七、デートのメリット
新入生歓迎コンパから約一ヶ月経った六月の中旬。
照りつける日差しが夏の趣を帯びだし、キャンパスを歩く学生達の衣替えが概ね終わりを迎えている頃。毎年めぐってくる梅雨という気象の責務を果たすかのように連日雨が続き、多い湿気が不快感を誘発する。
ここ一ヶ月、俺の日常は特に代わり映えも無く過ぎていった。
だから特筆すべきことは何も無いのだが、それでもしいて変化を挙げるならば、バイトが多くなったことくらいだろう。金が無いという根本的な理由から、マスターに頼んでシフトを多く組んでもらった。それだけだ。
その間、バイトで忙しくなったこともあり、まゆとは一度も関係を持つことはなかった。
謝罪の意味で一度飯を奢った時、それを気にした様子は特に見受けられなかったので、もうすぐこの関係も終わりを迎えるのかもしれないと感じた。
能動的にならない俺に愛想がつきたのか、別のお気に入りが出来たのかは分からないが、それならそれでいいと達観している。体だけの関係が終わったとしても、気軽に話せる異性として、あいつは俺に接してくるだろう。そういう奴だ。
「浅岡君。ちょっといいかな」
「んぁ?」
講義の合間の休み時間、机に突っ伏して寝ていた俺に、キリーが話しかけてきた。
「どしたキリー? 新しいエロゲーでも見せびらかしに来たか?」
「……僕はTPOを弁える男だよ」
そうなのか? 工学部なんて男ばっかりなんだから、エロ系のブツは明け透けだけどな。ほら、そこにもグラビア雑誌見てる奴がいる。
「ちょっと相談があるんだ」
キリーは今までで見たことの無い沈んだ面持ちだった。
オタクと罵られても「褒め言葉だね」と返せる強者なのに、珍しいを通り越して異常に感じる。
「おう。キリーには世話になってるし、何でも話してくれ。……面倒ごとなら却下するけど」
「や、やった! ああ、ありがとう! 浅岡くぅん!」
キリーは興奮した様子で、鼻息荒くグイッと詰め寄ってくる。ちょっとキモかった。
いや、最後ら辺ちゃんと聞いてた? 全面協力するなんて一言も言って無いよ。
「この前、浅岡君が宮野さんと話しているのを見たんだけどさ。友達なの?」
「……まあ、そうかな」
宮野と知り合ってからは、最低でも週に二度は学内で遭遇する。会ったら話をするのが自然な流れになってきているので、それを見たんだろう。
「……で?」
と促してみたが、面倒ごとの予感しかしないので、正直耳を塞ぎたい。
「だ、誰にも言わないでよ? 浅岡君だから言うんだからね」
もじもじするな気持ち悪い。キモかわいいなんて言葉は誰に当て嵌まるんだ?
「僕ね、そろそろZ軸を認めようと思うんだ」
哀愁漂わせた表情で言う。
「……悪い。キリーが何を言ってるのかさっぱり分からん」
「だ、だからさ。僕は三次元に生きようと思うんだっ!」
メタボ気味の腹をたぷんと揺らし、ぐわばと胸を張って高らかに叫ぶキリー。
いや生きてるじゃん、三次元に。立派に。
「だから協力して! 浅岡君!」
「今ので説明した気になってるお前になど協力せんわ! つかできんわ!」
何をして良いかすら見えてこないぞ。
「も、もう~、全部聞きたがるなんて、浅岡君はチラリズムのロマンが分からない人だね」
あー、聞くのやめようかなー、うざいなー。
「だからさ、その……」
うん、早く言え。俺が逃げる前に。
「結構前から、その、す、好き、だったんだ」
「……おお」
なるほど。そういう事だったのか。何ていうか、素直に感心した。
キリーのキャラには似合わないにも程があるが、キモかわいいが少しだけ分かった気がする。
「そうかー。応援するよ、割とマジで」
「あ、ありがとう! 浅岡君に相談して良かった!」
「手を握るなキモい!」
前言撤回。
ん? ということは、話の流れからすればキリーの想い人は宮野か。
よりにもよって、なんつー女に惚れるんだ。あいつは清楚の皮を被った女王様だぞ。
俺はあれ以来、宮野と話すたびに敗残者のような気持ちにさせられている。それが面白くないとは言わないが。
「キリー、やめといたほうがいいと思う」
「……も、もしかして浅岡君も好きなの?」
「いや……それはない」
それはないが。キリーの為にも……いや、まあいいか。本人が良ければ。
「わーかった。じゃあ俺が宮野に連絡を取って、場をセッティングすればいいんだな?」
「え、ええっ!? い、いきなりそれは……あの、恥かしいというか」
だからもじもじするな気持ち悪い。
「で、でも、頑張ってみようかな……ふ、へへ」
おお、キモいが前向きだ。
「分かった。宮野に話してみとくな」
「あ、ありがとう、浅岡君!」
「まあそれくらいお安い御用だ。キリーにはいっぱい借りたしな」
インドア系の娯楽を。
「うん、僕頑張るよ」
うんうん。
「頑張って美咲ちゃんを彼女にするんだ!」
え? ……誰?
本日の講義も全て終わり、さっそく宮野にメールを出してみると、図書館にいるという返信があった。今日はバイトも無いので、キリーの相談を実現するべく、帰り際に図書館に寄ってその姿を探す。
だが、探すと表現するほど手間取らないのは分かっていた。俺の予想を外すこともなく、宮野はいつもの窓際の席に座って活字を追いかけている。あれはもはや中毒だ。
「よっ」
「……うん」
来訪を告げて隣の席に腰を下ろす。宮野は視線を流して静かに返答した。
「……濡れてるよ?」
「ああ、雨が降ってきたからな」
今日の天気予報では、降水確率は40%。晴れのち曇り、所により雨。
気象予報士が楽な商売だと勘違いしてしまいそうな適当さだった。
「傘は?」
当然持っていないが、持っていると答えた。
正直に持っていないと言うと、こいつは自分の傘を渡してきそうで怖い。二本持っているから大丈夫などと、しれっと嘘を言いそうで尚怖い。
「はい」
宮野が鞄から取り出した白のハンカチを差し出してくる。
「いいよ、そんなに濡れてないから」
「……そう」
何か言いたげな表情だったが、俺の遠慮を聞き入れてハンカチを鞄に戻す。
図書館ということもあるのだろうが、今日はいつにもまして物静かだ。スロースターターなのか、いつも最初はこんな感じで、喋っているうちに表情も豊かになってくる。
少し前の事になるが、宮野が暗く沈んでいる時があった。その間は話しかけても「うん」と「ううん」と「なんでもない」の三種しか言葉を使わない。もともと口数の少ない奴なのでそれで正常なのかもしれないが、身にまとう空気がどことなく重かった。
だがそれも三日ほど経てば元に戻り、それからは俺を度々からかってくる。どこで入手したか分からない『浅岡孝太の恥ずかしエピソード』はパート3まで更新されてしまった。
最初に笑ってくれた時、不覚にもほっとしてしまった自分を許せそうにない。
「何か用?」
宮野が小説に目を落としたまま振ってくる。
わざわざメールで居場所を確認するのは初めてのことだったので、何かあると思うのは当然だろう。
「えーと、木下美咲って子、お前の友達だよな?」
間違えていないならこんな名前だった。
キリーの想い人は宮野ではなく、宮野の友達だったようだ。それで宮野とよく話す俺に、相談を持ち掛けてきたわけだ。
「みっちゃん? うん」
おお、みっちゃんとはその子の事だったのか。
俺が必死で消した宮野のメールを、わざわざ宮野に見せた女。少しイラッときたが済んだことだ、水に流そう。
「知らないの?」
目を合わせて不思議そうに訊かれても記憶に無い。
「同じサークルの、新歓の時に浅岡君の腕を引っ張ってた子」
「あ、ああー、あの子か」
俺を宮野の隣に押し込めた女。
顔を詳細に思い返してみると、あいつも同じ高校だったと思い出す。地味だから名前も知らなかったが。
「それでその子の事なんだけど、彼氏とかいるのか?」
とりあえず基本的な情報を集めよう。だがここでイエスと答えられたら引き下がる。キリーがそう望んだからだ。
「日時と場所はどうするの?」
「……お前、察しよすぎるだろ」
三歩くらい先を行く宮野。
まあ俺もその返しで、みっちゃんに彼氏がいないことと、セッティングが可能だと悟ったが。
「次の日曜日なら大丈夫だけど、そっちはどうだ?」
「みっちゃんに訊いてみるね」
「……ちょっと待った」
携帯電話を操作しだした宮野にストップをかける。
「ちなみに、何て誘うつもりなんだ?」
「浅岡君がみっちゃんの事好きだから日曜日に遊ぼうよ、って」
「ちげぇよ!」
察しの良さは文句なしだがずれている。
大声で突っ込んでしまったので、物語に没頭していた方々に睨まれてしまった。すんませんと全方位にヘコヘコする。
「じょーだん」
ずれているのではなく、ずらしていたらしい。そして出来上がった間抜けが一人。
「……俺、お前キライ」
「ふふ、ごめんね」
エンジン温まってきた、みたいな表情だった。敗北必至で受けて立っても良いが、今はキリーの話を進めないとな。決して逃げた訳ではない。
「ちゃんと言っておくけど、俺と同じクラスのキリーって奴がみっちゃん狙いなんだからな」
「うん、分かった」
「本当か? じゃあ今回の趣旨を言ってみてくれ」
「キリー君はみっちゃん狙いで、浅岡君は私狙い」
「…………ぐぎ、ぎ」
つ、ッッこみたい……! いや、釣られたいと言うべきか。針が見え見えの餌なのに、飛び付きたくて仕方がない。
平坦な表情で分からない無い風を装っているが、こいつは全てを理解した上で俺をからかっている。
新歓コンパ辺りでは天然だとか、良い子だとか判断していた俺は、本当に見る目がない。あれはこいつが酔っていたからに違いない。
「そうそう、それでいいやもう。詳細はまた今度な」
そう言い捨て、椅子から立ち上がろうとすると。
「待って」
宮野に服を掴まれて、少しだけ浮いていた尻が椅子に舞い戻った。
「やっぱり、気になる」
宮野は鞄から再度ハンカチを取り出し、雨で湿っていた俺の髪や服を拭いてくる。
工学部の校舎から図書館までの、僅かな距離しか雨に晒されなかったので、もうほとんど乾いてきていたのだが、宮野は濡れた部分を目ざとく見つけて手を動かす。
「…………」
別にいいよ、と邪険にすることもできたのだが、献身的に胸元を拭いている宮野を見下ろしていると、そんな気は失せてしまった。
凪の水面のように落ち着いた気分になっているのは、鼻先にある頭から漂う優しい香りの所為なのか、強まった雨音の所為なのか。
「これでおあいこ」
あらかた拭き終わったようで、俺を見上げて微笑を浮かべる。
宮野は新歓コンパで水を零した時のことを言っているんだろうが、俺は逆に借りを背負ってしまったような気にさせられた。
「……あり、がとな」
「うん」
そんな満足そうな顔を見てしまうと、実は傘を持ってないからどうせこの後濡れるけどな――なんて本当のことを言って反撃する気にもなれない。
日曜日が来た。来てしまった。
人間というのは本当に初志を貫徹できない生き物だ。それが俺の場合、人一倍ひどい。
『キリーの恋を応援する会』の内容は、俺と宮野、キリーとみっちゃんのダブルデート形式で話がまとまった。協力するといった手前、こういう状況もまったく想定内だったのだが、日が近づくにつれ俺は面倒になってきていた。
何よりも、俺にメリットが無いのがイタイ。まあダブルデート形式だから、宮野でもからかって遊んでようかな、という動機がなんとか俺を駅前に立たせている理由だ。からかわれるのは俺になりそうだが。
しかし借りのあるキリーの為にも、それなりに気を利かせてやらないとな、うん。
「って、思い直したのに……お前のその格好はやる気あるのか!?」
「やあ浅岡君。今日は最高のデート日和だね」
梅雨の隙間を狙ったような晴天には感謝するが、その押入れから出したようなヨレヨレの服は何だ? 顔がイケメンでも引かれるわ。
「おお、浅岡君は今日もお洒落だね。タンクトップの上にロカビリー風の半シャツ、ブーツカットのジーンズにブーツ。それに中堅メーカーのウォレットチェーンと腕時計かぁ。自分で染めたのが丸分かりの茶髪といい、本当に隙の無いチャラ男だね」
「帰る」
「ああっ! 何でだい!?」
何でもクソもあるか。
「てかなんでそこまで服に詳しいのに、お前はそんな格好なんだよ」
ネルシャツというやつだろうか、それを明らかに丈の短いジーパンにインサート。それだけで赤点間違いなしなのに、ヨレヨレ属性まで付属している。
大学で着ている服よりひどくなっているのは嫌がらせなのか? それで出歩くとか俺にとってはバツゲームに近い。
「最近は主人公をカスタマイズするゲームが多いんだ。僕はにわかは嫌いだからね、服もちゃんと調べてから設定するのさ」
何故それを現実で発揮しないのだ。どや顔やめろ。
「ったく、早めに来て正解だったな」
時計を見ると、午前の十時三十分。約束の時間まで後、三十分の余裕がある。
「うん、女の子を待たせちゃ好感度パラメータが下がるもんね。浅岡君は見た目と違って王道の攻略法だなぁ」
お前の為に早く集まったんだよ、そんな気がしてたから。それと早く三次元に戻って来い。
「キリー、今から服を買いに行け。テーマは清潔感。はいBダッシュ」
「え、なんでだい? 僕はこの服でじゅうぶん……」
「つべこべ言うな! ネットゲーで自キャラを設定するくらいの気合を入れろ!」
「ひぇっ! わ、わかったよぅ」
重そうな腹を揺らしてキリーは走っていった。
ああ、頭痛くなってきた。
「今の、キリー君だよね?」
「うおっ!」
肩口からひょっこりと宮野が顔を覗かせた。
「は、早いな、宮野」
「浅岡君も」
見上げてくる宮野を他所に、俺は冷や汗を掻きながらみっちゃんの姿を探したが、それらしい女の子は見当たらなかった。どうやら先に来たのは宮野だけのようだ。
良かったな、キリー。見られていたらお前の恋は終わっていた。
「どこにいったの? キリー君」
「ああ、ちょっと服を買いに行かせた。興味がないとはいえ流石に限度がある。せめてみっちゃんに嫌がられないくらいの……」
「へぇ」
言い終わる前に、宮野が感心したように息を漏らした。
「なんだよ……?」
「浅岡君ぽくないね」
そう、かな? ああ、宮野の言う通りかもしれない。
昔はキリーみたいな奴と一緒に歩くだけでも嫌悪したもんだが、そんなことはあまり意識していなかった。さっきも宮野に見られたことより、最初にみっちゃんに意識が向いたくらいだ。
「優しいんだ」
「……うるさいな」
嬉しそうに微笑みかけるな。
「それより……その、な」
「なに?」
多分、キリーの変な格好を見た後だからだと思う。宮野がえらくお洒落に見えるのは。
可愛らしいフリルが付いたシャツに、七分丈の薄手のカーディガン。膝丈の軽そうな生地のスカート。首元に光る、女性らしい細いチェーンのネックレス。
上から下まで、季節にあった明るめの彩色で纏められており、普段重い印象を受けるロングストレートの黒髪が、やや爽やかに映えている。
いつもより地味さが抜けているように見えるのは、俺の目が痩せたからなんだろうか。
「……宮野」
「はい」
宮野の両肩に手を置いて言う。
「ありがとう」
「……何が?」
俺にも分からん。