水一杯の命
僕はヒーローになりたかった。
小さな頃、テレビの中、ゲームの世界で見た英雄たち。
手からビームを出す奴も居れば自分の背丈よりも大きな剣を振り回す奴も居た。
どいつもこいつも絶対に人類を裏切らない。絶対に悪を打ち負かして平気な顔で笑っている。
何処までも強くて頼りになる。そんなヒーローに僕は憧れた。
でもこの世界には人類を支配しようとする悪の組織も居なければ、巨大な怪獣も居ない。
ある程度世の中の事が分かり始めた頃、僕の夢は叶わないと知った。
こんな大げさに言ってみたけれど、同じような経験、大半の人にはあると思う。
その大半の人たちは叶わない夢は捨てて普通の大人になる。
ヒーローや、魔法使い、サッカー選手、歌手。そんな夢を目指していた少年少女も今じゃ週末のビールを目指して生きている。
僕ももれなくそのうちの一人。
こうして言葉にしてみるととても残酷に聞こえる。でも心のどこかでまだ自分の人生何かあるんじゃないかと思って生きている。いわば夢の奴隷。
でも、あの時の君は違った。
それはある日の仕事終わり。ふらっと寄った小さな飲み屋。
カウンター席のみが六席並ぶその店の一番奥に通された。
その隣。いかにも常連といった振る舞いをする一人の女性が居た。僕と同い年か少し年下に見える彼女は店に入った時から笑顔で店主と話していた。
何より目立つのは、周りの人たちへの気配りと手際の良さだった。
他の席の空いた皿を回収し、他の客の料理を運んでいる。
常に誰と話しているからか、店内の雰囲気は彼女中心で回る。
常連と思しき男性の家庭の相談に乗り、嫁の機嫌の取り方も話していた、
僕は完全に外野だけどそれでも彼女の雰囲気は心地いい。
しばらくすると、少女は僕の前に置かれたグラスに手を伸ばし、片付け始める。
店員でもないはずなのに、その動きはやけに手慣れている。
少女 「……これも下げてもいいかな」
そんな風に言われて、思わず反射的に礼を返してしまう。
初めて来た店だと告げると、彼女は少しだけ嬉しそうに笑った。
この店は、料理も美味しくて雰囲気も良い。
まるで自分のことのように語る彼女の様子が妙に印象に残る。
気に入ってくれたら嬉しいな、なんて。
店員でもないのに、そんなことを言うから少し可笑しくなる。
振る舞いがまるで店員みたいだ、と伝えると、
それを褒め言葉として受け取ったのか、ほんの少し照れたように笑った。
正直なところ、最初は隣に付けられた女の子なのかと思っていた。
そう告げると、彼女は苦笑いを浮かべながら、確かに変だよね、と認める。
僕 「それでも、ここまでする人は初めて見た」
そう言うと、彼女は少しだけ真剣な表情になった。
このお店に、助けられたのだと。
だから、少しでも恩返しがしたいと。そう言った。
初めて来た人がこの店を気に入って、また足を運んでくれる。
それだけで十分なのだと、彼女は言う。
「そこまでする必要はないんじゃないか」と口にすると、
彼女は静かに、でも迷いのない声で続けた。
この店の女将さんには、それくらいのことをしてもらったから――と。
その時の僕にはなぜここまでして彼女が他人の為に尽くせるのか分からなかった。
でも彼女が楽しそうに話している姿はとても眩しく見えた。
少し会話をし、彼女が僕のグラスを握った時、手元が滑ったのか、彼女の細い指先からグラスが離れた。
気づけば、体が勝手に動いていた。
椅子を少し蹴るようにして身を乗り出す。
指先がグラスの縁に触れ、ぎりぎりのところで受け止める。
僕 「……危ない」
その言葉は、誰に向けたものか自分でもよくわからなかった。
ただ、この時の僕は彼女の大切と語った何かが壊れるのを見ていられなかったんだと思う。
少女 「……すご」
彼女からそんな声が漏れた気がした。
少女はぱっと顔を上げ、こちらに笑顔を向けてくる。
反射的な驚きと、感謝。
それに、ほんの少しだけ尊敬が混ざった視線。
たったそれだけのことのはずなのに、胸の奥にじんわりと熱いものが広がっていくのを感じた。
僕はたいしたことじゃない、と言いかけて、言葉を濁す。
手の中のグラスを見れば、中に残っていたはずの少しの酒と氷は、すでに全部、床にこぼれてしまっていた。
それでも彼女は、助かったと繰り返す。
もし落としていたら、女将さんが絶対に怒るから。と。
少し大げさに、でもどこか本気の声音で。
僕はただ、この場の空気を壊したくなかっただけだ。
それだけなのに、彼女の笑顔は、やけに胸に残った。
彼女の冗談めかして笑う。その笑顔が、どうしようもなく眩しかった。
その時、ふと思い出した。僕はこういう瞬間に憧れていたんだ。
誰かが困る前に、さっと手を伸ばして。
誰かが悲しまないように、ほんの少しだけ世界を変えて。
それで「ありがとう」と笑われるような。そんなヒーローみたいな存在に。
大人になるにつれ、そんなものは絵空事だと思っていた。
でも、目の前の彼女の笑顔が、あの頃の夢を指先でそっとなぞるように蘇らせる。
少女 「ね、今日ここ来てよかったでしょ?」
僕 「え?」
少女 「だって今、なんかいい顔してる」
その言葉は軽い調子で発せられたのに、僕には、まるでどこか遠くから届いた合図のように聞こえた。
それからというもの、彼女に引き込まれるように店内の会話に加わった。
気づけば日付も変わり、店も閉まる時間になっていた。
気づけば、他の客たちは一人、また一人と店を後にしていた。
残った僕たち二人で、その背中を見送り続ける。
楽しかった、と彼女は伸びをするように言って、女将さんに帰ることを告げた。
僕も遅れて礼を口にする。
結局、最後まで居てしまった。
けれど、こんなにも心地よく過ごせた夜はそう多くない気がする。
それに、胸の奥が、妙に晴れやかだった。
帰り道を尋ねられて、一瞬、間が空く。
公園の方だと答えると、彼女は少しだけ目を見開いて、同じだ、と笑った。
少女 「一緒に行こうか」
そう言われて、拒む理由も見つからず、
曖昧に頷いてしまう。
店を出ると、夜の住宅街に二人分の足音が響いた。
揃わない二人の足音が、やけに大きく聞こえる。
夜風に当たると、酔いが少しずつ引いていく。
それと同時に、さっきまでなかったはずの気まずさが、ゆっくりと僕たち間に流れ込んできた。
言葉は、まだ見つからないままだ。
やがて彼女が、思い出したように口を開く。グラスのこと、本当に助かった、と。
もう一度、ちゃんと伝えたかったのだと笑った。
たいしたことじゃない、と返しながら、それでも胸の奥がまた温かくなるのを感じていた。
気になったので、あそこまで周りの客を気にするのは、慣れているからなのかと聞くと、
あの店ではいつも通りだと、あっさり言われた。
正直なところ、僕はずっと、何のためにそこまでするのか分からなかった。
それを伝えると、彼女は少しだけ言葉を探すように間を置いてから。
少女 「私には出来ないんです。手が届くのに何もせずただ見ておくことなんて」
その一言は正に僕が漠然と描く正義の味方のセリフだった。
僕には一生をかけても発することが出来ないであろう言葉を簡単に口にする。
気になって理由を聞いても、彼女は「さぁ?」と笑って誤魔化す。
大した理由なんてないのだと。
歩きながら、彼女はふと思い出したように話し始めた。
今日、僕が座っていたあの隅の席。あそこは、以前、彼女の定位置だったらしい。
その頃の彼女には、夢があった。絵を描いていたという。
画家だったのかと聞くと、目指していただけだと、少し照れたように否定される。
そしてその夢は、もう諦めてしまったと付け加える。
絵の学校で才能がない、と言われたらしい。それも優しい顔で。
向いていない、という言葉は、人の心を折るには丁度いい。
そう言って、彼女は自嘲気味に笑った。
その帰りに、初めてあの店に入ったという。
酒が飲めればなんでもよくて、折れた心すら忘れるくらい飲めればそれでよかった。と。
僕 「意外と素直なんですね」
と言うと、
少女 「まぁ、ろくにお酒も頼めなかったですけど」
と苦笑いを返した。
続けて、本当は何かを頼みたかった。
けれど、頼んではいけない気がした。と付け加える。
そのうち何も頼めない自分が、そこに居てはいけない気がして店を出ようとした時、
女将さんが一杯の水を出してくれたのだという。
水一杯。それだけで、ここに居ていいと言われた。
それだけで、今日まで生き延びてしまったのだと、彼女は静かに言った。
水一杯で助かる、安い命だから。今度は、自分の番なのだと。
僕 「割に合わない」
それを聞き僕は素直にそう言った。
誰かを助けることが出来る者は、助ける人数分だけ自分に余裕のある者だ。
どこか寂しそうに話す彼女がそれだけの余裕を持っているようには見えなかった。
一生かけてやるつもりなのか。と問うと。
手が届くうちは、と彼女は答える。
いつか擦り切れる、と言うと、その時は終わりだと、あっさり返された。
人なんてそんなものだと。
――そこで、僕は自分の夢の話をした。
僕 「ウルトラマンって知ってます?」
少女 「えぇ、見た目くらいは」
僕 「僕はウルトラマンになりたかったんですよ」
子供の頃、本気でなりたかった僕のヒーロー。今でも、なりたいと思っている。
最初はその強さや光線に憧れていた。
けれど今は違う。僕の中のヒーロー像は、少し変わった。
誰でも救うけれど、途中で投げ出さない。終わりだなんて言わない。
そして、自分の存在意義を、誰かに委ねない。そう話した。
僕の憧れたウルトラマンと彼女は表面上は似ているが、中身は全く違う。
自分の価値や存在を他者に依存する彼女は何かを削りながら生きているように思えた。
少女 「でも、やめたら……また私あの頃に戻っちゃう……」
僕 「確かに戻りますね。やめたら」
少女 「水だけ飲んで、何も出来ない私に……」
僕 「仕方ないですよ。僕たちは特別な存在なんかじゃないですから」
少女 「私には誰も救えないって。そう言いたいんですか」
僕 「そうじゃないです。僕もあなたも人間だって言いたいんです」
少女 「……じゃあ、どうすれば良いんですか!」
その時、初めて会話に間が空いた。
街灯が、彼女の横顔を半分だけ照らしている。
困ったようで、怒っているようで、何かに縋るような顔をしていた。
それは答えを求めているというよりは助けを求めるような表情だった。
僕 「知りません。そんなの僕が知りたい。もし知れたなら夢が叶うんだから」
勝手だと彼女は言う。確かに僕の話は勝手だと思う。でもここで彼女を救える言動は出来ない。僕もまた、ヒーローとは程遠い存在だ。
答えを出すのは彼女だと返す。
ずるい、と言われても、否定はしなかった。
彼女は足を止める。僕も、それに合わせて立ち止まった。
彼女は言う。誰かの役に立っていないと駄目なのだと。
そうでないと、あそこに居てはいけない気がすると。
それは懺悔のようでもあり、言い訳のようでもあった。
多分、この言葉が、彼女を縛り付けている楔。
でも、それはヒーローじゃない、と僕は言った。
それは身代わりだ。
誰かの機嫌も、人生も、孤独も。全部、自分が引き受けることじゃない。
僕 「ウルトラマンって、三分しか戦えないんですよ」
少女 「……それはさすがに知っています」
僕 「だから戻るんです。自分の星に」
少女 「逃げているみたいですね」
僕 「確かにそうかも。でも、誰かと違ってちゃんと生きるために戻るんです」
少女 「っはは。才能無いって言われるよりきついですね」
僕 「ヒーローもどきを殺したどこかの先生みたいですか?」
少女 「そっくり。殴りたくなるくらい」
僕 「そりゃよかった」
少女 「でも殴らない。あなたは心を折るだけじゃないから」
公園の前で、彼女は足を止めた。
明日も、あの店に行くという。やめろとは言わなかった。
言う資格なんて無い。の方が正しいのかもしれない。
それでも彼女は、ほんの少しだけ考えてみると言い、また歩を進める。
それだけ言って、彼女は「私こっちなんで」と僕とは別方向の道へ進む。
僕はその背中を黙って見届けた。
それから、何度かあの店に通った。
彼女は変わらず居た。相変わらずよく喋り、よく気が付き、よく笑った。
でも、少しずつ変わった。
皿を下げる回数が減り、誰かの愚痴に深く頷かなくなり、無理に場を回そうとしなくなった。
それを誰も気にしていないようで、僕だけが気づいているような、そんな変化だった。
ある日、いつもの隅の席に座ると、彼女はいなかった。
今日はあの子は来ていない、と女将さんが教えてくれた。
そうですか、と返したきり、それ以上は聞かなかった。
次の日も、その次の日も。
彼女がいなくなって、店は少し静かになった。
けれど、空間そのものが壊れたわけじゃない。
何かが欠けたというより、元の形に戻っただけ、そんな感じだった。
しばらくして、女将さんがぽつりと言った。
元気そうだったよ、と。
そして、絵をまた描いているらしい。
女将が指さした先。そこにはスーツを着たウルトラマンらしき絵が飾られていた。
僕 「ふふっ。目が角ばってるのはセブンだっての」
それ以上は聞かなかった。夢を諦めた僕が聞く資格は無いと思った。
ヒーローは、最後まで見届けるものだ。でも、僕はヒーローじゃない。
ただ、あの時グラスを落とさなかっただけの人間だ。
それで十分だと思う。
あの席は、今も空いている。でも、もう誰かの居場所を守るための席じゃない。
彼女が戻ってこなくても、この世界は回る。
ヒーローになれなかった僕は、今日も普通に酒を飲んで、普通に帰る。
それでも、あの夜、確かに一度だけ、誰かを確かに引き戻した気がしている。
それでいい。
この作品は朗読会、Lunask Act4で使用した台本です。
朗読動画、配信にご利用いただいて問題ございません。
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シナリオ:vurebis(https://x.com/vurebis_)
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