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グラン・ブルー  作者: MENSA
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グラン・ブルー1

プロローグ

 

 二〇一四年九月 米国カリフォルニア州 サンフランシスコ西部

 

 消毒液とは無縁な、在宅ケアに近い空間。ロビーまで出ていけば、音楽療法士がクラシックギターで奏でるレット・イット・ビーが聴ける。ここが療養先だなどと聞いても、日本人の大半は信じないことだろう。諸般の手続きを経てNYから流れながれて行き着いた、終末医療施設(ホスピス)。本郷喬司が最後に選んだ場所だ。

 ベッドに横たわったまま、太平洋が臨めることが最大の決め手だった。沖合は浅瀬が続いており、トロピカルブルーを呈している。点在するビーチパラソルが彩る白浜にくわえ、潮風にも負けじと青さを見せるヤシの木々たちがリゾート模様を確固たるものとしている。背の高い英語の標識に、アーチを描いた黒色信号機。街並みは、普段から乾燥に耐えた、赤茶けた色味が掛かっている。サンフランシスコはいつだって街中から音楽が聞こえてきそうな陽気な佇まいでいる。

 いつもの風景を当たり前のように眺めた後、本郷は何となく思うところがあって、郷里を思い浮かべた。

 日本……。

 なつかしい響きだ。それもそのはず、アメリカに移住してからすでに五年という歳月が流れてしまっている。今日という日まで充分に耐えぬいてきた。もうすでにお迎えが来ていいというのに、自分の身体は案外タフに保ってくれていた。その分、空想を通して、自己を省みる時間が確保されたのは、実に喜ばしい限りなのだったが、なんだか素直に喜べないことではあった。

 その時、来客があった。もはや馴染みの顔だ。ジークムント・ビュッセル。ドイツ系移民の血をひいている通り、律儀さには定評があった。国際弁護士。二国間を跨ぐ、法律トラブルのスペシャリストだ。

 そして彼は、本郷が指名した遺産執行者でもあった。

「お加減はいかがですか?」

 一ミリも表情を変えずに彼は問う。

「うん、悪くない」

 起き上がろうとすると、彼から制される。が、それでも無理をして起き上がった。長い時間床についていたことの慣れが、偏頭痛となって本郷に襲い掛かる。

「無理は、よしてください。どうか、ベッドに寝たままでいてください」

 ビュッセルの手厚い介護を受け、また仰向けの体勢になる。甲斐甲斐しい彼の動きを、本郷は見るともなしに見つめていた。そして彼に不意討ちという形でぽつりと言う。

「後のことはしっかり、任せましたよ」

「すでに心得ていますよ。何度も申し上げなくてもけっこうです。私は、しっかりと職責をまっとうするつもりです」

 硬い表情をした目つきには、義務を果たすだけの怜悧な光があった。おそらく、問題ない。この男はすべて約束通りにことを進めてくれることだろう。手間暇掛けて探し続けただけある逸材だ。これ以上、念押しを口にする必要もない。心配になってしまうのは、無駄に長生きしてしまった結果に他ならない。

 ビュッセルが筋金入りの無口な上に本郷がそのことをよく理解していたこともあって、たちまち空虚な時間が拡がった。

 今度は、太平洋が臨める窓の反対側――東向きの窓のほうへと目をやった。そちらは面積が小さい上に、日除け(ラピード)が掛かっているため、景色は限定されていた。それでも、雄渾な山波が見渡せるスペースは残されていた。申し訳程度の空もまた、格別な味わいがある。

「心残りがあるとしたら、一つだけあるな……。それとは、カリフォルニアコンドルをもう一度、間近にながら見てやることだよ。残念なことに、それは果たせなかった」

 ビュッセルは物言わずに、窓の向こうを見ていた。本郷はつづける。

「口惜しい限りだ。その時間が、自分にはあったはずなのにな……。いつも先送りにし続けてきたんだ。このように、チャンスを逃すのは今日にはじまったことじゃない。まったく馬鹿げた人生だと自分でそう思うよ」

 カリフォルニアコンドルとは、絶滅寸前(CR指定)の希少種だ。僅かばかりの数が棲息するホッパーマウンテン保護区はホスピスからすぐ近くにあった。何度も最寄りを通ることがあったものの、結局一度も足を運ぶことはなかった。じつは、近くて遠い所だったようだ。

 それでも後悔などあろうはずもない。

 これまでに充分、愛鳥精神を満たすだけのことをしてきたからだ。あえてコンドルを目に映すようなことをせずとも、その勇姿は心の中にある。その他の、鳥獣たちについても同様だ。いままで彼らと共に、生きてきたのだ。

 自分は、やるべきことをやった――。

 本郷の胸には自分を満たす、その一条だけがあった。その他には、何も要らなかった。しがらみの感覚さえ、とうの昔に忘れてしまっていた。

 今日も、サンフランシスコの空は、乾いたスカイブルーが拡がっていた。ソフトフォーカスが掛かったような曖昧さを残しながら、たしかな力強さがある色合い。まず、日本では見られない空だ。

 宝石でもちりばめられたかのような、ちかちかとする目映さがあった。いまにもコンドルの円を描く飛翔と、獲物を狩る鳴き声が聞こえてきそうだ。

 本郷は想像を膨らませながら、空を見つめつづけた。

 

 

 

 

第一章

 

  二〇一五年五月 北海道釧路市郊外

 

     1

 

「やけに、くるのが遅いね。道に迷っていたりしていないよね?」

 瀧本泰弘は、落ちつかない気持ちを足元に表しながら、妻のかなめに言った。彼女は、まだ一歳半にも満たない、瀧本の長女――(ひらく)を抱っこしている。

「ドライバーさんは、ベテランの運転手さんということだから、そんなはずないでしょ。もう少し、気をながく持ったらどうなの?」

 特にぐずついているわけでもない開をあやしながら、彼女は言った。と、その時、マイクロバスのエンジン音が瀧本の耳朶をかすめた。

「来たっ」

 つっかけていたサンダルをぺたぺたさせながら、砂利道まで出ていく。エゾマツ林をくり抜いたような道を突き進む一台のバスが、すぐそこまで迫っていた。運転手が瀧本の姿を認めるなり、プッとクラクションを鳴らした。

 マイクロバスに乗っているのは、傷病鳥獣保護ネットワーク事業の一貫として行われる研修の受講生だ。五人いる内の、四名が道内外の動物病院に勤務する獣医で、一名だけが野生動物関連の保護施設で働くスタッフであった。本来こうした研修は、猛禽類医学研究所などが請け負うのだったが、指定診療施設として認可された瀧本動物病院も協力する態勢を採っていた。そもそも瀧本は研究所の元所員だっただけに、連携をとるのは自然な流れで、いまだに所長とも上司部下の関係が成立していた。

 もちろん研修費は国庫を含め、公的な団体が受け持つことになっている。とはいえ、その中に俸給は含まれない。瀧本の仕事は実質的な意味でボランティアに近かった。こうした実入りにもならない仕事を請け負うのは、鳥獣たちの保護を徹底させ、ネットワークを確かなものにしたいという、瀧本の願いがあったからに他ならない。

 野性動物――その中でも、鳥獣関連を専門に扱う、獣医師。

 その手の医師を育てる専門の機関は日本には存在しておらず、野生猿の行動観察を研究している医大が一つあるぐらいなものだった。だからこそ、専門医として道東の環境保全を嘱託される瀧本が研修生を受け容れ、彼らに基礎的な知識を授けることには、大きな意義があった。

 バスが停まった。

 自動ドアが開閉され、ドライバーの顔が覗ける。瀧本は一先ず彼に挨拶を済ませてから、ステップを駆け上ってデッキ上に立った。支度中の研修生たちが瀧本にちらちら視線を向ける。

「長旅、お疲れさま! 部屋の準備はできているから、まっすぐ来てもらうよ」

 自分でも空回りしていると自覚できるぐらいに、揚々と言った。案の定、研修生たちは皆、戸惑いを示している。しかし、瀧本としては内側から溢れ出る熱い思いを抑えることができなかった。さらに、彼らをリードしようと、燃え上がる。

「ちょっと、あなた。なにしているの」

 かなめが開を抱きかかえたまま、ステップ傍に立っていた。面倒くさそうに手招きしている。瀧本が応じないでいると、彼女はやがてステップに足を掛けて腕を引っ張ってきた。ほとんど強制的に下ろされる。

「なんだよ」

 と、かなめに抗議する。

「気持ちが先に出ているのは分かるけれど、ここはもっと冷静にならなくっちゃダメでしょ。見てご覧なさいよ、研修生さんたちを。みんな困った顔しているじゃない」

 言われて彼らを見やると、緊張の入った愛想笑いを一様に湛えていた。ドライバーまでどう出ていいのか戸惑っている始末だ。

 瀧本が照れ笑いで誤魔化すと、かなめが瀧本を押し退けて、またもやステップ前に立った。

「私が案内しますから、皆さん、ついてきていただけます?」

 仕事を取り上げる気だ。すでに、余所行きの顔をしているから、これは取り返してはいけないのだろう。瀧本はそれでも挫けることはしない。邪魔にならないよう一行の後についていき、甲斐甲斐しくサポート役に徹した。

 

 瀧本動物病院は、五年前に先輩研究者から居抜きで譲り受けたものだ。自然と一体化できる構造美をもったティンバーハウス。フレーム構造と合わせて併設されたデッキとテラスが、裸木ばかりのシラカバ林のさなか開放感を演出する。三角庇のついた入り口にはフクロウの木彫りが設置されているが、それでも動物病院といった気配はあまりない。

 むしろ裏を回っていったその先に、病院らしい風景が拡がっている。裏口すぐ傍に、小屋程度の入院ケージが二つばかり並べられ、そのほか奥手まで出て行けば、ゴルフネットで囲んだちょっとした仮設のリハビリケージが設けられている。病院から比較的近い、入院ケージこそは三畳程度と手狭だが、リハビリケージはその倍以上の、 十メートル四方の空間が取られていた。

「こちらのオオワシは、治療中のようですね」

 研修生の一人である、深澤祐太が入院ケージに入っていたオオワシを覗き込みながら言った。二十六歳という年齢にして、いち大学病院のチーフを務める実力派だ。才知の覗ける目つきをしている通り、動きもいちいち如才がなく、部屋の紹介後の身支度だって一番に済ませてきた。

「ああ、その子は一ヶ月前に、帯広の動物病院から引き取った子だよ」

「これといった外傷は、ないみたいですね?」

「そうそう、外傷なし」

「ですが、なんだか重そうな感じありますね? もしや、鉛中毒でしょうか?」

 すぐに見破ったのは、オオワシの生態について常日頃から研究しているからだろう。たいしたものだ、と思う。もちろん、相手が希少種の野性動物だったにせよ、鳥には違いなく、その手の治療を実際に手がけたことがあるものなら応用は利くのだろうが、それでも判断の早さは、並外れたものがあった。

「よく分かったね。うん、そうなんだ。鉛中毒に罹ってる。ここに連れてこられてきた当時は、標準体重よりも五キロ少ない激痩せの状態でね、かなり衰弱していた。そのときはひどい眼振が現れていた」

 鉛中毒――

 やっかいな病だった。昨今、猟銃に装填する弾丸について鉛弾を使用することに規制が掛けられたのだったが、ハンターたちはいまだこうした旧式の弾を使用し、猛禽類を苦しめている。原理は簡単だ。ハンターたちによって駆除された野生のエゾシカなどの死肉を猛禽類が屠ることで、違法使用の鉛弾を体内に取り入れてしまい、それで中毒に罹ってしまうのだ。鳥は嘴を持っているから、肉を突く習性がある。そのうち被弾部を集中して食べるのは、肉が晒されている分、手間が掛からないからだ。習性が絡んでいることから、ハンターたちが猟銃に鉛弾を使用する限り、猛禽類たちはこうした中毒の危険に脅かされつづける。

「回復は、できるのでしょうか?」

 彼からの問いに、瀧本はオオワシをじっと見つめた。運び込まれた当初は、鳥獣用のICUケースに収めていたのだったが、いまはこうして外にあるケージに移されていることから、幾分は進歩があったというべきだ。

 しかし、野生動物の完全復帰は、極めてハードルが高く設けられているのだった。治療が済めば、即刻野に返せるわけではない。心身ともに健康で、野性に適応する能力までもが回復していない限りには、リリースすることはできない。これを強行すれば、見殺しという行為に近い過ちを犯すことになる。

「どうかな? この子次第だと思うんだけれどね」

 瀧本はあえて掴み所のない返事をして誤魔化した。すでに駄目である可能性が濃厚なのだったが、回復の見込みがゼロでない以上、獣医師としてはそこに賭けるしかなかった。

 つぃーっ、つぃーっという野鳥の威嚇が飛び込んでくる。カワラヒワだ。

 顔を仰向けると、微かな影だけを目先に拾った。見通しの暗さから、気持ちが翳っていきそうになっていただけに、一種の励ましのようにも受け取れた。

「僕は、希望を捨てていないよ。うん、何としてでも、この子を元のところに帰してあげたいと思ってる」

 オオワシは冷たい眼差しで、じっと瀧本を見ていた。

 

 瀧本動物病院には、待合室というものはない。野生動物に特化した病院なだけに、玄関口に入っていきなり出会すのが診察室となっている。次の間に、十二畳の手術室があり、横手に続く形で、隔離されたウィルス検査室及び検体管理庫が設けられている。

 手術に使用する獣医療機器は、個人病院にしては充実している方だ。手術台を基本に二つの無影灯が備え付けられ、電気メスの機器に麻酔装置、輸血機器、心電図測定機器などがその周囲に付き添っている。別室では鳥獣用のレントゲンに、簡易式の画像診断装置(エコー)があり、充分、救急対応も可能だ。

 部屋に連れこまれた五人の研修生たちが物珍しそうに周囲を見て回っている。手術室にもかかわらず、事務用の棚があったり医療器具保管の冷蔵庫、掃除用の洗面器があったりと多機能な模様となっているため、窮屈で動ける範囲は限られていた。

「狭いところでごめんね、もう少し整理すればなんとかなるかもしれないけれど、でも僕の場合、綺麗にすると逆にどこに何があるか分からなくなっちゃうんだ」

 場を和ませるためにも瀧本は努めて朗らかに言ったのだったが、反応はやや薄く、ほとんど独り言のようになってしまっていた。

 一人の男が、鳥獣用のICUケースを気に掛けていた。赤坂久という男である。彼もまた優秀な男だった。学会の息が掛かった難しい外科手術を見事にやり遂げて見せたことから、近い将来大きな大学病院に招致される予定となっていた。野心を秘めたような鋭さをのぞかせる細面は、獣医師というよりも科学者の面構えに近い。

「それが、この病院のICUだよ」

 と、先に言って、彼の背中に近づく。

「これの元が、なんであったかのは分かるよね?」

 彼は眼鏡を押さえ、少しだけ鼻を持ち上げるような仕草をした。

「新生児の保育器ですね?」

「言うまでもなかったね。そう、人間様用に使用しているものを代用しているんだ。改良はまったくしていない。それがそのまま使える。もし、近くの病院でこの手の機器を処分する話があったら、譲り受けようと思っているぐらいだよ。これそのままでケージとしても使えるからね」

 アクリルケースの中には鳥が収容しやすいよう、清潔なタオルが敷き詰められている。ケースを支える土台部分はまるごと機器になっており、温度、湿度がボタン一つで調整できるようになっている。ケースに入れているだけで感染防止にもなるから、重病鳥獣の管理が手が掛からずに済む。

「一ケースだけでは、足りないんですね?」

「三つは、欲しくなったときが一度あったけれどね。でも、普段は一ケースで間に合っているよ」

 その時、研修生同士の話し声が聞こえてきて、瀧本はふとそちらに気が取られた。

「これは、なんでしょうか?」

 丸刈りの肩幅のしっかりとした男――矢庭伸一郎が、研修生中唯一の一般職員である、小鈴えりに問いを向けているところだった。小鈴は答えが分からないようで、小首を傾げ、自分なりの見当を口にしたが、それは決して的を射たものではなかった。

 彼らの近くにあった膿盆の中に入っていたのは、メスに縫合針と持針器、そしてバングルであった。注目していたのはその内のバングルで、その名の通り腕輪の形状をしていた。部厚い真鍮製で、両端に引っ掛けられている鎖を結ぶことで手首に装着する。

 瀧本は赤坂から離れ、手術台に近づいていった。そしてバングルを取り上げる。自分の右手首にはめ込んだ。真鍮製のプレートが手首を覆う格好だ。

「これは、僕のお守りさ。このようにガードとして使う」

 矢庭が明快に反応して、軽くうなずいた。

「猛禽類の爪から守るためですね?」

「そのとおり。ほら、この傷なんかは、その手の傷さ。油断するとこのような目に遭ってしまう――」    

 計十二針塗った右手甲の古傷を瀧本は彼らの前に示す。すでに抜糸されて久しいのだったが、傷の線は肉に食い込むように残っていて、そこにまだ糸が縫い付けられているように見えていた。研修生たちは一様に押し黙った。

「見ているだけで、痛々しくなってくる痕ですね……」

 小鈴がやや恐れを顔に表しながら言った。

「さぞかし、怪我をしたその時は、かなりの出血量があったんじゃないでしょうか?」

「まあ、そうだね」

 瀧本は自分の傷を撫でながら言う。

「最初に言っておくと、こういうのは僕が判断を誤ったからこそつけられたものなのさ。悪いのは僕ってこと。患者さんは何も悪くない。医者というのは、相手が人間だろうが動物だろうが関係なしに、患者さんの気持ちを理解しなければいけない。そういうのは、尊厳があってできることだからね。治療というのはその上で成り立つものなのさ」

 彼女は顎を引いて、じっと手首のバングルを見つめていた。

「おっしゃることは分かりましたが」

 と、いつの間に瀧本の後ろに立っていた研修生――朝倉真琴が言った。血気盛んそうな若者で、口許にはいつもなにがしかの言葉が待機していそうなお喋りな感じがあった。

「その時の患者の治療はどうなされたのです? さすがにそれだけ深手を負ってしまうと治療を中断したはずでしょう?」

「その時は、別にスタッフがいたし、僕自身、まだ下っ端だったから上司の先生がいた。だから、サポートしてもらうことでなんとかなったよ。とはいっても患者の方は、けっきょく助からなかったんだけれどね……ある意味、僕のせいで」

 もう一度古傷を見つめ、撫でる。

「いつもラテックスの手術用手袋を装着しているから、それである程度は保護されるんだけど、ワシの鉤爪は思ったよりも破壊力がすごくて、簡単に引き裂かれたよ。出血よりも何よりも痛みがひどかった。僕はそれでも、その現場を離れるべきではなかったんだ……。だけど離れてしまった。ずっと後悔しているよ、その時のことを」

 いつも治療中は、真剣勝負だ。だからこそ、集中力は最後まで途切れずに持続される。しかし、そんなスタイルを実質的に持つようになったのは、じつはそうした事故を経験してから以降のことなのだった。それまでは心に油断があったという他はなかった。

 この時、視線が自分に集中しているのに瀧本は気付いた。どの研修生も生真面目な眼差しを寄越している。

 そんな彼らを意識しながら、表情を解して言った。

「研修中に同じような状況が発生するとは思えないけれど、でも、いざとなったら君たちが手助けしてくれることを期待しているよ。もっとも、そうならないようちゃんと自己管理を徹底するつもりでいるけれどね。基本、僕は人に頼らないつもりでいるほうだから」

「つまり、個人でやっていくというのは、いつもそのスタンスでいなければいけないということなんでしょうか?」

 朝倉が少しだけ間を置いてから問うてきた。

「そういう意味で言ったわけじゃないさ、その気構えは間違ってはいないんだろうけれどね。……確かに、ここは個人でやっているのだろうが、でも結果的に言うと、僕一人だけじゃないよ。電話一本で、保護センターの関係者とも繋がれるし、そのうちの研究所の仲間たちについては応援に駆けつけてもくれる。だから、決してたった一人なんかではない」

 エリア全域を囲う鳥獣保護ネットワークの各要員は、皆連携意識を持って行動しているのは確かだ。鳥獣というのは行動範囲が広いために一箇所だけ集中的に良くしても、生態系にいい効果をもらすことはない。だからこそ、各施設がそれぞれ情報交換を継続していくことは重要なことなのだ。瀧本が積極的に研修生を受け容れるのは、そうした循環をよくするためでもあるのだった。

「ここには入院ケージや、リハビリケージはあるけれど、さらに上の段階のフライングケージはない。だから、その段階までくると、保護センターの人に引き取ってもらってお願いすることもあるんだよ」

「その分野については、エリア全体が協力し合うことで分業のようになっているということなんですね」

 瀧本はうなずいて応じた。

「全作業について言える事だよ。だからね、本当に微々たるものなんだ、ここで僕ができることは。やるべきことをやっている、ただそれだけなんだ」

 また傷病者が運び込まれても治療し、リハビリの後に野に帰すだけだ。それは、自然の営みを持続させる行為でしかない。生態系という大きなスケールで捉えれば僅かなことだ。それでもこの小さな救護活動を、あらゆる事を犠牲にしてでも瀧本は続ける気でいる。それこそが、自分の自然に基づいた活動だと思うからだ。

 

     2         

 

 午後からは裏口すぐ傍にあるモニタールームに研修生を招き入れ、仕様を説明に入った。

 六畳の空間には、大サイズのモニターが二台設置され、その中には入院ケージやリハビリケージをはじめとする外にある施設の内部が映し出されている。

「リアルタイムの映像だから、これを見るだけでいま何が起こっているのかがすぐに分かる。わざわざ離れにあるケージまで出て行かなくても済むんだ」

 とくにリハビリケージの入居者については、野性への馴化という最終目標からして人的な接触を極力避けなければいけない事情があるだけに、カメラ監視は重要な役割を果たす。

「動力なんかは、どうしているのです? 施設にまで電気を伸ばしているとは思えないのですが」

 赤坂が訊ねてきた。

「そうそう、電気は伸ばしていない。だから、自前で調達するようなシステムを導入している。まだ紹介していなかったけれども、リハビリケージからさらに奥へいったところにソーラーパネルが三枚ほど設置してあってね、そこから電気を補給しているんだ」

「冬になると、そちらの管理も大変そうですね」

「そうでもないさ。一応、ちょっとした屋根をつけて囲っているからね。冬場に大雪が降ったとき、そちらまでの道を作ることのほうが大変かな? と、ちょっとここで説明を付け加えておくと、ソーラーのシステムは実のことを言うと、元々監視カメラのために用意されたものじゃないんだ」

「と、言いますと?」  

「獣害防止用のシステムなんだよ」

 と、瀧本は言って、肩をそびやかした。

「いくら猛禽類が入院するケージといったって、他の鳥獣から狙われないわけではない。それは、君たちにも分かっているだろう。相手が天敵でも弱っていると分かると、普段は格下なはずのカラスでも何でも平気で襲い掛かってくる。そうしたトラブルから守るためのカメラと、赤外線投光器が別にあってね、ソーラーシステムはそちらに電力を供給するのがメインなんだ」

「では、自前でシステムを大きくして、電気を引っ張ったということなんですね」

「そういうこと。それにその方が、安上がりで済むって分かったんだ。なにせ、二十四時間監視しなければいけないからね。あと、録画装置も同時に機能させなければいけない事情があったから、こうしたシステムを拡張させることに迷いはなかったよ」

 録画用の機器は、二台用意されてある。いずれも一日中作動させているものだから、もはや消耗品という扱いでいる。

「獣害防止のための監視に、患者の容態観察……。この二つを同時にやっているんですね。ケージにたくさん患者がいるときは、大変な管理になりそうですね」

「いやいや、そうでもないよ。手を減らすためにこうした遠隔操作を導入した訳なんだし。だいたい、いまはみんなシステム管理になっているからね。多くの手順が簡略化されて、必要なときだけ、メールとかで呼び出されるようになっている」

 瀧本は大きなモニター下の台座に設置されていた、PCを操作して青画面からメニュー画面に切り替えた。マウスとキーボードを連携操作して、過去の通信履歴をモニターに列挙させる。

「これ全部、システムが報せてくれた内容。侵入者の報告が細かいデータにされて送られてくるんだ。システムは信頼できるものだから、基本メールの確認だけで済むわけで、僕個人の獣害監視の方はどちらかといえば疎かになっているぐらいさ」

 研修生たちは映し出されているモニターの中身を各々興味深そうに眺めている。コマ割で映し出された入院ケージの模様。視点が違うだけで一つの空間がまるで別物に見えてくるから、それだけで物珍しく映って見えるに違いなかった。

「ここで、ちょっといいものを見せてあげるとしよう」

 瀧本は今度はAV機器のラックの上に乗せられていたモニターを点けた。こちらは二十インチサイズと、メインモニターと比すれば小サイズのものだ。

 ジョイスティック付きのリモコンを二三操作するだけでモニターの中身が映し出される。育雛ケージの内部映像だ。止まり木に止まったままでいる、生後二ヶ月にもならないシマフクロウが画面の中で首をきょろきょろさせていた。

「人工飼育の途中なんだ。成鳥になって、ある程度訓練が板に付いたら、繁殖地に放すことになってる。それまではうちの子供でいる」

「この段階ですと、給餌はまだ手作業ですね?」

 小鈴が目を輝かせながら言った。

「手作業だよ。親に見立てた指人形を使って、雛用の餌を給餌する。研修中は、そのあたりの作業も君たちに体験してもらう事になる。というよりも、それが仕事になる。メインは実習だろうけれども、その手の仕事が一番多くなることは今から覚悟しておいてほしい」

 そこまで瀧本が言ったところで、ふと朝倉がよそ見をしているのに気づいた。彼が見ているのは、モニタールームの奥手だった。

「どうしたんだい、朝倉くん……?」

 と、彼に対し、呼びかける。朝倉ははっと振り返るなり、すいません、とよそ見をしていたことの詫びを口にした。

「あちらは何の部屋なのだろうかと思いまして……」

 キャスター付きの大サイズのモニターに邪魔されて行けないようにされている部屋だけに、気になるのは当然と言えばそのはずだった。

「ああ、あそこは気にしなくていい。単なる倉庫のようなものだから……」

 実質、倉庫として機能している場所だったから、嘘は言っていない。

 しかし、ただの倉庫なんかではなかった。奥には猟銃が収容されている。もちろん、弾もまとまった数で揃っている。すべてはケースに収納されている上に荷物を詰め込んだ段ボール箱に紛らわせる形で仕舞われているので、仮に誰かが間違って部屋に立ち入ったとしてもそれだと気付かないはずだった。

「なにか、ありそうですね」

 と、朝倉は瀧本の顔色をうかがいながら言った。

「なんだか今、顔色がちょっとおかしい具合になっているように感じられるのですが……」

 瀧本は自分の顔を慌てて撫で、表情をほぐした。

「そう? そんなことはないさ。気にしすぎというものだよ、それは」

 軽く笑って混ぜ返し、元の部屋に戻るよう研修生たちに指示を入れた。が、彼らのほとんどが動かないままに、瀧本をじっと見ていた。この話題にとくに気のない風でいた深澤が部屋を出て行くと、ようやく残された者たちが黙って従った。

 

 もてなしの限りを尽くした豪勢な夕飯の時間が終わると、妻のかなめと開も交じった、ちょっとした宴会模様の話し合いに移行した。アルコールなしにも関わらず、どのような話題でも興が乗るのは、彼らが聞き上手に徹しているからだろう。

「気になったんですが、診察室のカルテの数は、かなり少なかったように思います」

 突如言ったのは、赤坂だ。

「ああ、それは俺も気になりました」

 と、朝倉が呼応し、それとなく瀧本に答えを求める。

「管理する量が多いので、ワンシーズン事にね、別の箱に移動させてそちらで管理することになっている。診察室にあるのは、もっぱらまだ観察が必要な子たちばかりのものなんだよ」

「もしや、例の倉庫室にそれは仕舞われているということなのでしょうか?」

 朝倉が思案する仕草を作りながら続けざまに言った。

「うん、そちらにもあるんだけれどね……、そっちはもっと古い方だったりするね」

「古い方と言いますと、初期のということですか?」

「じつは、この動物病院は僕が開いたんじゃないんだよ。猛禽類医学研究所の先輩にあたる、本郷さんというお方が開いたものなんだ。その人は僕の元上司でもあるわけなんだけれど、ひょんなことから施設まるごと譲ってもらったのが、いまから六年前のこと。僕は、そのお方の、たんなる引き継ぎ人に過ぎないんだ。倉庫に収められているカルテは、その人が残していったものだよ」

「カルテごと引き継いだなんて、よっぽど信頼されていたんですね」

「元々上司だった人だからね。一緒に仕事をしてきた分、ある程度通じるものはあったのだと思う。それに、そういう希望があることをずっと以前から本郷先生に伝えてはいたんだ。いずれは独立するのが夢なのだ、と」

「それでどうして、そのお方は施設まるごと譲ろうとなったのでしょうか?」

 小鈴が問いかけてくる。

「健康問題だよ。どうも病気してしまったようでね、その療養も兼ねて、ちょっと遠くまで治療に出ていくということだった……。ともかくその時、たまたま先生の近くに僕がいたんだ。声が掛かったのはつまるところ、運が良かっただけだと思うよ。君が思うようなそんな格好いいものではない」

 瀧本はちら、とかなめの方に目をやった。彼女は、眠りに就こうとしている開の吐息に合わせてゆっくりと身体を揺らしていた。

「その頃は、結婚したばかりで、いろいろばたばたしていたから、ちょうどこうした話題を持ち掛けやすいということもあったのかもしれない。つまるところこういうチャンスというのは、来るときに一辺にくるものなのさ。僕の場合に限って言えば、いつもそんな感じがあるね」

「そうなんですか?」

 朝倉の顔は、腑に落ちないというような表情をしていた。すると、今度は深澤が遠慮がちに訊ねてくる。

「それで、本郷さんというお方は、いまどうしているのでしょうか?」

 瀧本はうん、とうなずいた。

「去年の暮れ頃に、亡くなられたという報せを聞いたよ。その時だって、どういう訳か病気の中身を報されることはなかった。本人が伝えられることを希望しなかったみたいなんだ。ともかく向こうでは国籍も取ったらしいということだったから、おそらく出国時から帰らないつもりでいたのだろう……」

 本郷喬司――

 優秀な鳥獣研究家であり、獣医だった。生活のすべてを犠牲にしてまでして鳥獣たちの保全医学に取り組みつづけた。昨今道東における、救護活動のネットワークという地盤が整えられたのは、彼の長年来の貢献によるところが大きい。各施設の連携が滞らないよう、界隈のパイプ役としても活躍した。

 一個人の獣医としては、野生鳥獣向けのリハビリテーションのメニューを完成させた。その他、健康診断及び、生態管理の一貫として採血された血液サンプルや生検を元に作成したデータを保護増殖プログラムに活用し、科学的な根拠に基づいた、環境保護システムを完成させた。すべては環境サイクルを意識した、実用的な計画だった。

 そんな彼が急に身を引くと聞かされたときは、本当に驚いたものだった。

「もう、いい加減身体のほうがついてこなくなってきている……。わたしもけっこうな年になった証拠だよ、これは」

 冗談のような口調で言うものだから、なんだか真剣に受け取ることができない所があった。が、それが自虐なのだと遅れて気づくなり、顔に気が入った。

「先生、何のご病気かは教えてくれないようなのでそこは諦めますが……、とにかくいますぐ入院してください。そして回復して、是非ともここに戻ってきて下さいよ。そのことだけは譲れません。先生がいないと困るんですよ。僕だけではなく、みんなです。そのみんなには、先生がこれまで担当した鳥獣たちも含まれています」

 本郷の目は伏せられたままだった。

「こっちとしても考えている事があるんだよ、分かってくれ」

 と、身体の奥から絞り出すようにして彼は言う。

「もちろん、ここでやっていくことに何ら苦痛などない。あろうはずもないといったところだ。できるものなら生涯を通してやっていきたいとまで思っていた。が、事情は変わったんだ。最後にやるべき仕事はそれではないと判断させてもらった。そう、わたしには自分の時間が必要なんだ……」

 これからの時間はすべて自分のために使うのだという。

 今日という日までに積み重ねてきた貢献の数々を考えれば、もう充分過ぎることをやってきたとも言えたから、ここは、お疲れさまでしたと、声を掛けてやるのが正しいはずだ。

 しかし、そう意識できたところで、どうしても瀧本の口からその言葉を吐き出すことはできなかった。それを言い放った途端、彼にまつわるすべてのことがそこで終わってしまうような気がするのだった。

「とりあえず、しばらくお休みになられたらいいでしょう。それからもう一度お考えになれば、また考えが変わるようなことがあるのかもしれません」

「いいや」

 と、持ち上がった彼の顔は、真剣一色だった。

「すでに決めたことなんだよ。それを君が覆さないでおくれ。それとも、このわたしが決めたことについて、納得してくれないというのか? わたしのことを認めてくれないというのか?」

「いえ、そういうわけでは……」

 彼は背を向け、窓辺に向かって歩いて行った。

「じつは言うと、この事を打ち明けたのは、君が最初なんだ」

 え、となったが、すぐに言われたことを理解した。今、彼が持ちかけているのは、後にはもうないという程に、とても大事なことのはずだった。瀧本は聴覚に神経を集中させた。

「というのも、わたしがいまやっている病院を君に引き取ってもらおうと思っているからだよ」

 振り返った彼の顔は、表情こそは変化していなかったが、いつもに保っているバイタリティーが発せられているような気がした。

「断らせるつもりはないよ。是非とも、引き受けてもらいたい。というよりも、君しかいないんだ。だいたい、君はわたしに夢を語ったね。いつかは獣医として独立したいんだ、と。そして、環境学や保全医学を完成させ、野生の鳥獣たちの未来を確かなものにしたいのだ、と――そのことの熱意は、まだわたしのなかに残っている」

 その時のことは、今もはっきりと覚えている。普段よりも滑舌が快調で、自分の気持ちをストレートに伝えることができていたように思える。

 確かに、それらは夢に他ならなかった。一方で、現実的な夢かといえば、そこは曖昧なところがあった。とにかく大量の資金がなければ動き出せないことでしかない。そうした資金は、瀧本にはなかった。準備をするという名目で作った貯金は、結婚して新たな生活の地盤を整えるに当たって、半分以上なくなってしまった。

「ともかく、君が引き受けてくれないことには、わたしは永遠に休めないんだ。どうか、わたしに安息を与えてくれ。それができるのは、君だけなんだ」

「それで、先生……」

 瀧本は気持ちの底から突き上げてくる、もろもろの抵抗を抑えつつなんとか言った。

「自分の時間が必要だとおっしゃいましたが、具体的に何をされるのか、もう決まっているのでしょうか?」

「アメリカに行くことにしたよ」

 と、彼は顔を真っ直ぐに立てて言った。夢を乗せたような、そんな希望のこもった響きなんかではなかった。なんとか気を張って力いっぱい述べたというような具合だった。

「アメリカに……」

 瀧本も研修で出かけていったことがある。日本よりも厳しい自然が拡がっている中央アメリカの荒野。その厳しさに適応した生物たちがそこには待っていた。鳥獣たちも例外ではなく、その地ならではの特化した能力と、生命力を持っていた。その様をしかと自分の目で見届けたときには、世界は広いのだ、と妙な感動を覚えたものだった。いずれにせよ、その国は新天地として迎えるのに不足はない地ということで良かった。

「もしや、研究のステージをそちらに移すというわけですか?」

「そんなはずはない」

 彼は首を振って言った。

「向こうに出ていくときは、研究者としてだろうが、それは建前のことでしかない。すべての肩書きを捨て、一人の老人として過ごすことになると思う」

 すでに、財産を整理している段階にあるのだという。移住先も決まっていて、関係先との契約を済ませたということだった。もちろん必要経費も支払い済みだ。こうした行動の早さは本郷ならではのことだった。先にお金を動かすことで、後に誰からも文句を言わせようとしない手堅い地盤を作る。保護センターとの契約でも、そのような手管をたびたび発揮し、関係者の口を封じていた。彼はこと取引に掛けては、口よりも手が先に出るような、やり手の男なのだった。

 あぁ……と、心の中で嘆息が漏れた。本郷は正式な意味で隠居しようとしている。すべて彼が築き上げたものが、この瞬間、ゼロにされてしまったように感じられる。虚しさと脱力感ばかりが胸に満ちていく……。

「先生、ダメですよ。お体の具合が悪いのは分かりましたが、もう少し何とかなりませんか?」

「身体の問題は第一じゃないさ。これは、わたし自身の問題だ。さっきからそう言っているじゃないか」

「ともかく、考え直して下さいよ。いまからなら、何とかなるはずですから!」

 説得は繰り返し行われた。

 熱が冷めるまで、瀧本の訴えは延々と続く。時には、本郷の身体を激しく揺さぶったりもしたのだったが、彼はでくのように突っ立ったまま、じっと見返すだけだった。その冷淡で、大事な何かを喪ったような目に瀧本の心が冷やされて、次第に熱は鎮まっていく……。

 やがて言葉が尽きたところで、本郷がつぶやくように言った。

「どうにもならないことなんだ。次代の人間に襷を渡さなければいけない時がきた、そういうことなんだ。それもまた、わたしの仕事だろう」

 もはや決意は変えられることはないようだ。もうずいぶんと前に、決めたことなのかもしれなかった。

「ここには、もう少し残るつもりでいる。それまで君からの返事を待ちたい。決まったらすぐに電話しておくれ。その時には、肩書きを捨てていたら、尚のこといい。すぐに引き継ぎの手続きに入れる」

 職を辞めよと、これまでに人に言われたことなどはない。だからこそ、思いきりのいい彼のその一言にはなんだか引っ掛かる感情を通り越して、いさぎよいものすら感じ取れた。

 自分はこれを引き受けるべきなのだろうか。

 瀧本に迷いが襲い掛かる。今のところ、そんなのは無理なことでしかないという理屈が大部分を占めていた。理性的に考えて、これはやはり現実味がないことでしかないのだ。

 しかし、それを申し出ているのは常日頃、同業者として尊敬している本郷なのだった。考えもなしに、突き返すわけにはいかない事情があった。

「問題ないさ」

 と、彼は引き続き言う。

「君の奥さんのこともまとめて面倒を見るつもりでいる。だから何も心配することなしに、どんと大船に乗った気で承諾してもらいたい」

 最後に薄く微笑んで、彼は瀧本の前から辞去していった。それからは、自分一人の黙考がつづいた。かなめには一言も話さないでいたが、どうもそうしたことが顔に表れるたちのようで、すぐに見破られた。事情を打ち明けるなり、妻と二人の話し合いになった。

「やってみたらどうなの? たぶん、こんなチャンスもう二度と無いと思うわ」

 彼女はいたって楽観的な構えでいた。

「簡単に言うけれどさ……、それでいいのだろうか」

「本郷さんの後釜につけるって、それだけで十分光栄でしょうに。仮に、問題があったとしても解決できると思うわ。だって、わたしたちにできなかったことなんてこれまでに一つだってないんだから」

「そう? うーん、でも、なあ――」

 どんと背中を叩かれ、瀧本の背筋が真っ直ぐに伸びる。

「ねえ、何があなたを迷わせているのか、よく分からないんだけれど。失敗を怖れているんだったら、あなた今の仕事から身を引いた方がいいと思うわ。だって、命を預かる仕事だもの。いい加減にやっていいはずがないに決まっているでしょ」

「そういう問題じゃなくってね」

「だったら、何……?」

 きっと強い眼差しを降りそそいでくる彼女を見ているうちに、はあ、と気持ちが抜けていく息が洩れた。その途端、張っていた気持ちが解れ、一気に楽になっていった。

「ま、いっか。やってみるとする。というより、これから先、厳しいことになりそうだけれど、ついてきてくれるのだろうか?」

「わたしのことは、気にしなくって結構ですから。そんなの分かっているじゃない。そんなに気持ちが弱いほうじゃないですよ」

 そうだった。かなめは、びっくりするほど度量の広い持ち主だった。瀧本の出身は、滋賀で、北海道とは縁遠いところの住民だった。研究員として招致され移住した当時は、道産子がどういった気質の持ち主なのかも分からなかった。

 それだけに、道東の大きな動物病院にて獣医のスタッフとして働いていた彼女を初めて見たその時、この地域に生まれた女性は、こうも大らかな気質の持ち主なのかと勝手な推測を立てて驚いたものだった。実際はそんなはずがなかった。彼女だけが傑出して特異だったのだ。それを理解するなり、かなめに対し強い好感を抱くにいたった。

 現在、動物病院の経営の方は順調というほどでもないが、それなりに上手くやれている。彼女を楽にさせてやりたいという気持ちが維持されたのは、最初の内だけだった。その後は、基本鳥獣たちが中心の生活となっているだけに、迷惑ばかりを掛けてしまっている始末だ。それでも、不満一つなく付き合ってもらえていることに、瀧本は感謝という言葉だけでは足りないものを彼女に感じていた。

 ふと、かなめと目が合って、我に返った。彼女が先に口を開いた。

「先生の話、もう終わりなの?」

「……他に、なにか話すことがあったっけ? たくさんありすぎて言えないというぐらいには良く知っているつもりだけど、なんだか今だけは、どれも取り立てて打ち明けるようなことでもないような気がしてるんだが……」

 瀧本はぱっと顔を明るくして、研修生たちに向かい合った。

「とにかく、ここに残っているもののすべてを知って欲しい。多くは本郷先生が遺してくれたものなんだから、ここを知ることはつまり、先生を知るということに繋がっていく。明日からはじまる実習も、その意思が組み込まれたものだと思ってもらって結構だよ」

 瀧本は言っているうちに、意気が高まっていくのを感じていた。机に取り掛かるなり、改めて研修生たちを俯瞰した。

「あと、座学の方もじっくりやっていくことになる。とりあえず、今日の所はゆっくり寝てもらって、明日から始動と。ここは朝早いから、気をつけてね。六時半には起きてもらわないと困るよ」

 瀧本の起床は、もっと早い。開院に向けての準備がために、四時には起きなければいけなかった。その内で一番重要なのが、入院患者の容態確認だ。いまのところ、育雛ケージ内のシマフクロウの雛を除けば、鉛中毒に罹ったオオワシの一羽だけだが、急患の要請は、ほぼ毎日のようにやってくる。それも突飛に。今日まで楽だったのが、明日にはてんてこ舞いなんてことは、珍しくはなかった。だからこそ、どんな時でも獣医としての気を絶やしてはならないのだった。

「そのぅ……」

 と、小鈴がかなり慎重な口調で言った

「本郷先生の話なんですが、一つ、聞いたら駄目でしょうか?」

「なんです? 逆に、聞いてくれればこちらとしても話しやすいよ」

「もしかしたら、触れてはいけないことなのかもしれませんが、でも、やっぱり気になりますのでお訊ねします。……本郷先生はその時、担当されていた患者さんたちをすべて先生に託したのでしょうか?」

「そうだね。その時、入院していた子たちは、すべて僕の管轄になったよ。計四羽だったと思う。みんな自然に帰っていったから、今はもういないけれども」

「その子たちについて、本郷先生は未練はなかったのでしょうか?」

「未練はあったと思うさ。先生は、本当に鳥獣を愛している研究家だったからね。でも、やっぱり身体がダメだったみたいなんだ。意思がくじけたその時、自分が診るのは最善の選択ではないとでも見なしたに違いない。だから後継者を捜し、早い内に引き継ぎすることに気持ちをシフトさせたんだと思う。……先生に未練があったとする証拠といえば、カルテだね」

「カルテ、ですか……? 何か、特別なことでも書いてあったんでしょうか?」

「特別というか、個別的にながら細かい記述が書かれてあったよ。それこそカルテに愛情を注ぐというように、熱心に書いてあった」

 備考欄にびっしりと小文字で文字を埋め込むのは、本郷カルテの特色の一つだった。その様を、瀧本は勝手に本郷ノートと呼んでいる。こういうのは、通常の医師には真似できることなんかではなかった。だからこそ、カルテは瀧本にとって常に心の見本でありつづけている。

「それこそ給餌の方法から、好き嫌い、行動原理の解析……性格に基づいた付き合いの方法まで、書けるものは何でも書いたというようなものだったと思う」

「それ、是非に見せて欲しいです」

 本郷ノートは倉庫室の段ボールを始めとして、手術室と診察室の段ボール内にも収められている。そのうち倉庫室に収められた分は、重病者の取り扱い分が多く重要度が高いものばかりが揃えられている。今回、研修に集まった実習生たちは優秀な獣医がまじっているだけに、手軽に閲覧が可能な手術室分のものを確認しただけですぐに傷病のクラスで選り分けられていることに気付くはずだった。

 結果、どうしても倉庫室の方のカルテに焦点が集まることとなる。そうなってくると、猟銃の入ったケースが近くに置いてあるだけに、その存在を報せることになってしまうのだった。瀧本としてはそうした流れを作ることだけは避けたいところだった。

「見せてあげたいんだけれども、ちょっと後の方になるかな? まず僕が作成したカルテを見て欲しい。一応というか、本郷先生の形式を省略しながらも継承しているつもりだから」

「ぼくもちょっと、興味がありますね。できれば本郷先生のものが希望ですが……」

 と、矢庭が身を乗り出しつつも遠慮がちに言った。

 瀧本は顔を振り上げて、はあっと息をついた。

「どうも、僕の方には信用がないみたいだ……。けど、まあこの状況だとそうなって仕方がないだろうから、そっちの方も君たちに見せるとするよ。でも、今は駄目だよ。研修を優先にしてもらいたいからさ、どうしても後に回すことになる」

「分かりました。研修外の希望という形で、控えておくとします」

「でも、なんでそんなにカルテにこだわったりするのか、ちょっと分からないんだけれど。確かに、貴重なデータだし、見るだけで勉強にはなるけれども、君たちの本分とはあまり関係がないようなものじゃないか」

「全然、関係ない話ですが」

 と、赤坂が生真面目な口調で言う。

「そのカルテを見れば、こうした動物病院をいつ先生の方に譲るつもりでいたのかが分かるのかもしれません。カルテをくわしく精査することで得られるものは、何も資料としての内容だけのことではないのです。作成されたお方の心情。そうしたものも間接的にながら突き止めることだってできるんです」

 本郷の気持ちの変化の過程。

 確かに、そういうものがカルテには籠もっていたのかもしれない。必要のない記述など、医者自身が頭に叩き込めば済むことなのだ。あえてカルテに書き記すことはない。そこを押してあれだけ書き込んだのは、別の意図があったからという事もあり得た。とはいえ、瀧本にはこれまでに積み上げてきた研鑽というものがあった。

「たしかに、そういったことなどこれまでに意識してこなかったことだ。だから、改めて自分の目で確認するのも悪くはない。でも、希望は薄いと思うよ。僕自身が、これまでにカルテたちを穴が開くというほどに検めてきたからね。それを繰り返し読むことで、いまさら別の何かが見えてくる可能性は低いように思う」

「そうですか……」                    

 と、赤坂は一度引っ込んだのだったが、すぐに口を開いた。

「と、少し話は飛びますが、気になったことがあります。それとは、病院の後継者は先生ただ一人だけだったのか、という問題です。思うに、他に候補者がいたところでおかしくはないはずなのですが」

「他にいたというような話は聞いていないけれども」

 この事実だって、見逃されてきたことだった。鳥獣たちを保護する自分の希望や夢のことばかりが最優先されてきた結果、多くのことが置き去りにされたままになっていた。瀧本自身、決して無関心だったわけではなかったのだが、なんとなく見過ごし続けてしまっていた。

 もしあの時、自分がノーと返事したら、本郷はどうするつもりだったのだろうか? いや、それは考えるだけ野暮というものだ。本郷は、断らせるつもりはない構えで自分に申し出てきた以上、何としてでも説得し抜くつもりでいたはずだ。

「ときに、本郷先生にお子さんとかは、いらっしゃらなかったのでしょうか?」

 深澤の問いに、ぱっと思い浮かぶ一人の存在があった。それとは、本郷の娘だ。実際に会ったことは一度もないだけにはっきりとした年齢までは分からなかったが、本郷の結婚が三十を過ぎてからだったことを考慮すると、娘はそれよりももっと遅くに生まれている計算になるはずだった。

「娘が一人だけいる」

 と、瀧本は静かに答えた。

「そのお方に獣医学の志があれば、もしかしたらここはその彼女に任せられたのかもしれませんね」

 病院を明け渡す際、現実問題として娘にその能力があったかどうかは分からない。仮に引き継ぎが難しい状況にあったにせよ、それでも先を見越して本郷にはそういう選択もあったのだ。その筋を選んでいた場合、いくつかの引き継ぎの方法を考えれば良いだけのはずだった。そこをなぜ、急いで自分に根城を明け渡すようなことをしたのだろう。

「一応言っておくと、ここはただで譲ってもらったわけではないんだ。それこそ資産価値の三分の一以下と破格だけど、ちゃんとお金を払っている。経営主としての自覚を持ってもらいたいという狙いがあったようだ。譲った後に、経営が立ち行かなくなってたちまち閉院なんてことがあったらいけないからね。これは後になってから理解したことだけど、じつに合理的で正しいやり方だったんだって、僕はいま思っているよ」

「話の途中でちょっと悪いんだけれども」

 と、かなめが開をあやしながらそれとなく、割り込んできた。

「その娘さんのこと……。ちょっと前に、その人の話題について、人伝に聞くことがあったわね」

「え……何の、話?」  

 瀧本はもろもろの話を切り上げて、彼女に注目した。

「大学出た後に、獣医になって……いま、どこぞの動物病院にて活躍しているっていうお話」

 瀧本は思わずびくっとした。

「なんで、そんな大事な話を黙っていたんだよ……! 僕らにとって本郷先生は大事な人だって解っているじゃないか」

 瀧本の抗議を軽くいなすかのようにため息をついて、彼女は目を伏せた。開の顔を覗き込むなり、一気にその顔に母性が取り戻された。

「やっぱり、聞いていなかったのね。もうかれこれ一年ぐらい前の話になるのかしら……。わたし、ちゃんとあなたに言ったんだから。そのとき新聞を読みながら、ふぅん、とか言っていたのよ。それで直後に急患の電話が入っちゃってうやむやになっちゃったけれど、もう一度ちゃんと言うべきだったのかもね。これは、わたしの失敗」

 詳しく事情を聞くに、もしやあの時では、という思い当たる節が瀧本に浮かんで、気持ちがどんどん重くなってきた。その時の新聞には鳥獣関連のサミットの内容が掲載されており、思わず夢中で読み耽っていた。さらに、時間を節約するために囓っていたサンドイッチがやたらと美味で、そのことにも気持ちが取られ、散漫になっていた。

 結果、すべては自分の怠惰の結果ということでいいはずだった。かなめは何も悪くない。瀧本は大いに反省する気持ちになった。

 それにしても、本郷の娘が父の後を追いかけるように、獣医師になっていたとは……。

「それで、彼女は今どこで働いているのかは、聞いている?」

 瀧本の問いに反応するなり、彼女は首をゆっくりと振った。

「いい加減なことは言えないけれど、札幌のほうで働いているんじゃないかしら。わたしもうろ覚えなんだけれど、行っていた大学は野幌にあるところだったと思うわ」

 野幌にある、獣医学関連の大学と言えば一つしかなかった。

「とりあえず、その情報を提供してくれた人とコンタクトが取れないだろうか?」

「取れないこともないけれど、取るの?」

 瀧本は手を合わせ、彼女に頭を下げた。

「取って欲しい。そして、彼女の居場所を教えてもらってほしい。できれば、連絡を取りたいと思ってる」

「わたしもそうした方がいいとは思っていたけれど……。でも、その子にとってはつらいことなのかもしれないとも思っているのね。ほら、お父さんである本郷先生が勝手にわたしたちなんかに破格で病院を譲っちゃったりしたわけでしょう? なんで、そんなことしちゃったのとか、いろいろ思うところがあるに違いないの」

 彼女の言う通り、心情を察すれば下手に接触する事は避けた方がいいのかもしれなかった。もしかしたら、勝手にこの手の話を進め、契約を済ませたということについて、ひどく恨んでいる場合だってあり得なくはないのだ。

「そうだったとしても僕は、彼女と連絡を取りたい。だから頼まれてくれないだろうか?」

 かなめはすっと顔を上げて、瀧本を見た。眉がややハの字の形に下がっている。どうしたものかしら、と考えている具合だ。

「分かったわ、情報をくれた人と連絡を取って、娘さんのことを聞いてみる。でも、今すぐはやらないわ。ちょっと、時間を置いてからにする。それでいいでしょ?」

 彼女にもタイミングというやつがある。だからこそ、その提案を受け容れるしかなかった。だいたい、研修生を迎えている今、寮母のような役割を果たさなければいけないことから、彼女は一番に忙しいはずなのだった。

「それでいい。君の余裕のあるときに、連絡を取ってくれ」

 かなめはゆっくりとうなずいて、視線を膝元に落とした。開は伸びやかに眠っていた。

 

     3

 

 翌日、朝早くから急患が飛び込んできた。野性の海鵜で、肩からすぐ近くの翼部――小雨覆の一部が切り込みを入れたように裂けていた。風切羽のいくつかが千切れ、シルエットがぐずぐずになっている。高い鉄塔なんかにぶつかっては、そこから転落したのだろう。

ぴぃーぴぃーと痛みを訴えるように、鳴き声を上げている。

「大丈夫、すぐ助けてやるからな」

 研修生たちの自主的な手助けを受けながら、すぐさまレントゲン撮影に入った。

 橈骨手根骨部に罅が入っていることが分かった。その他に影響はない。患部を軽く整復してから副え木を当て、翼ごと包帯でくるむ。その上から、暴れないよう胴体をまるごと包む専用のジャケットを装着させた。臨時用の入院ケージに収めると、観念したように大人しくなった。いつでも水を補給できる給餌セットを用意していたが、警戒しているのか仕組みを教えてもまるで手を付けようとしない。

「ちょっと臆病な子のようだ。たぶん、人間と接触するのがはじめてなんだろう。まあいい、それぐらいのほうがこっちとしても付き合いやすいというものだ」

 瀧本は海鵜の顔を覗き込みながら言った。目を合わせると、ケージ内でじたばたと暴れ始めた。大人しくさせるまで、かなり手を焼かされることとなった。

 ようやく一段落ついたところで研修生たちに振り返った。手伝ってくれているのは、矢庭に深澤、小鈴の三人だった。

「いや、済まない。これからちょっとした座学に入るから、そちらのほう準備してもらえないだろうか」

 三人はそれぞれ反応して、手術室を出て行った。瀧本も消毒器に手袋を放り込んでから、講義の仕度に入った。

 多目的空間が複数ある保護センターのような施設とは違って、民間の動物病院では使える部屋など限定していた。わずか六畳の客間が講義室の代用となった。自分指定の書類と教科書を持参の上で部屋に立ち入ると、手伝いに参加できなかった二人がそこにはいた。朝倉の方はいま起きたばかりと見えて、寝癖がついていた。

「おはようございます」

 決まり悪そうに、跳ねた後ろ髪を押さえながら彼は言った。

「おはよう。どうやら、昨日はお疲れのようで」

「すいません。申し開きになりますが、長距離移動とか苦手なものでして……」

「別にいいさ。まだ今日が初日だからね。でも、野性動物を扱う仕事は一般の動物たちを相手するよりも、ずっとタフじゃないとやっていけないよ」

 指を一つ立てて、彼に取り繕った笑みを差し向ける。

「じつは、午後から知り合いの牧場に予約を取っているんだ。実習の一貫として、君たちをそこに連れて行くつもりでいる。気持ちが挫けないよう頑張って欲しい」

「牧場ですか? いま、牧場とおっしゃったのです?」

「そう、牧場。そこで何をやるのかってことなんだけど、悪いけれど、それはついてきてからのお楽しみということにしてほしい」

 怪訝そうな顔をしているのは、なにも朝倉ばかりではなかった。部屋の中にいた他の研修生たちも瀧本に視線を集中させて硬直に入っていた。

「これは、君たちにも言えることだ。体力の温存、これだけは絶対だから、各自、今から整えておいて」

 幾分の緊張こそ見られるものの、彼らの気構えは充分だった。ここに来た以上はすべてが初体験だ。だからこそ、何を申しつけられても動じない精神でいるのかもしれなかった。

 瀧本は彼らの中心にあたる位置に就くと、教科書を開き、講義を始めた。二時間の集中授業。ときおり向けられるその眼に彼らの熱心な意欲を認めるたびに瀧本はエネルギーを得た。思わず弁を奮う舌に、力が籠もった。

 

 あらかじめ予約していたマイクロバスに揺すられること、一時間半。着いたのは五十ヘクタール以上あると思われる牧草地だった。サイロと牛舎近くのプレハブ小屋のような酪農家の住まい。その裏側に、木の囲いで覆われたファームが拡がっていた。ゲート前にオリーブグリーンのつなぎを着た、小柄な男が立っていた。山辺だ。鳥獣保全ネットワークの一メンバーとして活躍している。研修生たちを引き連れた瀧本の来訪に気付くと、さっと手をあげて応えた。

「やあ、先生。いま、きたんですね」

 研修生たちを興味深そうに眺める。

「いやあ、若い人ばかりで、なんだか頼もしい感じがある。このまま、どなたか一人おいていって下さいよ」

 そう冗談めかして言うのは、ここの広大な土地を一人でまかなっているからだ。後継者の心配をする必要はないまだ四十代の男だが、それでも住み込みの人間は常時募集しているはずだった。

「そうそう、お願いしていたあの子たちがいないようですが?」

 瀧本はファームを見渡しながら言った。いま、囲いの中はもぬけの空だ。ただ重量のある動物などが這い回ったことを示す、土地の荒れ具合だけがそこにしっかりとあった。

「いま、鳥舎のほうに移動させています。すぐに呼んできますから、ちょっと手伝ってくれませんか?」

「ああ、はい。指示をくだされば、動きます」

 瀧本は男に着いていく形で、ファームの奥手にあった簡易組み立ての鳥舎に立ち入った。毛深い獣たちの臭いが充満していた。そのなかに混じっていた干し草の臭いは、鳥獣たち用の餌だろう。ゲートに押し込められる形で、首の長い鳥獣たちが苛立った足取りで瀧本たちの来訪を気に掛けていた。ダチョウである。ざっと二十羽はそこにいた。黒毛が大半を占めていたが、灰毛も何羽か交じっている。尾と頭部だけが共通して白なのだが、その面積が比較的大きく拡がっている一羽が、瀧本の目に留まった。

「元気良さそうな子だ」

 手を出すと、ゲートの隙間から首を出し、瀧本の腕裾を噛んできた。自分の元に引き寄せようとするかのように離さない。

「こら、お前。先生に何をするっ」

 山辺が嘴を掴んで引き剥がしに掛かるも、かなりの力が入っているらしく、やはり離れてくれない。やっとのことで剥がされたと思ったら、裾がかなり伸びきっていた。

「先生、すいません。あとで、きつく叱っておきますから」

 山辺が頭を下げながら瀧本に言った。

「いえいえ、期待通りの子で、むしろうれしいぐらいですよ。この分だとけっこう活躍してくれそうですね。ゲート開放してもらって、いいでしょうか?」

「もう、いきますか?」

「はい、すぐにでもお願いしてもらいたく思います」

 山辺はうなずくと、すぐさまかんぬきを外し、ゲートを勢いよく開放した。一羽が目の前に拡がった道に進むと、その近くにいたダチョウたちがたちまち列を作り、鳥舎につながる迷路のような囲いに行進隊のように突き進んでいった。中央の放牧場に飛び出すと、自由を得たように勢いよく駆けだした。首を伸ばした状態で二メートルほどの大きさがある生き物なので重量も凄まじい。数が増え出したところで、闊歩がやがて地響きのような音になっていった。

 山辺が鳥舎を出ると、瀧本も外に出て、放牧場内に入った。研修生たちは別の入り口から入り、それぞれ散らばって立った。

「これから、実習に入るとする」

 瀧本が声を張り上げて研修生たちに言った。ダチョウたちはその声にも動じず、群れをつくって放牧場の隅に移動している。

「その子たちを捕獲する実習だ」

 研修生たちの顔に、え、という驚きの色が浮かんだ。

「そんなことをして、何か意味があるのでしょうか?」

 朝倉が抗議めいた口調で言った。

「実習の中には、捕獲の段取りも入っている。本来ならば野性の鳥獣でやるのが一番だろう。が、オオワシやシマフクロウなんかを実験台にするわけにはいかない。天然記念物なわけだし、何より凶悪なまでに野生だから、君たちに危害が及ぶ恐れがある。そこでダチョウに代役になってもらうというわけさ。凶暴さという点では引けを取らない分、きっと、この捕獲は役に立ってくれるはずなんだ」

 瀧本はダチョウ捕獲についての簡単な説明に入った。三人一組でやるのが一番健全なパターンだった。ダチョウは身体の構造上、背後に立たれた敵に対しては無防備になる。その弱点を利用し、首を鷲掴みにしてから押さえこむように、身体を倒す。残り二人が左右の羽を抱え込み、完全に制圧する。手が空いた所で、あとは頭部に布を被せればよい。これで捕獲完了だ。鳥獣は視界さえ奪えば共通して恐怖心もなくなる習性を持っているので、あとは大人しく人の導きに従う。

「慣れれば、一人だってできるんだよ」

 と、山辺が言うなり、鳥舎の事務所から持ち出してきた秘密道具を披露する。それは、ルーズソックスを腕カバーのように改良したものだ。かなり使い込んでいるようで、ゴムが伸びきっている。

「ちょっと、そこで見ててちょうだい」

 山辺は近くにいた大人しそうな一羽に足音を殺してゆっくりと近づいていく。手は後ろにやったままで、道具を手にしていることなど相手に気付かせない。至近距離まできたところで、えいやっという掛け声と共に袈裟懸けに振るった。すると、次にはダチョウの頭部に目隠しのアイテムが被せられていた。ぜんまいが切れたように、ぴたりと動きが静止する。

 山辺は落としたダチョウの首に腕を回し、得意そうに振る舞う。

「御覧のとおりだ。これが、最上級の技だよ」

 研修生たちから拍手が起こる。

 山辺は照れたままにダチョウから目隠しを取り上げ、開放した。光を得たダチョウは仲間たちが集まっているその場所へと逃げていくように消えた。

「このレベルまではできなくてもいいから、とりあえず、捕獲の作業を、三人でやってみてほしい」

 瀧本は言い、一先ず矢庭と赤坂、小鈴の三人を指名してチームを作らせた。配役については彼らに任せたところ、すぐに決まった。力のありそうな矢庭が押さえこみ役で、二番手が赤坂。最後の目隠し役が小鈴だ。

「どの子を、狙えばいいんでしょうか?」

 矢庭が自らに勢いをつけるように言った。レンズの厚い眼鏡ごしに覗ける彼の眼は、真剣一筋だった。まだ動いてもいないはずなのに、顔に熱が集まっているのが窺い知れた。

「どの子でもいいさ」

 と、瀧本は言った。

「手を付けやすそうな子、自分で選んでみて欲しい。体調、機嫌……性格、見ているうちにいろいろなものが読み取れるはずだ。というより、このミッションは全羽、鳥舎の方に戻すまでつづけられることになっている。結果的に見れば、どの子も拒否することはできないってわけだ」

「分かりました。でしたら、自分で選ぶとします……」

 矢庭の顔がさらに鋭さを帯びる。腰を落とすなり、動きが機敏になった。PK戦に挑むキーパーのような迫力だ。すぐにターゲットが決まったようで、矢庭は走り出した。群れの中にいた、おっとりとした性格のダチョウだ。慌てて逃げだした周囲に合わせて駆け出すも矢庭の手にすぐ捕まった。ばたばたと暴れ出す。

「後ろに引く形で、押さえこむんだっ」

 山辺のアドバイスが飛ぶ。

 矢庭がその通りに動いたが、なかなかダチョウの足が崩れてくれない。押さえこんでいるはずの首がするりと抜け、嘴の逆襲をもらう。防御に入ってしまったのは、半分捕獲を放棄したも同然だった。ダチョウは隙を逃さず、体勢を立て直し、矢庭から逃れていった。

「くそっ」

 彼は悔しそうに顔を歪めながら、地面を殴った。丸刈りの頭をさっと一撫でして、汗の玉を飛ばす。屈辱には受け容れがたいものがあったらしい。すぐさま再トライに入った。また一羽スルーされ、二羽目には近寄ることもできずに終わり、三羽目にして背後を取った。首を鷲掴みし、格闘に入る。

「大人しくしろっ」

 一気に後ろに体重を掛けると、共倒れといった具合に絡み合ったままで土に着いた。それでも矢庭の闘争心は維持されていた。立ち上がろうと抵抗するダチョウを懸命に押さえこんでいる。

「よし、そのまま頑張ってくれっ!」

 二番手の赤坂が加勢に入った。翼を押さえこむのはそんなに難しくはない。二人の力が合流すると形勢が一気に有利になった。ところが、三番手の小鈴がまだ出て行けずにいた。強張った顔をしたまま、腰が引けている。

「何をしている、小鈴さん。一気に行ってくれっ!」

 赤坂が檄を飛ばす。が、小鈴はダチョウを睨んだまま、大きく首を振った。どうしても反撃が怖ろしいらしい。

 すぐ近くにいた山辺が手を貸そうとしたところで、瀧本は制した。彼はなぜ、というような目を寄越してきた。

「いいんですよ。これは彼らのための研修なんですから、自力でやってもらうのが一番いい選択に決まっています。というより、そうしないと修行にならないでしょう?」

 山辺は納得したようにうなずいてから、装着していた作業用のグローブを脱いだ。額の汗を腕で拭う。

「先生も、また意地の悪い選択ばかりする人ですねえ」

 と、幾分気持ちを解した口調で言った。瀧本もいくらかその調子に合わせて言った。

「ここにいるダチョウたちは厳密に言えば、野性とは違います。それでも性質の荒さや、身体の大きさを考慮すれば十分、野性を扱うだけのタフさを身に付けることができます。精神的な意味では、もっと大きいものが得られるはずでしょう。僕は、そこにこそ注目しているんです」

 小鈴は、まだ出ていけないでいる。矢庭と赤坂に押さえこまれているダチョウが巻き返しに掛かってきた。すぐれた脚力が発揮された屈伸。矢庭たち二名は振り回されて、ダチョウに引き摺られる形となった。しつこく身体に食らいついて粘りを見せていたが、赤坂が手放した途端、矢庭も観念して手を離すこととなった。

「怖れていたら、何もできない。傷ついていいぐらいの気持ちでいこう」

 矢庭が小鈴の説得に入った。彼女は、自分のせいで一羽を取り逃がしてしまったことの自責に襲われているようだった。目がややうつろぎみでいる。

 チームによる、再々トライがはじまった。

 何を思ったのか、矢庭が今度に目をつけたのは一際身体が大きい、ダチョウだった。コツを掴んだらしく、背後をすぐに取った。格闘に入る。分の悪い闘いだったが、赤坂が加わることで五分となった。泥仕合模様だ。小鈴がチャンス到来をうかがっている。決してタイミングがいいとは言えない早い段階で、彼女は飛び込んだ。

「よし、いいぞ。その調子だ」

 矢庭が激励を口にして、彼女の勇気ある行動を歓迎する。それに勢いづけられたのか、小鈴の動きにさらなる力が入った。

「お願いだから、大人しくしてっ」

 ダチョウの頭部めがけて目隠しを投げこみ、懸命に押さえこみに入る。まだ光が目許に残っているらしく、ダチョウは抵抗の限りを尽くす。

「その調子だ、小鈴さん。一気に、いくんだっ」

 瀧本も思わず熱の籠もった応援を飛ばしてしまう。

 小鈴のさらなる畳み掛けが始まった。どこにそんな力を隠していたのかというような、大胆な攻勢。蠕動する首を力一杯押さえつけている。やがて、光のシャットアウトが完成したようで、ダチョウの動きがぴたりと止まった。

 完全掌握――

 三人のうちに歓声が上がった。

 いつしか顔に泥が付着していた小鈴は、半泣きでいたが、それは歓迎すべき感情のはずだった。瀧本は優しくその様を見守っていた。

「先生、とうとうやってくれたようで」

 山辺が言った。

「ちょっとばかし時間がかかり過ぎましたね。ですが、これで猛禽類たちの実習もなんとかやってくれそうですよ。とくに彼女については、保定者になってもらおうかと今、考えています」

「保定者といいますのは、あれですか? 手術する際に、患者を押さえこむ役のことでしたか?」

「そうですね、猛禽類が相手の場合、特に危険な仕事ですよ。オオワシなんかは、特に鋭い爪を持っていますからね、ことさら厄介です。あいつの握力はいくらあるか御存じですか? 身体の大きさに寄りますでしょうが、優に百キロを超えるんです。レスラー並です。

その腕に一度でも掴まれたら最後ですよ。爪が手をえぐります」

「その役を、彼女に任せていいのですか? 女性ですよ?」

「オオワシという生き物はこちらの性別など、いちいち判定しませんよ。野性ですからね、すべて行動や判断は自分本位です。だいたい、これぐらいのことで腰が引けていたら、救護の仕事なんてできませんから。恐れを飛び越えていく勇気、これだって大事なものなのです。なければ、当然、うちらの世界でやっていくことなどできません」

「まあ、そうでしょうがね……」

 と、山辺は納得いかなさそうに言葉尻を濁す。それから瀧本の手を気に掛けた。

「そういえば、先生の手も、ひどい傷負っていましたね」

「これは、まあ軽傷な方ですよ。下手をすれば、静脈をざっくりやられて重傷なんてことにもなりかねません。とにかく、僕らがやっているのは、どんな時も油断ができない仕事なんですよ。これは心構えの問題でもあります。彼女にしたってその道を求める限り、こうした精神を養ってもらうのは絶対でしょうから、そのためにも心を鬼にしなければいけません。保定の役を授けるのは、彼女のためを思えばこそ、必要なことなのです」

 瀧本は癖のようにひとしきり傷痕を撫でた後、小鈴を見た。一皮剥けた彼女の顔は、なんだか自分よりもスケールが大きく見えて仕方がない。

「よく命を守る仕事なんて言われますけれどね、僕からすれば、そんなつもりなんてないですね。むしろ、こっちの命と言いますか、安全を守りながらやってますから、仕事するときは一対一ですよ。相手が人か野生の動物かなんていうのは、あんまり関係がありません。ほんの少しでも奢りを持った瞬間、僕は静脈を抉られると思ってます」

 瀧本は山辺に向かってにんまりと微笑みかけた。彼は、どういう反応をしていいのか戸惑った顔で、目をきょろきょろさせていた。

「傷はないほうがいいに決まっています。だから、彼らは一片たりとも傷つけさせませんよ。すべてにおいて、安全が第一でやっていくのは当然です。しつこいようですが、もちろんのこと、それは僕自身にも言えることです」

 また刻印がつけられるようなことがあったら、その時は、すでに獣医師として再起不能なところにまで追いやられることだろう。そうなった時は決して、恨みがましいことは言えない。相手は野生動物で、すべてが正直に行動しているからこそ、裏などどこにもないからだ。その素質がなかったのだと諦めるより仕方がない。

 怪我を負って以来、自分は長いこと事故なしに、健全にやれている。

 少しは、人としてのエゴが取れてきたためだろうか。いや、そうだと思った時点で、それもまたエゴになりそうだ。こうしたことは、最後まで無事にやり遂げて初めて言えることに違いない。

 瀧本は大きく息を吸い込んでから研修生たちに向かい合った。

「これで終わりじゃないよ、君たち! まだまだ残っているのがいる。だから、どんどんやって行こう!」

 

 

 

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