五、腹の立つ女
大学での俺の学部である工学部は、多分どこの大学も同じような有様だろうが、女が全然いない。
いてもクラスに一人か二人。しかも地味。
最初はその惨状を嘆いたもんだが、まゆや宮野が所属する女だらけの文学部が学内にあるので、男子校のような絶望感はない。慣れてくると男ばかりのクラスというのも違った楽しさがある。
「浅岡君。あれ読んだかい?」
バイトで終わった土日が明けて月曜日。
午前の講義を終え、昼飯を食べに学食に行こうとした足をクラスメイトに止められる。
「お、キリー。あれつまんなかったぞ」
切中ことキリー。
見た目オタクまっしぐらだが、俺はちょくちょくこいつと話す。
いつだったか忘れたが、キリーの読んでいたライトノベルに興味を持った俺が話しかけてから、よく俺にオススメを教えてくれるようになった。今日はその感想が訊きたかったんだろう。
「あれは上級者向けだったからね。浅岡君にはちょっと向かないと思ってたよ」
「だったら何故薦めた……」
得意げにキリッと眼鏡を上げるキリー。苗字とは別のあだ名の由来でもある。
最近までこんな地味な奴とは絡まなかったのだが、話してみると全然悪くない。
「なんの上級だよ。意味わからねぇ」
「数あるフェチの中でも、高度な萌えを追求しているってことさ」
「ぶはっ、なんだよそれ。アホだろキリー」
「ふふっ。今に浅岡君も、萌えの深遠に引きずり込まれるんだと僕は確信しているよ」
得意顔に笑いが止まらん。やっぱりキリーは面白い。
馬鹿にしているわけではなく、キリーがそう誘導してくるこのかけ合いが俺達のいつもの空気だ。
「こうたー、早く飯食いに行こうぜ」
教室の入り口から、見るからにチャラい一団が呼んでくる。まあ俺のツレ達だが。
「あ、じゃあなキリー。また教えてくれよ」
「うん。今度は一般小説の名作でも貸そうか? それとも泣けるギャルゲーがいいかい?」
「……両方頼んでみる。サンキュー」
キリーに礼を言って軽く手を振る。
趣味に真摯というか、キリーの極一部の知識は侮れない。一度、腰を落ち着けて話したいもんだ。
「ああ~、腹いっぱいだ~……」
カツ丼と素うどんを残さず食べた後、学食横のベンチで寝そべる。
仰向けで上を見ると、五月晴れの澄んだ空に薄い雲が三割ほど掛かっている。柔らかい陽光が暖かく体を包み、このまま眠ってしまいそうなほど心地良い。
「孝太、俺達そろそろ教室に戻るぞ」
「ああ~、先に戻ってて~」
一緒に飯を食べたツレ三人に手を振ると、「遅れるなよー」と言い残して校舎に入っていった。
ああ、眠い。講義めんどくさい。このままサボろうかな。
「……お」
まどろみながら視線を彷徨わせていると、遠目に宮野の姿を発見した。対角線上のベンチで、地味な女達と楽しげにサンドウィッチを食べている。
昼休憩の時、あいつも俺も大体はここにいる。それは話す前から知っていた。
二年余りも同じ場所に通えば、定位置みたいな場所は自然と決まってくるもんだ。
「お、そうだ」
と思い立ち、ズボンのポケットから携帯電話を取り出して、宮野に『口元にパンがついてるぞ』とメールを送る。まあ嘘だけど。
すると宮野はメールの着信に気付いて携帯をいじりだし、その文面を確認した瞬間目を見開き、バッと弾かれたように口元に手をやってキョロキョロと辺りを見渡しだした。
すごく面白かった。
「あ……」
見つかった。宮野が細めた目で、ベンチで寝転がっている俺をしっかり捉えていた。
「よっ」と携帯を持つ手を上げたが、ツンと無視される。
「……いい度胸だ」
闘争心を湧きあがらせた俺は『ふっかちゅ』とだけ本文を打ち込み、再度メールを送信。
それを見た宮野は『色目を使っちゃダメだ(キリッ』と返信してきた。……なかなかやりおるわ。
不毛なメールの応酬だが、受けて立とう。
『そんな所で寝てると風邪ひくよ?』
と、かなり普通の宮野。
『大丈夫だ。もうすぐふっかちゅする』
かぶせてみた。
『…………』
いや、沈黙なら送るなよ。
間をおかずに宮野からメールが届く。
『……ヤリチ○』
「なにぃ!?」
予想だにしていなかった下品な攻撃により、ベンチから跳ね起きてしまった。
おま、宮野が普通そんなこと言う? キャラ崩壊も大概にしろよ。なんかちょっと泣いてしまいそうだ。
宮野に目をやると「ふふん」と得意げな表情を浮かべてこちらを見ているが、流石に恥かしかったようで顔が赤い。無茶しやがって……。
よし、このメールは保存しておこう。と、悪巧みしながら設定していると、再度メールが届く。
『消して』
何故俺の行動が分かった。
『お断りしますヘラヘラ』
と返信。
『……うざい』
ぐぅ……。なんでだろう、宮野の今風の罵倒は心の臓に響いてくる。
一泊置いて、またメールの着信。見ると本文が今までより長い。
『浅岡孝太の恥ずかしエピソードその1。小学四年生の時、描いていた格闘漫画──タイトル“しっぷうのオレ”を、理科のノートで出版社に応募した。(自信満々だったらしい)』
「うおおおおおおい!?」
おま、なんでそれっ、おまっ!
動揺を収束させる暇もなし。ピロリンと新たな爆弾の着弾音。
『次回予告。“しっぷうのオレ”で用いられた必殺技の名前を大公開。──Coming Soon』
「やめーやあああ!」
「きゃあああ!?」
熱い涙を拭うこともせず、脇目も振らずに宮野の元に突貫。その場に居た地味な女達が悲鳴を上げる。
宮野はまったく動じておらず、してやったり顔だ。ああ、してやられすぎたわ。
「はい」
宮野はしれっとした表情で俺を見上げたまま、手の平を上にして「それを寄越せ」のジェスチャー。
「……はい」
完全敗北の俺は、肩を落として自分の携帯を差し出した。
ああ、弄りネタを消されてしまった。……いや、もういいや、別にどうでも。
「良くねぇ! つかなんで必殺技の名前まで知ってんだよ!」
俺が漫画を応募したことは、風の噂で知っていても不思議じゃない。クラスの奴らに自慢げに話していたからな。うわ、思い出しただけでイタイ。
いやそれは置いといて、内容は極一部の男友達にしか見せたことが無いんだぞ。この前まで話したことも無かった宮野がそれを知るはずが……。
「あはっ、やっぱり必殺技あったんだ」
疑似餌に釣られた俺はガクリとうなだれた。
心底楽しそうな笑みを浮かべる宮野は、メールの消去を済ませた俺の携帯をそっと手に握らせてきた。
大学の講義も全て終了し、後は帰るだけとなった夕刻時。
「クソがぁ」
正門に歩いていく最中、俺の人相は堅気ではなくなっていた。
垢抜けていない新入生らしき学生が、俺を見た途端わざわざ遠回りの方向の足を向けているが、それもこれも全部あの女の所為である。
あんなにも手玉に取られたのは初めてだ。あまりに悔しかったので、午後の講義中に傾向と対策を立てていたのだが、良い案は浮かばなかった。
何か突破口は無いだろうかと、同じ高校だった奴に宮野のことを訊いて回ってみるも、「誰だっけ?」という類の返答しか得られなかった。そういえば、ステルス機能を装備している女だった。
「野郎……」
俺の敗北を確定させたメールを再読して、さらに闘志を燃やす。
人の恥部を抉る、容赦の無い恥ずかしエピソード。その文面を見ていると、目に留まったある語句に戦慄する。
「その1……だと?」
も、もしかして続くの? ストックあるの? こ、怖すぎる……。ハッタリでも効果抜群だ。
もしかして俺は、とんでもなく狡猾な女に絡め取られているのではないだろうか。
「……む」
図書館前に差し掛かった所で足を止めた。
今日は寄る気はなかったのだが、宮野様の根城をスルーするのは躊躇われたのである。
透明の擦りガラス越しに、宮野の姿を流し見る程度で探してみると、普通に見つかった。見つかってしまった。見つかって欲しくなかった。
今日も今日とて、お気に入りの窓際の席で、長い黒髪を垂れ下げて文字の羅列を目で追っている。その集中力たるや相当のもので、窓の外にいる俺には当然気付かない。
後ろから忍び寄って脅かしてやろうかと発案したが、あまりにガキ臭い自分の思考に辟易して棄却した。首尾よく宮野が慌てふためいた姿を見れたとしても、そんな勝ち方ではスッキリしない。
そもそも勝ち負けを論じている時点でガキっぽい。だがしかし、このまま泣き寝入りというのも……。
「なに唸ってんの、っよ」
「うおっ!?」
ガクンと左腕が重くなった。
誰かと思えばまゆだ。
ぶら下がるように左腕を抱き込んで、まつ毛の長い大きな瞳で見上げてくる。
「なんでお前はいつもそんな登場の仕方なんだよ。心臓に悪いわ」
「まぁまぁいいじゃんかよー。今日はバイトないんでしょ? 一緒に帰ろん」
ニコニコと擦り寄ってくるまゆ。スキンシップの好きな奴だ。
「ああ、別にいいけど」
「うん? メールでもしてたん?」
右手に持っていた携帯電話を覗き込んでくる。
「いや」
打ち掛けの文章を消去して、携帯をポケットに放り込んだ。
まゆはそれを気にするでもなく、左腕を引っ張るようにして歩き出す。
「孝太と帰るなんておひさだね」
そうだっけ。前はたしか、春休みが終わってすぐくらいだったか。てことは、一ヶ月近くご無沙汰だった訳だ。
まゆが帰ろうと誘ってくるのは、イコール家に来てという意味だ。
まゆは県外からこの大学に来ているので、ここから徒歩十五分程度のアパートに一人暮らしである。俺は実家なので大学へは電車を使っており、時々一人暮らしに憧れたりするが、無い袖は触れないので仕方が無い。
「おなかすいた? ウチ来る前に何か食べてく?」
「今はいい」
久方ぶりなので、誘いの確認をしようと思っていたのだが、まゆは完全にその気だった。
言葉にしなくとも、互いの雰囲気で暗黙の了解が取れる。俺とまゆはそのくらい関係を重ねてきた。入り浸っていた時は、合い鍵を渡してきたくらいだ。断ったけど。
サークルで知り合ってから二年余り。気の合う友人関係が変わったのは約一年前。変化した関係は今も継続中。だがそれは恋人ではない。友人でもない。
まゆは間違いなく、俺が一番抱いた女。
「今日はおかしいな、お前」
「えー、そんなことないってー」
明らかにテンションが高い。
ふわふわのパーマを当てたセミロングの茶髪が、軽い歩調で縦に揺れている。
小柄だが男を誘う肉付きの良い体躯。それを強調する、センスの良い春物のジャケット。少し動けばすぐに下着が覗くだろうミニスカート。膝丈のブーツ。自己を分析した隙のない化粧。
ナンパスポットを歩けば、五分と待たずに馬鹿どもが群がってくるだろう。
「ほーら、はっやく」
本当に機嫌が良い。かつてないほどだ。
久しぶりの情事に期待を膨らませているのか、それとも別のなにかなのか分からないが、そんなことをわざわざ追求するのは、野暮ではなくタブーの領域だ。
俺は口を結び、腕を引っ張って先行するまゆに歩調を合わせる。
その頃には、あんなに腹が立っていたものがどこかに霧散していた。