快楽の都編01
浮わついたざわめきが市中に満ちている。
年の終わりが近付くと、この街はいつもそうだ。
さまざまな人種の人々が街路を歩き、酒を飲み、煙草を吸い、串に刺した焼肉やら魚やらを頬張る。
通りには、香木や香草の芳しい匂いが漂い酔いそうな空気をさらに惑わせる。
店の若い娘は、馴染みの客をーー時にはそうでない客もーー誘い、酒を振る舞う。
香りに満ちた煙が街を覆い、天より照らす太陽の光を遮り、を薄暗くさせる。
その怪しい陰影が、さらにこの街をざわめかせるのだった。
モーレリア王国の首都モーレリアント。
人はこの街を“快楽の都”と呼ぶ。
そのざわめく雑踏を一人の青年が歩いている。
コレセントで止められた冬の息吹は、この街になんの痛痒ももたらさず、湿気の多い空気は淀んだように動かない。
二十代前半。
中肉中背、長い黒髪を赤い紐で束ね背に垂らす。
やや焼けた肌は、長い旅路を感じさせる。
笑みの浮かんだその顔から、内心は読めない。
形のよい唇が開き、声を出す。
「さて。モーレリアまで来たはいいがどうするか」
誰に問うでもない。
その答えも必要ではなさそうだった。
しかし、お節介な者はいる。
淀む快楽の都なら、なおさら。
「あら、お兄さん。お暇ならウチの店に来ない?」
青年はニコリと笑う。
「こんな昼間からかい?」
「飲むのに時間が関係あるのかしら?」
声をかけた女は、艶然と笑う。
長い髪は、金に染められ深紅のかんざしがそれを彩る。
肩口まではだけた衣装は、東方のキモノ。
かんざしと同じ深紅。
白い手は指が長く、艶かしくこちらを誘う。
並の男なら、それだけで夢心地になるだろう。
「そりゃそうだ」
青年は笑みを浮かべたまま、女についていく。
薄暗い店の中で、青年は顔をしかめた。
壁際で震えているのはさっきの女。
青ざめた顔で、青年を見ている。
椅子やテーブルが散乱する店内、それにまぎれて幾人かのいかつい男がのびていた。
「ずいぶんと安い酒だ」
口にした杯の中身が顔をしかめた原因らしい。
酒のボトルには“デヴァインシャトー979”とラベルが貼られている。
「デヴァインシャトーの979年はね。原料の葡萄が最高に出来がよかった。だから、最高の葡萄酒ができたんだよ。いわゆる当たり年ってやつだ」
青年はボトルの中身を床にぶちまけながら、女に近付く。
女は後退りするも、後ろは壁。
その顔が恐怖に歪む。
「いくら、ここが悪いお店だからと言っても、本物の一つも置いてもらわないと。ガッカリだよ」
青年は空になったボトルを振り上げる。
青年が店に入ると、葡萄酒が出された。
ボトルにはデヴァインシャトー979のラベル。
青年は喜んで飲んだら、もちろん偽物。
はじめは本物を出してくれ、と優しく言ったら、ウチの酒に文句があるのかと、いかつい男が五人。
イラッときたので、腰のレイピアも抜かずに叩きのめし、改めて文句を言い、女に近付く。
今ここ。
降り下ろしたボトルは女の頭上で止まる。
「次はあなたも見逃しませんよ?」
そう言い残して、青年は店を出た。
店の外はまだ日が高く、淀んだ空気を透かして陽光は届いていた。
明順応できず、目を細めた青年の視界に男がうつりこんだ。
笑う口元には、整えられた口髭。
仕立てのよい服。
三十代から四十代の男。
「いやあ、ずいぶんと大げさにやってもらいましたねえ」
自分のほうが大げさなジェスチャーで、男は近寄る。
「あなた誰です」
「ロデオ・ビスカイオ。モーレリアント衛兵団のものです」
どうみても、ロデオと名乗る男は衛兵には見えなかった。
「衛兵団には見えませんが?」
「あはは、よく言われますよ」
青年の知る衛兵とは、揃いの鎧や制服を身に付けた仏頂面の強面というものだ。
衛兵にもいろいろあるだろうが、おおよそのイメージはそんなところだ。
そのイメージから大きく外れたロデオだったが、青年はモーレリアントならさもありなんと、納得した。
「それで、何の用です?」
「いやね。注意というか、警告というか。あなた、やり過ぎた」
「そう、かな?」
「立場上詳しいことはいえんが、夜道に気を付けなってことさな」
ロデオは笑ったまま、そう言った。
「夜間の外出は控えますよ」
「そうしてくれ。ああ、そうだ」
と、ロデオは青年の顔をじっと見た。
そして、尋ねる。
「あんたの名は?」
青年は笑う。
「ベスパーラ、です」
「覚えておこう」
あんたが死ぬまでは、とロデオは言い残して去っていった。
元グラールホールド神殿騎士。
元ガッジール騎士。
今は、放浪の冒険者。
ベスパーラ。
ガッジールを出たあとは、各地を放浪していた。
強くなるには限界がある、と薄々気付いていながらも。
そんなときに、彼を放浪の旅に追いやる原因となった男が現れたのだ。
「久しぶりだな」
「相変わらず真っ黒ですね。鎧も腹も」
元気そうだな、と兜の中で黒騎士は笑う。
誰にも知られずに修行するために選んだ大陸南西部の丘陵地帯、狼の上顎と呼ばれる場所に黒騎士はやってきた。
もちろん、ベスパーラに会うためだろう。
「また、戦いますか?」
「今のあんたじゃあ、足りない」
「では、何をしに?」
「強くなるための場所を用意してある」
兜の中の顔が、ニヤリと笑っていると確信する。
「余計なお世話と、言ったら?」
「今のあんたは言わないぜ?」
見抜かれていた。
強くなるための場所、といわれて揺らいだ心が。
素直に頷くのもなんだか見透かされているようで、ベスパーラは強がりを口にする。
「強くなっても、貴公と戦うくらいが関の山。意味などない」
みたいなことを言った。
「意味はある。一人でも多くの戦士が必要だ」
その黒騎士の言葉にベスパーラは引き込まれた。
そして、続く言葉にも。
曰く。
古代に封印された魔王が蘇る。
それを早めるべく、十人の魔王の手下ーーミニオンーーが暗躍しており、彼らを止める力を持つ戦士が必要だ。
決戦を約一年後に控えている。
「乗るか?」
私の才など、よくて上の下。
そこまで、ベスパーラは見切りをつけていた。
目の前のこの男は、どう控えめにみても上の上を一歩超えている。
普段ならば、黒騎士に自分が必要とされることはないであろう。
自分が必要ないと、自分で認めるのは悔しかった。
だが、どこかで安堵している自分がいる。
しかし、今の黒騎士は必要としている。
これは良くない兆候だと、ベスパーラは考える。
必要とされることに喜びを感じている。
黒騎士の言葉に従えば、彼に依存してしまうだろう。
そうなる自分を予測できる。
必要とされないことに安堵せず。
必要とされることに依存せず。
独立独歩の自分でいる。
なかなかに難しいが、ベスパーラはそれがベストと考える。
そこまでの思考を踏まえて、ベスパーラは答えた。
「乗ろう」
と。
深謀遠慮はし過ぎて損はない。
特にこういう手合いには。
その考えてを見抜いたかどうかはわからないが、黒騎士は行き先を示した。
「快楽の都モーレリアントへ」
ベスパーラの目的が定まった出来事だった。




