第8話 夜明けの旅立ちと、猫耳の少女との約束
夜の静寂がまだ森を支配し、東の空がわずかに白み始めた頃。
獣人の集落が深い眠りについている薄暗い客間で、千代女はただ独り、一切の物音を立てることなく手早く身支度を整えていた。
我が半身たる愛刀『無銘』を腰に差し、分けてもらった最低限の水と日持ちのする食料だけを丈夫な布に包んで背負う。
別れの挨拶はしない。
情に流され、恩着せがましく見送られるのは、彼女の性に合わなかった。
水鳥が跡を濁さず飛び立つように、ただ風のように現れ、風のように去るのが侍の美学というものである。
(短い間であったが、世話になったな。……皆、達者で暮らせよ)
心の中で短く礼を言い、千代女はひっそりと影に溶け込むようにして、集落の巨大な門へと歩を進めた。
だが、その門の前に辿り着いた時――。
「千代女お姉ちゃん。なんで、黙って行っちゃうの」
夜明け前の冷たく澄んだ空気を震わせて、ひどく悲しげな声が響いた。
驚いて顔を上げると、門の前には、寒さに肩をすくませたミアがポツンと立っていた。
いや、彼女だけではない。
その後ろには族長のガロン、妻のルミアをはじめ、見知った集落の戦士たちまでもが、赤々と燃えるたいまつを手にずらりと並び、千代女を待ち構えていたのだ。
「……気づかれておったか。葉擦れの音すら立てず、気配は完全に絶っていたつもりだったのだがな」
「猫獣人の鼻と耳を舐めないでください。お姉ちゃんが旅立つ準備をしてるのなんて、衣擦れの音と匂いで、昨日の夜からバレバレでしたよ」
目を真っ赤にして、恨めしそうに唇を尖らせるミア。
その言葉に、千代女は珍しくバツが悪そうにポリポリと頬を掻いた。
ガロンがゆっくりと前に進み出て、千代女の前に立つ。
その分厚い手には、丁寧に折り畳まれた上質な布と、小さな袋が握られていた。
「千代女殿。我らは最初、人間なんて森を荒らす忌むべき敵だと……そう思っていた。だが、千代女殿は違った。たった数日であったが、貴女という裏表のない真っ直ぐな武人と酒を酌み交わせたこと、我ら一族の誇りだ。……いつでも、また帰ってくるんだぞ」
「ガロン殿……」
「これは、我らからの餞別だ。どうか受け取ってくれ」
ガロンから手渡されたのは、猫獣人特産の貴重な毛織物で作られた、深い緑色の丈夫なマント。
そして、少し不格好な刺繍が施された、小さな布袋だった。
「そのお守りは、私が作ったんです。……お姉ちゃんに、森の精霊様の加護があるようにって、一生懸命祈りました」
ミアが照れくさそうに、しかし誇らしげに胸を張って言う。
千代女は、その温かい手作りのお守りを両手で包み込むように受け取ると、大切に懐の奥へとしまい込んだ。
そして、渡された深い緑色のマントをバサリと翻し、己の肩に羽織る。
異世界の風土に合ったその布地は、驚くほど軽く、そしてじんわりと温かかった。
「うむ、軽くて良いマントだ。心遣い、感謝する」
千代女が満面の笑みを浮かべた、その時だった。
夫の隣で見守っていたルミアが、静かに一歩、前に進み出た。
「ルミア殿……?」
不思議そうに首を傾げる千代女を、ルミアはふわりと、愛おしいものを包み込むように優しく抱きしめた。
甘く、安らぐような花の香り。獣人特有の高い体温が、朝の冷気に冷え切っていた千代女の身体をじんわりと温めていく。
「あなたは、ミアの恩人であると同時に、もう私の愛娘よ」
耳元で囁かれたその言葉に、千代女はわずかに目を見開いた。
幼い頃からただ強さだけを求め、剣の道にのみ生きてきた彼女にとって、母親の無償の愛情というものは、ひどくむず痒く、けれど決して不快ではない感覚だった。
千代女は少しだけ目を伏せ、ルミアの背中にそっと、自分の手を添え返す。
「温かい……ルミア殿、ありがとうでございまする」
普段の武張った口調からポロリとこぼれ落ちた、年相応の少女のような、たどたどしくも柔らかな声。
「千代女お姉ちゃん!」
たまらず、今度はミアが駆け寄って千代女の腰にギュッと抱きついた。
小さな肩が、堪えきれずに震えている。
だが、ミアはすぐに顔を上げ、腕で乱暴に涙を拭うと、真っ直ぐに千代女の涼やかな瞳を見つめ返した。
「私、もっともっと強くなります! 弓も魔法もたくさん練習して、誰にも負けないくらいに! だから……いつかまた、絶対に強くなって会いに行きます!」
それは、幼い少女なりの揺るぎない決意表明だった。
ただ守られるだけの弱い存在から、恩人の大きな背中を追う強き者へ。
その瞳に宿る、決して折れない力強い光を見て、千代女の胸の奥で心地よい高揚感が弾けた。
「ほう。……ならば、楽しみに待っておるぞ。いつか某の刃と真っ向から打ち合えるほどの猛者に成長したならば、いの一番に立ち合いを所望しよう」
「ええっ!? た、立ち合いはちょっと……痛いのは嫌です!」
慌ててぶんぶんと顔がブレるほど首を振るミアに、ガロンやルミアたちが堪えきれずにドッと吹き出した。
森の入り口を包んでいたしんみりとした別れの空気は、いつの間にか、夜明けの空のように温かく朗らかな笑い声へと変わっていた。
「では、往くか」
千代女は身を翻し、集落を背にして力強く歩き出す。
目指すは、一人で軍勢と渡り合う強き者たちが集うという『冒険者ギルド』がある人間の街。
やがて、太陽が東の山の稜線からゆっくりと顔を出し、新たな旅立ちの道を黄金色に眩しく照らし始めた。
日ノ本で剣を極め、死に場所を求めていた剣神。
彼女の未知なる世界での『死に場所』――いや、真なる『生きる場所』を探す果てしない旅が、今、希望の光と共に本格的に幕を開けたのである。




