九、デートで繋いだ手
俺はここ最近、宮野文という女とよく話している。
きっかけはサークルの新入生歓迎コンパで間違いない。もう少し突き詰めれば、アホ部長のメールからそうなったと言えるだろう。
それまでは、小学校から大学まで同じであるにも関わらず、一度も話したことが無かった。同じクラスになったこともあるので、事務的な会話を交わしたこともあるかもしれないが、記憶には欠片も残っていない。それが今では、一緒に肩を並べてデートしているときた。自分でも信じられない。
きっかけさえあれば――、などとよく耳にするが、本当にきっかけが始まりなのだろうか。
別に俺は宮野とデートせずに帰ってもよかったし、面倒なキリーの頼みを断ってもよかった。
バイトに行かずにまゆを抱けばよかったし、新歓コンパで宮野の隣にずっと座っていることもなかったし、宮野の携帯電話をひったくらなくても何ら問題は起こらなかった。
逆に言えば、同じクラスやサークルになった時点で喋るきっかけなどいくらでもあったし、図書館で声をかけることもできた。
だからきっかけなんてものは既に何処にでも溢れていて、それに気付いた自分が後にいるだけではないだろうか。
只そこに、変わった自分に戸惑う男が一人だけ。
であるならば、何時しか一人の女性を目で追うようになったきっかけは?
乙女であることを夢想したのは? 送り狼にならなかった理由は? 今がこんなに楽しいのは?
「――くん、どうしたの?」
「えっ、あ」
気付けば宮野に顔を覗き込まれていた。
思考の迷路から意識を引き上げると、ショッピングモールの喧騒がボリュームを上げたかのように大きくなった。
あれから宮野と昼飯を軽く食べて、俺達はすぐ近くにあったアウトレット商品を扱うテナントを冷やかしていた。
「なんでもない。この服いいなと思ってさ」
値札を見ていた服をほらと掲げる。
「それ、女物だよ?」
「…………」
自爆した。
「女装趣味?」
「……それだけは違うと言わせてくれ」
こいつの前でだけは自爆してはいけない。今後ネタにされる。
しかしそれにしても、アウトレットって言うほど安くないな。『定価より50%引き!』とか書かれているから安い気がしてしまいそうだが、その定価が高いので手が届かない。余剰品とかわけあり商品なんだから、定価なんか基準にせずもっと安くしろや。
「ああ俺が貧乏なんだよ、悪かったな」
持っていた女性物の上着を乱暴に棚に戻す。
「何も言ってないし」
宮野はそう言いながら、俺が乱雑に置いた服を綺麗に畳みなおした。
単なる貧乏人の八つ当たりだから聞き流してくれ。これならいつもの古着屋で買うわ。
「なんか欲しいものあったか?」
「ううん」
「というか、お前の欲しいものってなに?」
本くらいしか想像がつかない。
「欲しいもの……ぶっ」
考えようとしたのか、顔を下げた途端、俺の右肩に頭突きする格好になった。
「ごめんね」
と謝ってよしよしと肩をなでてくる。俺は痛くないから自分のデコを撫でろ。
「あ、いたー!」
明らかにこちらに向かって飛んでくる女性の高い声に振り返ると、店外の通路にみっちゃんの姿を発見した。いや、発見された。
俺達を指差すみっちゃんの横にはカジュアルにきめたキリーがいるが、はっきりいって全然似合ってない。休日に家族サービスに駆り出された、恰幅のいいお父さんのようだ。
「やや、お二人さん。仲良くやってるー?」
置いて行ったことを怒るでもなく、みっちゃんは人懐っこい笑顔を浮かべて近づいてくる。やはりみっちゃんいい奴。
「ふみー、今までどこに……っ」
キリーを従えるようにして歩いてくるみっちゃんが、すぐ近くまで来た所で言葉を詰まらせた。
「うわっ、手ぇ繋いでるし……」
みっちゃんの顔が少し赤くなった。視線は俺の右手と宮野の左手。
あまりに凝視するので、見えやすいよう前に持ち上げてやる。ご覧の通り繋いでるけど。
「何か変か?」
「え、えー! フツー!?」
みっちゃんちょっとウルサイ。
「もうちょっとこう、気付かれたバッ! って離すとか、恥かしそうにキャッ! とか言って後ろに隠すとかないの!?」
「別にないけど」
「やっぱりフツー!?」
何故そんなに鼻息が荒い。みっちゃんのほうが恥ずかしそうだ。
「ええー、もしかしてずっと握ってるの? いつから?」
いつからと言えば多分、みっちゃんと別れてそこのベンチに座って、宮野とデートすることが決まって歩き出した時くらいかな。そして昼飯の時以外は大体繋いでいた、と思う。
「……あ」
自分の失態に気付き、ぱっと宮野の手を開放する。
「わ、悪かったな、宮野。引っ張りまわして」
「ううん」
まったく気にしていない様子で首を振る。
みっちゃんが騒ぎ出した時、手を繋ぐくらいで何を騒ぐことがある、と思っていたが、それは俺の基準だった。
デートと言えば、手を握る。それが擦りこまれていて、ほとんど無意識の行動だった。それは宮野だからではなく、例えみっちゃんでも俺はそうしていただろう。
「二人は付き合っていたのかい? 言ってくれればよかったのに」
「あー、キリー、そうじゃないんだ」
こいつらは本当に初心なんだ。手を繋いでいるくらいで恋人だと考える。
大学生にしては経験が少なく、いわゆる遅れている考え方だと思うが、この中で異常なのは俺だ。
「ふ、二人の邪魔しちゃ悪いよね、あ、あははー。キリー君、行こ」
「あ、おい」
みっちゃんは上気した顔でそう言うと、手を振りながら足早に遠ざかっていく。
キリーが「ま、待ってよみっちゃーん」と情けない声を出して、慌ててその後を追いかけていった。あの二人、結構上手くいってるのかもしれない。
そして妙に気まずくなった二人がその場に残された。
「……お前なぁ、嫌ならそう言えよ」
溜息交じりに言う。勝手に繋いだのは俺なのに。
「別に嫌じゃないよ。みっちゃんに見られたのは少し恥かしかったけど」
最近はあまり見ることのなかった、何を考えているか分からない表情で見上げてくる。
「嫌じゃなくても無理してただろ」
思い出したぞ。最初に手を繋いだ時、感情を表に出さない宮野にしては、かなり分かりやすく戸惑っていた。俺の感覚では何でもないことだから、その初心さが汲み取れなかった。
「すぐに慣れたし、大丈夫」
「……なんだそれ」
何故かイラついた。いや、原因は分かっている。
受動的過ぎるというか、自分を持っていないというか、誰に迫られても拒めない女のような、そんな宮野を俺は見たくない。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
怒気が表面化していく自分の顔面に気付いて顔を背ける。
俺はまた勝手な宮野を妄想し、身持ちの堅い女であって欲しいなどと思ってしまった。ここで「ごめんね」と謝られようものなら、腹に溜まった身勝手な憤りを抑えきれそうに。
以前の新歓コンパで抱いた感情と同種だが、その時より遥かにイラついている。くそっ、マジか。
「怒った?」
「別に、怒ってないから」
「ふふっ、怒ったんだ」
え、そこ笑うとこ?
「何がおかしいんだよ」
そう問うと、宮野はすぅと息を吸い込んで、眉間に皺を刻んで言う。
「いいか宮野、そんな風に男に色目を使っちゃダメだ」
「ぐっはぁぁぁ……」
人目をはばからずに両膝を地に着いた。吐血していないのが不思議なくらいのダメージだ。
店員が「お客様ーーっ!?」と慌てて駆け寄って来たのでなんとか立ち上がり、お騒がせしましたと謝罪する。……死にたくなってきた。
「ふふっ。私、浅岡君に色目使ってたかなぁ? あはっ」
めちゃくちゃ楽しそうだった。まだそれを引っ張るか。
「お前……俺に恨みでもあるのか?」
割とマジで訊きたい。
「うん、沢山ある。ごめんね」
いつのまにか恨まれていたらしい。しかも沢山ときた。まったく身に覚えがないのだが、謝るくらいなら恨まないでくれ。
もう反撃する気にもなれず、投げやりに脱力していると、宮野が俺の目の前に優雅な様で手を差し出してきた。
「特別にわらわの手を取る栄誉を与えようぞ、コータ・ド・アーサーウォーカー伯爵」
「……ありがたき、しあわせ」
ふざけた演技で上書きしてくれる宮野に感謝した。
それからは、俺は姫をエスコートしてテナントを見て回った。
その間ずっと手を繋いでいたのだが、最初に繋いでいた時と違って、俺はその感触をしっかりと意識下に置いていた。
俺より一回りは小さな手。きめの細かい肌と、女にしては短い爪が当たる感触。冷え性なのか、一度何かで手を離していると、繋ぎ直した時にはもう冷たくなっている。
意識すると気恥ずかしさが湧いたが、そんな初心さは似合わないと打ち消した。
「どうかな?」
「……似合わん」
試着室のカーテンを開けて訊いて来る宮野に、正直に申告した。
宮野にどこに行きたいかを訊いてもまったく案を出さなかったので、女物の服屋に引っ張って行って俺が選んだ服を着せてみた。それがまた全然似合わなかった。
「浅岡君が選んだのに……」
口を尖らせ、非難がましい目で睨んでくる。
ミニスカートと胸を強調する上着を選んだのだが、ここまで似合わないとは思わなかった。着ているというより着せられている。
遊び目的の女ならおべっかの一つも言って持ち上げてやるのだが、宮野にそんなことをする意味がない。
「だから嫌だったのに」
宮野は着る時にかなり難色を示していた。それでも頼み込めば着てくれたので、心底嫌がってはいないと思う。女心的に、普段着ない服を着るのは楽しいだろうと思って押し切った。それが証拠に。
「そんなに似合わないかな」
その場でくるりと回って、全身鏡に自分の姿を映す。……っておい、見えたぞ。
ミニスカートだということが頭にない。履きなれていないのが丸分かりだ。
「白、か……。妥当というか、見たままというか」
「え、これ黒だよ?」
鏡越しにほらっと着ている服を見せてくる。うん、まあ大体黒だよな。
「…………なっ、し、なん」
しばし固まった後、宮野らしからぬ声にならない声が聞こえてきた。
と思ったらその直後、宮野は試着室のカーテンを引きちぎらんばかりの勢いで閉めた。
「ぶはっ」
おもしれー。とても女の子らしい可愛い弱点を発見した。
今どんな顔してるのか見てみたいが、女性の試着室に突入したら手錠が掛かるのでじっと我慢。
「ふぅ」
何かあったかしら? とばかりに素知らぬ顔で試着室から出てきた宮野は、返してきてと試着が終わった服を渡してくる。体温が移ってるんだが、その辺りは頓着しないのか?
てか出てくるのが遅ずぎるだろ。気持ちは察してやらんでもないが。
「じゃあ次、これな」
渡してきた服と入れ替わりに新しい服を渡す。事前に選んでおいた。
試着室から出る気満々だったらしい宮野は、靴を履こうとしていた動きを止めて顔を引きつらせた。
「……着て欲しいの?」
「ああ、すごく」
語気を強めて言ってやった。
宮野はしばらく逡巡した後、新しい服をひったくるように俺の手から奪って、試着室のカーテンを閉めた。
明らかに嫌がっている宮野が断らないのは、着てやるからさっき見た白いものには触れるな、という意思表示なんだろう。楽しすぎる。
「……はい」
着替えが終わり、試着室のカーテンを開ける宮野。一日中仕事に追われて、精根尽き果てたような顔だった。
俺が二番目にチョイスした服は、健康的な美少女をイメージしたTシャツとホットパンツの組み合わせだったのだが。
「やっぱりさっきより似合わないな。じゃあ次、これな」
正直に感想を述べて次なる服を手渡す。
「この人、鬼……」
服を受け取り、うなだれて試着室に戻っていった。
お前に鬼とか言われたくないが、たしかにちょっとひどかったかな。仮にも女の子なのに。
宮野はスタイルこそ悪くないが、多くて長い黒髪がガンのようで、派手めな格好が全然似合わない。それを分かった上で悪乗りしたのは認めるが、次の服は真面目に選んだからそれで勘弁してくれ。
「あの」
試着室を見ると、宮野がカーテンに体を隠して顔だけを覗かせていた。
「どした? 着替えたなら早く出て来いよ」
「……」
促したがどうにも煮え切らない。何かを戸惑っているようだ。
もしかして恥ずかしいのか? 今までの服から比べたら、露出は少ないはずなんだけどな。
「これ、買っていい?」
珍しくおずおずとした様子で訊いて来る。
「気に入ったのか? なら買えばいいと思うけど、見せてくれないの?」
「だって、似合わないとか言われたら買いづらい」
たしかに。自分がカッケーと思っていても、ツレにダセーとか言われたらすごく買いづらい。買い物は一人にかぎる。
「大丈夫だ。似合ってると思う、多分」
「嘘でもそう言う?」
「お前にそういう類の嘘は言わない」
シャッ、と軽快な音を立ててカーテンが閉まった。
ま、まあ見せたくないならそれでも構わないけどさ。と諦めていると、宮野が再度カーテンの隙間から顔だけを出した。そしてジトリとした湿った目で睨んでくる。
「批評はいらないから。喋らなくていいから」
「え、どういうこと?」
「はいって言いなさい」
「あ、はい」
眼力に気圧されてしまった。
「じゃあ……はい」
宮野は自分に勢いをつけるように声を出し、試着室のカーテンを全開にした。
批評はしてはいけないらしいので、ここから先は客観的事実だけに留めておく。それ主観じゃん、とか余計なツッコミはいらない。
俺が選んだ服は、可愛らしいフリルの着いたノースリーブのワンピース。選ぶ際に意識したことは、上から下まで透けるような真白色であること。それだけだ。
宮野の今日の服も明るめのコーディネートだったが、それでもまだ重い髪が地味さを引きずっていた。だから黒の対極の色をぶつけて相殺しただけの話。
「……ぅ」
珍しく頬を染めて、照れを表面に出している宮野。珍しいというか、記憶にある限りでは初めてだ。少しだけ宮野文という女の内面を、飾った外面から覗けたような気がする。
感想を言いたかったが喋ってはいけないらしいので、俺は宮野に向かってうんうんと二度深く頷いてやった。
「批評もいらないって言った」
あ、すまん。つい。