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両手に提げた紙袋の重みは、確かな「獲得」の証明だ。
シルクのブラウス、ガラスの花瓶、ボルドーの紅、そしてマンゴーのタルト。
これらは私の生活という静かな水面に投げ込まれた、完璧な造形を持つ石たちである。それらが沈んでいくにつれ、私の内側にある空洞が少しずつ、論理的に埋まっていく感覚があった。そうして、至福の時を何度も、何度も、噛みしめるように楽しむ。
立ち止まり、友人達からのチャットを見る。いつも通り、かなり溜まっている。丁度週末は、親友の美彩が旅行から帰ってくる。私の家で気の合う4人でお喋りしながら、美味しい物を食べ合うのがルーティンだ。チャットを返した後、寄り道せずに真っ直ぐ駅へ向かう。マンゴーのタルトが腐ってしまう前に早く帰らないと。涼しくなってきたとはいえ、まだまだ油断ならない、不安な時期だ。
駅へと続くメインストリートは、帰路に就く人々で溢れている。
私はその雑踏の隙間を、計算された歩幅で縫うように進む。
誰とも視線を合わせず、誰の肩にも触れない。
それは私にとって、呼吸をするのと同じくらい自然で、無機質な作業だった。
しかし、1人の歩きスマホをしている女性が、歪な男性に肩を激しくぶつけられ、転倒した。私は彼女が落としたスマホ踏まないように通り過ぎる。
信号待ちの列の先頭に立ったとき、一台の黒いセダンが目の前の車道に滑り込んできた。
磨き上げられた黒の塗装。街灯の光を鋭く反射するその金属光沢は、周囲の埃っぽい景色の中で、唯一、私の視覚的基準に合格する質感を持っていた。ドイツ製の高級車。その冷徹な輪郭を、私は淡々と眺めていた。邪魔ね。
不意に、後部座席の窓が、重厚な音を立てて下がった。
「……おい、お前。もしかして……結菜か?」
鼓膜に届いたその声は、私の記憶の底に沈殿していた泥をかき乱した。
視線を向けると、そこには一人の男が座っていた。
十年前、私の日常という空間を、執拗に、そして暴力的に侵食し続けた男。私を「人間」としてではなく、ただの「反応する肉塊」として扱いいじめていた、男だった……はず。
男の隣には、完璧なまでにメイクを施した女性が座っている。彼の妻だろうか。そして、こいつと妻の間には、幼い歪つな子供がいた。
男は私と目が合うと、一瞬だけ、苦い薬品を飲み下したような、決まずそうな顔をした。
しかし次の瞬間、その表情は「成功者の慈悲」という安っぽいメッキで上書きされる。
「おい、ちょっといいか?」
車が縁石に寄る。
彼はドアを開け、歩道に降り立った。仕立ての良いスーツ。重厚そうな腕時計。彼を取り巻く空気は、かつての粗野な暴力性から、洗練された傲慢さへと変質していた。
「久しぶりだな。……あの時は、まあ、その、悪いことをしたと思ってるよ。若気の至りというかさ」
男の口から出た言葉は、何の色彩も持たない記号として空中に霧散した。
謝罪。反省。更生。
それらは彼自身の良心を慰撫するための独り言に過ぎない。私にとっては、路上の排気ガスと何ら変わりはなかった。早く退け。
「これ、受け取ってくれ。俺、今はこういう事業をやっててさ。もし何か困ったことがあったら、力になれると思うから。せめてもの、昔の罪滅ぼしだ。それになにかもし、困ったことがあったら、力になれると思う」
男はポケットから革のケースを取り出し、一枚の名刺と、何かの招待券を差し出してきた。
彼の経営しているという事業のプロモーションチケットだろうか。
私は無言で、それを受け取った。
指先に触れる紙の質感を確かめる。安っぽい光沢紙。私の選んだシルクやガラスとは、分子レベルで相容れない粗悪な物質だった。
「じゃあな。元気でやってろよ。……ほら、お前も挨拶しろ」
こいつの妻が軽く挨拶をしてくる。
男は車内に戻り、隣に座る歪な子供の頭を、自慢げに撫でた。
子供は、焦点の合わない、それでいて何かを激しく憎んでいるような濁った瞳で、私をじっと見つめていた。その視線には、生理的な嫌悪感を催させる「粘り」がある。
やがて黒いセダンは、高級なエンジン音を低く響かせながら、都会の闇の中へと消えていった。
私は立ち止まったまま、手の中の紙片を見つめる。
男が去った後の空気には、彼の浅ましい自己満足の臭いと、あの子供から感じた「歪み」の残滓が漂っているような気がした。
私は、十数歩歩いた場所にある公衆のゴミ箱へと歩み寄った。テロだとか言われて一時期減ったが、まだ残っている存在だ。
中には、誰かが飲み干したエナジードリンクの缶や、ぐしゃぐしゃに丸められた無料配布のチラシが未分別で詰め込まれていた。
私は躊躇することなく、男から渡された名刺と招待券を、その汚物の中へと滑り込ませた。
指先が微かに汚れたような感覚がある。名刺がゴミの山に触れた瞬間、私は名状しがたい嫌悪感を覚えた。
あの男の指。あの歪な子供。それらが紙片を通じて私の皮膚に転移してきたような錯覚。いえ、確かに指先が微かに汚染された感覚だった。
せっかく完璧な買い物を謳歌し、内面を整理整頓したというのに。
すぐにアルコールティッシュで拭いた。仮除菌だ。帰宅したら、まずは念入りに手と体、口内を洗わなければならない。その後、アルコール綿で指先を徹底的に消毒する。それでも足りなければ、今日買ったばかりのボルドーの紅を塗り、鏡の中の自分を「更新」しなければ、この不快感は消えないだろう。その工程が増えることを考えると、酷く非効率で、ひどく不快だった。歪が感染していないといいけれど。
十年前も、そして今日という日も。
あの男は、ただただ、ウザかった。
私は紙袋を持ち直し、歩き出す。
消毒液の冷たさを風で感じながら、私周囲の人間も、街の喧騒も、今の私には背景に過ぎない。
私は、私だけの完璧な秩序を守るために、夜の街を滑らかに通り過ぎ、平穏な日常を取り戻していく。




