序章 怖いです。でもやります!
オリュムピア大陸最大の王国『エリュシオン』。
その西に位置する『パラディソス島』のほぼ中央。
そこにエリュシオン三大『綺晶魔導師』養成学宮(今で言う「学校」のこと)のひとつ、『リュケイオン』があった。
『綺晶魔導術』発祥地であり、同時にその養成学宮の発祥の地でもある。
正式名称は『アポロン・リュケイオン』。
太陽神であり、光の象徴とするアポロンを祭るこの学宮は、その学宮名にもアポロンの名を頂いている。
長い年月の中、『綺晶魔導師』は職業として、更に細分化され、医術、騎士、戦士、祭司、学者など。リュケイオンの後に作られた三大養成学宮のうち『キュノサルゲス』は騎士や戦士など、戦闘の専門家を養成する学宮として特化し、『アカデメイア』はこの3つの学宮の中で最大規模の面積と学徒数を誇り、全ての職種をカバーする養成コースを用意した、今や『綺晶魔導師』の聖地となっていた。
ならば『リュケイオン』は――。
『綺晶魔導師』の基本である『綺晶魔導術』を教え、『綺晶魔導師』のみを養成する基本の学宮として、今も存在していた。
が、役割が分かれ、世界はより細かい役割を求めるようになった現在。
『リュケイオン』はその指導自体が古いものと敬遠されるようになり、その学徒数は毎年減少していた。
そして『リュケイオン』の存在意義は――『綺晶魔導術』の研究施設としての意味に移りつつあった。
そんな中であった、とある青年と『天使』のお話――。
◇◇◇
「悪いね。休みの日にこんな手伝いまでさせて……」
シエルは師匠であるビルケの家庭農園で育った野菜の収穫を手伝うため、日曜日だったが、ビルケの家までやってきていた。
「いいえ。土に触っていると、とても落ち着きますから」
「……そんなに普段からストレスを溜めているのかね?君は……」
「はっ!?そういう意味では……」
「ははは。冗談だよ冗談。私も土いじりは大好きでね。特に手塩にかけて育てた野菜たちがこうして大きく育ってくれると、本当に嬉しいね。大事なわが子が立派に育ってくれたような感動を覚えるよ」
「そのわが子をこれから師匠はお食べになるんですね……」
「君も結構言うねぇ、シエル」
「す、すみません」
「あははは。冗談、冗談」
親子ほど――もしかすると、孫とも言える歳の差のシエルとビルケの会話は、普段からこんな調子だ。
弟子入りして1年ほど。時にはいい加減にしてほしいときもあるが、シエルはこのビルケに憧れて、『リュケイオン』に入学したのだ。
休みの日だろうが、こうして師匠として仰ぐ憧れの『綺晶魔導術』を研究する『綺晶専学師(博士)』の第一人者であるビルケの下で学べることが、シエルにとっては至福の時間であり、今の彼はもっとも充実していた。
「少し休憩されたらどうですか?」
ビルケの妻、サイネの声で、屈めていた腰をよいしょと上げ
「おう、そうだねぇ。今、そちらに行くよ」
とビルケは答えていた。
ビルケ夫婦には子供が居ない。
研究一筋に40過ぎまで独身を通したが、亡くなった親友の妻であったサイネの元を訪れるうちに、お互いを終生の伴侶と定めて結婚したのだという。それが53歳というから、現在61歳のビルケはまだ結婚生活8年というところか。
シエルからみれば、とてもお似合いのオシドリ夫婦だ。結婚年数はまったく関係なく、穏やかで理想の夫婦像と言える。
サイネは前の――ビルケの親友だったという旦那との間にも子供はいないそうで、こうしてシエルが時々尋ねてくれることをとても楽しみにしていた。
それはシエルにとっても嬉しいことで、第2の家とも言えるほど、親しくさせてもらっている。
「今焼きあがったの。よかったら食べて」
庭に置かれているガーデンテーブルの上には、美味しそうなパイと紅茶が用意されていた。
「うわぁぁ、おいしそう……」
シエルがあまりに嬉しそうなので、サイネは満足げに眺めていた。
「シエルがそう言ってくれるから、本当に嬉しいわ。どんどん食べてね。あなたは育ち盛りなんだから」
「サイネさん…僕はもう19になりますし…育ち盛りではぁ……」
「何言ってるの。先月身長が1センチ伸びたって喜んでいたじゃない。まだまだ伸びるわよ。どんどん遠慮しないで食べなさいっ」
「ありがとうございまーす」
シエルの身長は、一般男子の中では低い方だ。それはシエルのコンプレックスだった。身長の伸びがそろそろ停止の危機にある19歳を目前に、「育ち盛り」と言われれば、それは違うだろうと言わざるを得ない。もうひとつ。
童顔にも身長以上のコンプレックスがある。
どうにかしたい。ほんとに。
◇◇◇
ビルケがパイを一切れ口に運び、紅茶を口にしたあと、嬉しそうにパイを口いっぱいに頬張る愛弟子の姿を眺めていた。
「ビルケ師匠?」
シエルがこちらを見ているビルケの視線に気が付いた。
「明日だね」
「……そうですね」
シエルは手にしていたパイを、自分の前にある皿の上に置いた。
「迷惑だったかい?」
「いいえ。師匠の推薦は嬉しかったですし、僕が断っても、いずれは誰かがやらなければならないことです。それに命に関わる実験でもありませんし…」
シエルは嘘をつくのがつくづく下手だと、ビルケは感じていた。
それは彼が純粋で素直な心の持ち主であることに他ならない。
だからこそ、その実験に彼を推薦したのだが――ビルケの中に、罪悪感がなかった訳ではない。
浮かない表情のシエルに、ビルケは申し訳なさそうに顔を俯け、その瞳を閉じた。
「……嘘はバレてしまいますね。正直に言います。
はっきり言って怖いです。この起動実験がまともに成功したことがないことも、怖い理由です。でも今あの『ピュグマリオン』に頼らなければならないことも、怖いし、残念だし。でも現状はそう言っていられない。
それにこれは、僕にとっても挑戦でもありますから……」
「挑戦?」
ビルケは首を傾げた。
「はい。『綺晶魔導術』の礎を築いた…『ロード』という大先輩への挑戦です」
シエルの顔は――どこか頼もしく見えて、ビルケはこの実験の成功を確信するとともに、自分の目に狂いがなかったことを実感した。
「大丈夫だ。きっと君ならやり遂げる。でなければ推薦した私が困るからね」
「師匠…そっちの心配ですかぁ?!」
シエルは、あははと無邪気に笑う敬愛すべき師の顔を、虚脱感を感じながら見つめるしかなかった。