第44話 この家から出なければ
しばらく歩いた先の森で控えていたふむるは、靭に連れられた流実を見た瞬間、ホッとした顔ですぐ飛び付いて来てくれた。
泣きそうな声で「良かったっス」と言われた時、自分は本当に心配されていたのだと分かって、つい嬉しさでもらい泣きしてしまった。
すぐ背後で舌打ちした靭にあっという間に引き剥がされてしまったけど。
…助けてくれた後も靭の機嫌はずっと悪い。
当然だ。『人間』だとバレてしまったのだから。
でも……なら、何故怒らないのだろう?
今の彼は、煮えたぎる怒りを必死に抑えてるように見える。
明らかに私が悪いのに。いっそ大声で怒鳴ってくれれば…。怒られない事が逆に怖すぎる。
足取りが重いまま移動し、離れに到着した時には既に辺りは暗くなっていた。
慣れ親しんだ扉を見ても、今の状況では手放しで喜べない。
しかし、そこに待っていた人物を見て流実は思わず「えっ」と声を出してしまった。
「流実さん!無事で何よりです」
「な、寧楽さん!?」
「怪我はないですか?酷いことをされませんでしたか?っ…直ぐに治しますね」
イソラ駐屯地の救護室の寧楽だった。
どうしてここに!?と戸惑う流実をよそに、走り寄ってきた寧楽が流実の手と首のアザをすぐに治していく。
流実が礼を言って改めて猫族の力を実感していると隣にいた靭がようやく苛立たしげに口を開いた。
「人間だとバレたかも知れん」
「―――それは…。しかし、その為に『アデルの粉』を持って行ったのでは?記憶を消せるでしょう」
「場所が悪過ぎた」
眉間に皺を寄せた靭が「誰が見ていたか分からん」答える。
『アデルの粉』とは、恐らくあの時リリィに渡した小ビンの中身だろう。
“記憶を消す”
その意味を理解した流実は更に自己嫌悪に襲われていく。
「その万が一の為にクロノア様も黒髪へ変えたのですが」
「どうだかな。兄妹だから同じだと俺も耳を見せたが……噂は早い」
「今更気にされても、遅いでしょうに」
「は…?」
その一瞬で、更に空気が悪くなったのを感じ取った流実が咄嗟に二人の間に入る。
「な、寧楽さんはどうしてここに!?」
「呼ばれたのですよ。微力ながら協力させて頂きました」
「チッ」と舌打ちする靭の横でニコリと微笑む寧楽に、流実は申し訳なくて「すみません…」と謝った。
「いえ私も心配でしたから…本当に良かったです。総司令の珍しい姿も拝見できましたし」
「! そうですね、黒髪なんて新鮮すぎます」
「…私は髪の事を言ったのではないのですが」
ボソリと呟いた寧楽に、殺気を込めた瞳で睨む靭。それに、「ふ」と微笑んだ寧楽が「では、無事を確認できましたしそろそろ私は帰ります」と礼をとった。
「本当に、ありがとうございました…!」
「…この髪は本当に戻るんだろうな」
「ご安心下さい。明日には銀髪に戻りますよ」
頭を下げ、部屋から出て行こうとする寧楽を靭が呼び止める。
彼は眉を寄せてとても不服そうな顔をしつつ「礼を言う」と呟いた。
分かりやすく目を見開いた寧楽。
その後「これはこれは…」と微笑むと、そのままふむると共に出て行ってしまった。
寧楽とふむるがいなくなり、離れに二人きりになる。
でも、やはり靭は何も言わないまま。
何なら、寧楽の態度が気に入らないのか何なのか靭は流実を見向きもせずに玄関を睨んだままだった。
とうとう流実の方が居た堪れなくなって、小声で「…ごめんなさい」と口にした。
そこで初めて靭が振り向く。
合わせたその瞳は、やはりぐらぐらと沸るような光を宿していた。
「迷惑なのはあの犬野郎の方だ。もう良い、喋るな。これ以上は頭が痛くなる」
本当に頭が痛いのか、すぐに目を逸らした靭が目頭を強く揉んでソファに座る。
「でも、人間だとバレて…」
「今更どうにもできねぇだろ。後始末は考える。……とにかくお前は、俺が“我慢”できる内に部屋に入ってろ」
怒りを抑えつつ、ぶっきらぼうに言い放つ靭。
―――後始末。
一瞬で、葉が浮かんだ。
どう考えても悪い予感しかない。……そんなに“我慢”するほど怒ってるなら、余計に。
(……まさか、元凶である葉さんを殺すのを我慢してる…て意味じゃないよね?いや、そもそもあの後、葉さんは!?)
怖くなって、ついソファに座っている靭に近付いた。
「葉さんは…無事なんですか!?というか、今どこにい……」
―――最後の言葉は、言えなかった。
突如強い力で腕を引っ張られたかと思うと、次の瞬間ドサリと背中に衝撃が走ったからだ。
何が起こったのか分からず、ただ呆然と自分に覆い被さった己の主人を見つめる。
ソファに仰向けの状態になった自分の上には、見慣れない黒髪をした見慣れない表情の靭がいた。
―――掴まれた腕の痛みを忘れる程の、怒気と共に。
「……“我慢”できる内に、と言ったはずだ」
「……えっ?」
重低音のハスキーボイスが怒りで掠れている。
「お前はこんな時ですら、奴を心配するのか」
「っ!」
「奴と過ごすうちに情でも移ったか。こんな格好をするくらいにな!」
その瞬間、ビリっと音がしてローブの留め金が外れる。
靭が力任せにそれを破いたからだ。
リリィが被せてくれたローブがハラリと落ち、隠していたはずの丈の短いワンピースが露わになる。その瞬間、羞恥心から流実は慌てて裾を隠した。
「やっ…ちょっ…」
「奴に何をされた。どこを触らせた。―――あ?隠すな!!」
初めての、怒鳴り声だった。
流実が驚いて固まるうちに、靭は裾を隠していたもう片方の手も掴み上げる。
その尋常ではない様子に、流実は驚きを通り越して頭が真っ白になった。
――― 一体、なぜ、急にこれ程怒るのだろう?
確かに大声で怒鳴られた方が良いと思ったけど…そもそも、こんな怒り方は初めて見る。
彼の怒り方は、まるで深い海の底のような怒り方だ。突き刺すような殺気と重圧で、静かに睨む。これが、いつもの靭。
……こんなに声を荒げ、感情を剥き出しにした彼は初めてだった。
それも、『人間』だとバレる以外のところで。
「……何故黙ってる。まさか本当に言えねぇ事でもされたのか」
「えっ!?あ、ごめんなさい」
その瞬間、間近で見た靭の瞳孔が大きく開いた。と同時に押さえ込んだ手に一層力が入り、流実は痛みで思わず声を出す。
「あ、ち、違っ!その、靭さんがこんなに怒る事にびっくりして!」
「びっくりしただと?俺がどれだけ我慢したと思ってる!」
「我慢なんて……始めからしなきゃ良いのに!」
―――その瞬間、スゥ、と靭の表情が消えた。
……やばい。
本気で怒らせたのかも知れない。
「っ本当に、ごめんなさい!!こんなに怒ると思わなかったから!!」
ビク!と初めて靭が反応し、少しだけ戸惑った表情と手の力が緩んだ。どうやら、無意識でキレたらしい。
「そもそも葉さんはほとんどいなかったし…関係ないですから!」
「……奴は攫っておいて、お前を好きにしなかったと?」
「そうです!多分」
「――多分?」
一転。低いトーンで返され、背筋に悪寒が走る。
どうやら彼の怒りの沸点はだいぶ低くなっているようだ。これは、気絶していたから分からないなんて正直に言うべきではないかも知れない。
「ず、ずっと柚愛さんと一緒で…本当なんです!」
「……」
「本当です!信じて!」
「……本当に、奴とは何も無かったと?」
何も無かったの「何」が何を指すのか正直分からないが、念を押すほどの事だ。ここで余計な事を言えば再びヤバそうなので「もちろんです」と食い気味に答える。
それを聞いた靭は真偽を問うように暫く流実を睨んでいたが、やがて「クソッ」と呟いてようやく上から退いた。
掴まれた腕と手首が赤くなって痛かった。
手首をさすりながら起き上がり、恐る恐る彼の横顔をチラリと見る。すると苛立ちを隠さず舌打ちし、髪を掻き上げた姿が目に入った。
……本当に、こんなに感情が露わになる姿、初めて見る。
この人は、ずっと感情が平坦かと思っていたのに。
ついじっと見つめていると、視線に気付いたのか眉間にしわを寄せた靭が流実を睨んだ。
「何だ。何か言いたい事でもあんのか」
「……あ、その」
思わず口籠もる。
“気になる事”
もちろん、葉の件だった。
……もし自分のせいで『処罰』されていたら?と思うと、居ても立っても居られなくなる。
意を決して恐る恐る「葉さんは、今どこに」と聞けば、瞬間的に怒った表情と共に「ああ゛!?」とドスの効いた大声が再び響いた。
「またあの男か!やっぱり絆されたか!」
「ち、違います!ただ、葉さんを殺して欲しくないんです!だってそれは靭さんの役目でしょう?」
「当たり前だ!お前は俺のものだ。俺が落とし前つけてやる!」
(―――ん?)
一時停止する流実。
そんな流実を見た靭が、ようやくハッと気付いたように一気に怒りを引っ込めた。
「いや違…俺のものってのは、俺の世話係そのままの意味で、別に…」
「え?あ、私が言いたいのは、葉さんを裁く権利は私にもあると言う事ですけど……」
なぜか全く見当違いな箇所で動揺し始めた靭に、流実は申し訳なさそうに訂正する。
「被害者は私なので…。私にも落とし前つける権利はあると思うんです。安易な処罰もやめてほしいし…」
「………」
「あの」
「もういい、分かった」
暫く沈黙した後、流実の言い分に納得できたのか何なのか
「ふ――――」とこれでもかと長い息を吐いた靭が、疲れた様子でソファにもたれかかった。
どうやら、今のやり取りで怒りが消えて無くなったらしい。
……よく分からないけど、とりあえず…今は良かったと思っておこう。
「……お前は奴をどうしたいんだ」
「さっき話していた記憶を消す薬はどうですか?」
「……奴がお前を見つければ、また同じ事の繰り返しになるだろ」
「じゃあ葉さんと会わないようにします」
「お前はこの家から一歩も外に出ないつもりか?」
「それは…」
現実的ではない、と言いたいのだろう。
そう言われると確かに困ってしまう。何かいい方法があれば良いけど…。
「! 葉さんに、仕事を辞めて頂く…とか?」
仕事を辞めて貰う。一瞬自分と天秤にかけてしまったが、葉はこの世界の住人だ。自分のように素性を隠さなくても暮らしていける。
靭は暫く考え、納得したのか「水狼には俺から説明する」と返してくれた。
ようやくホッと安心でき、思わず笑顔になる。良かった。これで葉は処罰されなくて済む。靭さんも傷付かなくて良いし、私もストーカー被害に遭わなくなるし…と考えていた時だった。
大きな手がゆっくりと流実の髪を撫で付けた。驚いて見上げると、目の前にいた彼と目が合う。
「……本当にこの家から一生出なけりゃ良いのにな」
「へ!?」
自分でもビックリするくらいの裏返った声が出た。
―――いつか見た、あの揺らめく藍瞳が流実を見つめていた。
なぜ酔ってもないのに、この顔になるのか。とゆうかその発言は……?
(さっき怒ってた理由も…葉さんとの関係だったし…)
まさか……彼は、人間だとバレる事ではなくて、私の事を……?
「これ以上は疲れる」
「へっ?」
「はあぁ」と疲れたように溜息を吐いた靭がスッと手をしまい、疲れたように自室に消えて行く。
その背後姿を見送った流実は、次の瞬間我に返った。
―――っあ、そうですよね?危ない危ない、また勘違いするところだった。
私は世話係。それ以上でも、それ以下でもない。
……少しでも“まさか”と考えた自分を、今すぐ穴を掘って埋まりたい気分になった。




