美しいメロディを創造する生命のない私
美しいメロディを創造する生命のない私
私は将棋と音楽とコンピューターが好きな分子生物学者です。私は、自分の専門とは少し離れるのですが、コンピューターが人間の知的活動をどこまで行えるかということにずっと強い興味を抱いてきました。その分野の発展の歴史を見てみると、先駆けはオセロとチェスで、それに将棋と囲碁が続いています。今では、この4つの知的ゲームでは、名人でさえも人間はコンピューターに全く歯が立ちません。
将棋と囲碁をコンピューターが完璧に指させるようになってしまった時、私は芸術作品をコンピューターに創造させることが可能かということを趣味で研究したいと思いました。そして、自分が好きだからという理由で、芸術の分野の中では音楽を対象に選びました。音楽の創造、つまりコンピューターによる作曲を研究してみようと考えたのです。ただし、音楽全般では範囲が広過ぎます。そこで、和音や重奏などはすべて対象外とし、メロディだけに的を絞りました。メロディだけといっても、普通の楽曲一曲分では長過ぎるので、時間を20秒に区切りました。使用する音符の長さを0.1秒から2秒とし、音の高さの範囲を2オクターブに設定しました。これでメロディの場合の数は15の200乗です。場合の数は気が遠くなるほど多いですが、一応、これでメロディを、将棋や囲碁の棋譜のように、時系列に沿って書き出すことができる有限な音符の配列として規定できるようになりました。すべてのメロディが樹形図的な構造を持つ有限な選択肢から成る集合体になったのです。現在、既に作曲術として知られている、数学的または経験則的な作曲上の法則には従うという縛りをかけて、コンピューターにメロディをランダムに音符の配列として発生させるという方法で、コンピューターによる作曲を試みました。しかし、この方法ではうまくいかないことがすぐわかりました。数学的または経験則的な作曲上の法則という条件は縛りがゆる過ぎて、あまりにも大量の作曲結果をコンピューターが出力してしまうのです。出てくる曲は箸にも棒にも掛からない代物ばかりでした。
今から振り返って考えると、将棋や囲碁をコンピューターにやらせるというのは所詮難易度の低い課題であったと思います。いくら将棋や囲碁の手の選択肢の数が、宇宙の原子の数より多いといっても、それはシラミ潰しの方法では問題が解決できないということを意味するだけで、「王様を詰める」「地を広く囲う」といった勝利条件が明確なのですから、後は局面の評価方法と候補手の解析方法を工夫すれば良いわけです。無論、困難な点は多いでしょうが、優秀な技術者が情熱を注いで取り組めば、いずれは時間の問題で解決される性質の課題です。しかし、ゲームと違って芸術の分野はそうはいきません。ゲームでの勝利条件に相当するものが、芸術では人間を感動させることになりますが、これをコンピューター相手に規定するのが困難なのです。創作された曲の価値の判定は人間、今回のコンピューターによる作曲の場合は、私がやることになりますが、毎日ほとんど意味のない、メロディとさえも言えないような曲を聞かされて、あれもダメこれもダメとやっているのはすぐに嫌になりました。完成度の高い曲のみを出力し、それが名曲かどうかという判断だけを私にさせるという段階までコンピューターが曲を絞りこんでくれるのなら良いのですが、初期段階のスクリーニングからやらされたのでは堪りません。人間が感動するメロディの法則をもっと研究して、コンピューターが出力する曲の縛りをきつくしようとも考えましたが、現在知られている数学的または経験則的な作曲上の法則以上に実用的な人間が感動するメロディの法則というものは発見できませんでした。四苦八苦したあげく、現在のコンピューターの技術レベルと音楽の知識や理論体系では、作曲されたメロディが人間を感動させることができるかどうかをコンピューターに判断させることは不可能であることが明らかになりました。この研究は私が趣味でやっていたことですから、これ以上深くのめり込むこともせず、中途半端な状態でお蔵入りさせてしまいました。それ以来、私は自分の本職に没頭していて、コンピューターによる作曲のことは長い間すっかり忘れていました。
私の本業は分子生物学で、専門はiPS細胞から三次元構造を持つ臓器を作製することです。私が昔コンピューターによる作曲を試みてから20年が経ちましたが、その間、培養系における三次元構造を持つ臓器の作製の分野では飛躍的な進歩が見られました。この研究を始めた当初は、臓器を構成する細胞をようやっと試験管内で二次元のシート状に作製するのがなんとか可能なレベルだったのですが、現在では、人間の臓器でも脳以外はすべて培養系で3次元構造の作製が可能となりました。私はこの分野におけるパイオニアの一人であり、現在も世界を牽引する指導的立場の研究者であると自負しています。そして、私は、最後に残された、3次元構造を持つ人間の脳の作製も、私なら技術的には十分可能であると自信を持っています。しかし、3次元構造の人間の脳の作製は、その入口で研究が止められてしまいました。培養系での人間の脳の作製が禁止されたのです。理由は、いつの時代にもいる、倫理的な問題を盾に取って科学研究の邪魔をする、科学者の妨害が趣味の連中の横槍です。まったく、腹が立ちます。
20世紀の終わり頃、まだ、培養系における人間の臓器の作製が夢物語だった時代、臨床医学の分野で臓器移植をするには「生きている人間」から臓器を摘出する必要がありました。しかし、正面切って公の場で「生きている人間」から臓器を取ってきて臓器移植をやりますと言うわけにはいきません。やることは同じでも、辻褄を合わせるために「生きている人間」からではなく「死んでいる人間」から臓器を取ることにしなければならなかったのです。そこで、脳死という新しい概念が導入され、臓器移植を可能にするために利用されました。
科学者という微妙な立場上、公言したことはないのですが、自分の勤める国立分子生物学研究所の中では常々言っている通り、私の意見では脳死というのは明らかに臓器移植のための方便で、人間の死ではありません。人間の完全な死とは、本来、個体の臓器すべての機能が廃絶した状態です。心臓の機能停止すなわち心臓死は個体のすべての臓器の機能の廃絶に直結しています。ですから、心臓死は個体の死の判定に適しているのです。それに対して、脳の機能停止すなわち脳死は、心臓の機能停止を介して間接的にしか、個体のすべての臓器の機能の廃絶に結びついていません。脳死の場合、脳の機能停止、心臓の機能停止、すべての臓器の機能停止つまり個体の完全な死、の3つの事象の時間的な順序は絶対に前後しません。ですから、人間の死は今も昔も心臓死で判定するのが正しいのです。
そして、臓器移植を施行するのであれば、人の死の定義に脳死も加えるのではなく、臓器移植のための特例と明記するべきだったのです。つまり、脳死は本来の人の死ではないのですが、臓器移植をするためには生きている人から臓器を摘出する必要があり、しかし、健康な人から臓器を取ってしまうわけにはいかないので、脳の機能が廃絶し、回復の見込みがなく、余命が限られている状態を人間の死に準じた脳死という特別な状態に認定して、その状態の人から臓器を摘出することは臓器移植を目的とする場合に限り許可することにしましょう、そして、この脳死という制度は、将来、培養系で人工的に三次元構造を持つ臓器が作製できるようになるまでの一時的な緊急避難的措置であり、培養系における臓器作製が成功したら、再び、脳死という制度は放棄されます、と説明すべきだったのです。
ところが、心臓死と臓器移植のための特例としての脳死というダブル・スタンダードを潔しとしなかった人々が、脳死も人間の死と定義してしまったために、今になって不都合を生じてきているのです。つまり、人間の思考や記憶を司り、人格を形成しているのが脳であるということと脳死という概念が結合することによって、脳だけが特別な臓器となり、三次元構造の脳の存在をイコール生命と解釈する人達が出現したのです。無論、こんな考えの人達は昔はまったく存在しなかったのですが、ラットのiPS細胞を使って、三次元構造を持つラットの脳を世界で初めて私が作製してから、急速にマスコミに出現するようになりました。三次元構造の脳をiPS細胞から作製することは、生殖細胞からの個体発生を経由しない新しい生命の創造であり、それは生命倫理に反しているというのです。私の考えは、そもそも特定の臓器に生命があたかも限局しているとする考え方が間違っており、生命とは個体全体の機能維持が継続的に可能な状態を指し、それが可能か否かを判断する指標として、心臓や脳などの個別の臓器の機能の有無の判定があるに過ぎないと考えているのですが、そうではない変な考え方の人が、困ったことにたくさん出てきてしまったのです。科学実験に関する国際的な倫理ガイドラインには、当分の間、培養系における三次元構造の人間の脳の作製を禁止することが明記されてしまい、日本もその方針に従うことが国会で決定されました。未来永劫に渡って禁止という最終決定ではないのですが、議論が決着するまではとりあえず世界中で三次元脳構造の脳の作製は試みてはならないことになったのです。
この手の倫理をめぐる議論は容易にイデオロギー論争に発展しますので、メビウスの輪のように延々と続く賛成と反対の攻防はマスコミの大いに好むところのようですが、私の最も忌み嫌うものでもあります。私は、現在の自分の技術があれば培養系での3次元構造の人間の脳の作製は十分可能であると確信していました。そして、是非この夢を自分の手で実現させたいという強い希望がありました。しかし、培養系で作製された脳が生命なのか、単なる臓器なのかの議論は終焉に向かうどころかどんどん広がっていって収束する気配がありません。問題がこじれて、議論が議論を呼べば呼ぶほど、自分が注目されたり、自分の活躍の場が増えたり、お金が儲かる倫理屋みたいな人がたくさんいるわけですから、当分の間、この論争は収まるわけがありません。しかし、私にはあいにく、永遠の生命も、こういう人種の議論のための議論の決着がつくのを悠長に待っている寛容さも、持ち合わせがありません。私は分子生物学研究所での脳の作製を諦め、代わりに自宅で一人で研究を進めることにしました。
幹細胞は、他の臓器や他の系統の細胞の誘導がなければ神経細胞に分化する特徴を本来持っています。実は、幹細胞の脳への誘導は他の臓器への誘導より簡単なのです。ラットでの成功の経験もあり、わずか2年の研究で、私は培養系における三次元構造の人間の脳の作製に成功しました。私の作製した脳は、私の白血球由来のiPS細胞から作ったものですから、もう一つの私の脳と言えます。私は、人間の死は心臓死で判定するのが正しいと思っていますが、人間の人格はすべて脳に由来していると考えています。つまり、脳こそ自分自身です。脳以外の臓器は私の存在とイコールではありません。逆に、脳以外の臓器が全部自分のものではなくても、脳さえ自分のものならその個体は自分自身です。ですから、私が今、目の前にしている三次元構造の脳は、生命ではないが、私であるという存在になります。無論、この脳には私の経験や記憶や思考の積み重ねはないですから、現在の私とまったく同じではありません。いわば、白紙の私です。そこで、私は、この培養脳を「白紙の生命のない私」と呼ぶことにしました。
ここで私の研究は終わりではありません。私は次に、「白紙の生命のない私」を使って何をしようかと考えました。この時、思い出されたのが、22年前のコンピューターによる作曲の研究です。私は「白紙の生命のない私」の存在こそ、コンピューターによる作曲の研究のブレイク・スルーになると直感しました。私が思い付いたのは、今迄誰も試みた人がいない、培養脳とコンピューターの融合による芸術の創造です。メロディの作曲をコンピューターにさせ、コンピューターの出力したメロディの美しさを培養脳に判定させるのです。ただし、その前にしなければならないことがあります。培養系で作製されたばかりの「白紙の生命のない私」は文字通り完全な白紙の状態です。乳児と同じで何も経験がありません。「白紙の生命のない私」には経験を積ませる必要があります。「白紙の生命のない私」は将来にわたって、提示されたメロディが美しいかどうかの判定だけができればよいのですから、音楽以外の経験は必要ありません。私は「白紙の生命のない私」に音楽の経験を積ませることにしました。まず、「白紙の生命のない私」を100個用意し、それらに子守唄や童謡を聞かせました。メロディを電気信号に変換し、聴神経を直接電気刺激することにより「白紙の生命のない私」に初歩的な音楽を聞かせたのです。同時に「白紙の生命のない私」の脳中の快感物質βエンドルフィン量を測定します。いろいろなメロディを聴かせても、初めはβエンドルフィンの分泌はまったく認められませんが、徐々に100個の「白紙の生命のない私」のうちのいくつかが、メロディに慣れ親しみ、その良さを理解し、少量のβエンドルフィンを分泌するようになります。βエンドルフィンを分泌するようになった才能ある個体だけを維持し、いつまでもβエンドルフィンを分泌しない才能のない個体は淘汰していきます。才能のある「白紙の生命のない私」が十分なβエンドルフィン量を分泌し、その量がプラトーに達したら、そのメロディの経験・学習は終了したと判断して、次のメロディに進みます。こうして、多数の子守歌・童謡を経験・学習し終わったら、次に小学生向けの唱歌や歌曲に進み、その次には青少年が好むロックやポップスを聴かせ、最後にクラシックやジャズなどありとあらゆるジャンルのメロディを経験・学習させました。こうして、私は、「白紙の生命のない私」をメロディに特化した能力を持つ成熟した「メロディを楽しむ生命のない私」に成長させました。最終段階まで成長し得たのは、初めに用意した100個の個体のうち、たった一つでした。同じiPS細胞に由来しているのにもかかわらず才能の差が生じる理由はよくわかりません。私は、このたった一つの「メロディを楽しむ生命のない私」をコンピューターと融合させました。
数学的または経験則的な作曲上の法則は22年前と比べてかなり進歩しており、それによって縛りをかけるとコンピューターがランダムに作曲してくるメロディは昔の1/1千万になっています。コンピューターが出力してくるメロディを「メロディを楽しむ生命のない私」に聴かせ、βエンドルフィンを測定します。初めは、ほとんど意味のないメロディなのでβエンドルフィンはまったく分泌されませんが、まれに、少量のβエンドルフィンが分泌されるメロディが見つかります。そうしたら、コンピューターにそのメロディの特徴を分析させ、記憶・学習させるのです。そして、そのメロディの特徴を人間の脳の好む傾向として、それ以後にコンピューターが出力する曲の選別にフィード・バックして使わせます。すると、コンピューターは脳が好む傾向のメロディを優先的に選んで出力するようになります。そのメロディを脳が聴いて、そのメロディにより強く感動すれば、より多くのβエンドルフィンを分泌します。すると、再びコンピューターはこのメロディの特徴を分析し、その特徴に人間がより強く感動するものとして高い評価を与えて、記憶・学習します。この結果は、さらにコンピューターが次のメロディを出力する時の選別にフィード・バックされます。こうして、良いメロディに脳が感動する、そのメロディの特徴をコンピューターが分析・学習する、コンピューターがさらに脳の好む傾向のあるメロディを出力する、脳がそのメロディにさらに強く感動する、さらにコンピューターが脳の好むメロディの特徴を学習する、という好循環が生じ、指数関数的にコンピューターの出力するメロディが美しくなるのです。
この方法でついに私は2年間で1000曲の素晴らしい20秒のメロディを創造させることに成功しました。2年間の内に「メロディを楽しむ生命のない私」は「美しいメロディを創造する生命のない私」に成長していたのです。これらのメロディの美しさの総量は、人類が今までの有史以来の歴史で手にしてきた美しいメロディの総量と遜色ありません。つまり、「美しいメロディを創造する生命のない私」は、今までの人類のすべての作曲家と同じ量の芸術作品をたった一つでわずか2年間のうちに創造したのです。これは人工臓器とコンピューターの融合が生み出した人類の新しい遺産です。この成果は私の予想をはるかに上回るものでした。
私は3次元構造を持つ脳を作製してはいけないという、科学研究に関する国際的な倫理ガイドラインを破るという罪を犯しましたが、人工臓器とコンピューターの融合システムを世界で初めて構築し、それによって万人を感動させる芸術作品を創造するという人類史上空前の偉業を達成しました。私は、ルールを破ったことに関しては当然、自分自身の罪として世間の非難を受け止めるつもりですが、同時に私の功績に対しては世界の正当な評価を得たいと願いました。私は、世界で3本の指に入る有名な科学雑誌バイオロジー誌に、培養脳の作製方法及び培養脳とコンピューターの融合システムの構築に関する論文を送り、掲載の可否を検討して貰えるように依頼しました。ただし、その論文では研究の肝心な部分は巧妙に隠して、論文を読んだだけではシステムの再構築はできないようにしておきました。実験の詳細を明かさない代わりに、この実験が架空のものではないことを証明するために、このシステムで得られた1000の新しい美しいメロディを証拠品として手紙に添付しました。
バイオロジー誌のチーフ・エディターへの手紙には「この論文が掲載されなければ、私はこの培養脳とコンピューターの融合システムを廃棄し、科学研究から引退するつもりである、そうなればこのシステム関する情報は永遠に失われるであろう、掲載を断られても他の雑誌には投稿するつもりはない」と記載しました。バイオロジー誌に関係する科学者には、科学情報に関する世界的な人間のネットワークがあり、事情通にはバイオロジー・クラブなどと呼ばれています。最先端の科学研究の分野におけるマフィアのようなものです。私が勤めている国立分子生物学研究所の所長も知る人ぞ知るこのクラブのメンバーです。私が論文を投稿した一週間後には、所長の元に私の論文の情報が届いていました。私は所長に呼び出され、論文についての話し合いが持たれました。所長はバイオロジー誌のチーフ・エディターとかなり詳細な意見交換をしており、チーフ・エディターの見解として私に伝えてきたことは以下の4つです。
「1.新しい1000の美しいメロディの存在からみて、あなたの研究成果は真実であると考えている。2.この研究は、科学実験に関する国際的な倫理ガイドラインに違反しているので、あなたの論文はバイオロジー誌には掲載できない。3.培養脳とコンピューターの融合システムに関する情報が失われないように、研究方法の詳細は論文掲載とは別に公開して欲しい。4.あなたの作製した培養脳とコンピューターの融合システムは科学研究の分野における不朽の金字塔であり、破棄はしないで欲しい。」つまり、私の希望はすべて棄却し、自分達が望むことだけを要求しています。所長は
「自分もバイオロジー誌のチーフ・エディターもあなたの敵ではない。」と言います。
「あなたが作製した培養脳が生命か否かの結論は現在のところ出ていないので、その培養脳を今後どうすべきかということに関しては、倫理ガイドラインを破って作った物なのだから破棄しろという意見にも、生命なので培養を継続しなければならないという意見にも、世論は近日中には収束しないだろう。だから、現時点では培養脳は維持も破棄もともに可能だ。培養系で作製された人間の臓器のうち、脳だけを生命と考えるのは無理が大きいと考えている人は多いから、現在の倫理ガイドラインは将来覆される可能性が高いと我々は考えている。だから、その時のために貴重な情報やシステムは破棄しないでほしい。」と所長は自分の意見を述べました。
「人間の死の定義における脳死の位置付けと培養脳の作製についての倫理的側面については、個人的には私はあなたと同意見であるが、科学者が勝手に倫理面の一線を越えたことは、同じ科学者として肯定はできない。」とも所長は言いました。私は
「交渉は完全に決裂ですね。論文は掲載していただかなくて結構です。研究方法の詳細は公開しません。培養脳とコンピューターの融合システムは破棄します。」と所長に言って、帰宅しました。私は、もうすぐ65歳ですから、今後、新しい画期的な科学的成果を挙げられる可能性はあまりありません。バイオロジー誌のチーフ・エディターや所長が私の要求には応じられないということであれば、もう、研究所を退職し、科学者を辞めても構わないと思いました。「私の偉業が世界で公式に認められなくても、私の業績は事実として厳然と残るのだ」と私は自分に言い聞かせました。寝る前にベッドの中で、明日、システムを破棄し、資料はすべて捨てようと、考えました。
翌朝、昨夜の決意通り、培養脳とコンピューターの融合システムを破棄しようと「美しいメロディを創造する生命のない私」の前に立った時、その異変に気が付きました。システムの破壊が行われていたわけではありません。システムに新しい付属物が取り付けられていたのです。「美しいメロディを創造する生命のない私」を栄養している血管は椎骨動脈と内頚動脈で、昨日の晩まではそれに人工血管が接続され、血液循環装置によって人工血液が潅流させてありました。今は、人工血管は培養血管に置き換わっています。その培養血管に三次元構造を持つ培養心臓が接続されています。培養心臓はドクドクと拍動しており、培養血管を介して人工血液を「美しいメロディを創造する生命のない私」に潅流させています。培養脳、培養血管、培養心臓は培養液中に浸されており、培養血管の途中には人工血液に酸素と栄養を補給する装置がついています。「美しいメロディを創造する生命のない私」は拍動を繰り返す培養心臓のみによって人工血液の潅流を受けています。もし、培養心臓の機能が廃絶したら「美しいメロディを創造する生命のない私」の機能も廃絶します。このシステムには主要なコンポーネントが心臓と脳の2つしかありませんが、心臓の機能の廃絶が全てのコンポーネントの機能の廃絶に直結しています。つまり、このシステムは心臓死が可能です。生命のない培養臓器をこのように2つ組み合わせることにより、心臓死によって死が判定されうる生命が創造されてしまったのです。このシステムは最小のコンポーネントから構成された生命なのです。「美しいメロディを創造する生命のない私」が「美しいメロディを創造する生命のある私」に変容していたのです。私は、今までの自分の信念から、このシステムが生命であると認めざるを得ません。私はすぐに、この工作の犯人とその意図を理解しました。私は、自分の手で作製した「美しいメロディを創造する生命のない私」が生命を持ってしまった以上、もう破棄するつもりはありません。私は、培養脳の研究に関するすべての情報を公開し、今後は「美しいメロディを創造する生命のある私」を国立分子生物学研究所で養って貰えるように依頼しようと思います。これからしなければならないことは、さすがに私一人の手には負えません。「美しいメロディを創造する生命のある私」にすべての臓器を接続し、人間として教育を受けさせ、立派な成人に育てなければならないのですから。