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第二十章 エンドロール

神に招かれた夜から、さらに時が流れた。

冬が過ぎ、春が来て、気づけば映画の公開から半年以上が経っていた。

『悪役令嬢』は、国内外の映画館で上映され続けていた。

二百十分という上映時間にもかかわらず、客足は衰えを見せなかった。

むしろ、時間が経つにつれて、口コミで広がっていった。

見た人が、また別の誰かを連れてくる。

そうやって、じわじわと広がっていく映画だった。

大きな宣伝をしなくても、必要な人のところへ届いていくような、そんな広がり方をしていた。

受賞会見や取材が一段落した頃、わたくしは久しぶりに、何も予定のない日曜日を迎えた。

朝、リビングでコーヒーを飲んでいると、父が珍しく早い時間に部屋から出てきた。

外出着を着ていた。

それ自体は珍しくないが、その日の父はどこか違う空気を纏っていた。

 

「美月、付き合え」

 

それだけ言って、父は玄関へ向かった。

行き先も、何をするかも告げない。

わたくしは、コーヒーカップを置いて、慌てて上着を手に取った。

父の運転する車に乗り、しばらく走った。

助手席から外を眺めると、見慣れた街並みが流れていく。

父は、何も喋らなかった。

わたくしも、沈黙のまま、窓の外を見ていた。

車が止まったのは、街の中心部にある映画館の前だった。

昔から続く老舗の映画館で、わたくしが子供の頃から何度も来た場所だ。

こじんまりとしているが、音響と映写の設備にこだわる、通の間では知られた映画館である。

 

「ここに来るのは、久しぶりです」

 

思わず声に出すと、父は短く頷いた。

チケット売り場の前に立った時、わたくしは上映スケジュールを見て、息を呑んだ。

『悪役令嬢』の文字が、そこにあった。

公開から半年以上が経った今も、この映画館では上映が続いていた。

父が、チケットを二枚購入した。

わたくしは、何も言えないまま、父の後に続いた。

ロビーを歩きながら、わたくしは自分の映画を見に来た観客の顔を、初めてきちんと観察した。

これまで試写会や上映後のイベントでは、関係者や映画評論家と接することが多かった。

しかし今日は、ただの観客として、この場所に来ている。

中高年の夫婦。

一人で来ている若い女性。

友人同士らしい大学生くらいの二人組。

様々な人々が、チケットを手にロビーを歩いていた。

上映室に入ると、すでに多くの席が埋まっていた。

父は、中ほどの席に腰を下ろした。

わたくしも、その隣に座った。

照明が落ち、スクリーンが光を持ち始めた。

自分の映画が始まる瞬間を、こんなふうに客席から眺めるのは初めてのことだった。

試写会の時は、観客の反応を確認するため、後方に座っていた。

カンヌの時は、緊張で映像を見る余裕がなかった。

今日は違った。

ただ、一人の観客として、スクリーンを見つめることができた。

映画が始まった。

冒頭の夜会の場面が流れる。

シャンデリアの光、絢爛なドレス、華やかな音楽。

それらがゆっくりと映し出された後、主演女優の顔がアップになる。

隣の席から、小さな息を呑む音がした。

父の隣に座っている中年の女性だった。

映画が始まってすぐに、もう引き込まれている。

婚約破棄の場面になった。

主演女優の表情が変化していく、あの繊細な演技の場面だ。

上映室の空気が、静かに変わった。

観客全員の呼吸が、わずかに浅くなったような気がした。

わたくしは、スクリーンではなく、客席を見渡した。

前の列に座っている若い女性が、いつの間にか身を乗り出していた。

斜め前の男性は、腕を組んだまま、微動だにしない。

裁判の場面に差し掛かった頃、わたくしは自分の目が潤んでいることに気づいた。

自分で撮った映画を見て泣きそうになるとは、思っていなかった。

しかし、客席から眺めることで、これまでとは全く違う角度でこの映画が見えた。

撮影中は、一つ一つの場面を作ることに必死で、全体を感じる余裕がなかった。

編集中は、素材を繋ぐ技術的な作業に集中していた。

試写会では、観客の反応を観察することに意識が向いていた。

しかし今、ただの観客として見ているこの映画は、どこか別の作品のように感じられた。

自分が作ったはずなのに、初めて見るような感覚がある。

処刑の場面が近づいてきた。

撮影中に倒れた、あの場面だ。

主演女優が処刑台の階段を上っていく映像が流れ始めると、上映室のあちこちで、微かな音が聞こえた。

泣いている人がいた。

前の列の若い女性が、静かに涙を拭っていた。

後ろの席からは、鼻を啜る音が届いてくる。

斜め前の男性は、相変わらず腕を組んだままだったが、その肩がわずかに動いていた。

主演女優が、処刑台の上から群衆を見渡した。

そして、あの言葉を告げた。

 

「誰か……わたくしの話を、聞いてください」

 

その声が、上映室に響いた瞬間、わたくしの胸が締め付けられた。

撮影中、何度も聞いたはずのその声が、今この場所では全く違う響きを持っていた。

前世のリリアーナが、あの処刑台の上で叫んだ言葉が、この声の中にある。

映画という嘘の形を借りて、真実の声がここに存在している。

エンドロールが流れ始めた。

上映室の中に、静かな音楽が満ちた。

誰も立ち上がらなかった。

席を立てない人々が、エンドロールの最後の一文字が消えるまで、その場に留まっていた。

照明がゆっくりと戻ってきた。

観客たちが、少しずつ動き始める。

目を赤くしている人が、あちこちにいた。

隣の中年女性は、ハンカチを目に当てたまま、しばらく動けずにいた。

前の列の若い女性が、連れの人に何か囁いた。

声は聞こえなかったが、その表情は穏やかだった。

泣いた後の、どこか晴れ渡ったような顔をしていた。

観客たちがゆっくりと退場していく中、父とわたくしは席に残っていた。

父が先に立ち上がる気配もなく、わたくしも動かなかった。

空いていく上映室の中で、二人並んで、暗くなったスクリーンを眺めていた。

しばらくして、父がゆっくりと立ち上がった。

わたくしも、それに続いて立ち上がった。

上映室を出ると、ロビーには次の回の上映を待つ観客が集まっていた。

様々な年代の人々が、チケットを手に待っている。

今日もまた、この映画を見に来た人たちがいる。

父は、ロビーを抜けて外へ出た。

映画館の前の広場に、春の陽光が降り注いでいた。

風が、穏やかに吹き抜けていく。

父は、映画館の前に立ち、少し離れた場所から建物を眺めた。

わたくしも、その隣に並んだ。

しばらく、二人とも黙っていた。

父の横顔を、わたくしは静かに見つめた。

今日の父は、何かを考えているというよりも、何かを確かめているような表情をしていた。

やがて、父が口を開いた。

 

「映画は、何だった」

 

静かな問いかけだった。

それが試験でも、哲学的な問答でもないことは、声のトーンで分かった。

ただ、娘に聞きたかっただけなのだろうと思えた。

わたくしは、少し考えた。

これまでの映画人生を、頭の中でゆっくりと辿った。

幼い頃に見た、最初の映画のこと。

処刑台の記憶を脚本に書き込んだ夜のこと。

処刑シーンの撮影で倒れた時に父が抱き締めてくれたこと。

カンヌのテラスで見た、地中海の星空のこと。

神に招かれた夜に見た、前世の再審の光景のこと。

そして今日、客席から見た、観客たちの泣き顔のこと。

答えが、静かに言葉になっていくのを感じた。

 

「昔は、娯楽だと思っていました」

 

父は何も言わず、続きを待った。

 

「もっと後には、真実を届けるための手段だと思っていました」

 

少し間を置いて、続けた。

 

「でも、今は違います」

 

父の視線が、わたくしへと向いた。

わたくしは、映画館の建物を見上げながら、言葉を探した。

今日、客席で見た観客たちの顔が、まぶたの裏に浮かんでいる。

涙を拭う手。

身を乗り出した姿勢。

エンドロールが終わっても席を立てない人々。

あの瞬間、スクリーンの中の物語と、客席の人々の人生が、どこかで繋がっていた。

前世のリリアーナの孤独が、見知らぬ誰かの孤独と共鳴していた。

誰にも届かなかったあの声が、今日この場所で、確かに誰かの胸に届いていた。

 

「映画は、人の人生を未来へ残すものです」

 

口にしてから、その言葉が自分の中から来たものだと気づいた。

誰かに教わったわけでも、どこかで読んだわけでもない。

今日、この場所で、初めて自分の言葉として生まれたものだった。

 

「前世のリリアーナは、誰にも聞いてもらえないまま死にました」

「でも今日、あの映画館の中で、知らない人たちが泣いていました」

「リリアーナの人生が、この時代のこの場所で、誰かの心の中に生き続けています」

 

そこまで言って、声が微かに揺れた。

わたくしは、一度深く息を吸い込んでから、続けた。

 

「映画がなければ、リリアーナの人生はあの処刑台の上で終わっていました」

「でも映画は、その人生を未来へ持ち越してくれた」

「時代が変わっても、世界が変わっても、スクリーンの上で生き続けられる形にしてくれた」

 

父は、わたくしの言葉を黙って聞いていた。

春風が、二人の間を通り抜けていく。

 

「娯楽でも、芸術でも、武器でもなく」

「映画は、人の人生を未来へ残すものなのだと、今日はっきりと分かりました」

 

言い終えた後、わたくしはどこかが緩んだような感覚を覚えた。

長い間、胸の奥に積もっていたものが、言葉になって出ていったような感覚だった。

父は、しばらく黙ったままだった。

映画館の建物を見上げ、それから空を見上げ、最後にわたくしの顔を見た。

その目に、かつて見たことのない光が宿っていた。

誇りに近い何かだった。

しかし、それを誇りと呼ぶには、もっと深く、もっと静かなものだった。

父は、ゆっくりと頷いた。

 

「そうだな」

 

それだけだった。

たったそれだけの言葉だったが、父がそう言ったことの重みを、わたくしは全身で受け止めた。

映画は嘘をつく。

だからこそ、真実を映せる。

父が長年抱き続けてきた信念の言葉が、今日のわたくしの答えと、どこかで繋がっている気がした。

父が歩き出した。

駐車場へ向かう足取りは、いつも通りの落ち着いたものだった。

わたくしは、その後に続きながら、もう一度だけ映画館を振り返った。

建物の外壁に、上映中の映画のポスターが貼り出されている。

『悪役令嬢』のポスターが、その中の一枚として並んでいた。

主演女優が、処刑台の前に立っている場面の写真が使われていた。

その目は、真っ直ぐに前を向いている。

絶望でも、諦めでもなく、それでもまだ誰かに届けようとしている目だった。

あの目の奥に、前世のリリアーナがいる。

処刑台の上で誰にも届かなかった声が、今もあの目の中で生き続けている。

ポスターから視線を外し、わたくしは父の後を追った。

春の陽光が、街全体を柔らかく包んでいた。

これからまた、新しい映画を作っていく。

あの夜に神が見せてくれた、前世の侍女の姿が頭に浮かんでいた。

誰にも届かなかった声は、リリアーナだけのものではなかった。

次は、別の誰かの声を届けることができるかもしれない。

映画監督としてのわたくしの仕事は、続いていく。

前世の記憶が、今世の生を豊かにしている。

その豊かさを、スクリーンという形で残し続けていく。

駐車場に着くと、父が車のキーを取り出した。

助手席のドアを開ける前に、わたくしは空を見上げた。

春の空は、高く、澄んでいた。

前世で最後に見た青空とは違う、穏やかで優しい青だった。

あの日の空は、わたくしの人生が終わる日の空だった。

今日の空は、これからも続く人生の途中の空だ。

同じ青でも、まるで違う色に見えた。

父が、エンジンをかけた。

わたくしは、ドアを閉めながら、深く息を吸い込んだ。

車が走り出した。

映画館が、バックミラーの中で小さくなっていく。

今も、あの建物の中では、映画が上映されているだろう。

知らない誰かが、スクリーンを見上げている。

前世のリリアーナの声が、その人の胸に届いているかもしれない。

誰かの人生の中に、この映画が存在し続けていく。

それだけで、十分だった。

それ以上の何も、必要なかった。

助手席の窓から、流れていく街の景色を眺めた。

桜の花びらが、風に舞って散っていく。

その花びらが、光の中でゆっくりと落ちていく様子は、どこかエンドロールのようだ。

前世の物語は、今日ここで静かに幕を閉じる。

しかし、映画は続いている。

スクリーンの上で、何度でも、誰かの前で始まりを迎えながら。

窓の外の光を受けながら、わたくしは静かに目を閉じた。

春風の音が、遠くから聞こえてくる。

それはどこか、エンドロールを流れる音楽に似ていた。



終幕




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