四、新歓コンパの二日酔い
「……何か怒ってる?」
半歩後ろを歩いている宮野が問いかけてくる。
親歓コンパはお開きとなり、宮野と一緒に帰ることになったのだが、同じ電車に乗って同じ駅に着き、後は家まで徒歩で帰るだけといった所までの数十分、俺達は一切会話を交わすことが無かった。
宮野は知る限り喋るほうではないので、俺が無言ならそうなるだろうと思っていたら、実際そうなった。
「いや、怒ってないよ」
喋る気がしなかったのは確かだが。
「そう」
街灯が点々としかない薄暗い住宅街は、深夜に近い時間帯のため静まり返っており、宮野の澄んだ声がよく通る。
「少し寒いな」
「うん」
季節は春でも、夜の風はまだ冷たい。でも酔いと沸騰した頭を冷ますには丁度良い。
「宮野の家ってどこだっけ?」
「もうすぐ」
同じ校区内とはいえ、俺の家とは徒歩で二十分くらいは離れている。
「家の前まで行っても大丈夫か? ほら、親とか」
「えっと、マズイかも」
だろうな。飲み会帰りに男と同伴なんて、心配性の親なら邪推する。この歳ならそっちのほうが正常のように思うが、親の世代には異常だろう。
「じゃあどこまで大丈夫なのか来たら行ってくれ」
「うん。ありがとう」
それきり、また沈黙が降り、アスファルトを踏む二つの足音が、やけに耳を突いて来る。
酒の席では悪くなかった沈黙が、今はどうにも居心地が悪く感じられる。頭が冷えたことで、今まで押し黙っていたことへの罪悪感が湧いたのか。こんな殊勝な奴だったかな、俺。
「あ、あー、宮野」
「ん?」
宮野は居心地が悪い風ではない。いつも通りに色の薄い表情で見上げてくる。
「これからは話しかけてもいいか? 図書館とかで」
おい……。“遊んではいけない女”だと今日で散々分かったのに、何を言ってるんだ俺は。こいつと仲良くなっても、俺には何もメリットがないだろう。
空気に負けた感がすごくて情けなくなった。こんなこといつ振りだろうか。どうにも宮野は、やりやすい時とやりにくい時の差が激しい。
「うん。私も話しかける」
宮野は嬉しそうにふわりと微笑んだ。頼りない街灯の逆光を浴びて、その希少な表情が浮かび上がる。
勿体無い。今車でも通ってくれれば、ヘッドライトに照らされてもっとよく見えるのに……。
「ぶはっ」
突然笑い出した俺に、虚を突かれたように目を見開く宮野。
思春期の中学生のような思考に囚われそうになったところで吹きだしてしまった。自分に似合わなさ過ぎて気持ちが悪い、身の毛がよだつ。酒の力とは恐ろしい。
「何が面白いの?」
置いてきぼりだぞ、とばかりに不満げな宮野。
「ああ、悪い悪い。……くく」
しばらくは思い出しては悶えそうだが、宮野が珍しく怒りそうなんで笑いを噛み殺す。いや、怒る姿も見てみたいな。
「お前といると調子が狂うなと思ってさ」
「……そう?」
よく分からないといった風だ。正直、俺もよく分からない。
「じゃあこれ」
と言いながら携帯電話を取り出し、「良いか?」と確認する。宮野はこくりと頷いて鞄から携帯を取り出し、ぽちぽちと操作しだした。
難しく考えていたが、笑ったらどうでもよくなった。ここまで絡んでおいてこれから無視するのも不自然だし、社交辞令で番号を訊いておくのもいいだろう。
「ん、サンキュー」
「うん」
赤外線機能を使い、番号とアドレスを交換した。
宮野文と名前を打った後、電話帳に登録しようとしたが、これはどこのグループに入れたら良いんだろうかと迷った。こういうタイプ分けをしづらい女を登録するのは初めてだ。
友達? サークル? 女? ……普通にサークルでいいな。
「宮野、メールしたら彼氏が怒るとかないか?」
さっきジミーズの誰かが宮野に彼氏は居ないと言っていたので知っていたが、選択権を宮野に託す意味でそう訊いた。嫌ならいると言えばいい。
「いないから大丈夫」
「そっか」
しかし自分からアドレスを訊いてはみたものの、俺はマメな性格ではないので、用がある時くらいしかメールしない。
宮野に用か……。無さそうだ。
「私からメールしても大丈夫かな?」
すぐ隣から見上げて訊いて来る。一応、歩調は遅くしておいた。
「……宮野は自分からメールしないだろ?」
「え、な、なんで?」
見抜かれたとばかりに焦る宮野。あれ、楽しいな。
「なんかそんなタイプな気がする。メールとかめんどくせーって思ってそう。特に小説読んでる時なんかイラッと来るんじゃないか?」
「………」
顔色を見る限り、図星らしかった。
「……浅岡君だって用がある時くらいしかしないでしょ」
「何故分かった……?」
「図書館でかかって来た時、凄くうっとうしそうにしてた」
それは分かりやすいな。
「まあ多分だが、宮野よりは俺のほうがメールしてると思うよ」
「……乗らないから」
俺のナイスパスを受け取り拒否し、ツンと拗ねたようにそっぽを向く。
「ちょ、そこは見え見えの挑発でも乗ってくるのが礼儀だろうよ」
「知らない」
会話が弾んでいるのかいないのか微妙な所だが、それが新鮮で面白い。
それにしても、酔いはほとんど醒めたようだな。ここまできたら最後まで付き合うけどさ。
「あーあ、酔ってる時は可愛かったのになー」
いかにもワザとらしく言って、チラリと横顔を確認する。
「酔ってる時はお父さんみたいに優しかったのにね」
「うぅ……」
流石に安っぽすぎる俺の誘導には照れもせず、どうだと得意げに切り替えしてくる。
ちょっとその辺は、あの、黒歴史になりそうだからあまり触れないでやって欲しい。だが宮野はしらっとした顔で、土足のままそこに上がりこんでくる。
「コホン。いいか宮野、そんな風に男に色目を使っちゃダメだ」
「ぐあああああ! やめてくれー!」
こ、こいつ隠れS。物まねの才能はまったく無いが、人の弱みを突く術に長けている。舌戦では頭の差で断然不利だ。
「はっ。ふっかちゅ、とか言ってたくせに」
泥酔していた時の宮野の失言を拾い上げた。かなり苦し紛れだったが。
「………」
すると無言で反対側に顔を背ける宮野。効果のほどが確認できない、こっち向け。
「……お」
お……? なんだって?
「覚えてないっ」
効いていた。
──と、そんな不毛なやりとりを繰り返す内に、三叉路に差し掛かった。
ここは左だと事前に聞いていたので、何の気なしにそっちに進もうとすると、宮野に後ろから服を掴まれて足が止まる。
「ここでいい」
「もう近いのか?」
「あそこ」
街灯の下、宮野が指差した方向を追うと、同じような住居が建ち並ぶ中、二階建ての一軒屋に行き当たる。「あれか?」と確認するとこくりと頷く宮野。もう目と鼻の先だな。
「それじゃあな」
「うん、送ってくれてありがとう」
「おう、気にしろ」
偉そうにふんぞり返る。冗談だが。
「ふふ。うん、気にする」
「ぉう……」
こいつの返しはいちいち琴線に来るな。それにしても、よく笑うようになった。
宮野は小さく手を振り、もう一度礼を言って家に向かって歩き出した。
「……宮野」
その背に向かって呼びかけると、くるりと顔だけをこちらに向けて「なに?」という表情を浮かべる。背の中ごろまである綺麗な黒髪が、住宅街を通り抜ける風でふわりと浮いた。
「俺に下系の冗談は通じないから気をつけろよ」
これから交流する上での注意事項を、冗談めかして告げる。
いくら宮野を“遊んではいけない女”にカテゴライズしているとはいえ、“抱けない女”ではまったくない。今日みたいに冗談でも誘いに乗られると、いつまでも自分を抑えきれる気がしない。俺はそんな出来た人間でないからな。
「知ってる」
宮野は柔和に微笑んでそう言うと、踵を返して帰っていった。
「……言質は取ったぞ」
俺が間違えても文句は言うなよ。多分、失言だということも分かってないだろうが。
まあいい、なるようなる。若さには間違いが付き物だ。俺は大いに間違っていくぞ。宮野がそれに巻き込まれて泣いたとしても、危機感の希薄さが生んだものだ。もう俺には関係ない。
宮野が無事に家に入っていく姿を確認してから、俺はようやく帰路に着いた。
新入生歓迎コンパから明けて土曜日。俺は二日酔いの頭痛を引きずってバイトに出ていた。
飲み会を金曜日にやるのはセオリーだが、土曜の朝からバイトを入れている奴にとっては最悪の日取りである。これなら講義で眠れる分、平日のほうがマシだ。気乗りしなかったのはその所為でもある。
バイト先は個人経営の喫茶店『カムイ』。大学が近く、軽食も取り揃えているのでそれなりの客足がある。俺はそこでウェイターをやっている。
時給の安さに目を瞑ればまかないも出るし、茶色に染めている髪にも文句を言われないのでやりやすい。
ウチは父子家庭で、親父と俺の二人なので食事に頓着がなく、まっとうな人達から見ればかなり不健康な食生活になっている。だからここで出るまかないは、そういう意味で給料以上に価値がある。
「いらっしゃいませ」
チリンチリンと、入り口のドアに取り付けてある鈴が来客を告げた。
大学生カップルを出迎えて席に案内。昼のピークにはまだ一時間ほど間があるので、店内は比較的空いている。
しかし、頭がいたい。非常にいたい。宮野は俺よりひどいんだろうな。
「ご注文は?」
頭の鈍痛の為に、接客してはいけない顔になってそうだが、安い給料分の役割は果たそうと頑張る。
悪いな、どこぞのカップルさん。幸せな一時を邪魔してしまって。決してモテない男の僻みとかじゃないんだ。
「こうちゃんの優しさ一つ」
「はあ?」
何言ってんだこいつ。
と、ここで初めてそのカップルの顔を見ると、軽そうな女は誰か分からなかったが、男の方に見覚えがありすぎた。
俺にヤリチ○の称号をプレゼントしてくれた、サークルの部長である。
昨日のことなど忘れたわとばかりに、陽気な様で「よっ」っと手を上げてくる。
このやろう……。
「……本日のオススメは右フックとなっております」
「え、いや、聞いてた? こうちゃんの優しさを一つ頼みたいなぁ~、なんて……」
「申し訳ありませんが、当店ではそのようなボランティアは扱っておりません。それよりも春のパンチ祭りはいかがですか? あらゆる角度からのブローを取り揃えております」
「こ、怖いよ、こうちゃん」
普段、お世辞にも良いとは言えない俺の接客は、間違いなくこの時だけ輝いた。
「そ、そんなに怒るなよ。悪かったからさー」
バンバンと二の腕を叩いてくる優男。
金の長髪に、ピアスや指輪の装飾品をベタベタと装備し、見た目は俺よりもチャラチャラしている。四年なのに就職活動する気がまったく伺えない。中身も見た目どおりの節操無しである。俺以上に。
「ご注文は?」
「ちょ、どんだけ無視よ? あのくらいウィットに富んだジョークだろー。女日照りなら紹介するからさー」
「ご注文は!?」
「ち、チキンピラフを、二つで……」
ボケ。死ね。とは言わないでやった。店員的な良心で。
派手な格好をしているが結構ビビリである。誰かれ構わず気安いノリで接するので、人徳はそれなりにあるようだ。曲がりなりにも部長だからな。
「あ、あれー? ちょと、こうちゃーん?」
俺を引き止める為に何か喚いていたがスルー。厨房に戻ってオーダーを通す。
あがったチキンピラフは誰かが持っていくだろうと思って皿洗いをしていたら、マスター兼コックが話しかけてきた。
「こう君、顔色が悪いね。大丈夫かい?」
「平気っす。ちょっと二日酔いで」
マスターはとても優しくて包容力のある人だ。還暦前の滲み出る渋さがカッコイイ。
脱サラしてからこの喫茶店一本でやってきたらしく、ピラフを作る姿が堂に入っている。
「はは、若いねー。辛くなったら言うんだよ」
と言いながら、出来上がったチキンピラフを差し出してくる。白髪を揺らし、ニコニコと顔に皺を刻んで。
「マスター。俺皿洗いの途中なんですが」
無視を決め込みたいので他のバイトに頼んで下さい。
「あの子達はこう君の友達なんだろ? だったら持って行って話でもしてあげなさい。でも少しだけだよ」
マスターの優しさがヒシヒシと伝わってくる。
「……はい」
断れなかった。空気を読めないマスターの優しさが目に染みる。あ、これ洗剤だった。
悪意に等しい厚意により、俺はチキンピラフを持ってとぼとぼとホールに帰還。
「……お待たせしました」
「お帰り、こうちゃん」
湯気の立っているピラフが盛り付けられた皿二つ、一年間培ってきたウェイター技術を駆使して瞬速でテーブルに配置。
「それではごゆっくりしないで下さい」
「ちょーー!」
踵を返した途端、後ろから服を掴まれた。
「……なんすか、部長」
観念して付き合うことにする。
もうあんまり怒っていない、というか頭が痛いんだ俺は。早く開放してくれ。
「こうちゃん、昨日みやのんと帰ったんだって?」
部長も宮野をそう呼ぶらしい。まあこの人なら、百人を超えるサークルメンバー全員と交流があってもおかしくない。
「そうだけど」
「うっわ、マジで? ヤッたの?」
早く帰れ。脇目も振らず帰れ。
「いや、ヤッてないし、送っただけっすよ」
「え、何でそんな嘘吐くの? まだ怒ってんの?」
叩き出してやろうかな、この下半身が基準の男。……人のこと言えないけど。
「俺が宮野を潰しちゃったんで、その侘びで送っただけですよ」
「へぇー。一緒に飲んで、しかもヤリもせずに送ってあげたと。サークルの奴に聞いたときは嘘だと思ってたけどマジだったとはね。俺、帰らなければよかったわ。あー、見たかったなー、こうちゃんとみやのんの絡み」
まあ部長が信じられないのも無理はない。俺自身、宮野と絡むなんてないと思っていたからな。
ヤリもせず送った事に驚かれるのは突っこみたいところではあるが、概ね間違っていないので閉口した。
「ふ~ん」
部長がニヤニヤと殴りたくなるような顔で見上げてくる。
「……なんすか?」
「いやあ、あんな清純そうな子を彼女にするとは、こうちゃんもついに落ち着いたのかねー」
お前だけには言われたくない。むしろお前が落ち着け。その金髪とか。そこのチャラい女とか。
「彼女もなにも、付き合ってないすから」
「え、そうなん? 予定は? 落とし中?」
「予定もないし、落とそうともしてない」
何故か部長はこの話題に興味津々だ。何にでも喰いつく人ではあるけれど。
「こう君。ちょっといいかい」
「あ、はーい」
マスターが厨房から顔を覗かせていた。仕事に戻らねば。
「じゃあ部長、また」
「はいよー、頑張ってなー」
何か別の意味で応援された気がしないでもないが、これ以上喋っていてはマスターに迷惑がかかる。
客が引けた卓から、空いた食器類をトレイに回収して厨房に戻ると、マスターがフライパンを振りながら俺に目を向ける。
「こう君。ちょっと早いけど昼休憩にしなさい。まかない、良かったらあの子達とホールで食べるかい?」
あの子達というのはもちろん部長のことを指しているんだろう。こんな融通、普通のファミレスでは考えられないことだろうが、個人経営だからなんでもありだ。しかしそれもマスターの人柄あってのこと。早めの休憩も、俺を気遣ってくれたんだろう。
マスター愛してる。時給が安くても全然いいわ、ほんと。
「休憩室で食べますからお構いなく」
「そうかい? じゃあ出来たら呼ぶね」
「はい」
少し頭痛が収まった気がする。
もう一度マスターに無言のラブコールを送り、休憩室に入っていくと、ポツンと俺一人だけ。
この時間帯のバイトは俺含め三人しかいないから、休憩は誰とも被らないのが常だ。
ロッカーから携帯電話を取り出し、着信を確認する。こういう時は手持ち無沙汰になるので、自然と携帯を弄ってしまう。一種の現代病だな。
「……お」
メールの通知があったので受信ボックスを開いてみると、差出人に宮野文とあった。
今の今まで、アドレスを交換したことを忘却していた。さっきの部長の冷やかしといい、宮野が俺の中でちょっとした注目株になっている。
パイプ椅子に腰掛け、紙コップに入れておいた水を飲みながらそのメールを開くと。
「ぶっ」
吹いた。いや吹きかけた。危うく惨事は免れたが、鼻の奥がツンとする。
タイトル無題。本文『頭いたい』
それだけかよ。なんて飾らない初メールなんだ。とても同年代の女のメールとは思えない。
「ははっ、おもしろい女」
おかげでこっちの頭痛は吹っ飛んだ。返信は『知らねーよ』だな。