ちこそが大事だと自分はそう思いますよ」

 と、矢庭が一歩も引かず、強気で言う。わずかな興奮が見て取れた。

「まだ若輩者ですが、こうみえてそれなりにいくつかの困難を乗り越えてきました。いつも気持ちだけで勝ち抜いてきました。今回もそうして克服するのです。最初から引くだなんて、ありえません」

 瀧本は押し黙った。

 彼らの顔には固い意思がみなぎっている。若者らしいエネルギーとも受け取れた。かつての自分もこんな感じだっただろうか、とふと思う。そんなはずはなかった。これまでの自分はいつだって日和見主義で、強硬な意見を飛ばしてくる者のご機嫌を取るような形で、無難な選択ばかりしてきた。彼らは違う。こうも熱意を振るって、中止を阻止しようとしてくる。自分を強く持っている証拠だった。

「分かったよ。受け容れる……」

 わぁっと、歓声めいた風に彼らが沸いた。瀧本は彼らのその反応に水を差すという具合に、制止の手を突き出した。

「――と、一言だけ言っておくとする。それとは、決して油断はしてはならないということだよ。何かが起こったら、それはすべて僕の責任だけれど、いつもかって傍にいてあげられるわけではないから、自分の身を守るのは君たち自身ということになる」

「それは、承知の上ですよ」           

 と、朝倉がいかにも調子よく言った。

「自分の事ぐらいは、自分で守れるようにしますよ。それぐらいは、当たり前に、みんなそれぞれ覚悟ができていることでしょう。ですから、問題ないはずです」

「君は、銃が怖くないのだろうか?」

 ふと、瀧本は朝倉に訊ねてみた。

「怖くないはずがないでしょう。十分、怖いですよ。でも、自分たちへの期待の方がもっと大きいのです。それを克服するだけの、希望がこの研修にはあるんですよ。先生、暗い気持ちにならず、割り切って、ぱっと明るくやりましょうよ」

 精神的な勝利を奪取したことを強引にながら肯定するように、拍手が巻き起こった。彼らの気持ちは一つだ。瀧本だけが少し離れた所におかれている。ここは合流し、彼らと気持ちを一つに通わせるべきだった。

「そうだな」

 と、語気の強い一言を放って、立ち上がる。

「こういうときだからこそ、突き抜けたような明るい気持ちが必要だ。まさに、君たちの言うとおりだ。やるからには、気持ちで押されたらダメなんだ。ただ僕の場合、気持ちをすぐにころっと切り替えることができない分、少し時間を欲しい。せいぜい二、三時間ぐらいだ。許してくれるね? ……それまで各自休憩していてほしい」

「そうですか……、分かりました。とりあえず続けて下さる決定をしてくださっただけでも嬉しいです。二、三時間自分らも休憩させていただきます――と、行きたい所なんですが、どうもそんな気分じゃありません。そこで思いついたんですが、この空いた時間を機に本郷先生のカルテを閲覧させていただきたいと思っているんですが駄目でしょうか?」

「あ、わたしも見たいです」

 と、小鈴が加勢に掛かる。

「こういう時に、それを申し出てくるなんて憎いね。でも、ここは認めなければいけないのだろう。……この際だから好きに見ていけばいい」

 瀧本は解放的に言っておきながら、条件をつけることにした。それとは、三箇所に設置された段ボールのうち、閲覧していいのは手術室と、診察室にある方のカルテであって、倉庫室内のカルテには手を出さないというものだ。銃の存在が知られてしまった以上、その存在を隠す理由はなくなったものの、やはり重要度の高い、倉庫室内のカルテだけは機密扱いでいくつもりでいた。

「分かりました、倉庫室の方のカルテにだけは手を出しません。あと、取り扱う分につきましては、各々自己責任で管理するとします」

 朝倉が応じて立ち上がると、呼応するように他の四人も従った。小鈴と赤坂が部屋を出ていこうとしたところで、電話が鳴った。かなめが如才なく反応して出る。

「あなた、急患が入ったわ」

 と、彼女は送話口を押さえて言った。

 くそっと舌打ちが洩れる。こんな時に、容赦なく仕事が入ってくるなんて、なんて間が悪いのだろう。役柄上二十四時間体勢で対応できる気持ちは整っているのだったが、今回ばかりはなんだか隙を突かれたような気分でいた。

「わかった、出る」

 苛立った気持ちを無理に閉め出し、呼吸を整えてからいつものように対応した。病院から二駅ほど離れた線路上で、弱ったオジロワシが発見されたという。JRの職員が様子を見に行ったが、捕獲に失敗し怪我を負ってしまった。現在、発見者の男を治療に専念させ、引き継ぎ手の係員二名が列車の進行の邪魔にならないよう線路の外側に導いた上で、監視している状況にあるとのこと。

「――すぐに、そちらに駆けつけますので、患者には手を触れないよう、お願い致します。はい、すぐにです。十五分も掛かりませんから……はい」

 電話を切ると、すーっと長い息が鼻から洩れた。振り返ると、深澤がすぐ近くにいた。

「先生、急患ですね。お手伝いさせて下さい」

 一瞬迷ったが、いましがた研修続行を決意したばかりだっただけに、パートナーとして連れていくべきだった。

「僕が運転しますよ」

 赤坂がそう申し出ると、他の研修生も私が私が、と競い合うように声を上げてきた。瀧本は最初に立候補した二人だけを連れていくことにした。

「残った人たちは、シマフクロウの雛に餌をやってくれ。かなり警戒心の強い子だから、すぐストレス反応を示す。その難しさを君たちにも感じてもらいたい。あと、鉛中毒の子も合わせてしっかり頼まれて欲しい」

「分かりました。両方とも責任を持って給餌いたします」

 小鈴が威勢良く応じたのを、気持ちよく受け取った。

 瀧本は赤坂の運転でもって、黙々とながら現場に向かった。手が空いた分、注意深くあたりを観察したのだったが、こちらを見張っている目など、どこにも見当たらなかった。

 

     3

 

 現場にいたオジロワシは威嚇の声を盛んに上げていた。その声には、衰弱の気配はない。しかし近づいていく作業員を突き返す挙措はなんだか中途半端だった。痛みを隠そうとしている兆候があった。

 瀧本はその様を見て、翼の一部に外傷を抱えているのではないかと睨んだ。

「あとは、僕らに任せて下さい。手伝ってもらう必要はありませんから、離れてもらって結構です」

 待機していたJRの職員をすべてオジロワシから遠ざける。入れ替わりに瀧本たち三人が、オジロワシに近づいていった。アーモンド型のアイリングがこちらを凝然と見据えてくる。すぐさま警戒対象に入れられたらしく、嘴が薄くながらも開けられ始めた。鼓膜を痛めそうな甲高い威嚇がたちまち吐き出される。

「臆するな。午前中にやった実習、それを思い出すんだ」

 瀧本は深澤と赤坂の二人に捕獲の仕事を委任する気でいた。彼らは自分たちこそがやるべきことだと自覚していたようで、迷いなくオジロワシに向かっていった。赤坂が引き付け役で、深澤が後ろに回る役に就く。二人とも、持参してきた専用の手袋を装着している。ワシの爪をもガードする、純革製の防御帯だ。

 順調に距離を縮め、オジロワシを追いつめていく。二人が作るサークルが直径三メートルと縮まった時、オジロワシが大きな体躯を支えるだけの巨大な翼を拡げ、最大限の威嚇に掛かってきた。その時、瀧本は右翼の中雨覆に赤黒い患部があるのを見付けた。全体が無事なだけに、そこだけ焼き印を入れられたかのように見えている。

 深澤が後ろを取った。

 あとは間合いを詰め、飛び出すだけだ。運が良ければ羽を押さえつける形で一人で捕獲できるだろう。しかしオジロワシは食物連鎖のトップに君臨する猛禽だけに強敵だ。何が起こるか分からない。

 赤坂の動きがぴたり、と止まった。すると、開かれていたオジロワシの翼が畳まれた。絶好のチャンスが到来していた。深澤は気を溜めている。彼なりに好機と捉えたタイミングでの飛び出しとなった。

 頚椎を押さえ、腕に包み込む形で背後から抱きつく。一瞬、大人しく収まったかに見えた。が、オジロワシは翼を拡げ、暴れようとし始めた。同時に持参していた目隠しを夢中で引っ掛けるも、なかなかに被さってくれない。

「そのまま手を離すな!」

 赤坂が正面から助太刀に掛かった。二人しての強引な押さえこみ。オジロワシから甲高い鳴き声が上がった。ばたばたと翼をせわしく動かす。何枚かの風切の羽が散らばった。勝利は、深澤たちに転がり込んだ。鎮静。立ち会いのJR職員から拍手が送られた。

 しかし、瀧本には厳しい感情しかなかった。

「深澤くん、いまのは間違っているよ。相手は弱っている患者さんであることは、もう充分判っているよね? それを考えたら、そんな強行な捕獲はやるべきではない」

 瀧本は右翼にそっと触れ、患部を示す。深澤は目で反応して、その箇所を集中的に見た。

「患部がここにあると判っていたら、最初からこれは触れない方がいいに決まっている。それなのに君は触れた。先程の鳴き声は、威嚇ではないよ。痛みを訴える声さ」

 彼は、自分がやってしまったことの意味を理解したようで、呆けに入っていた。

「すいません、先生……。最初に、どのような状況にあるのか読んでおくべきでした」

「百パーセントの過ちだったとまでは言わないから、これ以上は何も言わないよ。というのも、怪我が中途半端で、さらに野性の血色が濃い場合、さっきのような対応で捕獲しなければいけない場合もあるんだ」

 瀧本は背後に待機させていたケージを彼らの前にどんと置いた。前蓋を開放し、オジロワシを迎え入れる態勢を作る。赤坂が動いて、保護したばかりのオジロワシを導き入れた。

「これでよし、と」

 前蓋を閉じるなり、瀧本は気持ちを切り替えて言った。

「あと、現場の掃除をやっていくとしよう。資料になりそうなものがあったら、全部回収する」

 深澤一人にオジロワシの入ったケージの運搬を任せ、瀧本と赤坂による線路周りの捜査がはじまった。枕木の上に、複数の点描の血痕が認められたが、これは鳥獣用のものではなく、怪我をした対応職員のものだろう。三十分掛けた結果、五枚のちぎれた羽毛を拾うだけに終わった。

 

 病院に引き返すと、少ない人数のままで本格的な診察が始まった。

 剪刀で患部周りの羽毛を丁寧にカットし、鳥肌を晒す。煤暈がはっきりとした、直径七ミリの銃創だった。局部麻酔の注射を打ちこんでから、レントゲンに掛けた。すると貫通銃創である事が分かった。骨には影響はなく、腱にも傷はついていなかった。

 軽傷という診断で良かった。

 やっかいなことが、一つ。それとは、銃創である以上は、ハンターがこれをやったという事実だ。狩猟中に流れ弾を飛ばしてしまったのか、それとも意図的に狙ったのか……。経験則で言えば、前者の可能性が高かったが、義務として作成する診断表は一方に片寄らない、あらゆる状況を想定したものにしなければいけなかった。

 朝倉が手術室に立ち入ってきた。

「先生、手が空きましたので、手伝わせて下さい」

「それより、給餌のほうどうだった?」

「やっと、全部食べてくれました」

「簡単ではなかっただろう?」

「ええ、かなり手を焼かされました。が、小鈴が頑張ってくれました。やっぱり、母性があるほうがいいんでしょうかね。雛の食いつきからして、ちょっと違いました」

 小鈴は、関連施設のスタッフだからこそ、こうした作業は手慣れている。が、それだけではない。持ち前の天性的な魅力がなければ、野生動物も反応してくれない。特に雛という生き物は、繊細な神経の固まりというぐらいにデリケートにできている。成鳥と違って給餌に対し、貪欲に食いつくというようなことはしない。

 生理的な欲求と、本能的な恐怖の葛藤。給餌活動は、野生動物のストレスや、平素からの気性を知る上で重要な手掛かりとなる。彼らは自分なりに体と心で学習してくれたはずだった。

「君だけを参加させるつもりはない。見ているだけでいいから、全員に参加してもらおう。朝倉くん、矢庭くんと小鈴くんを呼んできてくれ」

「分かりました。いますぐ――」

 朝倉は即座に手術室を出て行った。動物病院の手術室はいつだってアットホームな雰囲気にあふれている。手術室というよりも、もはや作業室といった空気に近いものがあった。これは、患者の嗅覚をいたずらに刺激することを避ける狙いがあるからだ。そうしないと鳥獣たちの救護行為への嫌悪を強める恐れがあるのだった。

「全員が揃うまで、患部撮影といこうか」

 瀧本が赤坂に言うと、彼はハンディーサイズのデジタルカメラを棚から取り寄せた。オジロワシは麻酔が効いているらしく、うっとりとした目で手術台に伏せっている。頭部付近に立つ深澤がその顔色を逐一確かめているのだったが、どうも意識的に見返そうとしない。

 撮影はすぐに終わった。

 瀧本は患部にそっと触れ、赤坂を手招きして、彼にも診察させた。

「どのように見ている?」

「真下から真っ直ぐ弾丸が貫いた……というような、感じだったのではないでしょうか?」

 弾の軌道を指先で表現しながら彼は言う。

「僕は軌道なんかよりも、距離のほうが大事だと思っている。煤暈というのは、そうした距離を測る上で重要な手掛かりとなる」

 患部周りの煤暈は、機械で模様をこしらえたというぐらいに、綺麗な円を形作っていた。

「ざっと推定して、二百メートルから三百メートルは離れていたのではないか、と僕は推測している」

「ちょうど、標準な飛行高度の範囲内ですね。気流に乗って帆翔していたのではないでしょうか? だとしますと、非常に高速で移動していたことが予想されますが」

 オジロワシの最高飛行速度は、百六十キロだ。体格が大きい分、翼も広い。その分、ジェット気流に乗りやすい構造となっている。スピードを得たら、あとは自然に任せるままの旅路となる。

「今は、越冬期が終わった時期に入っているから、気流には最盛期ほどの勢いはない。だから、せいぜいその半分のスピードといったところだろうか。いや、待てよ。仮に八十キロ程度だったとしても、低空飛行だったら結構速く感じられる場合もあり得るだろうか……」

 瀧本は腕組みをして、思案に暮れる。赤坂が早速気に掛けてきた。

「もしや、先生はハンターが意図的に撃ち落としたという、可能性を探っているのでしょうか?」

「その事については、いまは論じる段階にはない。こうした手負いを負った状況を明らかにしようと思っているだけだよ」

 瀧本はバインダーで固定された診断表を取り寄せた。まだ一箇所も埋まっていない真っ白のままだった。

「状況を把握することは大切なことだ。たとえば、飛翔途中で被弾し、そのまま転落したとすれば、被弾部以外の外傷を負っている可能性がある。今回、そういうのが見当たらない。つまり、状況はもっと異なっていたということになる」

「命中箇所がとても危険な位置でありながら、後遺症が残るような場所ではなかったという点を考慮してはいかがでしょう?」

 と、深澤が顔を上げて言った。保定役を自ら解除し、鳥獣仕様に改良された酸素マスクをオジロワシの嘴に被せた。

「なるほど、命中箇所、か」

 被弾部は筋肉量が多い、腱が走っている中雨覆の中心を貫いている。貫通銃創だったわけだから、弾丸の威力は充分にあった。一瞬だっただろう。それが電気ショックのような刺激を与えるにいたった。結果、右翼だけが機能不全になった――

「その時、意識まで失うことはなかった……、その事実が、生死を分けたのだろうか。本能的に左翼をばたつかせ、ほとんど錐もみ飛行で墜落していった――うん、まあ、上等な筋書きだ。深澤くん、いい意見を出してくれた。ありがとう」

「いえ、そんな誉められたようなことでも、ないですよ」

 照れるわけでもなしに、ひどく謙遜して彼は言った。素直に受け容れないのは、捕獲についてのしくじりが頭にあるからだろう。

「ちょっと、先生」

 と、赤坂が声を上げた。彼が見ているのは、爪の保護カバーが被せられた趾だった。

「なんだか、擦り剥いたような痕があります。これは怪我でしょうか?」

「どれ、代わって」

 瀧本は趾をつぶさに診察に掛かった。たしかに細かい節目に交じって、いくつかの擦れた痕があるのが認められた。これは、転落した際に付着した傷だろうか。そうだったにせよ、ずいぶんと傷がしつこい程に重なってついているように思える。

「いましがた負ったものであることだけは、間違いないな。これを見る限り、かなり乱暴に擦ったというような感じだから、一本の木の幹に延々と引っ掛かる形で、落下したというような状況があったのではないか? 上から順番に枝にぶつかっていったって訳さ」

 線路近くは、荒野となっていた。左手は太平洋が拡がっており、潮風が絶えず吹き曝してきていた。線路の向こう側、陸地の方面は数えられるだけの木々が生え揃っているだけで、それが林と称していいのか微妙なところだった。その裏側にある山といえば、灌木だけで覆われており、まるで頭皮が透けて見える五分刈りの頭だった。どちらも今回のような傷ができる場所としては、相応しくないという他はなかった。

 ふと、注意して見ている内に、かかと関節近くのふ蹠に真っ赤な傷痕が残っているのを見た。縦に裂けた小さな傷な上に、影に隠れていたのでまるで気が付かなかった。

「あらら、こんな所にも傷があったよ……、これは、ちょっと辛いだろうな。念入りに手当てしておく必要がある」

 手術まで必要な治療ではないものの、なんだか気になる傷だった。先の傷と性質こそ同じであるのにもかかわらず、それぞれの位置について一貫性がないのが特に引っ掛かる。

 これらが、転落時の傷ではないとしたら?

 瀧本が思案に暮れたところで、朝倉が息を切らしながら戻ってきた。

「先生、遅れました。ちょうどやらなければいけない後始末に追われていまして、ちょっと時間が掛かってしまいました」

「いや、いいよ。ごくろうさま。しばらく待機といこう」

 瀧本は二人の到着を待った。矢庭と、小鈴はほぼ同時に入ってきた。獣医の診察着をまとっている。二人は各々手術台付近の空きスペースに自覚的に就いた。

「いろいろ話さなければいけないこともあるんだろうけれど、でも、いまは手術中だから、後回しにする。頭を切り換えて全力でサポートしてもらいたい。指示をするから、それぞれその通りに動いて欲しい」

「はい」

 小鈴と、矢庭がほぼ同時に言った。

「電気メスで、煤暈の痕を少しだけ切り取って、痕が残らないようにしようと思う。切除後の治療は、湿潤療法を選択する。右翼部分をまるごと保護する、医療用保護フィルムを用意してもらおうか」

 小鈴が反応して、手術道具が揃っている消毒器傍の棚に取り掛かった。他の研修生たちは患部だけを凝視していた。     

 外科手術自体は彼らの日常的な勤務の風景と大差はない。ただ、オジロワシという猛禽が手術台に乗っている光景は、それだけで圧巻だ。内容の程はどうあれ、彼らにとっては、見届けるだけで意義のある手術となるはずだった。

 瀧本は準備の終えた電気メスを握るなり、ゆっくりと刃を患部にあてがった。

 

      4

 

 手術はスムーズに終えられた。同時進行として行われた講義をまじえた実習のほうも、手応えのある感触を残してその日は終了した。

 ようやく一人になったところで、瀧本を訪ねてくる人物があった。奈良というハンターである。瀧本に狩猟免許の取得を諭してくれた、一種の恩人とも言っていい男だ。

 ほとんど診察室といった模様の書斎に請じ入れ、六畳の空間で彼と向かい合った。

「警察さんから話を聞きましたよ、先生。大変なことになったようで」

 ええ、まあ……と曖昧に反応してから、瀧本は言った。

「それで今回のことについて、猟友会の人は、なんと言っているのでしょうか?」

 もし、猟友会の大半が瀧本に対し、否定的な見方をしているというのならば、同会を退会することも考えなければいけなかった。猟友会というところは、組織の体裁を気にする、保守派が多い集まりなのだ。

「様子を見てみようというのが、大筋を占めています。が、心配はいらないですよ、先生。これまで農協と協力体制を作ってきた先生の貢献ぶりは誰もが認めていますからね。その実績の数々を考えれば、今回弾を盗まれたからといって、即座に組織追放というわけにはいかないでしょう」

 奈良は節くれ立った山男特有の手で、顎元を軽く掻いた。その手をはたと止めるなり、言った。

「ですが、先生。油断していたのは、反省してもらわないと困りますね。我らは今後、パトロールを強化しなければいけなくなってしまったのは事実なんですから」

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。弾が盗まれましたのは、僕の不徳のいたすところです」

 瀧本は両膝を握って、ソファに腰かけたまま大きく頭を下げた。

「願わくば、盗みだした不審者が悪用しないことを祈るばかりですね。まさか、人を撃つようなことはしないとは思いますが、弾だけ盗むあたり、どうも計画的のようですから、油断はできません」

「すみませんが」

 瀧本は姿勢を維持したまま、顔だけ振り上げた。

「過去に今回のこれと、似たような件が起こったことがありませんでしょうか? 駐在さんの話だとこの近隣ではないということでしたが、それは金品目的の窃盗に限定された話で、弾についてはまた別の話だと思うのです。だいたい猟師にとってライフル弾というのは消耗品ですから、紛失の事実に気付いていないというケースがなくもないでしょう?」

「このようなケースは聞いたことがありませんね」

 と、奈良は藪睨みの目を目下いっぱいに下げた。

「今回、聞いたのが初めてですよ。いつのまにか持ち出されているというような話だって、一度だって聞いたことがないことです」

 やはり、犯人は瀧本の病院だけを狙って持ち出したのだろうか。それにしても今回のこれは裏が読めないという点で、じつに不可解な犯行だった。

「ちょっと僕にも分からないことが多いんですよ、今回の事件は。ですから、何かしらヒントが欲しいと言いますか、知恵を貸していただけませんか?」

「その泥棒が捕まらない限りには、こちらとしてもいつまでも収まりがつきませんからね、知恵ぐらいでしたら喜んでお貸ししますよ。何か聞いてくだされば、誠意を持ってお答えします」

「では失礼して、いま抱えている疑問から一つずつ列挙していくとします。いいでしょうか?」

「はい、けっこうです」

「一つ目はなんと言いましても、犯人はなぜ、弾だけを持ち出していったのかということですね。銃ケースには組み立て式のライフルが二分割の状態で同梱されていました。そちらには手を付けていません。弾だけを意図的に抜き取っていったのは間違いないことなのです。現在、警察のほうにケースごと預けて指紋採取に取り掛かってもらっていますが、おそらくこれは単独犯で、その人物以外の指紋は出てこないでしょう。と言いますのも、ここまでは単なる窃盗ですから、充分一人で出来ることなのです」

 奈良はじっと身じろぎもせずに聞き役に徹していた。

「そして二つ目は、何の目的があったのかということです。三つ目は、なぜ僕でなければいけなかったのかということでしょう。四つ目……時間です。犯人は普段滅多に不在にすることのない動物病院の隙を盗んで、侵入してきています。なぜ、そんなことができたのか――これで、全部でしょうか?」

「質問の一番目から、順に説明するといたしますか」

 と、彼は腰を持ち直した。

「一つ目、なぜ、弾だけを持ち出していったのか。これは簡単ですね、犯人はライフルあるいは、猟銃を持っている人間だからですよ。二つ目、目的――これは、撃つために他なりません。三つ目、言いにくいんですが、先生に恨みがあるという考え方もできます。これは、人里離れた僻地といっていい場所にある動物病院の存在を知っていたことからも、明らかに狙っての行動であることが確かに言えるからですよ」

 奈良は部厚い紫色の唇を、おもむろに舐めた。

「四つ目は、三つ目と連動していると言えるでしょうか。犯人は、近くで先生を監視している人間なのでしょう。何か最近、妙な人影を見たりとか、そういったことがあったりしませんでしたか?」

「そういうのはないですね。気配もまったくないですよ。今回の泥棒の件は、脈絡なしに突然起きたものです」

 なんとなく二人して思案に暮れる流れに入った。会話がまだ続きそうでなかなか接ぎ穂が見つからないというような、もどかしい間が続いた。

 瀧本は前屈みになり、膝に肘を立てて顎を摘んだ。この時、もやもやとしたものが頭の中で膨れあがっていた。

「ふといやなことを思いついてしまったんですが……、これを口にしていいでしょうか?」

「いやなこと……? なんでしょう?」

「奈良さんがお答えしてくれたこれらの内容って、猟友会の人間でしたなら全部合うんじゃないかって思ってしまったんですが……」

「……つまり、わたしなんかを疑っているということなのでしょうか?」

「いえいえ、そういうことではなく」

 瀧本は両手を駆使して、全面的に否定を示した。

「これは、たとえばの話ですよ。誰かを特定した具体的な話ではありません」

 ふうむ、と奈良は唸って、瀧本と鏡合わせといった具合に左腕を肘掛けに預けた。

「たしかに自分で言った事ながら、猟友会のメンバーだったなら四つの疑問の条件を満たしているように思えます。もしそうだというのでしたならこれは厄介ですね」

 奈良の目が、獲物を睨む狩猟者の光を帯びた。

「知っての通り、会のメンバーには、射撃場で訓練を積んでいる者がたくさんいます。大半は趣味が高じて上手くなったというような猟師たちでしょうが、その者たちを取ってみても技術は高いものがあります。訓練のスキルを長いこと積んでいる者は、それ以上ですよ。さらにトップについて言えば、オリンピックに出るかでないかというぐらいの射撃の名手だったりもします」

 猟友会の面々の射撃技術の高さは、瀧本にもよく知っていることだった。ただ感覚で撃っているだけの人間が追いつかないだけの、鍛えぬかれた世界。単に猟銃の免許を取得して得意になっている程度の者にとっては、手の届かない雲の上というまでの存在だった。

 今回、その関係者の一人が動くようなことがあった?

 急にさむけを感じた。

 防衛意識が強まるあまりに、早く対応をしなければいけないという気持ちが高まってくるのを感じた。

「なんにせよ、組織の人間を一人ずつ、洗ってもらいたいのですが、無理でしょうか?」

 瀧本はその要請がいかにも無理を強いるものであることをある程度、理解しながら言った。

「やる価値は、あるんでしょうね」

 と、奈良は律儀に受け止める。

「こうなった以上、身内の潔白から証明していかなければいけません。もちろん、犯人が本当にいるとしましたら、それは自分だ、と素直に言うはずもないでしょうから、こういうことはじっくり時間を掛けて慎重にやることになるんでしょうけれどね」

 ともかく奈良は猟友会の組織員を洗ってくれるようだ。内部関係者からの反発は必至だ。それだけに、信頼できる筋から一人ずつ味方につけていく形になるだろう。奈良は、うまくやってくれるだろうか。やってもらわなければいけなかった。こちらは、研修生たちの命をも預かっている身なのだ。

「時に、先生」

 と、奈良が言う。

「最近、射撃場に出るなど、ちゃんと腕を鍛えることをしていらっしゃいますか?」

「実は、禁猟期間に入ってから、ずっと銃を触っていなかったんですよ。と言いますのも、だいたい海ワシ類の越冬期間が終わるこの時期が一番忙しいですからね。そのことを考える時間もないというのが、正直なところです」

 自然保護の観点から、猟には狩猟期間というのが設けられている。毎年決まって、十月十日が解禁日で、それは年を跨いだ二月十五日までつづく。多くの猟師はそうした狩猟期間に合わせて、スケジュールを組むのでおおよそ年間を通した生活スタイルは決まっていた。それに倣わない瀧本はイレギュラーというべき存在なのだった。

「ブランクがあるというのはいけませんね。ライフル弾が盗まれるような事故が起こったのは、そうした隙があったからと言われても仕方がありませんよ」

「では、ずっと猟に出られる状態にした方がいいとおっしゃるのです?」

「そりゃ、そうでしょう。それに、わたしとしてはもっと先生に積極的になってもらいたいと思っています。なにせ、野生動物専門の獣医さんですからね。我らとは違った視点で獣害防止アドバイサーとしての意見が出せます。農家の早いところでは初夏に農繁期を迎えます。その時に先生がいないというのはこれは地域全体にとって痛いものがあります」

「ですが、今の時期に狩猟許可をもらえるとしましたら、熊猟だけですよ?」

 春の熊駆除許可期間というのが地方自治体別に設けられており、規約に沿って申し出れば、禁猟期間でも熊に限定して猟を実施することが可能だった。猟師だけで生計を立てている人間は、これも合わせて狩猟期間となっているので、普通の人よりも少しだけ長く狩りをつづけることが可能だった。

「その辺りのことは、気にせずとも結構です。すでにその手の許可を得ているメンバーがたくさんいますから、何も無理して銃を用意する必要はないのです。先生がアドバイサーとして活動できる地盤はすでに整っているということです」

 奈良はソファの背もたれから離れて、二人を隔てていたセンターテーブルに膝をくっつけた。

「どうしても無理なのでしょうか? 忙しいところをなんとかなりませんか? 農家の要請は、ここ最近増えていますから、是非とも先生の参加が欲しいところなんです」

 瀧本は思案に暮れた。時間の調整。それができるだけの余裕があるだろうか。いかにも厳しいことだった。海ワシ類の急患が増えるこの時期は、どうしても使える時間など限られていた。

「無理ですね……」

 と、自分でも重いと感じられる口調で言った。

「まあ、そうなってしまうのですか」

 彼の目が落胆したように、伏せられた。

「すいません。もう一人自分がいれば、といつも思っているぐらいですから、空いた時間を作るのも難しいといったところでしょうか。ご理解下さい。来訪者に手伝ってもらうことは多々あるのですが、家族の手を借りてもいるのですが、なにぶん診察についてだけはたいてい一人でやりくりしていますから、やはり限界があるのです」

 なぜかしら、これまでの勤務のうち、一番忙しいときの風景が思い出されてきた。ICUが三つ合っても足りないというぐらいの急患の連続。外に設置されたケージは、患者たちにストレスを負わせる覚悟で仕切りを設けた上で相部屋をさせなければいけなかった。あの時の、いくら手があっても足りないというような喧噪……。思い出しただけで胃の辺りが、ぐるぐるとおかしな具合に唸ってくる。

「まあ、諦めるとしますよ」

 と、彼は穏やかな顔になって言った。

「先生に弟子ができたとすれば、あるいはどうにかなるんでしょうか……? だとしたら、こっちとしては、そのお手伝いを近いうちにでもしてやらなければいけませんね」

「そんな弟子だなんて……、いりませんよ」

「今後もお一人でやっていかれる、と」

「そうですね、一人で」

 道東の僻地に孤立するように建つ、動物病院。自分はたった一人でやっているのだったが、それはある意味、野性に寄り添うという態勢が無理なく整っているというようにも感じられる。一人でやるからこそ、確保できることもあるのだ。そこを無闇に効率化などを図れば、大所帯の一般の病院とさして代わり映えのない施設に成り果ててしまうことだろう。

 良くも悪くも、いまの形がベストなはずだ。

 瀧本はそのことをいま、改めて自分の中で認識し直した。

「どうも、今日の所は折り合いがつかないようで。ここらで話を打ち切った方がお互いにとってよさそうですね」

 と、言って奈良は立ち上がった。足を踏み出すその前に、瀧本は彼に対し言った。

「……ちょっと、待って下さい」

「まだ何かありましたか?」

「さすがにアドバイサーは無理でも、時間限定のパトロールぐらいなら調整できるのかもしれないって思いまして……」

 ぴたり、と彼の動きが止まった。

「パトロールでしたら参加できる、と?」

 瀧本は彼の目をしっかり見てうなずいた。

「あれこれ振り回してすいませんが……。しかし、これは自分が原因で起こった事件ですから、本人が何もしないというのは、やはりと言いますかやりきれないものがあります。時間がないのは本当です。が、自分に納得するためにはそこを無理してでも、出て行った方がいいのでしょう」

「ですが、わたしが先生にやってもらいたいことはアドバイサーなんですよ。農家さんたちの生活を先生の知恵でもってバックアップしてもらいたいのです」

「もちろん、その手の協力は惜しみませんよ。パトロールを申し出たのは、そのことと無関係ではありません。段階的に調整していくことで、うまくいけばアドバイサーとしてシフトしていく流れを作ることができるかもしれません。そういうつもりで、まず参加してみよう、とそう思ったのです」

 奈良はなるほどと述べてから、再びゆっくりとソファに腰かけた。

「では、パトロールの方に参加してもらうとしましょう。最初に時間限定とおっしゃいましたが、パトロールというのはたいてい時間を決めて行われますから、わたしらに合わせてもらう形になります。今は、病院周りを監視する臨時体制となっていますから、どうしても夜間の時間帯が中心になりますね」

「それで、具体的に言いますと、何時から何時までなんでしょう?」

「九時あるいは十時から、十一時ぐらいですよ。何かあれば、十二時ぐらいまで延長することにはなりますが……」

「その時間帯に起きている農家さんなんて、さすがにいませんよね?」

「たいていは寝ていますよ。が、起きている人もいますね。もし、先生のシフトが固定されるようなことがあればその時は農家さんに連絡することになります。どの時間でも顔を合わせられるよう、調整してくれるはずでしょう。皆さん先生に会いたくってしょうがないんです。ですからあるいは、その辺りは大丈夫じゃないか、と」

「そうですか、でも、そうなったらそれはそれでなんだか悪いですね……」

 参加するだけで、睡眠時間を大幅に削ることになりそうだ。空いている時間と言えば、生活習慣に関わるその部分しかないのだ。しかし、自分を頼りにしてくれている人がいると聞けば、それぐらいのことは大したことなんかではないはずだ。やるなら、ここは思い切って、どんどん献身的にやっていきたいところだった。

「本当によろしいのでしょうか? 猟友会に伝えれば即刻、シフト表に組まれることになるんですが」

 奈良はすでに話がまとまったというような構えでいた。

「構いません、シフトに入れていただけるようお伝え下さい。ただ、急患が入った場合、やむを得ず辞退することになりそうですので、補欠を決めていただければ有難いのですが……」

「でしたら補欠は、わたしが請け負うとしますよ。よろしいですね?」

 彼はもう一度立ち上がって言った。

「助かります。奈良さん、ありがとうございます」

「いえいえ、先生のことですからね。多少は優遇しなくちゃいけません。まだまだ活躍してもらわなければ困りますからね。つまり、こういうのはお互い様というやつですよ」

 奈良は持参のリュックを持ち抱え、気持ちを満たした様子のままで病院を去っていった。

 

     5

 

 次の日、日課としての朝支度を終えるなり、来客があった。分駐所の警察官だった。

「どうも」

 と、玄関口にて彼は手を上げて瀧本に挨拶してきた。

「これは、駐在さん。お務めご苦労さまです」

「どうです? 一日たって、なにか変わったことはありませんでしたか?」

「いえ、そういうのはありません。持ち出された物についてあれこれ検討したんですが、やっぱり、ライフル弾以外は何も盗まれたものはないとはっきりとしました」

「そうですか……」

 と、彼は言って、警察帽のつばをきゅっと握った。バインダーに挟まれた書類をじっと見つめる。

「では、ご報告させていただくとします。部屋及び、荒らされた書類から採取した指紋の件なんですが、約一名分、犯人のものと思われるものが採取されています。それは第三者のものでありまして、この事実を持って空き巣が入ったということが確定的になった、と。ただこの人物は前科がないようなので、ちょっと捜査は手こずることになりそうです」

 警察官はちら、と瀧本を見上げてからまた書類に目を戻した。

「足跡の捜査なんかも進められていますが、どうも病院内のスリッパを使ったようで、追跡不能となっているようです。微弱な汗とか、靴下の線維片とかそういうのを採取していますから、まあ逮捕されれば、それが立件材料となることでしょう。ライフル弾なんですが、こちらは本部にいます別の人間が追跡しています。広い範囲で観察して、今のところ使用されているとする報告はありません」

 バインダーの中身はそれで終わりだったようで、彼は勢いよく顔を上げた。

「ここまで詳しいことをお話ししましたのは、先生のことを全面的に信用してのことです。ちょっとこちらも手を焼いていることがありましてね、ここらで先生にも御協力いただきたいと思っているのですが……」

「何か、こちらから申し上げるべき事があったのでしょうか?」

「お伺いしてよろしいのでしょうか?」

「はい、そうもったいぶらず、どうぞ」

「聞きたいのはですね、昨日の急患のことです」

 急患?

 事件が発覚する前のことだ。方向性の違うことだったので、話の筋を掴むまで少しだけ時間が掛かった。

「確かに、急患がありました。現地駅近くまで駆けつけました」

 瀧本は最寄り駅の名前を言い、簡単にながら急患の内容を彼に告げた。

「その案件で間違いないでしょう。オジロワシがライフル弾で撃たれた件です。我らとしては、もしや今回の弾が使用されたのではないかと見たのですが、これはどうですか?」

「いえ、それはあり得ません。何せ、口径の大きさが違いますから。銃創を厳密に計測しましたところ直径七・四ミリで、これは三十口径のライフルが使用されたものと推測されます。こちらの病院から盗まれたライフル弾は直径六ミリ弾で、サイズからして異なっています」

「証拠写真とかは、撮っていますよね」

「それは、義務ですから」

 さっと、彼から要求の手が差し伸べられた。

「捜査資料として預からせていただけないでしょうか?」

「分かりました。提出致します。どうも、診断表と合わせて提出したほうがよさそうですね。というより、怪我をした子、見ていきませんか?」

「よろしいのです?」

「ええ、いまは大人しく過ごしていますから、大丈夫ですよ」

「では、失礼して――」

 警察官は前のめりになって、靴を脱ぎ始めた。

 

 手術を終えたばかりの患者が入る特別入院ケージは、育雛ケージがあるすぐ隣に設けられている。もちろん、シマフクロウの雛に臭いという恐怖を与えないための工夫を凝らした同居であるから、双方に悪影響を与える心配などはなかった。

 ケージ内の入院患者は、じっと大人しく過ごしていた。瀧本たちの接近にとりわけ動揺を示すこともしない。アイリングに縁取られた鋭い眼が、不規則に向けられたり逸れたりするだけである。患部は限定していたので、右翼だけに絞って包帯が巻かれてあった。

「いやぁ、こんな近くでオジロワシを見るのは、はじめてですよ」

 わざとらしい口調だったが、喜色の強い顔を見る限り、それなりに感じるものはあるようだった。

「そうですか、この機会にじっくり見てやって下さい。入院が終われば、野性へ帰ることになる子ですよ。この出会いは、僕にとっても一期一会のようなものなんです」

「野性に帰すのは、やっぱり寂しいことなんですかね、先生」

「そんなことはありませんよ」

 瀧本は言下に返した。

「むしろ、嬉しいですよ。ちょっとした卒業式のようなものでしょうか。巣立っていく姿は本当に感動ものです。これは親の気分というやつとは違いますでしょうが、なんとも言えない充実感があったりします」

「退院までには高いハードルを越えていかなければいけないから、そういうのがあるんでしょうねえ」

「もちろんそうです。簡単ではありません。徹底したリハビリテーションを施し、段階を追って野生馴化へのグレードを上げていく必要があります。原則として、僕らは患者に名前をつけて呼んだり、必要以上に過保護にしたりしません。人馴れは――彼らにとって、野性の放棄を意味しますからね」

「付き合い方にもこだわりがあったようで。なんだか、いろいろルールがしつこくありそうですな」

「それはそうでしょう。彼らと僕らは、生きる世界が正反対というぐらいに違いますから。その区別をはっきりさせるために、僕は鳥獣という言葉を積極的に使うようにしています。いかにも獣という感じがありますし、それで獣医としての気持ちがぐっと出てくるんです。名前をつけたり、親しく語りかけたりするのは、誤った行為です。僕が相手しているのは、もっぱら猛禽で、彼らは本能に忠実な危険な生き物なんです」

 警察官はケージに顔を近づけ、オジロワシを間近から覗き込んだ。そっと瀧本は手を伸ばし、彼の行き過ぎの行動を制した。

「これ以上はお控え下さい。軽率ですよ」

「失礼、ケージは固定型ですから、大丈夫なものかと思ってしまったんですが……」

 少し離れてから、彼は改めて言った。

「入院はどれぐらいになりそうですか?」

「まあ、三ヶ月ぐらいで野に帰れますでしょうか?」

「三ヶ月……? そんなに、掛かりますか」

「ケガ自体は一ヶ月で完治の予定ですよ。先に言いました、リハビリがどうしても時間が掛かるのです。この子の場合、治療と合わせてやるのですが、完治後も続けられる形になりますね」

「なるほど、そういうことですか。それにしても、三ヶ月は長いですねえ……」

 それきり会話がはたと止んだ。やがて振り向いた彼は、警察官としての職責を意識した顔つきとなっていた。

「ちょっと、話は飛びますが……、捜査を広範囲に展開したところですね、けっこう広い範囲でですね――それこそ、中標津とか阿寒湖よりもずっと遠い地域を含む範囲内ですよ。今回と同じように、銃で撃たれたというようなケースがここ二年ぐらいのあいだで相次いでいるということだったんです」

 同じ道東エリアの管轄内で起こった事だ。当然、傷病鳥獣保護ネットワークが管理すべき情報ではあったが、不思議なことに瀧本のほうには伝えられていないことだった。寝耳に水というような報せだった。

「おかしいですね、そういうのがあれば僕のところにも情報がくるはずなのに、きていません……」

「無理もありません」

 と、彼はそう言い置いて、顎を引いた。

「そう何件も連続して、というわけではないようなんですよ。それも、一つの地域で密集して起こっているというわけでもないみたいなんです。ですから、全部ばらばらで、一見するとつながりがないように見える訳ですよ。担当した、それぞれの病院からすれば単独案件というやつで、ハンターの流れ弾に当たったとかそう見なすしかないような事というべきでしょうか。ただ、こちらの捜査に寄りますと、共通点がありまして、すべてが先の三十口径と推測されるライフルによる被弾――ということになっているのです」

 銃創という類似点は、見逃せない情報ではあった。

 詳しく調べてみる必要がありそうだ。

「具体的に報告があったのは、どこの病院なんですか?」

 瀧本は語気を荒げて警察官に迫った。

「ここから一番近いところでいえば、阿寒の自然保護センターでしょうか?」

 そこは瀧本と交友のある獣医が勤めているところだった。中友。一月、釧路市内のホテルにて開催されたシンポジウムにて顔を合わせて以来、連絡を取っていない。いま、その機会が巡ってきていた。

 中友はなにかしら有効な情報を持っているだろうか。

「連絡を取ってみるとしますよ、そちらに親しくしてもらっている男がいるんです」

「そうですか、そうしてもらえると、こちらとしても有難いです。と言いますのも、先生の方に一連の類似案件について取り組んでいただき、すべてのケースについて比較検証をしてもらいたいのです。我が方には人の死因やその状況を特定する法医学者はいますが、野生動物関連の嘱託医師はいないのです」

「分かりました。そういう事情があるのでしたら、僕が請け負いましょう。というより、ここは僕しかいないですね」

「引き受けて下さり、ありがとうございます。あっさり承諾していただきましたが、解剖学云々などの鑑定技術は任せられるとしまして、経験の方、こちらは問題ないのでしょうか?」

「そちらも問題ありません」

 と、瀧本ははっきりと答える。

「そもそも職業は獣医ですが、平素から、野生動物に関することなら事の大小を問わずに管理する形を採っていますので、獣医という表現では足りないぐらいなのです。例えば、病院なんかは死骸は受け付けませんが、僕のところは受け付けています。病理解剖に掛け、衛生研究所と連携する形で、死因を調べ尽くします。もちろんその時は臓器や、血液の検査をするなど専用の機材を使った専門的な処置になります」

 瀧本は咳払いを一つして、気勢を上げる。

「こうした仕事は、想像力を駆使しなければいけません。僕としましては、法医学者になったつもりで取り掛かっていますよ。その他、生態系を保護するためのアドバイサーにもなりますし、環境学の学者……そして、集めた検体を通しての研究者にもなります。それでも、経験のほうが心配だと申されるのでしょうか?」

「それはそれは、失礼致しました」

 と、警察官は謝りながら、好意的に引き取った。

「いや、頼もしいというものですね。ここは先生にこそお願いすべきとなってきましょうか。注意していただきたいのは、個人的な行動になっては困るということですよ。特に患部撮影といった資料写真なんかを入手するようなことがありましたら、必ず本部のほうに回してもらいたいのです」

「分かりました。そのように取り計らいましょう」

 警察官がバインダーの下に挟んでいた名刺を取り上げ、瀧本に手渡してきた。釧路方面本部刑事課となっている。警察官が一介の駐在員と分かっているだけに、その名刺は曰くありげな事情をそれとなく物語っていた。彼はいわゆる代理人としてこちらにやってきたのだろう。

「あと一つ、話しておかなければいけないことがありました。それとは、預かっています監視ビデオの録画データのことです」

 不在時間の前後だけではなく、一週間分のデータをまるごと彼に預けたことを思い出した。望みは低いと見込んでいたのだったが、計画的に実行された空き巣だっただけに、何かしらの発見があったことを期待したいところだった。

「参考になるものが映っていたのでしょうか?」

 彼は緩くうなずいた。

「ちら、とかすめる程度なんですが人影が映っていたようです。その人物は、オレンジ色のベストを身につけているようでした」

 オレンジ色のベスト――特徴的なそれは、ハンターが共通して身に付ける装備品といってよかった。必ずしも義務になっている着用アイテムではないにせよ、多くの関係者に愛用されていることから、界隈では象徴のようなものとして根付いているのだった。

 犯人は、やはりハンターだった――。

「なるほど、そうですか。それで、人物の特定は進むのでしょうか?」

「少しずつですが、絞っていく事の手掛かりとはなるでしょう。分かっていますのは、その不審人物の身長です。推定で言いまして、160センチも無いようなのです。また体つきからして、おそらく女性ではないかと見られています。顔まで明らかにできた訳ではないので、確かには断定できないんですが、おそらく高い確率で間違いないだろう、と」

 女性のハンター。

 もちろん、猟友会にも該当者はいる。ほんの五%にも満たない、三名だけだ。うち二名が主婦で、一名が学生だった。後者の一名については、瀧本も良く知っている。丸顔で、いつも赤ら顔をした大人しそうな子だ。だが、行動力は並外れていて、思ったことをすぐさま実行に移すタイプだった。将来はパワフルな母親になるのではないか、とその子について瀧本はいまからそのような予感を抱いている。

 瓜生玲奈――

 確か、そのような名前だった。

「おや、先生。何か、気になったことがあったのです?」

 呼び掛けられ、瀧本ははっと我に返った。

「いえ、なんでもありません。ちょっと、考え事をしていただけです」

「一応、詳しく言いますと」

 と、警察官は粘着質に瀧本を見て口を開く。

「その映った影というのは、先生が思っている程はっきりとしたものではありません。部分拡大をしたのを編集してはじめて、オレンジのベストを装着していると分かったぐらいなものなのです。そこを女性と判断しましたのは、シルエットや特徴だけはしっかり捉えられていたからです。それぐらいでしたら、カメラ映像の画質が悪くともキャプチャ画像の精度を上げることで、何とか区別ぐらいはできるようになるんですよ。普段から監視モニターを閲覧している先生ならば、その具合がよく分かるのではないでしょうか?」

「もちろん、想像はつきます」

 ケージ越しに映し出されたものだからこそ、見える部分は限られている。それでも枚数を確保することで、精度を上げていくことができるはずだった。それでも、立件に採用できる確実な証拠を求める鑑識にとっては補足的な情報に過ぎず、そちらに寄りかかり過ぎる捜査など、危険なものでしかないはずだった。

 その後も、延々と警察官の話がつづく。述べたことの説得力を強化するような話に過ぎなかった。話せる捜査情報は最初のうちにすべてを口にしたようだ。

 瀧本は彼の話を適当に聞き流しながら、女性ハンターについてずっと考えていた。

 もし、瓜生が空き巣犯だとしたら、どういうことなのだろう。彼女に恨みを買うようなことなど、一度だってしたことはない。というより、猟友会を通した仲間としての付き合いだけなので、個人的な接触はなかった。まったく身に覚えがないということでよかった。

 まもなく警察官が病院を辞去し、瀧本は一人部屋に取り残されることとなった。何となく、ケージの中の患者と睨めっこというような状況になった。

 ――お前は、誰かに狙われて撃ち落とされたのか?

 そう、目で問う。

 オジロワシはつん、と興味なさそうにそっぽを向いて体勢を少しだけ変えた。早々にケージから出てやりたいという威勢のいい精神の持ち主のようだ。それでこそ、野性の王者だ。下手に手助けをしてやる必要もないし、情を示すような必要もない。

 瀧本は部屋を移動し、リビングに入った。かなめが開を子守帯で固定したままに、朝食の準備をしているところだった。朝から忙しい模様だ。

「お巡りさん、なんですって?」

 働かせていた手を止めて彼女が問う。

「指紋はダメだったけれど、映像の方で手掛かりがあったって」

「そう……。それで?」

「どうなるかは分からない。捜査の壁は高いように思える。だけど、心配はない。ちゃんとやってくれるさ」

「早く解決するといいわね」

 彼女はまた朝食の仕度を再開した。食器の触れ合う音や、調理器具が五徳の上で活躍する音。それから戸棚の開け閉めされる音……。いつ聞いても忙しない物音たちだ。

「なんか、大事なことを抱え込んでいる、というような顔をしてる」

 と、彼女は手を休めずに言った。瀧本に探るような目を向けている。

「ちょっと、あるところに連絡を取ろうと思ってね。それが間違った行動だったりしないか考えているんだ」

 彼女の手がようやく止まった。この時、彼女の探りの目は解除され、いつものように落ち着いた表情を見せていた。

「その人が、犯人だったりするというわけ?」

「いや、そういうことではない」

 首を振って言った後、自然と目を伏せてしまっていた。しまったと思うと、今度はそれをまともに顔に表してしまう失態を犯した。慌てて掻き消すも、時すでに遅しというやつだった。

 数拍の沈黙。

「……わたし、あなたのやろうとしていること、止めた方がいいみたい。でも、あなたのことだから、見逃してくれとか言うんでしょうね」

「ちょっと、分からないことがあって……、それを突き詰めたいと思っているだけだよ。多分、何も起きないさ。だって公式な形で会おうと思っているんだからね。そう、パトロールをその人とできるよう、セッティングしてもらうんだ」

 かなめはしばらく黙っていた。

 ふつふつ、とレンジの方から味噌汁の湯気が上がっている。海藻と大根の匂いがする。その中に、卵焼きの甘い匂いが混じっている。健康的な日本の朝の食卓だ。これに、切り身の焼き魚が、皿に山と盛られるのが瀧本家の食卓の特色だった。

「すでに決めたことなら、もうどうしようもないのかしら。とにかく何かあったらすぐに連絡して頂戴。わたしもできる限り協力するから。それだけは、絶対」

「分かったよ、連絡する」

「――と、連絡という言葉で思い出したんだけれど、前にあなたから依頼されていた件……本郷さんの娘さんのこと、聞いておいたわよ」

 そのことは、しっかり覚えていた。しかし、こんなにも早く情報が取り寄せられるなんて思っていなかったから、少しだけ不意討ちだった。

「どうだったのだろうか?」

「本人の連絡先までは分からなかったわ。知っている人と、ちょっと話し込んだだけで終わったの。なんでも、アメリカの方に行っているということだったわよ」

「アメリカの方に?」

「ええ、それもずいぶんと前の話みたい。ざっと、四年ぐらい前ということだけれど、その人もあんまり記憶に自信がないということだったから、どこまで合っているのかどうか……」

 不自然なことではなかった。父親である本郷がアメリカ国籍を取得してまでしてそちらに移り住んだのだ。人生の終点として選んだ土地を娘が意思を継ぐように愛着を持つようなことは、普通にあるだろう。

「四年前というのが正しいなら、獣医の資格を得てからアメリカに行ったということになってくるのかな? だとしたら、あるいは、父の姿を追い求めての旅立ちだったということになってくるね。いや、きっとそうだよ、これは。流れ的になんだか合っているように思える」

「だとしたら、追い掛けない方がいいかもね。そっとして置いてあげましょうよ。それとも、諦めずにコンタクトを取りたいと思っているの?」

 瀧本は考えた。

 アメリカで生活をしているなら、すでに第二の人生を始めたというべきなのかもしれない。下手に干渉し、独り立ちしはじめた、彼女の気分を台無しにするようなことがあってはならなかった。

「……そうだな、コンタクトを取るのはよしておこう。ちょっと、思っていたことと違った状況になってきている。だから、こちらから差し出がましいことをやるのは、控えた方がいいように思える」

「うん、その方が賢明ね」        

 彼女の手がまた再開され、賑やかしい景色が取り返された。

 

 午後からは、ちょっとした臨床を行い、野生動物の基本的な診察を研修生たちに教えた。その他、麻酔機器の取り扱い実習を行い、整形外科の基礎技術も合わせて教授した。

 猛禽類の翼は拡げると、二メートル半と人をすっぽりと覆うだけの巨大な面積を誇るが、その威容に反して、骨折しやすい脆さがあった。翼の大部分を支える上腕骨が真ん中からぽっきりと折れるようなことがあると、翼がくの字に折れ曲がってだらんと腕から下がる。当然、飛翔能力は失われるので、ワシは洩れなく獲物を狩れず衰弱する。つまり、先に待っているのは死しかない。翼の損傷は、鳥獣たちにとって常に死活問題に直結するのだった。

 それなのに、こうした事故は急患全体を見てみても少なくはなかった。翼の整復技術が、獣医師の中でも重要な位置を示すことは、現場が証明していることでもある。獣医としては、骨折した箇所の再骨折というような事態だけは避けなければいけなかった。瀧本は過去の症例を引っ張り出し、細やかな指導を心掛けた。

 夕食後はいつものように給餌活動をさせてから、簡単な座学に入った。二時間で教科書の大部分を説明し終え、二日目の研修は終わった。

 瀧本は書斎に引き返すと、ずっと頭の中に待機させていた用事に取り掛かることにした。それとは、猟友会の奈良と連絡を取ることである。

 三コール目を数えたところで、相手が出た。

「お晩でございます、先生。夜分に、どうなさいましたか?」

「パトロールの件なんですが、シフトの件はどのようになりましたでしょうか?」

「先生の担当分は、二日後か三日後を予定していますが、どちらがよろしかったでしょう? とくにこだわりがないようでしたら、三日後になりそうですが」

「日にちは、早ければいいです。なんでしたら明日でもいいですよ?じつは、そのことではなく、パートナーについて相談したかったんです。相手を指名することは可能でしょうか?」

 僅かな間があった。

「それは、相手にも寄りますが……。どちらさんなのでしょうか?」

「瓜生さんです」

 また、会話が途切れた。

「なぜ彼女をご希望なのかは、説明願えないのでしょうか? もしや、その彼女が犯人だと疑いを掛けているとかそういうことなのでしょうか……?」

 瀧本は即座には反応しなかった。

「……その可能性がある人というだけで、それ以上のことではありません。まあ、たいしたことではないですから、気にしないで下さい。それよりも、要請しておきました、猟友会のメンバーについての調査は一日経ってどうなったのでしょう?」

 しばらく無言のまま、じっと瀧本の顔を見返していた。質問がうやむやにされたことについて、何事か考えているらしかった。やがて口を開いた。

「一日じゃ、成果なんて出せませんよ。まずいことに、相談しました会長と副会長が乗り気じゃないのです。ですから、これは完全にわたしの個人的な捜査ということになります。今のところ、狙撃技術の高い会員の何人かに目を付けているとだけは、報告しておきましょう」

 最後の方は、声が小さくなっていた。これは、ここだけの秘密というつもりで言ったからだろう。

 瀧本はこの時、捜査情報として報された監視カメラに写っていたという、不審人物の性別、推定身長について明かしたものかどうか迷っていた。状況からして伝えるべきことのはずだったが、どうも口にした途端、良からぬ邪推が猟友会の中で拡がっていきそうで、なんだかひどく後ろめたかった。だいたい、なんでも開けっ広げに情報を共有するというのも、瀧本のやり方に合わなかった。

「状況は悪いようですが、引き続き調査をお願いします」 

 と、瀧本はあえてそう申し出、口にしてしまいそうなことの封をした。

「任せて下さい。ちゃんと結果を出せるように努力いたしますから」

 と、奈良が丁寧な口調で応じる。

「パートナーの方も、なんとか取り計らってみるとします。わたしとしては、女性は対象外にしたかったんですが、先生が何かお考えと引っ掛かりがあるのでしたなら、その限りではありません」

「すいません、よろしくお願い致します」

「改めて聞いておきますが、そのセッティングをして問題が発生するというようなことがあったりはしませんよね?」

「いえ、そういうことは、ないですよ」

 心を殺して言った。

 彼は何も言わないまま、気配を消していた。神経を集中させて探りを入れているのかもしれなかった。

 沈黙に耐えきった。

「……でしたなら、何も問題ないということで。あと、何かありましたらお早めに連絡してください。では、また――」

 やっとの思いで電話を切った。

 妙なもやもや感が、胸のうちに残っていた。何も問題などはない、と自分の胸のうちに言い聞かせてもなかなか収まってくれない。

 瀧本は堪らず電話帳を繰り、中友の番号を探しだした。即座につなぎ、応答を待った。それほど待たないうちに、電話はつながった。

「瀧本さんですか? お久しぶりですー」

 胸の内のつっかえなど一気に取り払ってくれる爽快な声だった。瀧本は思わず気持ちが安らいで、頬が心持ち程度に緩むのを感じた。

「やあ、中友くん。急に済まない」

「おおっと、なんだか声が沈んでいますね、……これは、良くない話ですか?」

「良くないほうであるのは確かだよ。場合によっては、君の所も巻き添えになるような、そんな大事なことになってくるのかもしれない」

「まさか、鳥インフルのウィルスでもきたとか、そういうことじゃないでしょうね?」

 伝染病の脅威は、獣医たちのあいだでは常に管理されていることの一つだった。彼の反応は決して突飛で、脈絡のないことなんかではない。

「いやいや、そんなことじゃないよ。ちょっとした事件がこっちであってね、それが今、厄介なことになってきているんだ」

 瀧本は内々の事情を打ち明けた。ライフルのカートリッジ一式がまるごと盗まれた事件からはじまり、その日のうちに捕獲した鳥獣

の銃創について、同様の症例が関連施設で相次いでいることの流れを丁寧に話していく。

 中友は、瀧本の病院であった事件こそは把握していなかったが、銃創を負って病院に搬送された鳥獣について警察が動いている事は知っていた。というのもつい最近、釧路方面本部の捜査官が話を聞きにやってきたのだという。最初に報告書を上げた時には動かなかったのが、後からこうして正式に来訪してくる辺り、曰くありげな再捜査が始まったようだと彼も事の動向だけはすぐに察知した。

「写真提供を求められたんですけれど、それは断りましたよ」

 と、彼はいたって平然とした口調で言う。

「断ったって、それはどうして……?」

「理由を説明しなかったからですよ。なんだか、こっちが疑われているように思えてきまして、どんどん腹が立ってきたんです。このぼくはちゃんとした獣医なんだから、捜査の仲間として取り込んだところで、なんら問題なんてないはずなのに、あえてそれを拒否してくるんですよ」

 手の内を隠した上での訪問が彼の不興を買ったようだ。それぐらい我慢することだろうとは思うのだったが、中友という男はいつもそんなところがあった。妙なところで意固地な性格が出る。

「で、いま瀧本さんからその話を聞いて、事情が分かりましたよ。なるほど、ライフル弾が盗まれて、それでちょっと警察としても慎重に捜査をしているんですね。ですが、慎重になるのはけっこうですけれど、いくらなんでも用心深くなりすぎですよね。やっぱりこういうのは、明かすべき情報だったと思います」

 そこでようやく我に返ったらしく、彼は声の調子を変えて、継ぎ足すように言った。

「と、そんなことよりぼくの所に運ばれた子について話さなければいけませんでしたね。その銃創を負った患者がやってきたのは、ざっと三ヶ月ぐらい前……と記憶しています」

「三ヶ月前? 中身は覚えているだろうか?」

「もちろんですよ」

「だったら、できるだけ詳しく教えて欲しい。こっちも情報収集してすぐさま動くつもりでいるんだよ」

 彼は、オーケーと気楽に応じて、言った。

「警察が指摘しています通り、三十口径ライフルによる銃創ということでいいですよ。貫通創ですから、弾種は分かりません。しかし、貫通創はかなりという程度に綺麗でしたから、フルメタルコーティングの弾丸が使用されたと見ていいでしょう。それもかなり強固にコーティングした、精度の高いものです。これが鉛弾だったら、もっとひどい痕になっていたと思いますね。あれは、変形しやすいですからどのような形で翼に突き刺さるのか、その時の気候条件で大きく違ってきますことですし……」

「悪いが、ここでは弾丸どうのこうのというのは、どうでもいいんだ。患者の情報が欲しい。特に、患部の位置が知りたいと思っている」

 瀧本は注文を付けるように勢いよく言って、彼を遮った。

「瀧本さん、とりあえず落ち着いて聞いてくださいよ。ちゃんとお望みの説明も順を追って話しますから」

 と、彼はマイペースな調子を崩さない。

「患者は、三歳のオオワシです。性別は、オス。銃創は左翼の中雨覆、上腕部よりも二センチ上といったところにありました。これは、はっきりと覚えていないのですが、おそらく七ミリから、八ミリの貫通創だったと思います。くわえて煤暈が銃創の外郭から計測して六ミリの層を形成しています――」

「それだ」

 と、瀧本は二度目に遮った。

「やはり、中雨覆が撃ち抜かれていたんだな。それが一番に知りたいことだったんだ……」

 瀧本は自分が手がけたオジロワシの患者を思い出していた。そして、頭の中で推理を構築させていく。

「腱についてはどうだろう? 痛んでいなかったのだろうか?」

「そちらは問題なく無事です。ただ近くを貫かれたことで一時的にながら麻痺したのでしょう。被弾してからすぐ森に落下したようで、胸骨寄りの竜骨突起と、腸骨の一部を亀裂骨折していました。あと、橈側骨の脱臼、第二、第三指の皮膚裂傷。軽い脳震盪を含む、ショック症状も確認しています」

 カルテの中身をしっかり記憶できているのは、獣医として優れている証だ。

 それにしても聞くほどに、瀧本が治療した患者と症状が一致している。これは、偶然なんかではないはずだった。

「あと一つ、趾なんかに擦り傷が見られなかっただろうか?」

 と、瀧本はしばらく熟慮に暮れた後、追加で訊ねた。

「趾ですか? そういうのはなかったですね。転落の際、地上には胴体着地したみたいなんですが足下の周辺だけは大丈夫でした。おそらく着地の際にワンクッションとして何かしらの柔らかい障害物にでもぶつかるようなことがあったのではないでしょうか?」

 幾分、落下条件が異なることから、必ずしも指定の箇所に同じ傷があるとは限らないようだ。しかし、瀧本は自分が診た患者の趾にあった擦り傷がどうしても気に掛かってならないのだった。

 その患者にもなにかがあるはずだ。

「趾じゃなければ、ふ蹠でもいい。かかと関節までのあいだに、何かしらの痕跡がそこにはあったのだと思う」

「まず、確認していませんから。お疑いなら、瀧本さんになら写真を見せますから、こちらに来てその様をしっかりと確認して下さいよ。口で説明してもどうにもならないことだってあると思いますし」

「分かったよ。明日にでもいく……と言いたいところなんだけど、こちらは時間に余裕がないんだ。そっちだっていま、忙しいはずだろう?」

「完全に繁忙期ですね」

 あっさりと言ってのける。だが、そのほうが状況が見えやすくて助かることもまた事実だった。離れていても仕事量は同じで、二人が置かれている状況はほとんど変わらない。

「じゃあ、三日後の土曜日は、どうだろう?」

 と、瀧本は提案として言った。

「けっこうですよ。午前中に来て下さい」

「そっちも忙しいとは思うんだけど大事なことだから、遠慮なく頼ませて貰うとするよ。僕がそっちに出て行くまでに、やってもらいたいことがあるんだ。それとは、同様の案件について情報を集めて欲しいというものだよ。阿寒の施設と通じているコネクションを使わせてもらいたいんだ」

「ネットワーク関係の依頼ですね。そういうことでしたら、お任せ下さい。やりますよ」

 と、彼は追加の案件をいとも気安く請け負ってくれる。

「ちょうど、オジロワシの生態データをまとめているところでして、これについて道北の関連センターとも協力体制を作っているところだったんです。主に、浜頓別のセンターとコンタクトを取っています。そこの施設には旭川の獣医師も巡回という形で参加しているようですし、エリア全体の良い情報が得られるんじゃないでしょうか」

「それでいい。そこと連絡を取って、情報を収拾してもらいたい」

「分かりました。三日後までにはなんとかします」

 約束を確かに取り付けたところで、一区切りがついた。四方山話に移行することなしに、瀧本は電話を終え、切った。

 

 

 

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