魔王3
やるべきことをやるだけだ。毎回、毎回。例えそれがどんなに無意味に思えようが、滑稽に見えようが。笑いたければ笑えば良い。私にできることは、もはやこれしかないのだから。世界から「魔王」と呼ばれ、畏怖の対象となった今でさえ、私はあの頃と同じように、一振りを繰り返している。
戦場に立てば、私はいつもボコボコにされてきた。敵は眩いほどに多彩な技を繰り出し、魔法を編み、変幻自在に私を翻弄する。太刀打ちなど、最初からできるはずもなかった。打ち据えられ、地面を這い、泥水を啜りながら、私はいつも惨めに逃げ帰った。鏡に映る自分は、これ以上ないほどに情けない。
多くの人は私を「馬鹿の一つ覚え」と嗤う。芸がない、不器用、同じことしかできない……。ああ、その通りだ。能無し、いくじなし、ウスノロ。並外れた身体能力も、他を凌駕する頭脳もない。私は、仲間内でも常に最底辺だった。
ただ、私には師匠がいた。師匠は、私が戦場で手も足も出なかった敵たちと同じようにいやそれ以上に、万の理を操る剣の天才だった。その剣筋はどこまでも美しく、あまりに遠かった。敗北して這い戻るたび、師匠は何も言わなかった。慰めも、叱責も、励ましさえもない。ただ静かに、私が再び剣を握るのを待っていた。
私たちは、剣で会話をしていた。寡黙なあの人が何を言いたいのか、剣を交えている最中だけは、なんとなく分かる気がした。だからこそ、私は必死だった。師匠の技を、敵の鮮やかな剣捌きを、見よう見まねで盗もうとした。
何度も、何度も、血を吐くような思いで真似をした。だが、今に至るまで、それらが私の身につくことは一度としてなかった。私の手足は泥のように重く、私の脳は彼らの閃きを捉えきれない。器が違うのだ。
師匠は、そんな私の無様な様子を、ただ悲しそうな目で見つめていた。無言のまま、私の鈍い一振りをいなす。その瞳の奥にある揺らぎが、剣を通じて伝わってくる。
「お前は、私と同じ場所には来られない」
そう言われているようで、私も悲しかった。師匠の葛藤が分かるような気がした。本当は私に、もっと自由で、もっと華やかな世界を見せてやりたかったのではないか。私という出来損ないの弟子に、自分のすべてを継承させたかったのではないか。
交わした剣の重みから、師匠のそんな諦念と情が流れ込んでくる。それが何より辛かった。期待に応えられぬ己の無才が、喉の奥を焼くように熱い。
だが、そうではなかったのだ。師匠は初めからすべてを見越していた。分かっていたのだろう。剣とは、技術や模倣の先にある己そのものなのだと。師匠自身もまた、かつて私と同じ地獄を這い、同じ絶望を噛み締めた経験があったのかもしれない。
ある日、師匠と剣を交えていた時のことだ。得も言われぬ違和感が私を襲った。あの当時、私は迷走の最中にあり、己の弱さにどうしようもないほど打ちひしがれていた。そんな私を、師匠はいつものように翻弄していた。だが、ふと見えた師匠の口元が、微かに、本当に微かに微笑んでいるような気がしたのだ。強烈な違和感だった。変だ、と思った。なぜこんな無才の弟子を相手に、あんな顔をするのか。当時の私には、その意味がどうしても分からなかった。
翌朝、師匠は忽然と姿を消していた。私は驚愕し、半ばパニックになりながら、風の噂だけを頼りに師匠の行方を追った。必死だった。あの微笑の意味を問わねばならないと本能が叫んでいた。
けれど、間に合わなかった。ようやく辿り着いた時、師匠はすでに事切れていた。その胸を深く貫いていたのは、眩いばかりの正義が残した光の残滓だった。高名な勇者の剣筋が、師匠の命を鮮烈に断ち切っていたのだ。
だが、その死に顔を見て、私は息を呑んだ。
師匠は、微笑んでいた。
それは驚くほど爽やかで、ゾクッとするほど美しい表情だった。あの日、私と手合わせをしていた時に見せた、あの微かな微笑と同じ類のもの。その顔を見た瞬間、私の中の風景が、訓練の意味が、ガラリと音を立てて書き換わった。過去が、濁った絶望から透明な肯定へと改変されていく。
師匠は、最初からずっと私を肯定していたのだ。あの悲しそうな目は、私の無才を嘆いていたのではない。私との、来るべき別れを惜しんでいたのだ。
「お前は、そのままでいい」
「剣とは、お前自身だ」
そう言われているような気がした。そんなのただの錯覚だと、都合の良い妄想だと言われるかもしれないが、でも、何となくそんな気がしてならなかった。師匠の亡骸を前にして、不思議なほど怒りは湧かなかった。ただ、私の中で何かが決定的に変わった。
私は、己の愚かさを嘆いた。なんと、なんと愚かだったのだろう。剣を通じて会話をしている気になって、勝手に絶望し、勝手に独りよがりの悲しみに浸っていた。師匠は、最初から最後まで、変わらず私という存在を肯定し続けてくれていたというのに。
私は、より深く剣へとのめり込んだ。かといって、急に目覚ましい成長を遂げたわけではない。何か特別なことができるようになるわけでもない。私にできるのは、相変わらず一つのことだけだ。師匠の鮮やかな技など、逆立ちしたって継げるはずがない。
私は、同じことを気でも狂ったかのように繰り返した。傍から見れば、滑稽極まるバカに見えただろう。ボコボコにされても、いくら惨敗を喫しても、私は同じことしかしない。いつまで経っても弱いまま。結局、何も変わらないではないか。
投げ出したくもなった。寝ても覚めても剣を打ち込み、暇さえあれば型をなぞる。それなのに、砂粒一つの強ささえ手に入らない。剣を置きたくなったことは、一度や二度ではない。何度、もう辞めてしまおうとしたことか。両の手では数え切れないぐらいに、私は逃げ出そうとした。 剣から、自分自身から、そしてがんじがらめに巻き付いたこの呪いじみた運命から。だが、心が揺らぐたび、あの微笑みが脳裏にこびりついて離れなかった。
あれだけが、どうしても分からなかった。なぜ、私に。あんな、何も持たない、何も成せない、弱々しい私に、あの人は微笑んだのか? あの一流の勇者と対峙している時に向けた、極致の美しさを湛えた笑みを、なぜ私のような出来損ないに向けたのか。
答えが出ないまま、私はただ剣を振るい続けた。そうして月日が流れた。徐々に、本当に、砂時計の最後の一粒が落ちるのを待つような緩やかさで、私は強くなっていった。 誰も気づかない。私自身ですら、最初は気づかなかった。
だが、ふとした瞬間にゾクっとした。私の振るった、何の変哲もないはずの一振り。その軌跡の先に、死んだはずの師匠の眼差しを感じたのだ。まるで、あの人はこの場所を知っていたかのようだった。私がいつか、この狂った反復の果てに、誰も見たことのない景色に辿り着けるであろうことを。
恐ろしい。どこまで見えていたのだろうか。師匠だけが、私がこうなることを予見していたのだ。
この孤独な修行を、私は今も続けている。あの時と比べて、確かに私は強くなった。だが、世界が劇的に変わったわけではない。できることが急に増えたり、魔法のような力が宿ったりすることもない。ただ、剣が少しばかり上手くなった。その分量だけしか、私は成長していない。
世の中には、どうにもならないことが溢れている。剣の軌跡が少し鋭くなったところで、理不尽な運命に対抗できるようになるわけではない。腹が減れば力は落ちるし、斬られれば血が出る。かつて私をボコボコにした者たちが持つ、あの多彩で華やかな力に、私が並んだわけでもない。
ただ、一つだけ変わったことがある。剣を振っていると、不意にすべてが消える瞬間があるのだ。
目の前の相手が消える。振るうことの意味が消える。雑多な騒音も、目に刺さる光も、過去の悔恨も未来への不安も、すべてが背後へと遠ざかっていく。
そこにあるのは、ただ一点。私の腕の延長として、空気を断つ鋼の感触だけだ。師匠が言っていた剣とは己そのものという言葉の意味が、今は少しだけわかる気がする。己をどこまでも削り、不純物を振り落とし、無才という名の原石をただひたすらに磨き続けた結果、最後に残ったのがこの空虚な一振りだった。
何も手に入らなかった。何も変えられなかった。けれど、この消失の瞬間にだけは、私は何者にも縛られない。
ゾッとするほど静かな世界。 師匠が最期に見ていた景色も、これと同じだったのだろうか。
私は、またゆっくりと剣を構える。もはや強くなるためではない。ただ、この静寂の中に、師匠の微笑みの残滓を探すために。
かつて師匠を討った高名な勇者の系譜を継ぐ者が、目の前に立っている。 勇者の剣は、かつての敵たちがそうであったように、眩い魔法の光を纏い、神速の連撃となって魔王を襲う。
魔王の体は、ボロボロだ。かつて戦場で泥水を啜った時と何も変わらない。 だが、魔王の瞳には絶望も怒りもない。ただ、師匠が最期に辿り着いた、あの透き通った世界だけが見えている。
勇者が奥義を繰り出そうと、光を収束させたその刹那。 魔王は、一生をかけて数百万回、数千万回と繰り返してきた、何の変哲もない、ただ真っ直ぐに振るだけの型を繰り出す。
光が裂ける。 勇者の神速が、泥臭い一振りに捉えられる。 驚愕に目を見開く勇者に対し、魔王はかつての師匠と同じ、ゾクッとするほど美しい、穏やかな微笑みを浮かべて告げた。
「……ああ、ようやく分かった。あの日、師匠がなぜ笑ったのか。君の剣は、あまりに眩しく、多彩で、美しい。かつての私なら、その才能に嫉妬し、己の無力さを呪ったことだろう」
「だが、今の私には……これしかない。運命とは実に……数奇で皮肉なものだな。君のような万の技も、奇跡の魔法も、私には一つとして扱えなかった。ただ、この鈍い一振りを、愚直に繰り返すことしかできなかった。しかし、その空っぽな積み重ねが……今、君の積み上げたすべてを追い越してしまった」
「お見事。――だが、私の、私たちの”退屈な”生は、君の光よりも少しだけ重かったようだ」




