1-2
遅くなってしまい、申し訳ございません。
私は親へ帰宅した事も告げず、地下にある薄汚い”棲家”へと逃げ込んだ。もし、今私が持っているコレが目に触れようものなら力ずくで奪われてしまうからだ。
天井付近の壁に備え付けられた通気口兼窓から射す光は、部屋を斜めに区切り、黒を白で縁取っている。
その光が射す終着点、粗末な木の机がある。そこへ木箱を置くと私は椅子へ腰掛けた。
これは何なんだろう、率直な意見が沸き上がる。一体どうして、こんなモノを押し付けられたのだろう、と。
「分からないし……」
帰路でも考えたものの答えは出なかった。ならばとっとと開けてしまって、すっきりしてしまおう。それに何時、没収されてしまうか分からない。
意を決して……と言うよりは仕方なく木箱を手に取る。どうやら蓋はただ嵌めてあるだけで、少し力を込めるだけで簡単に取れてしまうようだ。躊躇など無い、外してしまおう。
「あっ」
蓋を開けるや否や、大量の木屑が溢れ出した。それは掌をすり抜けて、床に小さな山を作るほどの量だ。後で綺麗にしないと怒られる……。
面倒を掛けてくれた木箱の中は、木屑が零れてかなり寂しくなってしまった。中に入っていたのは、小さな、手のひらに乗るほど小さな――ランプだった。
私の記憶が正しければ、コレは今では使う者が少なくなった、鳥の嘴のように細くなった口に灯心を差込んで明かりを得る照明器具。実際に用いるには少し小さい気がする。
「汚い……」
第一印象は、そのまま表面に浮いた黒い染みへの感想。赤錆のようにこびり付いたソレは、ランプを覆って本来の輝きを奪っている。
少し触ると、ボロボロと汚れが落ちた。また床へゴミが積もる。こうなったら、全て綺麗に剥がしてしまおう。後でまとめて掃除すればいいことだ。
お世辞にも綺麗とは言えない雑巾を、部屋の隅に置いてある桶から取り出す。もしこのランプが他人の物、ましてや自分の物だったら躊躇するが、そもそもこれは押し付けられた物だ。何も遠慮することはない。
「んっしょ」
一度目は差し口を。
「よいしょ」
二度目は取っ手を。
「どっこいしょ!」
三度目に、本体を拭ったときだった――
「ぐわっはっはっはっはっはっはーッ!!」
――耳を劈く高笑いが、衝撃波と共に部屋中に響き渡ったのは。
混乱。
爆音。
哄笑。
混乱。
衝撃。
火花。
粉塵。
眩暈。
混乱。
何が起きたのか分からないほど気が動転した私は、その精神状態を身体で表すようにひっくり返った。手に握っていたはずのランプは、もう無い。
チカチカと星が飛ぶ視界は白い霧と埃、そして蛍の揺らめきにも似た火花でまともに機能しない。ただ、聴覚は問題ない。それだけは確認できた。何故ならば、目の前の白闇から馬鹿ほど大きな声が聞こえてきたからだ。
「――ゥ我が名はぁ、アラバックル=ズィーン!! この地上最強の魔神なりッ!!」
太鼓と雷が意思を持ったなら、このような声になるのだろうか。野太く、猛々しく、荒々しい声は大気を震わせた。……比喩や誇張などではなく、実際に目の前の霧が声と共に波状に震えたのだ。
「フゥム……この霧は邪魔だ、消し飛べッ!!」
ズン、と腹に響く衝撃。それは私だけではなく部屋全体に広がり、目の前に広がっていた霧を全て壁へと”叩き付け”た。
「よし、これで見えるようになったな。……おぉ! 何ということだ! 我を呼び出したのがこんな貧相な小娘だなんてッ!!」
――それはまるで燃え盛る篝火のように。
――それはまるで鋼鉄製の彫像のように。
――それはまるで御伽噺の怪物のように。
悠々と綽々と、霧が晴れた部屋の中央に、声の主は居た。
肌の色は赤銅、髪は金。鍛え上げられた筋肉は節くれた木のように膨らみ、独特の威圧感を生み出している。全身をくまなく這い回る黒線は、何かの紋様の如き複雑さでとぐろを巻いており、何も身に付けていない体に一種の公共性を与えていた。
歯を剥き出しにして犬歯を露にするその顔は、額に僅かながら生えた角によって「鬼」を連想させるが、彼の表皮をうっすらと包む炎の層がその可能性を否定していた。
そう、彼は――燃えていた。まるでそれが当然だと言わんばかりに、衣服の代わりに炎の揺らめきを纏っていたのだ。火は、彼の下半身の……いわゆる、その、ソレをも包みこみ、火影へと滲ませていた。
しかし、何よりも驚いたのが、彼の両足だった。私はてっきり上半身と同じように逞しい双脚が其処にあると思っていた。だが、どうだろう。彼には両足が、無かった。
いや、実際には太腿あたりまでは存在する。問題はその先だ。膝に至る直前、脚は掻き消え、白い煙へと変わっている。その煙の赴く先は――そう、私の手放したランプの口だ。
「……あなた、誰?」
思っているよりも自分が冷静でいられるのは、現実が己の許容量を越えてしまったからか。
「おぉ、見た目だけではなく貧相なのはその頭蓋の中もであったとは!! 仕方ない、物覚えの悪い馬頭族の小娘よッ! 心して聞くが良い! 我が名は……」
目の前の大男のある一言、それが私の心を捉えた。
「待って! 今私の事を馬頭ぞ――むぐっ!?」
反射的に反応してしまい、言葉を遮ってしまった私を男は不愉快そうに睨み、燻る人差し指を宙で真横に引いた。それだけで、私の唇は張り付いてしまったように塞がれてしまった。
「むぅ……! 我が話している時に口を挟むな。我が名はアラバックル=ズィーン、世界最強の魔神だ。我との出会いを祝福しろ、お前は分不相応にも我に願いを叶えてもらえるのだからな」
「んー!!」
すごく、腹が立った。それでも、私が出来る事は目の前の”魔神”とやらを睨むことだけ。
(魔神なんて……小説でもあるまいし)
だが実際に、彼は不思議な力を持っている。精霊と交信する小鬼や火を吐く竜人は居るが、全身が炎に包まれている種族……それも、「魔法」にも似た力を使う種族なんて、私は知らない。
「良いか、これは決まりだ。我を呼び出した者は権利を与えられる。それは、”己の命と引き換えに三つの願いを叶えられる”というモノだ。良いか、覚えたか? 何度も言わせるなよ?」
地べたに座ったままの私。その私の額に人差し指を押し付けてくる彼に、私は頷いた。人差し指に宿る火は、くすぐったかった。
「命は全ての願いを叶えたらいただこう。しかし、一つでも願いを叶えたら一ヶ月以内に残りの願いも叶えなければならない。そうしなければ、一つだけでも命はいただく。我の力が必要無いのなら、手離せ」
またも頷く。
「よし、話す事を許可してやる。返答を、小娘」
そのまま燃える人差し指は私の唇をなぞり、束縛を解いた。……よし、目に物見せてやる。
ひどく腹の立っていた私は、何も顧みず、あっさりと己の命を懸ける覚悟をし、衝動的に言葉を発した。
「――私の質問には全て答えて。一切の例外なく、真実だけを、どんな事にでも。これは、”お願い”だから」
彼は、途端に不愉快さを露にした。
「…………ッ!? 貴様ァ! ただの小娘如きが偉そうに――ぐゥ!?」
ほんの一息で並べた言葉。その言葉だけで、目の前の彼は見えない縄で縛られてしまったように、苦しそうな呻き声を上げ始めた。すこし、気分が晴れた。
「どう? この願いは訊ける? “答えて”」
「だ……レがっ、我ッは誇、り高き魔ジン……! 我ヲ見、下ろす事は許サん、ぞ……ッ!」
立ち上がった私とは対照的に、”魔神”は床で膝立ちになって顔を歪めている。これでもかと吊り上げた口角からは涎にまみれた歯が鈍く光を放っていた。
きっと、彼は、誰かに無理やり従わされるのは極端なまでに嫌がる性格だ。そのうず高い自尊心から見て取れる。それは「願いを叶えてやる」という彼の言葉からも容易に想像できた。
しかし、様子を見ていると、どうにも彼自身の心の葛藤と言うよりは「何か」への抵抗のように見える。彼を従わせようとする「何か」……それが何なのかは定かでは無いが、私としては存分に苦しんでもらいたい。
ついには床に手をついてまで抵抗していた彼だったが、糸の切れた操り人形のように一度倒れ伏すと、心底悔しそうな顔で再び部屋の中空へ浮かび上がった。
「……分かった。その願い、叶えよう。我は小娘、お前からの質問には我が八紘の知識を以って答える。しかしこれで貴様の寿命も一月だ、大間抜け」
「そう……」
何故か、彼の声は優しさと哀しさに満たされていた。それは、私の心に痛痒を感じさせた。寿命があと一ヶ月となったことよりも、そちらの方が気になった。
「で、何だ小娘。何が訊きたい? お前が命を賭してまで聞きたい事は何だ? 魔術の真髄か、この世の果てにある風景か、それとも自我の在り処か?」
腕を組んだ彼は片目を閉じて投げやりに問うてくる。違う、私が訊きたいのはもっと単純な、そしてもっと大切な事だった。
「……何で、私が”馬頭族”だって分かったの?」
静かに、一語一語噛み締めながら吐き出した。
「……アァ? そんな事か? 全くッ、衆愚の考えることは何時になっても分からんなッ!! それはなァ」
身体が、心が、魂が震えだそうとしている。彼の言葉を、今か今かと待っている。命を懸けても手に入れたかった、ずっと恋焦がれていた答えにやっと手が届く。永遠とも思える時間の果てに、彼の唇が零した言葉は――
「――”そう”だからだ」
……え? 今、なんて?
「そうとしか言えん。そうだから、”そう”だ」
「待って、納得いかない! ちゃんと”答えて”!!」
食って掛かった私を、心底つまらなさそうに見下す彼。口を動かすのも面倒そうだが、契約が彼を従わせる。
「……人は生まれながらにして”運命”というモノと寄り添って生きる生物らしい。誰がそう決めたのか知らないが、そんな愚にもつかない考えが広まり、当然であるかのように受け入れられている。”神”という概念も然り。誰が創造したものかは知らないが、存在すると思われている」
突然、意味の分からない話を始めた彼であったが、今回は口を挟まない。
「では、”運命”や”神”を信仰する者に、実存について問うと、『ある』と平然と答える。理由を訊ねると怪訝な顔で『あるからだ』と答える。それでもしつこく問うと、『そうだからだ! そう決まっているからだ!』と唾を撒き散らしながら答える。これは、その者が”そう信じている”からこそ起きる、我とのすれ違いに過ぎない。我との価値観のズレが、このような認識の差異を引き起こしている。すなわち、我がいくら言葉を尽くして小娘に説明してやってもお前は言うだろう……『ちゃんと答えて』、となァ」
分かったような、分からないような。煙に巻かれたような。つまりこれは、『これ以上面倒だから訊くな』と釘を刺しているのだろう。興味なくそっぽを向いていることからそれが分かる。だが、それがどうした。私はずっと訊きたかったんだ、どんな手でも使って訊き出してやる。
「じゃあその、私と貴方に生じているズレって何? それが分かれば私にも理解できる? “答えて”」
魔神は頭を豪快に掻き毟り苦々しい顔をしているが、我慢してもらおう。
「ズレとは種族差、性差、知識の差だ。理解は……我がもっと話を噛み砕いてやれば恐らく可能だろう、クソッ」
どうやら契約とは存外に力が強いものらしく、悪態を吐いている事から嘘をついたりはぐらかす事も出来なくなっているようだ。
「じゃあ”答えて”。私が理解できるように、理解できるまで」
少々の笑みも加えて言ってやる。仕返しだ。
「調子に乗りおってェ……! 後で痛い目に遇うぞ!」
ついに両手で髪を掻き出し、火の粉を撒き散らし出した魔神。しかしそれでも、口は勝手に動き出した。
「例えば、だッ! 仲の悪い者同士、エルフとドワーフのように、忌み嫌っている二人の間には自ずと険悪な空気が生まれる。それは何故か、両者の関係も知らない者にも伝わるだろう、よほど感受性が低くなければ。その、”何となく”理解できる事。それが我に小娘が”馬頭族”である事を教えてくれた」
「じゃあ、確信があるわけでもなく、ただの直感でということ?」
飛び散る火の粉が降り注ぐが、不思議と熱さは感じない。
「確信はある、確定はしていないだけで」
何故か、肩から力が抜けてしまった。そして同時に、後悔も。
「何だ、魔神の割には大した事ない……」
思わず言葉が溜息と共に漏れた。これでは命を懸けるに値しない。そう思った時だった――私が彼に殴られたのは。
「ぎゃん!?」
鼻っ面を打たれて、目の奥から熱い物が込み上げてくる。再び床に座り込んだ私を、涙で歪んだ魔神が鬼の形相で睨んでいた。
(えっ、嘘? 何で!?)
まとまらない思考。垂れた鼻水が手を湿らす。反射的に、身体が動かなくなり、恐くて仕方がないのに彼の挙動を確認しようとしてしまう。
ギリッ、と歯が軋む音がした。彼が立てた音らしい。纏う火は部屋を埋め尽くすほど巨大な劫火と化していた。
「――貴様ァ! 簡単に己が決意を翻すなッ!! 今、お前が後悔したのが分かった、輝かしい決意が汚泥に沈むのが分かった。貴様の命とは、貴様の命とはァ! そんな安く軽いものだったのかッ!! 答えろ、小娘!!」
てっきり、仕返しだと思った。屈辱的な目に遭わされた仕返し。だがそれは、違かったようだ。
「そ、それは、貴方に、関係ない――ッ!?」
もう一発、殴られた。次は左頬。身体に触れる火の温度が、心なしか上がった気がした。
「大いに関係あるッ! 己が決意も貫けぬ、弱い魂などいるか!」
……そうだ、私はもう、あと一ヶ月しか生きられないのだ。何で私は、軽々しく、そんな契約を結んでしまったのだろう。
「フンッ、今さら後悔しても遅いッ! 契約は交わされてしまった、お前の手の甲を見てみろ。忌々しい蜥蜴の目が覗いておるわッ」
彼に言われ、口を覆っていた手を翻す。そこには、彼の言葉通り――睨め付ける、瑠璃色の瞳が。
「ひ……っ」
その手の甲には、傷口のように見開かれた眼球が蠢いていた。忙しなく視線を変えるソレは、私の顔を見ると、笑った――ような気がした。
「……魔術に触れた代償だ。小娘、お前はもう、後戻りは出来ない。お前の魂は、既にお前のモノではないのだ」
押し寄せる後悔。私は馬鹿だ、何を考えていたんだろう。
「…………やっぱり、ダメ」
「ンゥ? 何か言ったか?」
「ダメ! やっぱり命なんて懸けられない! お願いっ、無かったことに……」
情けなく、浅ましく懇願する私。涙が先ほどとは違う理由で流れ始める。しかし、魔神は慈悲無く容赦なく、
「心苦しいが、お前の魂はいただく。せめて、お前に残された一ヶ月が、納得できるものであることを」
それだけを言い残し、ランプの中へと消えてしまった。残されたのは、惨めで、貧相で、何も無い私だけだった。
次は頑張ります。